昭和百年・新日本童謡集【な行】~『夏休み』『二本松少年隊』『練鑑ブルース』ほか

新日本童謡集【な】

『七草なずな』[わらべうた]

七草粥

『七草なずな』[わらべうた]

七草 なずな
唐土とうどの鳥が
日本の国へ 渡らぬ先に
すととんとんとん
すととんとんとん

1月7日は「七草ななくさ」の日です。この日は、早朝に起床して、七草粥ななくさがゆいて食べます。
「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」が、春の七草です。これらを細かく刻んでかゆに入れたものが七草粥です。

私の母は農家出身なので、嫁に来る前は、七草の日にはまだ外が暗いうちから起きて、『七草なずな』の歌を歌いながら包丁で細かくなるまで刻んだそうです。大家族だったので、七草の量がハンパなく、大変な作業だったようです。

「すととんとんとん」というのは、包丁で俎板まないたたたくく音で、「すっとことんのとん」とか「バッタバタ」と歌われる地域もあるようです。

『わらべうた 日本の伝承童謡』(岩波文庫)によると、《七草ばやしの本来の意味は鳥追とりおいで、年の初めに作物の害敵である鳥を追って、豊年の予祝を行なう行事。》だということです。

『夏は来ぬ』(明治29年・1896年)

卯の花

『夏は来ぬ』
作詞/佐佐木信綱 作曲/小山作之助

一 うのはなのにおう垣根かきねに、時鳥ほとぎす
     はやもきなきて、忍音しのびねもらす なつぬ。

ニ さみだれのそそぐ山田やまだに、早乙女さおとめ
     裳裾もすそぬらして、玉苗たまなえううる 夏は来ぬ。

三 たちばなのかおるのきばの窓近まどちか
     ほたるとびかい、おこたりいさむる 夏は来ぬ。

四 おうちちるかわべの宿やど門遠かどとおく、
     水鷄くいなこえして、夕月ゆうづきすずしき 夏は来ぬ。

五 さつきやみ、ほたるとびかい、水鷄くいななき、
     はなさきて、早苗さなえうえわたす 夏は来ぬ。

『新編教育唱歌集(五)』

日本の初夏の情景がしっとりと歌われた唱歌です。
文語体や昨今では容易に目にすることのない《雅語がご》を使用して書かれているので、若干解説が必要かもしれません。

「うの花のにおう垣根」は、卯木うつぎの花が咲いた垣根、「忍音しのびね」は時鳥ほととぎすがその年に初めてく声のこと。時鳥は夏の渡り鳥なので、夜中にこの声を聞いたりすると、夏が来たなあと思います。
「さみだれ」は梅雨つゆの雨、「裳裾もすそ」は着物の裾のこと。「玉苗」は稲の苗を指す《雅語》です。
たちばな」は、ミカン科の常緑小高木で、日本固有の柑橘類とのこと。暖かい地域に自生しているようなので、たぶん東北では見ることができないと思います。
ほたるとびかい、おこたりいさむる」とは、蛍が飛んで自分が勉学をおこたっていることを注意しているようだという意味で、これは『蒙求もうぎゅう』という唐代の子供向け教科書に出て来る故事に基づくものです。中国の東晋とうしん王朝時代のこと、車胤しゃいんという人は貧しくて灯火用の油が買えず、夏には蛍を集めて袋に入れ、その光で本を読んで勉強しました。また孫康そんこうという人もやはり貧しかったため、冬の夜に窓に映る雪明りで本を読み、学問にはげみました。そして二人はのちに、高級官僚になったということです。この故事を「蛍雪けいせつこう」といい、「〽蛍の光 窓の雪……」という歌も、この故事を踏まえたものです。私が中学生の頃には、『蛍雪時代』という月刊学習雑誌もありました。
おうち」は栴檀せんだんの古名で、10メートル以上になる落葉高木ですが、春に薄紫の美しい花を咲かせます。「宿のかど」は、旅宿の建物の文学的表現、「水鷄くいな」は特定の鳥の名ではなく、水鳥一般を指しています。

日本の初夏の光景総ざらい! という歌です。

『七つの子』(大正10年・1921年)

