昭和百年・新日本童謡集【ま行】~『毬藻の唄』『無法松の一生』『桃太郎』ほか

新日本童謡集【ま】

『鞠と殿さま』(昭和4年・1929年)

岡本帰一/画「鞠と殿さま」(『コドモノクニ』昭和4年1月号、東京社)

     作詞/西條八十 作曲/中山晋平

西條八十の『まり殿とのさま』は、『コドモノクニ』昭和4年1月号で発表され、その年の2月に、中山晋平の作曲、佐藤千夜子の歌で、ビクターからレコードが出ています。
この時は「新民謡」として発表されましたが、もともと児童雑誌に発表された詩であり、わらべ歌風の歌詞と歌いやすい曲調とによって、後には「童謡」として歌われてきました。

『毬藻の唄』(昭和28年・1953年)

     作詞/岩瀬ひろし 作曲/八洲秀章 歌/安藤まり子

北海道土産のお菓子に入っていた印刷物

「マリモ」といえば北海道観光土産でおなじみですが、私も高校の修学旅行で阿寒湖方面を廻った時、記念に瓶入りのマリモを買って来たことがありました。けっこう大きく育った記憶がありますが、だんだん丸さがなくなってきて、興味が薄れてしまいました。丸くないまりは、ただの藻ですからねえ。

『毬藻の唄』は、昭和28年(1953年)に、コロムビアが新人歌手発掘のための第4回「全国歌謡コンクール」の課題曲として、雑誌『平凡』とタイアップして公募した作詞の入選作に、八洲やす秀章ひであきが作曲したものでした。安藤まり子の歌で、レコード化されています。
三番の歌詞に「アイヌの村に 今もなお 悲しくのこる ロマンスを」とあるために、アイヌの伝説に基づいているかと思いきや、これは大正時代に新聞に発表された創作物語だそうです。地元では、それも含めて、しっかり観光資源として活用しているようです。

私の家の仏壇には、縦横高さが10cmほどの木製のオルゴールがあげてあり、ふたを開けると『毬藻の唄』が流れ出します。十六歳で亡くなった弟の修学旅行の記念品だったもので、もう何十年か経つのでぜんまいがすっかり弱ってしまい、かなりスローモーションではありますが今でも情感たっぷりに演奏してくれます。

新日本童謡集【み】

『港』[文部省唱歌](明治29年・1896年)

『港』[文部省唱歌]
作詞/林柳波、はた十一たりひこ 作曲/吉田信太

一 そらみなとははれて、
  つきかずますふねのかげ。
     端艇はしけのかよいにぎやかに、
     よせくるなみ黄金こがねなり。

ニ はやしなしたるほばしら
  はなまごうふな旗章じるし
     積荷つみにうたのにぎわいて、
     みなとはいつもはるなれや。

『新編教育唱歌集(三)』

この唱歌は小学校の音楽の教科書に載っていたので、音楽の時間に歌わされて覚えたものです。どちらかと言えば「山の子供」だった私は、当時はまだ「港」というものを見たことがありませんでした。海水浴は子供の頃、何度か行ったことがありますが、そこに「港」はありませんでした。「港」というものを間近に見たのは、二十代の終わりごろから海釣りを始めたことによります。

私の海釣りは、歌津崎の泊浜から始めて、志津川港、雄勝や十三浜の各港、牡鹿半島の大小の港など、堤防釣りを専門にしていたので、それまで知らなかった小さな港を訪ねるのがとても楽しみになっていました。好きな釣り場もでき、夜釣りをすることも度々でした。

ただ、唱歌の『港』では、荷物を船に積む様子が歌われていますが、私が通った港はどこも、漁師たちが船をもやっている港であって、荷物を輸送する船は見たことがありません。唱歌の『港』は同じ港でも、かなり大きな港なんだろうなと思います。

『都ぞ弥生』[北海道大学明治四十五年寮歌](明治45年・1912年)

北海道大学第一農場に放牧されている羊と牛

みやこ弥生やよい[北海道大学明治四十五年寮歌]
 作詞/横山芳介よこやまよしすけ 作曲/赤木あかぎ顕次けんじ

一 みやこ弥生やよいくもむらさきに 花のただよ宴遊うたげむしろ
  きせぬおごりくれないや その春れてはうつろう色の
  夢こそ一時ひととき青きしげみに えなん我胸わがむねおもいせて
  星影冴ほしかげさやかにひかれる北を
  ひとの きよき国ぞとあこがれぬ

ニ ゆたかにみのれる石狩いしかりに かりがねはるばる沈みてゆけば
  羊群声ようぐんこえなく牧舎ぼくしゃに帰り 手稲ていねいただき黄昏たそがれこめぬ
  雄々おおしくそびゆるエルムこずえ うち野分のわき破壊はえおと
  さやめくいらか久遠くおんひかり
  おごそかに 北極星ほっきょくせいあおぐかな

三 寒月懸かんげつかかれる針葉樹林しんようじゅりん そりこおりて物皆寒ものみなさむ
  もせに乱るる清白せいはくの雪 沈黙しじまあかつき霏々ひひとして舞う
  ああその朔風さくふう飄々ひょうひょうとして すさぶ吹雪ふぶきさかまくを見よ
  ああその蒼空そうくうこずえつらねて
  樹氷じゅひょう咲く 壮麗そうれいの地をここに見よ

四 牧場わかば若草陽炎わかくさかげろう燃えて 森にはかつらの新緑きざ
  雲ゆく雲雀ひばり延齢草えんれいそうの 真白ましろ花影はなかげさゆらぎて立つ
  今こそあふれぬ清和の光 小河おがわほとりをさまよい行けば
  美しからずや咲くみず芭蕉しょう
  春の日の この北の国幸多さちおお

五 朝雲流れて金色こんじきり 平原へいげんてなきひんがしきわ
  つらなる山脈やまなみ玲瓏れいろうとして 今しも輝く紫紺しこんの雪に
  自然の芸術たくみなつかしみつつ たか血潮ちしおほとばしりもて
  とうとき野心やしんおしつちか
  さかえ行く 我等われらりょうほこらずや

