昭和百年・新日本童謡集【や行】~『椰子の実』『雪の進軍』『ヨイトマケの唄』ほか

新日本童謡集【や】

『弥三郎節』[民謡・青森県]


「弥三郎節」を歌う徳島大尉(『八甲田山』東宝・1977年)

弥三郎やさぶろうぶし[民謡・青森県]

〽一つァェー 木造新田きづくりしんでん相野あいの村 村のずれ弥三郎やしゃぶろう ヤァリァ弥三郎ェー

 二つァェー 二人ふたり三人さんにん人頼ひとたので 大開おびらきの万九郎から嫁らた ヤァリァ弥三郎ェー

 三つァェー 三つ物そろえて貰らた嫁 貰らて見たどごァ気に合わねェ ヤァリァ弥三郎ェー

 四つァェー 夜草よくさ朝草あさくさ欠かねども 遅く戻ればびられる ヤァリァ弥三郎ェー

 五つァェー びられはじかれにらめられ 日に三度の口つもる ヤァリァ弥三郎ェー

 六つァェー 無理だァ親衆に使われて とうの指から血流す ヤァリァ弥三郎ェー

 七つァェー なんぼ稼いでも働れェでも つける油もつけさせねェ ヤァリァ弥三郎ェー

 八つァェー 弥三郎ァばり日ァ照らねェ 藻川もがわの林さも日ァ照るァ ヤァリァ弥三郎ェー

 九つァェー 此処の親達おやだつァ皆鬼だ だとさとったら誰ァ来べな ヤァリァ弥三郎ェー

 十とァェー 隣知らずの牡丹餅ぼたもち 嫁ね食せねで親子ばり ヤァリァ弥三郎ェー

 十一ァェー 十一日ァ蔵開き 蔵も開けねで嫁えびる ヤァリァ弥三郎ェー

 十二ァェー 十二山の神ァ餅つきで 嫁も食てァだら門廻れ ヤァリァ弥三郎ェー

 十三ァェー 十三所八方から嫁貰らても 此処の婆様の気に合わねェ ヤァリァ弥三郎ェー

 十四ァェー 湿り打たねでもみかせ たらす涙で籾ァ搗けだ ヤァリァ弥三郎ェー

 十五ァェー 縁のないものァ是非もない 泣きの涙でひまらた ヤァリァ弥三郎ェー

『日本民謡集』町田嘉章・浅野建二編、1960年、岩波文庫
※原文の「コリャ」を「ヤァリァ
に入れ替えています。そう歌われる場合もあるとされています。

『弥三郎節』は、テレビののど自慢などで歌われるのを聞いて、曲の存在だけは知っていましたが、歌詞が難しくて何を歌っているのか分からず、特に興味を持つことなく聞き過ごしていました。
この歌に注目するようになったのは、映画『八甲田山』(東宝、1977年6月18日封切)を大学生の時に見てからです。

映画『八甲田山』では、高倉健演じる弘前歩兵第三十一連隊の徳島大尉と北大路欣也演じる青森歩兵第五連隊の神田大尉が、第八師団参謀長から「冬の八甲田を歩いて見たいとは思わないか」と言われたことから、二つの連隊は青森と弘前から出発して、双方が逆の道順で雪中行軍を行い、雪の八甲田山中ですれ違うコースをとることになります。
二年後には日露戦争が始まるという時期のことで、雪中行軍が行われた理由を新田次郎原作の小説『八甲田山死の彷徨』では次のように言っています。
日露が戦争状態に入った場合、敵の艦隊によって津軽海峡と陸奥湾が封鎖され、艦砲射撃で鉄道と道路が破壊されることが予想されるが、そうなった場合、青森と弘前、青森と八戸方面の交通は八甲田山系を縦断する道路を利用するほかなくなる。しかし冬場の厳寒期に、軍の移動が可能かどうかは全く不明である。そのため第八師団では、厳寒積雪での八甲田踏破の可能性を試すことを、青森と弘前の両連隊に希望することになった。……
参謀長の言葉は二人の大尉に尋ねているように聞こえますが、この階級差のある中での会話は、軍隊では命令と受け取るのが普通です。

雪中行軍の下準備のため、神田大尉が徳島大尉の官舎を私的に訪問し、雪中行軍についての知識を教えてもらいに行きますが、その後の酒宴で徳島大尉が『弥三郎節』を歌うシーンがあります。
「五つァェー びられはじかれにらめられ 日に三度の口つもる ヤァリァ弥三郎ェー 六つァェー 無理な親衆に使われて とうの指から血流す ヤァリァ弥三郎ェー」と歌ってから、
「人間なんて、いつになってもあんまり変わらんもんだな。無理な親衆にさんざんこき使われて、十本の指から血流す──。生き地獄の八甲田に追いやられる我々のようなもんだ。」と徳島大尉が言います。
原作小説にはないエピソードですが、徳島大尉のこの一言で、彼らが置かれた状況が鮮やかに伝わります。そして、「今度会うのは、雪の八甲田で──」と言いかわして、二人は別れていきます。

この二人のモデルである第三十一連隊の福島ふくしま泰蔵たいぞう大尉と第五連隊の神成かんなり文吉ぶんきち大尉が、雪中行軍前に会ったという記録は残っておらず、この部分は原作者である新田次郎のフィクションと思われます。この映画や小説で感動的な部分は、ほぼ原作者や脚本家のフィクションないし脚色である場合が多いです。
誰が書いたものだったか忘れましたが、「この映画は新たな神話を創った」という文章を、映画パンフレットで読んだ記憶があります。まさに、その通りだと思います。