『七つの子』岡本帰一/画「金の星」大正10年7月号、金の星社

『七つの子』
作詞/野口雨情 作曲/本居長世

からす なぜくの
烏は山に
可愛かわいななつの
子があるからよ

可愛かわい 可愛かわい
烏は啼くの
可愛かわい可愛かわい
啼くんだよ

山の古巣ふるす
いって見て御覧ごらん
丸い眼をした
いい子だよ

「金の船」

カラスの「かあー、かあー」というごえを、「可愛かわい可愛かわい」と野口雨情は聞いています。あまりにうまく出来過ぎているようにも思われ、「〽からす なぜ鳴くの からすの勝手でしょ」と歌いたくなる気持ちも、わからないではありません。

『夏の思い出』(昭和24年・1949年)

尾瀬・ミズバショウと至仏山

     作詞/江間えま章子しょうこ 作曲/中田なかだ喜直よしなお

もう就職してからのことですが、NHKで北大路欣也と真野響子が共演した『尾瀬に生き、尾瀬に死す』というドラマを見て感動し、すぐに原作本『尾瀬-山小屋三代の記』(岩波新書)を購入して読むと、猛烈に尾瀬へ行ってみたくなりました。

〽夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 野の小道……
あの有名な歌が思い出され、不思議なことに偶然に尾瀬ツアーの募集が目に付いたりして、どこだったか行き先は忘れましたが、山旅へ行くつもりで貯金していたお金があったのを、すぐに尾瀬行きに変更して「よし! ミズバショウを見に行こう!」と決心しました。

尾瀬の温泉小屋に一泊してのハイキングは、まことに楽しいものでした。長蔵小屋の背後に広がる尾瀬沼、目の前にでっかくそびえ立つひうちたけ、遠くにおだやかな山容を見せている至仏山しぶつさん、そしてミズバショウの群落! あの時即決で、会社を休んで行って良かったなと、今でも思います。

『泣いてたまるか』[テレビ主題歌]渥美 清(昭和41年・1966年)

『泣いてたまるか』
作詞/良池まもる 作曲/木下忠司 歌/渥美 清

そらが泣いたら 雨になる
山が泣くときゃ 水が出る
俺が泣いても 何にも出ない
意地が涙を……
泣いて 泣いてたまるかョ
通せんぼ

海は涙の 貯金箱
川は涙の 通り道
栓をしたとて 誰かがこぼす
ぐちとため息……
泣いて 泣いてたまるかョ
骨にしむ

上を向いたら キリがない
下をむいたら アトがない
さじをなげるは まだまだ早い
五分ごぶの魂……
泣いて 泣いてたまるかョ
夢がある

『泣いてたまるか』は渥美清主演の一話完結のテレビドラマです。1966年から1968年までTBS系列で放送されました。

一話ごとに、違った人物を渥美清が演じています。

「おゝ怪獣日本一」(昭和43年3月3日放送)では、『ウルトラマン』の第38話「宇宙線救助命令」の1シーンが流され、光熱怪獣キーラと砂地獄怪獣サイゴが戦っています。「カット!」の声がかかり、キーラの着ぐるみの中から出てきたのは、「怪獣日本一」と仲間から呼ばれる田中豊作こととよさん(渥美清)でした。
この回は、中学生になろうとしている娘を持つ男やもめの豊さんと、小料理屋「おてるの店」を経営する、小学生の息子が一人いる川村輝子が、お互いを理解し、子供たちのためにも男親と女親が必要であることに気が付き、結ばれていく過程を描いています。

どの回も、たいていはハッピーエンドで終わるのが、時代を感じさせます。ご都合主義のストーリーのようにも感じますが、日本の生産年齢人口がどんどん増加し続けていた時代には、庶民はそんなドラマを歓迎していたのでしょう。

『夏休み』吉田拓郎(昭和46年・1971年)

     作詞・作曲・歌/吉田拓郎

LP『ともだち』より

ちょうど私が中学三年から高校生だった頃、ラジオでよく聞いた歌です。
麦わら帽子もたんぼの蛙も畑のとんぼも、じつはすぐそこにあったのだけれど、高校生活が始まって、学校の勉強や部活で忙しくなり、どんどん疎遠になっていきました。
ただ、たくろうの『夏休み』を歌ったり聞いたりするときだけは、おぼろに少年の日の夏が浮かんで来ます。