北海道大学は、明治9年(1876年)に札幌農学校として開校され、創立者の一人であるウイリアム・クラーク博士の言葉「Be ambitious!(大志を抱け)」がモットーとなっています。

羊ケ丘展望台に立つクラーク博士像

札幌農学校はその後、明治40年(1907年)に東北帝国大学農科大学となり、さらに大正7年(1918年)には北海道帝国大学になっていますが、『都ぞ弥生』は農科大学時代の明治45年(1912年)に、恵迪けいてきりょうの6番目の寮歌として作られたものです。

星影冴ほしかげさやかにひかれる北」「ゆたかにみのれる石狩いしかり野」「羊群声ようぐんこえなく牧舎ぼくしゃに帰り 手稲ていねいただき黄昏たそがれこめぬ」「雄々おおしくそびゆるエルムこずえ」など、雄大な北海道の自然を感じさせる詩句に満ちていて、旧制一高や三高の寮歌とはまた違った味わいのある寮歌だと思います。

『みかんの花咲く丘』(昭和21年・1946年)

わたなべたけお/画「みかんのはなさくおか」(『童謡絵本』第二集、トッパン)

     作詞/加藤省吾 作曲/海沼 実 歌/川田正子

みかんの木などない東北の、しかも海から遠い土地に暮らす子供にとっては、『みかんの花咲く丘』という童謡は、詞も曲もどこか極楽然とした温かさを感じるものでした。北や冬の歌が好きだと書いて来ましたが、この歌は例外になります。

『みかんの花咲く丘』は、昭和21年8月25日に、川田正子(12歳)の歌でNHKラジオの「空の劇場」という番組で初めて放送されました。
実は前日の8月24日に、当時『ミュージック・ライフ』という音楽雑誌を立ち上げたばかりの加藤省吾が、川田正子の取材のために川田の自宅を訪問したところ、二階を間借りしていた海沼 実から、明日の放送で使う歌が必要なのでその場で書いてほしいと依頼されて出来上がったものでした。
その時加藤省吾は、放送で一回限り使う歌だと思って書いたようですが、放送後大反響となり、レコード化もされて、その後も長く歌い継がれる歌となりました。
前年には並木路子の『リンゴの唄』が大ヒットしていたため、《戦後は「リンゴ」と「みかん」で始まった》と言われることになりました。

三番の歌詞に、

  何時いつか来た丘 母さんと
  一緒に眺めた あの島よ
  今日もひとりで 見ていると
  やさしい母さん 思われる

とありますが、最初のラジオ放送では「何時いつか来た丘 姉さんと」「やさしい姉さん 思われる」と、原作の「母さん」が「姉さん」に変えて歌われました。
当時はGHQの占領下で厳しい検閲が行われていたため、この変更を命じたのはGHQの部局であるCIE(民間情報教育局)ラジオ課だったようです。海沼 実は作曲する前に、この歌の歌詞をCIEとCCD(民間検閲支隊)に提出して、許可を得ていました。問題があれば、CHANGE(語句の変更)、DELETE(削除)、HOLD(処分の一時保留)などのハンコを押され、返されて来ます。この時は「CHANGE」だったのだと思います。
なぜ「母さん」がダメだったのでしょうか?
CIEはGHQ/SCAP(連合軍総司令部)の占領政策に沿って、日本をアメリカの望む方向に変えるために検閲を強化していました。日本人がアメリカへの復讐心を抱かないように、チャンバラ映画を禁止にしていたほどです。戦後間もなくのことですから、巷にはアメリカ軍によって両親を殺された戦争孤児が浮浪児となって溢れていました。浮浪児にはならなくても、戦争で母親を亡くした子供たちがたくさんいたはずです。そんな子供たちに母親の死を思い出させるような歌詞だったために、CIEが反米意識につながることを警戒して変更を命令したと考えられます。

『みかんの花咲く丘』は、昭和22年7月に井口小夜子の歌で、また昭和23年1月には川田正子の歌でレコードが発売されましたが、ここでは原作通りに「母さん」に直して吹き込まれました。レコードの出版に際してもCIEの事前検閲を受けていたはずですが、放送の時ほどは厳しくなかったようです。

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』ダウン・タウン・ブギウギ・バンド(昭和50年・1975年)

     作詞/阿木燿子 作曲/宇崎竜童 歌/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

松田優作・中村雅俊主演の『俺たちの勲章』(1975年4月2日から1975年9月24日まで日本テレビ系列で放送)という刑事ドラマがありましたが、その中で優作が「あんた、あの娘の何なのさ?」を連発しているのを見た記憶があります。ちょうど『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』がヒットし始めていた頃だったと思います。

新日本童謡集【む】

『村祭り』[文部省唱歌](明治45年・1912年)

     歌/安田祥子

『村祭り』[文部省唱歌]

一 むら鎮守ちんじゅ神様かみさま
   今日きょうはめでたい祭日まつりび
  どんどんひゃらら、どんひゃらら、
  どんどんひゃらら、どんひゃらら、
    あさからきこえるふえ太鼓たいこ

ニ とし豊年満作ほうねんまんさくで、
   むら総出そうで大祭おおまつり
  どんどんひゃらら、どんひゃらら、
  どんどんひゃらら、どんひゃらら、
    よるまでにぎわみやもり

三 おさまる御代みよ神様かみさま
   めぐみあおぐやむらまつり
  どんどんひゃらら、どんひゃらら、
  どんどんひゃらら、どんひゃらら、
    いてもこころいさつ。

『尋常小学唱歌(三)』

昔は町だったわが棲処も今は市に昇格してしまっていますが、地元の神社のお祭の時は、いまでも法被姿で軽トラに乗って、笛太鼓を鳴らしながら町内を練り歩いています。形は変わっても「朝から聞える笛太鼓」は、今も健在です。

『無法松の一生』村田英雄(昭和33年・1958年)