解釈と鑑賞

『日本民謡集』(町田嘉章・浅野建二編、1960年、岩波文庫)によると、

この唄は文化五年(1808)の秋の頃、西津軽郡木造きづくりの隣村、森田村大字しも相野あいのの弥三郎に嫁いだ娘が、しゅうとめ虐待ぎゃくたいされて離縁になったという事件を、村の人が同情して、当時流行の数え唄式に歌いはやしたものという。封建的な農村によくある嫁いびりの唄である。

『日本民謡集』(1960年、岩波文庫)

と解説されています。
また地元では、万九郎の所から来た嫁が、婆様のいびりに耐え切れず離縁されたとき、外に放り出された長持の上に腰かけて、恨みをこめて歌った歌だともいわれているようです。

歌詞の内容は、次のようなことを歌っています。

木造新田きづくりしんでん下相野しもあいのの村はずれに、百姓弥三郎やさぶろうの家があった。

弥三郎の家では、二人三人と人に頼んで、大開おびらきの百姓万九郎の娘を嫁にらった。

箪笥たんす長持ながもち鋏箱はさみばこの三つ物をそろえて持参してきた嫁だったが、貰って見たところがしゅうとめの気に入らない。

飼い馬に食べさせるために、夜に朝に草刈りに出かけたが、少しでも遅く戻るとしゅうとめからいびられた。

いびられるだけでなく、ものにされたり、にらみつけられたり、三度の飯も満足に食べさせて貰らえなかった。

無理なことばかり言う親たちにこき使われて、十本の指から血を流した。

どんなに一生懸命に稼いでも働いても、髪につける油さえつけさせてくれなかった。

弥三郎の家ばかり日が差さない。藻川もがわの林にさえ日が照るというのに。

ここの親たちは皆鬼だ。こんな家だと分かっていたら、誰が嫁になんか来るものか。

知らないうちに作った牡丹餅ぼたもちを、嫁には食べさせないで親子だけで食っていた。

新年の十一日は蔵開きなのに、蔵も開けないで嫁いびりばかりした。

十二日は山の神のもちつきで、嫁も餅が食いたかったらよその家で貰って来いと言われた。

どんな所から嫁を貰っても、ここの婆様の気に入るはずはない。

湿り気を与えずにもみかせられたが、流した涙のおかげで湿り気が加わり籾を搗くことができた。

縁のないものはどうしようもない。泣く泣く離縁されて家に戻った。

こんなのが弥三郎の家だ。

『椰子の実』(明治33年・1900年)

『椰子の実』
 作詞/島崎藤村 作曲/大中寅二

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子やしの実一つ
故郷ふるさとの岸を離れて
なれはそも波に幾月いくつき

もとの木はいや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまたなぎさを枕
孤身ひとりみ浮寝うきねの旅ぞ

実をとりて胸につれば
あらたなり流離りゅうりうれい
海の日の沈むを見れば
たぎり落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々しおじお
いづれの日にか国に帰らむ

『椰子の実』は、島崎藤村が明治33年(1900年)に、『海草』と題した詩の一編として雑誌『新小説』に発表したものです。翌明治34年に刊行した詩集『落梅集』に収められています。

実は、藤村のこの詩は、柳田國男が東京帝国大学の二年生の夏(明治31年・1898年)、愛知県伊良湖いらござきに一月余り滞在した時に、四五百メートルほどの小さな砂浜に椰子の実が流れ着いているのを三度も見たことから、東京に帰ってその話を島崎藤村にしたところ、藤村が柳田の話から発想を得て詩にしたものでした。

…どの辺の沖の小島から海にうかんだものか今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡って来ていることが私には大きな驚きであった。
 この話を東京にかえって来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれをもらいましたよと、自分でも言われたことがある。

柳田國男『海上の道』昭和36年7月、筑摩書房

柳田國男の『海上の道』は、彼の晩年の著作になります。(柳田は昭和38年、87歳で没。)
藤村の『椰子の実』は、旅人の青春の哀傷を歌ったものになっていますが、それは藤村個人のものであって、その時柳田の抱いた感懐とは異なるということをはっきり述べています。
この著作で柳田が試みたのは、日本の浜辺にどこからかは判らないが椰子の実が漂着するのであれば、遠い古代に日本列島へと南洋諸島から「海上の道」を渡って来た人々がおり、彼等が日本人となった可能性を示唆するものではないかという着想を、民間伝承を基に跡付けて見ることでした。
残念ながら現代では、ゲノム解析等から日本人の祖先が南方から来たことは否定されていますが、しかし、「文化の伝播」に関しては、まだ柳田の着想は生きているといえると思います。

『椰子の実』はその後、昭和11年(1936)7月に大中寅二とらじが作曲し、7月13日から一週間、東海林太郎の歌でラジオ番組「国民歌謡」で放送され大ヒットしました。
大中寅二は、『サッちゃん』の作曲家大中めぐみの父であり、『サッちゃん』の作詞家阪田寛夫は甥にあたります。
阪田寛夫は『椰子の実』は「讃美歌臭い」(阪田寛夫『足踏みオルガン』)と指摘していますが、大中寅二は霊南坂教会のオルガニストでもあり、多数の教会音楽や讃美歌なども作曲しているので、自然と讃美歌風の味わいが出て来ているのでしょう。
明治期に作られた唱歌や童謡、流行歌は、キリスト教音楽の影響を受けたものが多数あり、日本の近代歌謡成立の源流の一つを形成しているといえます。