吉田拓郎自身がこの歌について語った言葉があるので、参考までに挙げておきます

ネットという不安定な情報が溢れる環境で
誰もが自由に発言し誰もが自由に反論する
そもそもその場が不安定なのだから
その場に発せられるたった1人の小さな一言
時にその1人は何ら責任を持たない1人でもある
責任は無いから「いいではないか」
そうだろうか、僕はそうは思わないのだ
声を大にして申し上げておく
「夏休み」という曲は反戦歌などでは
「断じて!ない!」
ただひたすらに子供だった時代の
懐かしい夏の風景を描いた絵日記なのである
実在した鹿児島時代の「姉さん先生」も
広島時代によく「トンボ獲り」で遊んだ夏も
すべてが僕を育ててくれた「夏休み」なのだ
あの「夏休み」が大人になった心の中で
今も「やさしく」生きている
この曲が自分の作った歌である事を
僕は正直に誇りに思っているのだ


竹田企画「吉田拓郎 ライナーノーツ」
※太字部分は、ミロの責任において太字にしました。

なんでも「反戦歌」にしたい勢力があると見えて、拓郎がイラついているのが分かります。《童謡》の大切さを分からない人が、多すぎるんだよね。

新日本童謡集【に】

『二本松少年隊』三橋美智也(昭和40年・1965年)

霞ヶ城(二本松城)祉に立つ少年隊のモニュメント。

戊辰戦争の「会津戦争」と呼ばれる最終局面で、会津白虎隊よりもひと月ほど早く、新政府軍に立ち向かって戦い、壊滅したのが二本松の少年隊でした。二本松藩では「幼年隊」と呼ばれていたようで、白虎隊よりも若い13歳や14歳の少年たちが多くを占めていました。最年少の者は12歳でした。

二本松少年隊については、以前にも詳しく書いているので、よろしければこちらをどうぞ。……もう14年前になるのか。
   ↓  ↓  ↓
 会津と長州~歴史と未来

新日本童謡集【ね】

『練鑑ブルース』

現在のネリカンの外壁

     歌/谷なおたか

LP『鉄格子演歌』より

谷なおたかの『ネリカン・ブルース』は、LP『鉄格子演歌』からのシングル・カット版です。仲田絵二(仲田三孝)補作詞・採譜となっています。レコード化しても問題ないように、元歌の歌詞からだいぶ改変されているようです。