坂東妻三郎主演『無法松の一生』昭和18年、大映         三船敏郎主演『無法松の一生』昭和33年、東宝

『無法松の一生』
 作詞/吉野夫二郎 作曲/古賀政男 歌/村田英雄

小倉こくらまれで 玄海育げんかいそだ
くちあらいが あら
無法むほう一代いちだい 涙を捨てて
度胸どきょう千両せんりょうで 行きる身の
男一代 無法松

今宵こよい冷たい かたづき
見せた涙は うそじゃない
おんなぎらいの 男の胸に
める面影おもかげ たれか知る
男松五郎 何を泣く

くななげくな 男じゃないか
どうせ実らぬ 恋じゃもの
愚痴ぐち未練みれんは 玄界灘げんかいなだ
てて太鼓たいこの 乱れ打ち
夢もかよえよ 女男みょうとなみ

村田英雄の『無法松の一生』は、坂東妻三郎主演の映画『無法松の一生』(1943年10月28日封切、大映)をテレビで見たことによって注目するようになりました。映画『無法松の一生』の監督は稲垣 浩、脚本は伊丹いたみ万作まんさく、撮影は宮川一夫です。
この歌自体が、映画の原作と同じ岩下俊作の『富島松五郎伝』を下敷きにして作られているので、この歌を聞くと自然に映画の無法松を思い出します。

映画のあらすじを紹介しておきます。
小倉の車引き・富島松五郎は、喧嘩っ早いので有名で、「無法松」と呼ばれていました。
松五郎は、博奕ばくちをしたために小倉から追放されていましたが、ある日、車賃が割に合わず断ったために客と争いになり、客に持っていた杖で頭を割られ、小倉の宇和島屋という木賃宿の二階で寝込んでいました。訪ねて来た巡査の話から、その客は若松警察の撃剣の先生だと知り、「こりゃ、大しくじりじゃ。相手は商売じゃ。」と言って、集まった人々と一緒に大笑いするのでした。

また或る日、松五郎が木戸賃を払わずに芝居小屋に入ろうとしたところ、木戸番に追い返されてしまいます。小倉では昔から、車引きは木戸賃なしで小屋に入ることができる風習がありました。松五郎は仲間の熊吉と一緒に戻って来ると、木戸賃を払って小屋に入り、復讐を始めます。升席ますせきの中で鍋に大蒜にんにくを大量にぶち込んで炊き始めると、臭いが小屋中に充満していき客たちが騒ぎ始めました。それに怒った小屋の者たちや客を相手に、松五郎と熊吉が大乱闘を繰り広げます。土地の顔役である結城ゆうき重蔵じゅうぞうが仲裁に入り、両方を料亭に呼んで道理を説くと、松五郎が素直に謝ったため、結城は松五郎の気風きっぷの良さに惚れこむのでした。

松五郎が車を引いている時に、けがをして泣いている吉岡敏雄という子供を家に送り届けたことから、吉岡小太郎陸軍大尉とその夫人よし子と知り合います。
夫人が礼金を包んで渡そうとしますが、松五郎は断って、「俺たちのようなつまらんもんでも、損得を忘れて人のために働くこともあるのじゃけん」と言って帰ってしまいます。
吉岡大尉が帰宅して、よし子が松五郎に世話になったことを話すと、それは「無法松」という痛快な奴だと言い、おく保鞏やすかた閣下が小倉に墓参りのため帰郷した時の話をします。奥閣下が松五郎の俥に乗り、「おい俥屋、行き先はわかってるのか」と問うと、「心配せんでもお前の行き先は聞いて知っちょるよ」と、日露戦争で大勝利した将軍をお前呼ばわりしたことから、軍人の間で評判になっていました。
吉岡大尉は、お礼方々家に呼んで話を聞いたり歌を歌わせたりして酒を汲みかわすうちに、松五郎をすっかり気に入ってしまいます。しかし吉岡大尉は、雨の日の演習で風邪をこじらせたのが原因で亡くなってしまいました。それは明治40年のことなのが、墓標に書かれている没年からわかります。

吉岡大尉亡き後も、夫人のよし子は敏雄が体も心もひ弱なことを心配して、「折りがあったらこの子を鍛えてやってください」と松五郎に頼みこみます。それならばと引き受けた松五郎は、それ以降敏雄を何かれと気にかけるようになります。
小倉工業学校の秋季運動会を見物に行っていたよし子と敏雄、松五郎でしたが、見物客の飛び入りも歓迎という500メートル徒歩競争が始まり、脚は自慢の松五郎は出場します。最初は、松五郎が隣で大きな声で声援するのさえ恥ずかしがっていた敏雄でしたが、松五郎がデッドヒートを繰り広げると、思わず大声で松五郎を声援するようになっていました。よし子は、松五郎のおかげで敏雄が生れて初めて血を湧かして興奮したことを喜び、これからの成長に期待を抱いていました。
帰宅してからも、「おじさんは偉いな」と興奮して話す敏雄に、よし子は「おじさんは、ただ走るのが早いから偉いんじゃありませんよ。松五郎さんは、生まれつき運が悪かったのです。俥なんか引いていられる……」と言いかけてやめ、「敏雄ちゃんも男だから、あの人のように、何でも思うたように、平気でぐんぐんやる気を持たないかんですよ」とさとすのでした。

敏雄は、小倉中学の四年生になっていました。同級生と隠れて師範学校との喧嘩の相談していることに気づいたよし子は、松五郎に相談に行きます。「ぼんぼんも、喧嘩するような若衆になったけえ!」と松五郎は喜びますが、心配するよし子に頼まれて敏雄の喧嘩を見に行くと、敏雄が喧嘩から逃げ出して来ました。その前に立ちはだかって、「弱虫! 喧嘩はこうするんじゃ、よう見とけ!」と言って、松五郎は師範学校の生徒との喧嘩に飛び込んでいきました。