『野球拳』[宴会芸](大正13年・1924年)

『野球拳』
 作詞・作曲/前田伍健

野球するならこういう具合にしやしゃんせ
投げたら こう打って 打ったなら こう受けて
ランナーになったらエッサッサ 
アウト・セーフ ヨヨイノヨイ

野球やきゅうけん」なるものがあることを知ったのは、テレビ番組『コント55号の裏番組をぶっ飛ばせ』(1969年4月27日から1970年3月29日まで日本テレビ系列局で放送)を見たことによります。

萩本欽一と坂上二郎さんが、ゲストの若い女性芸能人と野球拳をして、負けた方が一枚ずつ服を脱いでいくというルールになっています。脱いだ服は、すぐにその場で会場に詰め掛けている大勢の観客たちにセリにかけられ、売上はチャリティに回されます。

見どころは何といっても、女性芸能人たちの脱ぎっぷりと、二郎さんが女性がヌギヌギしている個室の前に張り付いて「想像しましょう!」と呼びかけるシーンでした。いやあ、ほんと、みんなスケベェ全開でしたね。

『コント55号の裏番組をぶっ飛ばせ』

『本家 野球拳』のやり方解説

コント55号の「野球拳」がすっかり有名になってしまって、本来の宴会芸としての「野球拳」が、ジャンケンをして負けたら服を脱がねばならないと誤解されてしまったようです。本来の「野球拳」では、ジャンケンで勝負がついたら、ただ次の人に入れ替わるだけでした。

上の動画では、「野球拳」発祥の地である伊予松山(現・香川県高松市)で毎年開催されている野球拳全国大会で紹介された「野球拳」の正式なやり方です。
「へぼけ へぼ除け おかわり来い」という囃子詞がいいですね。

『山男の歌』(昭和36年・1962年)

『山男の歌』
 作詞/神保信雄 作曲/不詳

娘さん よく聞けよ
山男にゃ ほれるなよ
山で吹かれりゃよ わか後家ごけさんだよ

娘さん よく聞けよ
山男の 好物はよ
山の便りとよ はんごうのめしだよ

山男 よく聞けよ
娘さんにゃ ほれるなよ
娘心はよ 山の天気よ

娘さん よく聞けよ
山男に ほれたらよ
息子たちだけはよ 山にやるなよ

『山男の歌』は、小学生くらいの時に、テレビでダークダックスがよく歌っていたので、それを聞いて覚えました。ただ「山男」とは何なのか、かなり長い間〈謎〉でした。私の廻りに「山男」がいなかったためです。

『山男の歌』に「元歌」があるということを知ったのは、大学生くらいの時だったと思います。海軍兵学校の生徒たちに歌われていた『巡航節』がそれですが、歌詞は知っていましたが当時は曲を聞いたことがなく、また聞く機会もありませんでした。初めて『巡航節』を聞いたのは、インターネット時代が到来してからなので、じき最近のことになります。

『巡航節』[兵隊節]

『巡航節』
作詞・作曲/不詳

雪をあざむく
白地の授業服
腕のマークはヨー
いちの文字よ

帽子まぶかに
月のまゆかくして
えみを含んでヨー
チルラーとるよ

カッターは出て行く
湾口わんこうの一本松
差して行く手はヨー
宮島よ

沖のかもめに
潮時しおどき問えば
わたしゃたつ鳥ヨー
波に聞けよ

娘さんよく聞け
生徒さんにれるな
沖でドンと鳴りゃヨー
若後家よ

腰の短剣
伊達だてにはつらぬよ
魔よけ虫よけヨー
女寄せよ

娘さんよく聞け
生徒さんの好物はよ
娑婆しゃばの便りにヨー
酒保しゅほ羊羹ようかん

あの鼻まわれば
生徒館が見えるよ
赤い煉瓦れんがにゃヨー
鬼が住むよ

今日も天測
見上げる空によ
泣いたあの夜のヨー
星が飛ぶよ

巡検用意の
ラッパを聞けばよ
そぞろ故郷こきょうがヨー
しのばれるよ

吹くや春風
散らすな桜よ
せめて考査のヨー
おわるまでよ

考査終れば
休暇も近いよ
水泳訓練ヨー
何のそのよ

『常磐炭坑節』にも、「〽娘よう聞けよォ 抗夫のかかナイ 岩がどんと来りゃよォ どんと若後家よナイ」と歌われています。
娘よ、危険な仕事をする男には惚れるな、若後家になるぞ、という表現形式は、民謡で人気のある粋な言い回しだったようです。
『山男の歌』の「山で吹かれりゃよ」とは、山で吹雪に遭遇したらという意味、『巡航節』の「沖でドンと鳴りゃヨー」とは、沖で敵艦が大砲をドンと鳴らして砲撃したらの意味、『常磐炭坑節』の「岩がどんと来りゃよォ」とは、発破はっぱをドンとかけたとたんに落盤が起きれば、という意味になります。

『柔』[TVドラマ主題歌]美空ひばり(昭和39年・1964年)

『姿三四郎』の頃──テレビ「柔道ドラマ」の歴史をたどる」でも書きましたが、美空ひばりの『やわら』は、昭和39年(1964年)、平井昌一主演で、日本テレビ系列局で放映された柔道ドラマ『柔』の主題歌でした。