仲田三孝の歌詞はかなり短縮されていますので、私が採取した標準的と思われる歌詞をここでは紹介しておきます。

練鑑ねりかんブルース
作詞・作曲/不詳

人里離れた 塀の中
この世に地獄が あろうとは
夢にも知らない 娑婆しゃばの人
知らなきゃおいらが 教えましょう

身から出ました びゆえに
いやなポリ公に ぱくられて
手錠てじょうかけられ 意見され
着いた所は 裁判所

鬼の検事に じゃの判事
付いた罪名は 傷害罪
廊下に聞こえる 足音は
地獄じごく極楽ごくらく わかれ道

青いバスに 乗せられて
揺られ揺られて 行く先は
その名も高き 練馬区の
東京少年鑑別所

薄い青テン 着せられて
かたいベッドに 寝かされて
三度のめしも ばくしゃりで
食っちゃ寝食っちゃ寝の 鑑別所

格子の窓から 空見れば
鳥はさえずり 花さえも
二度とここへは 来るなよと
俺に言うように さとすよに

新入り新入りまっさらまっさらと 馬鹿にされ
便所掃除そうじや ゆか掃除
三度の食事も 二度一度
夜は涙で ほほらす

あまりのつらさに たえかねて
池袋ぶくろの駅まで ずらかれば
張り込み看守に ぱくられて
もとの練馬に 逆戻り

一年三月いちねんみつきの 刑終えて
やっとの思いで 娑婆しゃばに出りゃ
かわいいスケちゃん 人の妻
おいら一人で 男泣き

父さん母さん 許してね
これからまじめに なりますと
ちかった言葉も うわの空
またも踏み入る 馬鹿の道

※青テン……青い色の作業用の短衣。
 
ばくしゃり……麦入りの飯。米だけの飯をいう「銀シャリ」に対して、刑務所や少年院の飯をいう隠語。
 スケ……女(情人)を指す隠語。

「練鑑」=「ネリカン」というのは、東京都練馬区にある東京少年鑑別所のことで、その通称として有名です。
練鑑ねりかんブルース』は、戦後すぐから日本各地の少年鑑別所や少年院で歌われるようになりました。
高森朝雄(梶原一騎)原作、ちばてつや画の『あしたのジョー』でも、主人公・矢吹丈はネリカンに送られています。

『練鑑ブルース』の詳細については、こちらをどうぞ。
   ↓  ↓  ↓
 「ネリカン・ブルース」の変遷

新日本童謡集【の】

『野毛節』[民謡・横浜](江戸時代-文久年間・1861年~1864年)

月岡芳年『仏蘭西英吉利西三兵大調練之図』

『野毛節』[民謡・横浜]

野毛のげの山からノーエ
野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ
山から異人館いじんかんを見れば

鉄砲てっぽうかついでノーエ
お鉄砲かついでノーエ
お鉄砲サイサイ
かついで小隊進め

おっぴきひゃらりこノーエ
おっぴきひゃらりこノーエ
おっぴきサイサイ
ひゃらりこ小隊進め

歌詞は動画に合わせたものを掲載しましたが、実際にはもっと長い歌詞が伝わっています。

『野毛節』[全長版]

代官山からノーエ 代官山からノーエ 
代官サイサイ山から異人館をみれば
ラシャメンと二人でノーエ ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンサイサイかかえて 赤いズボン

代官山からノーエ 代官山からノーエ
代官サイサイ山から 蒸気船じょうきせんをみれば
太い煙突ノーエ 黒い煙りがノーエ
黒いサイサイ煙りが 横に出てる

秋の演習はノーエ 秋の演習はノーエ
秋のサイサイ演習は 白黒二軍
白黒二軍はノーエ 白黒二軍はノーエ
白黒サイサイ二軍は 演習が終わる

野毛の山からノーエ 野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ山から 異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ 鉄砲かついでノーエ
お鉄砲サイサイかついで 小隊進め

オッピキヒャラリコノーエ オッピキヒャラリコノーエ
オッピキサイサイヒャラリコ 小隊進め
チーチーガタガッテノーエ チーチーガタガッテノーエ
チーチーガサイサイガタガッテ 小隊進め

一般社団法人ヨコハマNOW(Wikipediaより)

私が最初に覚えたのは「〽富士ふじ白雪しらゆきゃノーエ」の静岡の『ノーエ節』のほうですが、その元歌と考えられるのが『野毛節』です。「ノーエ」とか「サイサイ」とか、意味不明な囃子はやしことばが出て来るので、すぐに覚えてしまいました。
『野毛節』は、『野毛の山から』とか『野毛山節』ともいわれ、さらに『サイサイ節』とか『ノーエ節』とも呼ばれます。

また、民間から生まれた歌なので一応「民謡」としておきましたが、日本最初の「軍歌」とする人もあるようです。明治維新で官軍によって歌われた『宮さん宮さん』は間違いなく「軍歌」ですが、『野毛節』は江戸時代の文久年間( 1861年~1864年)に生まれたと考えられるので、『宮さん宮さん』より早く作られたのは確かですが、「軍歌」と呼んでいいかどうかは疑問が残ります。外国の軍隊の様子を歌っただけの歌は、軍隊が出て来るとはいえ「軍歌」とは呼べないのではないでしょうか?