やがて敏雄は、熊本第五高等学校に合格し、小倉を汽車で旅立っていきました。夏休みに敏雄が五高の先生を連れて帰宅すると、祇園太鼓を聞きたいという先生のために、松五郎は敏雄と共に祇園祭のお伴をします。松五郎は、山車だしの上で叩いている太鼓を聞いて、「あれは蛙打ちと言って、本当の祇園太鼓ではない」と言います。残念がる先生のために、松五郎はそれでは真似事を披露しようと言って、山車に登り太鼓打ちを代わります。「流れ打ち」から「勇み駒」と叩いて行くと、土地の古老が「あれは幻の勇み駒だ。本当の祇園太鼓だ」といって感動する姿が映されます。「今度は暴れ打ちだ」と力強くばちを振るう無法松の一世一代の晴れ姿がそこにありました。

芝居小屋での事件や運動会での活躍、敏雄の顔や、師範学校との喧嘩、祇園太鼓を打つ松五郎などが回想され、走り続ける人力車の車輪が回るのをぴたりとやめます。そして松五郎は死んでゆきますが、この間の流れは少々慌ただしく感じます。
松五郎の部屋に、結城重蔵と宇和島屋の主人とよし子が寄り合って、松五郎の遺品をあらためると、吉岡敏雄名義の預金通帳が何冊かと折りにふれてよし子が手渡していた現金が手つかずのまま残されていました。
「お宅でいただいたものは、まるで宝物のように仕舞い込んでありました。」と結城の親分。
「見てやってください。あの暮らしの中で、なんという奴でしょう、松は」と宇和島屋の主人。通帳には五百円ほどが積んでありました。「あいつはこういう奴です。欲気というやつは微塵みじんもないんじゃけん」
「珍しい気風きっぷのいい男じゃったなあ」という結城の親分の言葉で、この映画は締めくくられます。

映画『無法松の一生』は公開時、内務省の検閲によって10分45秒分のフィルムが切除されていました。映画全長の約十分の一に相当する長さです。終りの方が慌ただしく感じるのは、大量にフィルムがカットされていたためです。
公開されたのが昭和18年という戦時中だったため、検閲室長が「俥引きが軍人の未亡人に恋するとは言語道断である!」と激怒したため、問題にされた箇所をすべてカットすることで上映にこぎつけたのでした。松五郎が賭博や喧嘩するシーン、居酒屋で女性が描かれた酒のポスターを貰ったり、吉岡夫人に想いを告白しかける場面、雪の中で松五郎が倒れるシーンほかがカットされました。

敗戦後、この映画は再度、今度はGHQの検閲によって、封建的・軍国主義的と見なされたシーンがカットされています。日露戦争大勝利祝賀の提灯行列シーン、吉岡敏雄が学芸会で唱歌『青葉の笛』を歌うシーン、青島チンタオ陥落を祝う提灯行列で学生たちが軍歌を歌うシーンほかが切除されました。

それでも稲垣 浩監督の『無法松の一生』は、この年の興行売上ランキングで、黒沢明監督の『姿三四郎』を抜いて2位となっています。1位は、滝沢英輔監督の『伊那の勘太郎』という股旅映画でした。
これだけカットされた映画がヒットしたとは、どういうことなのでしょうか?

一つには、この映画の持つ本質的な「明るさ」があると思います。喜劇的なシーンがふんだんに盛り込まれているため、笑えるのはもちろん、ただの喜劇で終わらないのがこの映画の凄いところです。戦時中に、この映画の明るさは貴重だったはずです。

シークェンス、エピソードを積み重ねてゆくことで、松五郎の豪放ごうほう磊落らいらくな性格と町の人々にそれが愛されていることが観客に伝わります。松五郎はただの乱暴者ではなく、己の正義のために喧嘩もするが、理を尽して話せばちゃんと社会の道理を理解する人間であることが描かれています。松五郎は文盲もんもうですが、それは家が貧しく、ただ教育を受けられなかったことに依っています。そのことを吉岡夫人よし子はちゃんと理解していました。生前の吉岡大尉と共に、妻のよし子も松五郎のよき理解者だったことがわかります。それでも、松五郎の想いが越えられなかったのは、「社会の身分意識の壁」でした。

また、シークェンスが変わる部分では、常に人力車が走っている映像が映され、そこではいつも車輪が回っていました。それにかぶせて流れる音楽も、『さくらさくら』や『鉄道唱歌』、『ひとつとや』、『むすんでひらいて』などが明るい音色で流されていて、映画を明るい雰囲気にしていたと思います。人力車の車輪が回転を止めた時が、松五郎の一生が終わった時でした。俥引きという社会の底辺に生きる者が、それでも語るべきいくつかの逸話の主人公として輝いた瞬間を、「ハレ」の物語として描いたのが『無法松の一生』という映画でした。

吉岡大尉夫人のよし子を演じたのは、宝塚歌劇団出身の園井そのい恵子けいこです。映画出演は『無法松の一生』が初めてでしたが、この一本で実力が認められ、他の監督も目をかけるようになっていました。しかし『無法松の一生』出演後は、移動演劇団の「さくら隊」に所属していたため、広島に劇団疎開で行っていたところに原爆が投下され、建物ごと吹き飛ばされる運命に見舞われました。崩れた建物の下から這い出し、目に見えるけがは負わなかったものの、原爆症を発症して、被爆から15日後の昭和20年8月21日にこの世を去りました。この経緯は、新藤兼人監督のドキュメンタリー映画『さくら隊散る』(1988年4月30日封切、近代映画協会・天恩山五百羅漢寺)に描かれています。
園井恵子の生涯ただ一つの出演映画となった『無法松の一生』ですが、彼女はこの映画の中でこれからも輝きを発し続けて行くことと思います。

『無法松の一生』予告編 三船敏郎/主演(昭和33年・1958年)東宝

三船敏郎主演の『無法松の一生』(1958年4月22日封切、東宝)は、坂妻主演の『無法松の一生』(1943年、大映)を撮った時そのままの伊丹万作の脚本で撮影されました。監督も、同じ稲垣浩です。つまり、カラー・リメイク版だったわけですが、そこには戦中戦後の情勢の中で、検閲によってズタズタにされた作品の[完全版]を作るという執念がありました。大日本帝国の内務省やGHQによって削除されたシーンは、この映画の中で全てよみがえっています! そしてこの映画は、第19回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。

