ガーデニングは「楽園創造」である!

きょうは「ガーデニング」の本質がわかる凄いお話をしちゃいます!
いつものようにちょっとだけ長くなるけど、最後まで付き合っていただけると嬉しいです!

さて、いつものように、1冊の本の紹介から始めます。
『英国ガーデン物語 庭園のエコロジー』 (赤川 裕 研究社出版 1997年)
今日の本はこれです。

この本の概要をごく簡単に紹介しておきましょう。
「第1章」では、英国庭園の特徴の際だった名園を取り上げながら、形態的な歴史的変遷を見ていきます。

ウィリアム・ケントの「ラウシャウム・パーク庭園」、
ランスロット・ブラウンの「ブレニス・パレス庭園」、
ガートルード・ジークル(赤川さんは「ジークル」です!)の「ヒドコット・マナー庭園」、
ヴィータ・サックヴィル=ウェストの「シシングハースト城庭園」、
ローズマリー・ヴィアリーの「バーンズリー・ハウス庭園」が取り上げられています。

「第2章」の内容はかなり「濃い」です。
今日は半分だけ語って、「つづく」にします。
ほんとに濃いんだから!

英国ならず外国の文化を語るときに、日本人が忘れがちな“あること”があります。何だと思いますか? 
それはその国の宗教です。
英国文化を語るとき、「キリスト教」あるいは「聖書」の存在抜きには語れません。

英国庭園の技術的な部分だけを取り上げて語っても、英国庭園の本質には触れず終いになるような気がしてならないのです。

『聖書』には、一番最初を飾る「創世記」に、ひとつの「庭」が登場します。
「エデン」がそれです。
これほど世界中に知られている「庭」はないでしょう!

しかしエデンについて触れられている言葉はほんのわずかです。
かえってそのことが、ひとびとにエデンのイメージを掻き立てさせる役目を果たしました。

エデンの園には、生命の木と知恵の木と、2つの実のなる木が生えていました。アダムはイブに唆されて知恵の木の実を食べてしまって、ふたりともエデンの園から追放されるわけです。(うわあっ!ぜんぜん聖書理解してないの、バレバレ!)

この「聖書」の物語を題材に、「楽園喪失(失楽園)」の物語が複製増殖されて来ました。
その中でも有名なのがミルトンの「パラダイス・ロスト」です。
エデンの園=パラダイスのはずですが、この二つの言葉は時代を下るに従って、その意味するところの〈楽園性〉に時代特有の「ズレ」を見せていくようになります。

著者の赤川 裕さんは、その時代的な変遷に眼を付け、時代ごとの〈楽園観〉と作られた庭園の製作意図とに重要な関連性を認めていきます。
ここらへん、実際に本を手にとって読んで頂けると、かなり考証がスリリングです。

そうです、西洋人は庭造りをするときには、自身の〈楽園観〉と向き合わねばならないのです!
彼等の社会的無意識の中では、世界で最初に作られた庭は、「楽園」そのものだったのですから!
それ以来庭を造ると言うことは、何らかの意味で「楽園創造」と無関係ではあり得ないでしょう。

……ここらへんまで深読みした時に、私ははたと気付いたのでした。
なぜ、自分がガーデニングにはまってしまったのか、を!
まさに「ユーレカ!」(我、発見せり!)と叫びたい気分でした。

私の庭にはバラが何本か植えられていますが、その中の1本の名前は「楽園」といいます。
オレンジ色のハイブリットティーです。
これを植えることが、私の宣言でした。
すなわち、この小さな庭は、自分の「楽園」なのだということを。

「えっ。この草ぼうぼうで、ろくに剪定もしてない庭が?」
……他人がなんと言おうとも、ガーデニングの彼方には「楽園」があるのです!

日本庭園の場合も、この辺の事情にそれほど変わりはないように思われます。
楽園の代わりに求められるものが「平安浄土」だったり、
山岳信仰の影響を感じさせる「自然風景のミニアチュール」だったりするだけのことです。

これからは「ガーデニング」=「庭いじり」ではなく、「ガーデニング」=「楽園創造」とするべきである、
とここに提案しておきましょう!
今回は、格調高く終わっちゃったな♪