野毛のげの山」は横浜で随一の高台で、横浜港や外国人居留地が一望できる場所です。この歌は、そこから眺めた、江戸幕府への示威行動を兼ねて居留地で行われた、英国軍の行軍こうぐん演習の様子を歌ったものだと言われています。
「代官山」も同じく横浜にある高台で、現在の代官坂があるあたりかと推測されます。そこから洋妾ラシャメンを抱えた赤いズボン(イギリス兵)や横浜港に浮かぶ蒸気船が見えると歌っています。「ラシャメン」というのは当時の異人さん相手の日本人娼婦を指す言葉で、「黒船くろふね夜鷹よたか」とした狂歌などもあります。
「オッピキヒャラリコ」とか「チーチーガタガッテ」というのは、軍楽隊が演奏する鼓笛の音を表すオノマトペ(擬音)です。
物見ものみ遊山ゆさんなとぼけた感じで歌われているのを見ると、「軍歌」というジャンルには含めがたい気がします。「ノーエ」という囃子詞は、英国人が発する「Noノー」「Yesイエス」のことだとする説もあり、そうだとするとなおさら、詞も曲もからかい半分のひょうきんな歌と言えると思います。
『野毛節』は、「〽富士ふじ白雪しらゆきゃノーエ」の静岡の『農兵節』や「〽天満橋からノーエ」という大阪バージョンなどもあったようなので、これは江戸時代末期の「流行歌」とするのが正しいかもしれません。

冒頭に掲載した月岡芳年の『仏蘭西フランス英吉利西イギリス三兵大さんぺいだい調練ちょうれん之図のず』は、当時横浜で行われた英国軍(手前)とフランス軍(向う側)合同の、海兵隊の上陸演習の様子を描いた版画です。「三兵」とは、騎兵隊・歩兵隊・砲兵隊のことをいいます。右のほうに布陣した英国砲兵隊が、フランス軍に向けて大砲をぶっ放しています。居留地(租界)は治外法権なので、外国勢力は自由にこんなこともしていました。

居留地の駐屯兵が引き上げたのは明治8年のことで、新しくできた明治政府は、この時代の欧米諸外国勢力から海外侵略の仕方を実地で学んで、やがて大陸へと進出して行くわけです。

『農兵節(ノーエ節)』[民謡・静岡]

『農兵節(ノーエ節)』[民謡・静岡]

富士ふじ白雪しらゆきゃノーェ 富士の白雪ゃノーェ 富士のサイサイ白雪ゃ 朝日でける

 解けて流れてノーェ解けて流れてノーェ 解けてサイサイ流れて 三島にそそぐ

 三島みしま女郎じょろうしゅうはノーェ 三島女郎衆はノーェ 三島サイサイ女郎衆は お化粧が長い

 お化粧が長けりゃノーェ お化粧が長けりゃノーェ お化粧サイサイ長けりゃ お客が困る

 お客困ればノーェ お客困ればノーエ お客サイサイ困れば 石の地蔵さん

 石の地蔵さんはノーェ 石の地蔵さんはノーェ 石のサイサイ地蔵さんは 頭が丸い

 頭丸けりゃノーェ 頭丸けりゃノーェ 頭サイサイ丸けりゃ からすがとまる

 からすとまればノーェ 烏とまればノーェ 烏サイサイとまれば むすめ島田しまだ

 娘島田はノーェ 娘島田はノーェ 娘サイサイ島田は なさけでとける

 『日本民謡集』町田嘉章・浅野建二、1960年9月5日、岩波文庫

『野菊』[文部省唱歌](昭和17年・1942年)

野菊(ヨメナ)の花

『野菊』[文部省唱歌]
作詞/石森延男 作曲/下総皖一

一 遠い山から吹いて来る
  こ寒い風にゆれながら、
  けだかく、きよくにおう花。
   きれいな野菊、
   うすむらさきよ。

二 秋の日ざしをあびてとぶ
  とんぼをかろく休ませて、
  しずかに咲いた野べの花。
   やさしい野菊、
   うすむらさきよ。

三 しもがおりてもまけないで、
  野原や山にむれて咲き、
  秋の名残をおしむ花。
   あかるい野菊、
   うすむらさきよ。

『初等科音楽(一)』

野にはキク科の植物が無数に咲きますが、花弁が菊らしい菊で、しかも「きれいな野菊、うすむらさきよ」とくれば、この歌の「野菊」とは「ヨメナ」のことでしょうね。

ちょっとした原っぱであればどこでも見かける、子供の友だちの花です。

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