竹脇無我主演の『姿三四郎』より後の時期だったような記憶がありますが、夕方の時間帯に、倉丘伸太郎主演の『姿三四郎』とその後番組として『柔』が、月曜から金曜まで毎日連続で放映されました。それを見たいばっかりに、中学校の授業が終わると、毎日飛ぶようにして帰っていました。
本来、竹脇無我版『姿三四郎』よりもずっと以前に放送されたこの2番組を、たぶん「再放送」だったのかも知れませんが、遅ればせながらこの時期に見ることができたのは、じつに幸運だったと思います。

美空ひばりの『柔』は大ヒットしたので、いろいろな歌番組でよく歌っていました。そのため、私は歌の方を先に知っていましたが、同名の柔道ドラマの主題歌だったことを初めて知り、ドラマを見ることで歌の持つ深い意味も理解できたように思います。
ドラマの終り時間が近づくとこの曲が流れ、期待を持たせて次回に続くわけですが、テレビ映画の劇伴音楽としても『柔』はぐっと来るものがありました。

新日本童謡集【ゆ】

『雪の進軍』[軍歌](明治28年・1895年)

映画『八甲田山』(東宝・1977年)

『雪の進軍』[軍歌]
 作詞・作曲/永井ながい建子けんし

雪の進軍 氷をふんで
どこが河やら 道さえ知れず
馬はたおれる 捨ててもおけず
此処は何処いずこぞ 皆敵の国
ままよ大胆 一服やれば
頼みすくなや 煙草たばこが二本

焼かぬ乾物ひものに はんえ飯に
なまじ生命いのちの あるのうちは
こらえきれない 寒さの焚火たきび
煙いはずだよ 生木なまきいぶ
渋い顔して 功名こうみょうばなし
すいというのは 梅干一つ

着のみ着のまま 気楽なふしど
背嚢はいのう枕に 外套がいとうかぶりゃ
せなぬくみで ゆきけかかる
夜具やぐ黍殻きびがら シッポリ濡れて
結びかねたる 露営の夢を
月は冷たく 顔のぞきこむ

命捧げて 出てきた身ゆえ
死ぬる覚悟で吶喊とっかんすれど
武運つたなく 討死うちじにせねば
義理にからめた 恤兵じゅっぺい真綿まわた
そろりそろりと くびめかかる
どうせ生かして かえさぬつも

『大東軍歌』(花の巻)

軍歌『雪の進軍』は、作詞作曲の永井ながい建子けんしが、日清にっしん戦争の威海衛いかいえいの戦いに、大山巌が総指揮する第二軍の軍楽隊員として従軍した時の実体験に基づいて作られました。『戦友』に先行した、明治の言文一致軍歌の傑作ということができると思います。
もっとも『雪の進軍』は、『戦友』のようにシリアスではなく、諧謔かいぎゃく的な表現が印象的なものとなっています。

永井建子は明治28年1月末に、清国山東しんこくさんとんしょう虎山こざんという小さな部落に、14日間も雪に埋もれて駐屯しました。この時の苦労を歌ったのが『雪の進軍』でした。実体験の裏打ちがあるだけに、描写がきわめて具体的です。

『雪の進軍』は、明治28年10月31日発行の『大東軍歌 花の巻』に掲載されました。日清戦争が終わったのが同年4月17日の日清講和条約調印によってですから、戦後6か月後という時期に当たります。

『大東軍歌 花の巻』 国立国会図書館デジタルコレクション

上に挙げたのが、『大東軍歌 花の巻の現物です。跋文ばつぶんが付いていますので、以下に書き起こしておきます。

我が第二軍が清国山東省に転戦せしは明治二八年一月の末にて、極めて寒気のはげしき時なり。かの威海衛いかいえいは二月の初旬、難なく我が手に帰せしが、劉公島には、いまだ敵の残艦たまに砲撃を試みつつあるゆえ、進むあたわず。むなしく虎山と云える寒村に十四日間、埋もれて、駐営せり。この際戦地の事とて、出放題に、例の自然生的に詠じたる物、すなわち本歌にて、ただ当時の実景を写生せしのみ。

永井建子「雪の進軍」跋文(『大東軍歌 花の巻

威海衛湾の出入り口にある劉公島には、黄海海戦で討ち漏らした清国北洋艦隊の残存艦艇がいまだに立てこもっており、たまに砲撃して来るので進むことができず、虎山という寒村に14日間、雪に埋もれて駐屯していたとあります。戦地のことなので、勝手放題に思いつくまま作ったのがこの歌だと書いています。
現地の将兵たちは好んでこの歌を歌いました。第二軍司令官の大山巌大将も愛誦し、75歳で逝去した時は、家族に命じて蓄音機で『雪の進軍』をかけさせ、この歌を聞きながら逝ったそうです。
「俗謡軍歌」とあるのは、公的に歌われるべきものではなく、私的な場で歌われる「兵隊節」のようなもの、くらいの意味を込めていると思われます。

後に昭和期になると、軍部が「勇壮でない」という理由で「どうせ生かしてかえさぬつもり」という歌詞が「どうせ生きては 還らぬ積り」と変えられます。これでは、せっかくの諧謔味が台無しです! 論理的にも辻褄つじつまが合いません。元の歌詞に戻して歌うべきだと思います。