坂東妻三郎主演の『無法松の一生』と三船敏郎主演の『無法松の一生』を見比べることで、どの部分がカットされたのかを確認することができます。伊丹万作が命を擦り減らしながら精魂込めて書いた脚本が、ようやく完全な姿で見られるようになったという意味でも、忘れがたい作品です。

『霧笛が俺を呼んでいる』赤木圭一郎(昭和35年・1960年)

     作詞/水木かおる 作曲/藤原秀行 歌/赤木圭一郎

『霧笛が俺を呼んでいる』は、赤木圭一郎主演の同名の映画(1960年7月9日封切、日活)の主題歌で、本人が歌っています。
赤木圭一郎は前年の『拳銃無頼帖 抜き射ちの竜』(1960年2月14日封切、日活)で初めて主役を勝ち取り大ヒットしたことから、それ以降睡眠時間も満足に取れないほどの過密スケジュールで映画を撮り続けていました。
この映画が公開された翌年の1961年2月14日、赤木圭一郎は日活撮影所内で休憩時間中に、業者が売り込みに来ていた輸入ゴーカートに試乗して所内を乗り回しているうちに、撮影所の鉄扉に激突する事故を起こして病院に運ばれました。一時、意識が戻りましたが、2月21日に息を引き取りました。まだ大学に在籍中で、21歳の若さでした。人気が急上昇する渦中での若すぎた死が、赤木圭一郎を伝説の映画スターにしました。

日活のいわゆる無国籍映画では、石原裕次郎にしろ小林旭にしろ、波止場・女・犯罪・銃撃戦といった要素はお定まりのコースで、赤木圭一郎の映画もそこから出るものではなかったのですが、ただ船員マドロス姿がよく似合っていてカッコよかったとはいえると思います。

新日本童謡集【め】

『めだかの学校』(昭和25年・1950年)

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安 泰/画「めだかのがっこう」(『講談社の絵本ゴールド版 童謡画集』昭和40年 講談社)

     作詞/茶木 滋 作曲/中田喜直

『めだかの学校』は、昭和25年に茶木 滋がNHKからの依頼で作詞して中田喜直が作曲し、昭和26年、「うたのおばさん」の時間に放送されました。
この年、日本政府はサンフランシスコ講和条約に調印しています。

最近は川の中を覗くことも無くなってしまいましたが、子供の頃はメダカだろうがドジョウだろうが、水の中を泳いでいるものを見ると無性に捕まえたくなったものです。

新日本童謡集【も】

『桃太郎』[文部省唱歌](明治44年・1911年)

『桃太郎』[文部省唱歌]
 作詞/不詳 作曲/岡野貞一

一 桃太郎ももたろうさん桃太郎さん、
    おこしにつけた黍団子きびだんご
      ひとつわたしにくださいな。

ニ やりましょうやりましょう、
    これからおに征伐せいばつに、
      ついてくならやりましょう。

三 きましょう行きましょう、
    あなたについて何処どこまでも、
      家来けらいになってきましょう。

四 そりゃすすめそりゃ進め、
    一度いちどめてめやぶり、
      つぶしてしまえおにしま

五 おもしろいおもしろい、
    のこらずおにめふせて、
      分捕物ぶんどりものをえんやらや。

六 万々歳ばんばんざい 万々歳ばんばんざい
    おともいぬさる雉子きじは、
      いさんでくるまをえんやらや。

『尋常小学唱歌(一)』

唱歌『桃太郎』は昔話『桃太郎』に基づいていますが、昔話研究者からはこの昔話に対して純粋な民間説話(昔話)としては疑問符が付けられています。主人公の海外遠征を物語る昔話というのは他になく、それはしばしば神話の中の英雄伝説などに見られるものだからです。

口承で伝えられて来た物語には「神話」「伝説」「昔話」などがありますが、「神話」とは天地創造や人類・動植物、民族などの《起源》に関する神々の物語であり、「伝説」とは特定の場所や人物についての人々が「真実」と信じて来た物語であり、「昔話」とは特定の場所や人物に限定されない架空の物語で「むかしむかし……」で始まるのが一般的です。
いずれも、素朴ながらも民衆が〈語り継ぐに値する〉と思ったことが語られているのは同じです。「歴史の一つの存在形式」であり「民衆の記憶装置」(小松和彦)と呼ぶべきものです。

では「桃太郎」の昔話では、何が語られているのでしょうか? ここであらすじを確認しておきましょう。

① 昔々、或るところに、お爺さんとお婆さんがいました。お爺さんは山に柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行きました。
② すると川上から大きな桃が、ドンブラコッコ、スッコッコと流れて来ました。
③ お婆さんはその桃を拾って家に帰り、お爺さんが戻るのを待って桃を切ろうとすると、桃の中から小さな男の子が現れました。二人はこの子に桃から生まれたので桃太郎と名付けました。
④ 桃太郎はすくすくと育ち、ある日「鬼が島に宝物を捕りに行きたい」と言い出しました。それを聞いたお爺さんとお婆さんは頼もしく思い、きび団子だんごを作って桃太郎に持たせ、送り出してやりました。
⑤ 旅の途中、犬、猿、雉子きじが次々に桃太郎の前に現れ、腰に付けた黍団子を所望するので、やる代わりに家来けらいにして連れてゆくことにしました。
⑥ 桃太郎と三匹が船に乗って鬼が島に渡ると、鬼どもは城にこもって鉄の門を閉ざしていたため、雉子は門を飛び越えて鬼に突きかかり、桃太郎と犬と猿とは城門を押し破って攻め込み、とうとう鬼どもを降参させました。
⑦ そして、鬼からぶんった「打出うちで小槌こづち」や「隠蓑かくれみの」などの宝物を手車に積んで、三匹に引かせてお爺さんお婆さんの元へと帰りましたとさ。めでたしめでたし。