この歌詞の「恤兵じゅっぺい真綿まわた」の意味ですが、「恤兵」とは、物やお金を兵士を慰めるために寄付することをいい、「真綿」とは恤兵品として寄付された防寒用の綿入れの衣服を意味します。つまりこの部分の歌詞は、義理ある恤兵品の防寒着が、水分を含んで激しく縮み、だんだん首を絞めつけてくる様を、討死しないことには生きて帰さぬ積りだなと、おどけて言っているわけです。これを「生きて還らぬ積り」としてしまったら、意味が通じなくなってしまいます。

「ただ当時の実景を写生せしのみ」の言葉が目に付きます。それこそが重要だと思います。
「写生」を掲げて短歌の革新運動に取り組んだ正岡子規も、日清戦争に従軍記者として参加しています。子規が「写生」ということの重要性を発見したのは日清戦争の最中だったと、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で書いています。
この「写生」というものが、明治20年代に起きた日本人の「認識の付置の転倒」によってのみ可能だったことを指摘したのは、『日本近代文学の起源』における柄谷行人でした。
西洋の遠近法を日本人が受け容れることが「近代化」の要素の一つであり、それによる空間把握の変化によって、絵画や文学における「写生」も、軍隊における正確な砲術も、可能となるわけです。

「軍歌、雪の進軍、始めーッ!」 『八甲田山』(東宝・1977年)

軍歌『雪の進軍』は、映画『八甲田山』(東宝・1977年6月18日封切)で、弘前歩兵第三十一連隊が雪中行軍を開始するシーンや、雪原を行軍するシーン、八甲田山系踏破に成功して弘前の連隊へと帰還するシーンなどで輪唱する部隊の姿が映されたことにより、これまでこの軍歌を知らなかった人々にも鮮烈な印象を残しました。

八甲田山の雪中行軍で青森第五連隊の行軍隊210名は、『雪の進軍』で歌われた以上の厳しい困難に直面します。行軍食である餅や握り飯が寒さで固く凍結してしまい、食事も満足に取れず、「気楽なふしど」どころか、背も立たないほどに降り積った雪を掘って、穴の中で立ったまま眠ることなく夜を明かしたりしています。その結果、一度は救出された6名を含む総数199名が凍死しています。

『陸奥の吹雪』[軍歌](明治35年)

次に紹介する軍歌『陸奥むつ吹雪ふぶき』は、映画『八甲田山』で描かれた青森第五連隊の雪中行軍遭難事件が主題となっています。
この軍歌は、雪中行軍遭難事件が起きたことが新聞で報じられ、まだ捜索を開始したばかりの段階で、早々と発表されたものです。

陸奥むつ吹雪ふぶき[軍歌]
 作詞/落合直文 作曲/好楽居士

1 白雪深く降りつもる 八甲田山のふもとばら
  吹くや喇叭らっぱの声までも 凍るばかりの朝風を
  物ともせずに雄々しくも 進みでたる一大隊

2 田茂木野たもぎのむらを後にして 踏み分け登る八重の坂
  雪は益々深くして そりも動かぬ夕まぐれ
  せんなくここに露営せり 人はつららの枕して

3 明くるを待ちて又更に 前へ前へと進みしが
  み空の景色もの凄く たちまち日影かき暗し
  行くも帰るも白雪の はては道さへ失ひぬ

4 雪降らば降れ我々の 勇気をここに試しみん
  風吹かば吹けさりとても 行く処まで行きてみん
  さは云へ今は道も無し 哀れ何処ぞ田代村

5 君の為には鬼神も 取りひしぐべき丈夫ますらお
  国の為には火水にも 入らば入るべき武夫もののふ
  今日の寒さは如何にせん 零度を下る十八度

6 身を切るばかり寒ければ 又も露営と定めしが
  薪木たきぎのあらぬを如何にせん 食のあらぬを如何にせん
  背嚢はいのう銃床じゅうしょうたきつれど そもまた尽きしを如何にせん

7 雪のこの夜の更けゆきて 寒さは愈々いよいよまさりたり
  こごえ凍えて手の指の 見る見る落つる者もあり
  神いまさぬかあなあはれ 命迫れりときの間に

8 居ながら死なんそれよりは 何処いずこへなりと行きて見ん
  山口少佐を始めとし 二百余人の武夫つわもの
  別れ別れて散り散りに 辿たどり行きけり雪のみち

9 ウラルの山の朝吹雪 吹かれて死ぬるものならば
  シベリア原の夜の雪 埋もれて死ぬるものならば
  えみも含みてあるべきに ああ哀れなり決死隊

10 ここの岩間の岩かげに はかなくたおれしその人を
  問ひとぶらへばなまぐさき 風いたずらに吹き荒れて
  恨みは深し白雪の 八甲田山の麓原

6番の歌詞に「背嚢はいのう銃床じゅうしょうたきつれど」とありますが、これは生存者の後藤房之助伍長の証言によるもので、火をくにも枯木を集めることができなかったため、背嚢や小銃の木製の銃床部分を燃やして暖をとったことを歌っています。
後にこれが問題にされ、「軍人の魂である銃を、いかなる苦難に遭ったとしても燃やすことはない」と証言する者も現れ、正式な遭難報告書には記録されていません。

映画『八甲田山』については、『昭和百年・新日本童謡集』の「最終回」で、もう一度取り上げる予定です。

『雪』[文部省唱歌](明治44年・1911年)

『ユキ』川上四郎/絵 『講談社の絵本 自然界のいろいろ』昭和14年、大日本雄弁会講談社

『雪』[文部省唱歌]

一 雪やこんこあられやこんこ。
   降っては降ってはずんずんつもる。
  山も野原も綿わた帽子ぼうしかぶり、
   枯木残らず花が咲く。

ニ 雪やこんこあられやこんこ。
   降っても降ってもまだ降りやまぬ。
  犬は喜びにわけまわり、
   猫は火燵こたつで丸くなる。

『尋常小学唱歌(ニ)』

子供の頃の雪の日は、橇滑そりすべりができるので楽しみだったものです。橇は、父に木製の頑丈なものを作ってもらった覚えがあります。
中学生になると、学校から少し離れた所に良いスロープのある小山があって、米の空きビニール袋を持って滑りに行きました。米の空きビニール袋は厚さがあって丈夫なので、簡易的な橇代わりに使えて、滑り心地もよくスピードも出ました。

今の時代よりも降る雪の量が多く、校庭に積った雪で雪だるまやかまくらを作って遊びました。作っている途中でかまくらが崩れて、雪の下敷きになった同級生の両足をみんなで持って、引っ張って救い出したこともありました。けっこう危険と隣り合わせで遊んでいましたが、怪我をすることもなかったのが不思議です。

『夕焼小焼』(大正8年・1919年)

『夕焼小焼』
作詞/中村雨紅 作曲/草川 信

夕焼ゆうやけ小焼こやけで 日が暮れて
山のお寺の かねがなる
お手々つないで 皆かえろう
からす一緒いっしょに 帰りましょう

子供が帰った あとからは
まるい大きな お月さま
小鳥ことりが夢を 見る頃は
空にはきらきら 金の星

『あたらしい童謡(一)』

さすがに現在では流れなくなりましたが、我が町では夕方5時になると『夕焼小焼』の曲がスピーカーから流されていました。平成の時代くらいまでは、流れていた記憶があります。
これを聞くと、放課後友だちと遊びほうけていた子供たちも、急いで家に帰らなくちゃと思うようになります。「パブロフの犬」ですね。

『唱歌・童謡ものがたり』(読売新聞文化部・1999年)によると、《都会の商店街でも過疎の山村でも、時報として童謡のメロディーを流す所が多い。夕暮れどきに流れる曲で、最も多いのは何か。記者の経験では、それは圧倒的と言っていいほど『夕焼小焼』である。》ということです。
日本中で当時は『夕焼小焼』が流されていたようですが、今も流されている所はどれぐらいあるのでしょう? 日本人の生活のリズムが、のんびりした『夕焼小焼』のリズムと合わなくなっている気がします。
夕方は一日の終わりではなく、現代では別な人生の始まりになっているのかも知れません。

『夕日』(大正10年・1921年)

『夕日』
 作詞/葛原しげる 作曲/三宅延齢

ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎんぎらぎら日が沈む

ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら日が沈む
烏よ お日を追っかけて
まっかに染まって舞って来い
ぎんぎんぎらぎら日が沈む

『白鳩』

「夕日」が沈むのは、時代や地域を越えて共有できる地球的な現象です。地上の物象は「みんなのお顔」と「烏」くらいしか描かれていないので、『夕日』という童謡は社会の変化の影響は最小限しか受けることがなく、いつまでも色あせないと思われます。

『雪山讃歌』(大正15年・1926年)

     作詞/西堀栄三郎 作曲/アメリカ民謡

大正15年(1926年)1月、京都旧制第三高等学校山岳部の創成期メンバー四人がスキー合宿に来て、群馬県嬬恋つまごい村の鹿沢かざわ温泉に泊まりました。ところが天気の急変のため吹雪で宿に閉じ込められ、ひまを持て余した彼らは、西堀栄三郎にしぼりえいざぶろうが中心になって当時愛誦していたアメリカ民謡『いとしのクレメンタイン』に、山好きな男たちの心情をこめた詩を付けました。そうして出来上がったのが『雪山讃歌』でした。

西堀栄三郎は後に、昭和32年(1958年)2月15日から約1年間、日本南極地域観測隊・第一次越冬隊の隊長として、10名の仲間、15頭の樺太犬からふとけん、1羽のカナリヤとともに、南極大陸オングル島の昭和基地で活動しました。

この南極越冬隊の快挙がなければ、『ウルトラQ』第5話「ぺギラが来た」も第14話「東京氷河期」も生まれませんでした。もちろん、タロ・ジロで有名な『南極物語』(ヘラルド・東宝、1983年7月23日封切)も、です。「南極一号」伝説などというものもありました。

『Oh My Darling, Clementine』(『いとしのクレメンタイン』)[American Folk Song]

Oh My Darling, Clementine[American Folk Song]

In a cavern, in a canyon         洞穴どうけつの中 峡谷きょうこくの奥
Excavating for a mine          四十九年組フォーティナイナーの鉱夫と
And his daughter, Clementine      その娘 クレメンタイン

Oh my darling, oh my darling      ああ いとしい ああ いとしい
Oh my darling, Clementine       ああ いとしい クレメンタイン
You are lost and gone forever      君は失われ 永遠に去ってしまった
Dreadful sorry, Clementine       とても残念だよ クレメンタイン

Light she was and like a fairy      彼女は軽やかで 妖精のよう
And her shoes were number nine    靴のサイズは九番だった
Herring boxes, without         ニシン箱のふたを外したものが
Sandals were for Clementine      クレメンタインのサンダルだった