この「桃太郎話」のあらすじは、私が記憶している一番しっくりと来るものを書いてみました。ただ、人によっては、「自分が知っている桃太郎話とは違う!」と思う方もあるかも知れません。それは、「桃太郎話」にはバリエーションが多く、この話を何を通して知ったかによって違っている可能性があります。

私が何で「桃太郎」を知ったかは、今ではほとんど記憶に残っていません。それは、そうとうな幼児期に知ったということだと思われます。マンガだったら、それはもうある程度字が読めるようになってからなので、記憶に残っている可能性が高いですが、どうもそれ以前のことのような気がします。

「桃太郎話」のバリエーションは、なぜ生まれたか?
滑川道夫『桃太郎像の変容』(昭和56年・東京書籍)によると、「桃太郎話」の構成は大別すると、
(一)桃太郎の誕生
(ニ)鬼が島征伐
の二部から成っています。
「桃太郎の誕生」に関する部分は、純粋に昔話として伝わったものと考えられますが、「鬼が島征伐」の部分は純粋な昔話とは言えず、『保元物語』の「為朝鬼が島渡り」の伝説等が変化したものと考えられ、この二つがくっつけられて「桃太郎話」の基本構造が成立したと推測されます。
もともとの「桃太郎話」は、室町時代末期から江戸時代初期にかけて成立したと考えられていますが、初期のものほどこのような構成になっているということです。
それが時を経るに従って、
(一)桃太郎の誕生
(ニ)桃太郎の出陣
(三)犬・猿・雉子をお供にする
(四)鬼が島の戦闘
(五)宝物を得て凱旋
というような構成に変化してゆき、詳しいデティールも描かれるようになって行きました。

江戸初期から、それまで口承で伝えられて来た「桃太郎話」は、文字化されるようになりました。
室町時代に成立した『御伽草子』には、「浦島太郎」や「一寸法師」などが収録されていますが、「桃太郎話」は入っていません。「桃太郎話」そのものはすでに民間に生まれていた筈ですが、なぜか文字化されるには至らなかったようです。
しかし江戸期になると、八十編以上の「桃太郎話」が草双紙として出版されており、そこでは作者の解釈や想像が付け加えられて、内容的にバリエーションに富んだものになっています。

「桃太郎話」は、桃・異常出生・鬼が島・きび団子だんご・犬・猿・雉子・鬼退治・宝物の分捕りなど、多数の要素から成り立っています。
次は、それらの要素ごとに、どんなバリエーションがあるかを見ていきたいと思います。

桃太郎は桃から生まれなかった?
お爺さんとお婆さんには子供がありませんでしたが、そこに「桃太郎」を授かるところから、このお話は始まっています。
その授かり方には、大きく分けて2種類が伝わっています。上で紹介したあらすじでは、桃が川上から流れて来たのをお婆さんが拾ってきて、桃太郎が桃の中から生まれたことになっていますが、別なタイプのお話では、お爺さんとお婆さんが桃を食べたら急に若返って、お婆さんが桃太郎を生んだということになっています。その際、お婆さんの「もも」から生まれたとするものまであります。前者は「果生型」、後者は「回春型」と呼ばれています。

現代では「昔話」は子供のためのものと思われていますが、柳田國男は『桃太郎の誕生』(昭和8年・1933年)の中で、そもそも子供のための昔話というのは村になかったと言っています。庚申講こうしんこう日待ひまちなどがあった頃は、多数の大人に混じって子供も集まり、昔話などをしながら夜を明かす場がありました。そんな時に子供たちは、年齢に応じた理解の仕方で大人のする話から学び、話を模倣することを覚えました。だから今よりも早く大人になったのだということです。
しかし、時代が下ると共にそういった場がなくなり、昔話は爺婆や母が子供にするものに限定されていきました。さらに聞く者に合わせて話の内容も取捨選択された結果、今日のように子供向きのものばかりが残ったとしています。
桃太郎話も、初期には「回春型」のものが中心でしたが、時間がつほどに、聞き手が子供になって行くことで「果生型」へと変わって行ったと考えられます。

桃太郎はなぜ鬼が島に?
成長した桃太郎は、突然「鬼が島へ宝物を捕りに行きたい」と、お爺さんお婆さんに言い出します。これは、鬼が島には宝物があるという知識が前提になければ、決して出て来ない言葉です。
実際、『保元物語』では、鬼が島には「隠蓑かくれみの隠笠かくれがさ浮履うきぐつ沈履しずみぐつつるぎ」などの宝物があるという話が、また『平家物語』や『源平盛衰記』には、鬼の持ち物として「打出うちで小槌こづち」が出て来ます。
鬼が島がどこにあるかも知らないままに、そこへ行けば宝物があるということだけは、庶民は知っていたのかもしれません。宝物を手に入れて豊かに暮らしたい、という庶民の願望が込められたお話であることが、「桃太郎話」が人気を保ち続けた理由だと思われます。

滑川道夫によると、古い口承説話に近いほど、鬼が島征伐の理由ははっきり語られておらず、後期になるほどに「鬼が金や女や宝物を奪い去ったため、それを取り返しに征伐に行く」といった合理的な理由が付け加えられているということです。

犬・猿・雉子の意味
これも「桃太郎話」の発展史においては「途中から」ですが、桃太郎の鬼征伐に、犬・猿・雉子が家来けらいとして加わることになります。この理由については、すでに江戸時代に、滝沢馬琴によって解説されています。馬琴はその著書『燕石雑誌』において、「鬼ヶ島は鬼門を表せり。之に逆するに、西の方申酉戌さるとりいぬをもってす」として、十干十二支の方位説によって鬼が島征伐に犬・猿・雉子が選ばれたことを説明しています。