Oh my darling, oh my darling      ああ 愛しい ああ 愛しい
Oh my darling, Clementine       ああ 愛しい クレメンタイン
You are lost and gone forever      君は失われ 永遠に去ってしまった
Dreadful sorry, Clementine       とても残念だよ クレメンタイン

Drove she ducklings to the water    毎朝きっかり九時になると
Ev’ry morning just at nine        野生の子がもたちを水辺へ連れて行き
stubbed her toe against a splinter    木のささくれにつまづいて
Fell into the foaming brine        泡立つ海へ落ちてしまった

Oh my darling, oh my darling      ああ 愛しい ああ 愛しい
Oh my darling, Clementine       ああ 愛しい クレメンタイン
You are lost and gone forever      君は失われ 永遠に去ってしまった
Dreadful sorry, Clementine       とても残念だよ クレメンタイン

Ruby lips above the water        水面みなもに浮かぶ ルビーのくちびる
Blowing bubbles, soft and fine      やさしく細かな泡を吹いていた
But, alas, I was no swimmer      けれど ああ 僕は泳げなかった
So I lost my Clementine         だから僕は クレメンタインを失ってしまった

Oh my darling, oh my darling      ああ 愛しい ああ 愛しい
Oh my darling, Clementine       ああ 愛しい クレメンタイン
You are lost and gone forever      君は失われ 永遠に去ってしまった
Dreadful sorry, Clementine       とても残念だよ クレメンタイン

How I missed her! How I missed her  どれほど恋しかったことか どれほど恋しかった
       ことか
How I missed my Clementine      どれほど恋しかったことか 僕のクレメンタイン
until I kissed her little sister       でも彼女の妹に口づけしたら
and forgot my Clementine        クレメンタインを忘れてしまった

Oh my darling, oh my darling      ああ 愛しい ああ 愛しい
Oh my darling, Clementine       ああ 愛しい クレメンタイン
You are lost and gone forever      君は失われ 永遠に去ってしまった
Dreadful sorry, Clementine       とても残念だよ クレメンタイン

この西部開拓時代に生まれたアメリカ民謡が、『雪山讃歌』の元歌になります。
歌の作者の恋人がクレメンタインという娘で、「四十九年者フォーティナイナー」の鉱夫の子供だったということです。「四十九年者フォーティナイナー」というのは、1948年にカリフォルニアで金鉱が発見され、1949年前後のゴールドラッシュ時代に一攫千金いっかくせんきんを夢見て押し寄せた人々を呼ぶ言葉です。

クレメンタインは妖精のように軽やかなのに、はいている靴は「9番」と大きめでした。なぜなら「ニシン箱のふた」だった板切れをサンダルにしたものだったからです。これはクレメンタインが貧しい生活をしていることを、アイロニカルに表現しています。

クレメンタインは毎朝、子がもたちを水辺へ連れて行っていましたが、或る日木につまづいて海に落ちてしまいました。ルビーのように真赤な唇だけが水の上に出ていて、細かな泡を吹き出しています。しかし、「僕」はカナヅチでした。そしてクレメンタインを永遠に失ってしまったのです。
「僕」はどれほどクレメンタインが恋しく、どれほど無念だったことでしょう。だけど、クレメンタインの妹にキスしたとたんに、クレメンタインのことは忘れてしまいました。

おお! いとしのクレメンタインよ! とても愛しく残念だけど、これが人生。こうやって生きていくしか、ほかに手立てがない。……ということを歌った歌でしょうね。

『いとしのクレメンタイン』は、後にジョン・フォード監督の西部劇『荒野の決闘』(1946年)の主題歌として使われて、世界的に有名になりました。これを西堀栄三郎たちは、1926年にすでに知っていたというのだから大したものです。

『雪の降るまちを』[NHK連続放送劇『えり子とともに』挿入歌](昭和26年・1951年)

     作詞/内村直也 作曲/中田喜直 歌/高 英雄

『雪の降るまちを』という歌は、中学生の頃、音楽の時間に教科書で習ったような記憶があります。それ以前に、テレビでもよく聞いていました。私にとっては、なにか「空想的」な感じのする不思議な歌でした。

私の住む町にも雪は降りますが、私の住む町とこの歌の町には、同一視することをこばむ何かがありました。この歌で歌われている「雪の降るまち」というのは、歩いて5分や10分で通過してしまうような田舎の町ではないような気がしたためです。
私の町では、思い出なんか降ってこないし、足音なんて追いかけて来ませんでした。聞こえるのは、北風の音ばかり。
音楽の時間にこの歌を歌うと、不思議な町の中を歩いているような気分になりました。

『夢は夜ひらく』三上 寛(昭和47年・1972年)

『夢は夜ひらく』
 作詞/三上 寛 作曲/曽根幸明 歌/三上 寛

七に二をたしゃ九になるが
九になりゃまだまだいい方で
四に四をたしても苦になって
夢は夜ひらく

サルトル マルクス並べても
あしたの天気はわからねえ
ヤクザ映画の看板に
夢は夜ひらく

風呂屋に続く暗い道
40円の栄光は
明日のジョーにもなれないで
夢は夜ひらく

八百屋の裏で泣いていた
子供背負った泥棒よ
キャベツひとつ盗むのに
涙はいらないぜ

四畳半のアパートで
それでも毎日やるものは
ヌード写真に飛び散った
カルピスふくことよ

赤提燈に人生論
やけに悲しくつり合うが
コップひとつの幸せを
なんで飲み終わる

生まれ故郷の小泊こどまりじゃ
今日もシケだといっている
現金書留きたといい
走る妹よ

本当に行くというのなら
この包丁で母さんを
刺してから行け行くのなら
そんな日もあった

夢は夜ひらく唄っても
ひらく夢などあるじゃなし
まして夜などくるじゃなし
夢は夜ひらく

一番の歌詞は、
72をたしゃ 9になるが
 9になりゃまだまだいい方で
 44をたしても9になって
 夢は夜ひらく」
という意味です。
同じ音同士の言葉の意味が響きあう、日本語の特性を活かした歌詞になっています。