方位表

十干十二支と方位の関係は、上図のようになります。北()と南(うま)を結ぶ線が、天文学では「子午しごせん」と呼ばれています。

「鬼」は想像上の動物ではありますが、牛のつのと虎のきばやし、裸で虎の皮のふんどしを締めているとされます。その姿は「鬼門」とされる方角である「うしとら」(北東)のイメージから想像されたものです。
比叡山延暦寺が平安京の北東に位置し、日光東照宮が江戸の北東に当たる地を選んで建立されたのも、鬼ないし魔の出入り口である「」の鬼門に対峙して、京や江戸を鎮護するためだったといわれています。
鬼が島の鬼と戦う存在として、「」の反対側の方位に位置するさるとりいぬが選ばれたというのは、現代よりも陰陽おんみょうどうの強い影響下にあった時代の人であれば、そう考えたとしても不思議ではないと思います。

桃と黍団子の意味
桃は、中国の伝説上の仙果であり、不老長寿の薬効や邪気を払う魔力を持つとされて来ました。
西王母せいおうぼという仙女が、中国西方にある崑崙山こんろんさん上の瑶池ようちに住み、蟠桃園ばんとうえんを所有していたという伝説も伝わっています。蟠桃園には三千六百株の桃の木があり、三千年に一度実が熟すのが千二百株、六千年に一度実が熟すのが千二百株、九千年に一度実が熟すのが千二百株ありました。この桃を食べると、仙人になったり不老長生となったりできますが、九千年に一度のやつを食べると永遠の不老長寿が得られるといわれました。
『西遊記』にもこの西王母の蟠桃園が登場し、斉天大聖孫悟空が九千年に一度の桃の実を食べ尽くしてしまい、天界に大騒動を巻き起こします。
桃の木は、古代に中国から日本へともたらされましたが、『古事記』にも、伊邪那岐命いざなぎのみこと黄泉よみの国へ死んだ妻の伊邪那美命いざなみのみことを取り戻しに行く説話の中で、黄泉醜女よもつしこめや雷たちに追われて地上へ続く黄泉平坂よもつひらさかを逃げている時に、傍らに生えていた桃の木から桃の実を三つ取って投げつけると、桃の霊力に恐れをなして雷たちが逃げ散ってしまう場面があります。日本にも、桃が不思議な力を持つということが伝わっていたようです。
桃太郎が生まれて来る果物として桃が選ばれたのは、そんな桃の霊力によるのかも知れません。

桃太郎を描いた絵を見ると、よく「日本一」と書かれた旗指物を背負っていますが、「日本一」なのは「きびだんご」であって、なぜか桃太郎のことではありません。『花咲爺』にも「日本一の花咲爺」という言葉が出て来ますが、「日本一」というのはこれらの昔話が文字化された江戸期の流行り言葉だったようです。当時すでにきび団子屋も出て来ており、「日本一」は「きびだんご」を売り出すためのコピーライティングだったのかも知れません。
「きびだんご」に「吉備団子」という字を当てて、岡山に伝わる吉備津彦命きびつひこのみこと温羅うら退治たいじ伝説と「桃太郎話」を結び付けようとしたのも江戸時代からなので、どうもこの話には昔話や伝説を利用して地元を権威付けたいという底意が透けて見える気がします。
江戸初期の草双紙には「きびだんご」は登場せず、「とうだんご」というものが出て来ますし、さらに口承時代にまで遡れば、そもそもどんな「だんご」も登場しない「桃太郎話」が多数存在します。「きびだんご」や「吉備団子」の登場には、なにかしら意図的なものが潜んでいる可能性がありそうです。

「鬼」とは何か?
「鬼」という語は、中国では招魂の儀式によって呼び戻された「死者の霊魂」を意味していました。死者の霊が泣く声を「鬼哭」と言い、閻魔大王が死者の姓名を記入する帳簿を「鬼籍」と言うのも、そこから来ています。
この漢字が伝わってから、長い時間をかけて日本人は、それまで「オニ」と呼んでいたものを「鬼」という字で表すようになって行きます。
『万葉集』では「モノ」と読まれていることが多く、これは「モノノケ」の「モノ」と同じ意味です。また『万葉集』では「シコ」という読み方も示されています。これは「異形」を意味しますが、「しこ御楯みたて」の「シコ」と同じ読みであり、「しこ御楯みたて」とは死んでむくろを晒してでも大君を護る楯となることを意味していると考えられます。
「鬼」の読みとして、「オニ」「モノ」「シコ」が戦わされた長い時期を経て、最終的に「オニ」へと収斂しゅうれんしていきます。馬場あき子『鬼の研究』(昭和46年、三一書房)によると、その時期を六〇〇年後半と見ています。

『鬼の研究』では、日本の古代から中世にかけて「鬼」と呼ばれてきたものを分類しており、
(1)日本民俗学上の鬼(祝福に来る祖霊や地霊)が最古の原像
(2)山人系の人々が道教や仏教を取り入れて修験道を創成したことによる、山伏系の鬼と天狗
(3)別系として、仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹らせつの出没、地獄卒、牛頭ごず馬頭鬼めずき跋扈ばっこ
(4)放逐者、賤民、盗賊など凶悪な無用者の系譜
(5)「能」に表された般若はんにゃ山姥やまんばなど、人間が自ら鬼に変身した者たち
などを上げています。

『日本書記』では、実見された「鬼」が登場しており、欽明天皇の時代には、佐渡ヶ島に来て漁をしていた粛慎人みしはせのひとを地元の人が「鬼魅おに」と呼んでいたとあります。
粛慎人とは何かには諸説がありますが、アイヌともツングース人ともいわれています。
さらに約一三〇年後の「斉明紀」になると、粛慎人の討伐が頻出するようになり、攻略の都度、珍しい品物や多数の虜囚を連れ帰っていて、なにか桃太郎の鬼が島征伐を思わせる話にも思えます。
また、同じく「斉明紀」には、朝倉山の上から「鬼」が笠を着て斉明天皇の喪の儀を見ていたという記事もあります。ヤマト朝廷が版図を広げている間にも「まつろわぬ者たち」が多数の「クニ」を作っていて、彼らが「鬼」と呼ばれたのでしょう。

桓武天皇から後白河天皇に至る約四百年にわたる繁栄を謳歌した王朝時代には、彼ら一握りの人々の栄華の陰に、犠牲にされた莫大な数の民衆がおり、中には山岳に拠って貴族社会から食料や財を掠め取っては豊かな生活を実現していた盗賊集団もいました。王朝時代は、そんな現実の「鬼」たちが、都を跳梁跋扈していた時代でもありました。

これらの歴史の積み重ねから、「鬼」といえば「悪しきもの」「恐ろしいもの」であるという暗黙知が、日本人の間に形成されていったとみることができます。

「昔話」には、『桃太郎』以外にも『一寸法師』や『酒呑童子』など、「鬼」が登場するお話があります。『一寸法師』や『酒呑童子』に登場する「鬼」は、明らかに「盗賊」と見ることができます。「昔話」に登場するのは、だいぶ「零落」してしまった「鬼」たちで、恐ろしさはどこかへ消えてしまって、すでに「鬼」と実際に出会うことがなくなってしまった時代に作られたお話であることが想像されます。

桃太郎話についてのまとめ
桃から生まれたような「小さ子」が、すくすく育って「鬼ヶ島」に鬼征伐に出かけ、爺婆のもとに莫大な富をもたらすというのは、当時の貧しい暮らしの中で、庶民が夢見ることのできた唯一の「夢」だったと考えると、長い間「桃太郎話」がもてはやされた来たことが納得いくように思います。
「子供」の将来に期待をかけて一生懸命に育てるというのは、いつの時代も親や爺婆が抱いてきた庶民的な願いだったに違いありません。

しかし、やがて明治時代になると、巌谷小波の『日本昔噺』の「桃太郎」や、『尋常小学読本』に登場した「桃太郎」(明治20年)に代表されるように、「桃太郎話」は修身教育の道具として利用されるようになります。
また昭和時代には、動画映画『桃太郎の海鷲』のように、軍国主義のプロパガンダとして盛んに「桃太郎話」が利用されて来ました。
さらに戦後になると、今度は鬼から宝物を分捕らない「平和主義的な桃太郎」を描く絵本がたくさん現れました。
日本が近代化するとともに、イデオロギーを広めるための道具に堕してしまった「桃太郎話」ですが、「昔話」としての「桃太郎話」は、そんなものではなかったと思います。
桃太郎話を爺婆が孫にしてあげたのは、もちろん楽しませるのが目的だったでしょうが、孫が将来、一家に富をもたらすような人物になってほしいという素朴な願望を込めて話していたのも事実だと思います。

『モモタロウ』[文部省唱歌](明治33年・1900年)

『モモタロウ』[文部省唱歌]
 作詞/田辺友三郎 作曲/納所弁次郎

一 モモカラウマレタ、モモタロウ、
  キハヤサシクテ、チカラモチ、
  オニガシマヲバ、ウタントテ、
  イサンデイエヲ、デカケタリ。

ニ ニッポンイチノ、キビダンゴ、
  ナサケニツキクル、イヌトサル、
  キジモモロウテ、オトモスル、
  イソゲモノドモ、オクルナヨ。

三 ハゲシイイクサニ、ダイショウリ、
  オニガシマヲバ、セメフセテ、
  トッタタカラハ、ナニナニゾ、
  キンギンサンゴ、アヤニシキ。

四 クルマニツンダ、タカラモノ、
  イヌガヒキダス、エンヤラヤ、
  サルガアトオス、エンヤラヤ、
  キジガツナヒク、エンヤラヤ。

『幼年唱歌(初の上)』

こちらの唱歌『モモタロウ』は日露戦争以前に作られたものですが、桃太郎が桃から生まれたこと、さらに「気はやさしくて 力持ち」とその性質までちゃんと歌っています。しかし、「気はやさしくて 力持ち」という言葉が使われたのはこの唱歌がはじめてであり、それまでのどの桃太郎話にも出て来ないようです。また、鬼から分捕った宝物も、隠蓑や打出の小槌ではなく、「金銀珊瑚 綾錦」とひどく現実的なものになっています。
この唱歌『モモタロウ』も、「桃太郎話」のバリエーションの一つと考えるのが妥当だと思われます。

『森の小人』(昭和22年・1947年)

マーガレット・タラント『The Fairy Way』(1950年頃)

     作詞/玉木登美夫 補作詩/山川 清 作曲/山本雅之 歌/佐藤恵子

『森の小人』は、最初は『蟻の進軍』というタイトルで作られた戦時歌謡でした。しかし、当時、日本軍が南方戦線で連戦連勝の進撃の真最中だったため、タイトルが時局柄まずいということで、レコード化が中止になりました。そのため、この歌がどんな歌詞だったかは伝わっておらず、不明なままです。

日本の歌には珍しいリズム感溢れる曲調が捨てがたかったため、ディレクターの柳井堯夫が玉木登美夫に依頼して『土人ノオ祭』というタイトルで作詞してもらい、昭和16年、秋田喜美子の歌でキングレコードから発売されました。しかしこの時は、あまり売れなかったようです。

   椰子やしの葉蔭で ドンジャラホイ
   シャンシャン手拍子 足拍子
   太鼓叩いて 笛吹いて
   今夜はお祭り パラオ島
   土人どじんさんがそろって にぎやかに
   ホーイ ホーイ ドンジャラホイ

第一次世界大戦後、日本の委任統治領となっていたミクロネシアのパラオの島民の祭りの様子を歌った歌でした。

戦後、柳井の後任ディレクターだった山田律夫がこの曲を再びレコード化しようとしたところ、GHQから「土人」という言葉が人種差別的だとクレームが付き、このままでは許可が下りないため、みずから山川 清のペンネームで改作詞したのが『森の小人』でした。玉木登美夫がすでに故人となっていたため、そうするより外に手立てがありませんでした。
『森の小人』は、昭和22年、佐藤恵子の歌でキングレコードから発売されて、今度は大ヒットしました。

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