三上 寛が彼の胸に渦巻いている激情を吐き出した言葉は、ありふれた日常をひび割れさせて、巨大な虚無が立ち現われる歌となっています。

『夢は夜ひらく』という曲は、藤圭子が1970年に『圭子の夢は夜ひらく』を大ヒットさせていたのですでに知っていましたが、声を絞り出すようにして歌う三上 寛の歌は、また格別でした。
たぶんラジオの深夜放送で聞いたのが最初だと思います。三上 寛はテレビの深夜番組『11イレブンPMピーエム』でも見た記憶がありますが、そこで歌っていたかどうかは覚えていません。

三上みかみかん。青森県小泊こどまり出身。昭和25年(1950年)生まれ。シンガー・詩人・俳優。五所川原高校在学中にガリ版刷り詩集「白い彫刻」を自費出版し、同郷の詩人寺山修司の眼にとまり「寛は詩がうまい」と言われました。高校時代から、アレン・ギンズバーグの詩集を読んだりチャーリー・パーカーのJAZZを聞いていました。松田優作は、役者仲間でした。寺山修司監督の映画『田園に死す』(ATG、1974年12月28日封切)にも、「牛」という名の村の青年役で出演していますが、『カラス』という自作の歌を歌ったりしていて、実質は「三上寛」を演じていたといっていいと思います。デビュー当時はサブ風の外観で、歌っている歌とのギャップ感が際立っていました。

『圭子の夢は夜ひらく』藤 圭子(昭和46年・1970年)

     作詞/石坂まさを 作曲/曽根幸明 歌/藤 圭子

『圭子の夢は夜ひらく』は、歌手・藤 圭子の育ての親である石坂まさをが、昭和41年(1966年)に発表された園まりの『夢は夜ひらく』を、新しく作詞し直して作られたものでした。
「十五、十六、十七と 私の人生暗かった」とか「昨日マー坊 今日トミー 明日はジョージかケン坊か」とか、ちょっとヤサぐれた感じが、当時の時代感情にピッタリはまって大ヒットしました。

藤 圭子については、すでに『1970年代狂騒曲』で書いているので、そちらをご覧ください。

『夢は夜ひらく』園 まり(昭和41年・1966年)

     作詞/中村泰士、富田清吾 採譜・補作曲/中村泰士 歌/園 まり

園 まりの『夢は夜ひらく』は、白黒時代のテレビで歌っているのをよく見た記憶があります。お色気たっぷりの「大人の歌謡曲」という位置付けだったと思います。

当時は「採譜・補作曲/中村泰士」として発表されましたが、現在は「作曲/曽根幸明」となっています。
園 まりの『夢は夜ひらく』が大ヒットしたことから、緑川アコ、梅宮辰夫、バーブ佐竹などが追随してカバー版を出しましたが、それぞれの歌の作詞者や採譜・補作曲者はみな違っていました。これらの作曲者も、現在はすべて曽根幸明とされています。
その理由については、次に述べます。

『夢は夜ひらく』[CD『鉄格子哀歌』版]

      補作詞/仲田三孝 作曲/曽根幸明 歌/麻生優子

『夢は夜ひらく』は、当時は園 まりオリジナルの歌だとばかり思っていましたが、じつはこの歌も、もともとは「鉄格子の中の歌」「壁の中の歌」でした。
仲田三孝はLP鉄格子演歌の曲目解説で、次のように書いています。

「夢は夜ひらく」というタイトルで一時競作された歌であるが、それより数年前から東海地方の刑務所の中でうたわれていた。

LP鉄格子演歌(1974年7月発売)曲目解説より

ここで仲田が指摘しているのは、『夢は夜ひらく』の元歌である『ひとりぽっちの唄』を指していると思われます。

作曲の曽根幸明は、昭和10年(1935年)、東京都世田谷で生まれました。父は東京放送交響楽団(後のNHK交響楽団)のバイオリニスト、母はピアニストでした。
アメリカ軍による東京空襲で両親とはぐれた曽根少年は、上野駅の地下道で寝起きする浮浪児となり、かっぱらいをやっては警察に突き出される常習者として有名でした。
終戦から半年後、母親と兄弟の所在が判明し、千葉県で荒れ地の開墾を手伝いながら一緒に暮らすようになります。しかし、学業には身が入らず、やがて青春無宿の道へと踏み出していきました。

当時、習志野原には帝国陸軍の騎兵旅団が置かれていましたが、敗戦によってアメリカの第1騎兵師団に接収され、GI 目当てのパンパンがうろつく紅灯街となっていました。曽根少年は乱暴狼藉を働くGIたちと対立する愚連隊に入って、盗んだダイナマイトで米軍兵舎を爆破したり、米軍の給水ポンプの巨大なプロペラを盗んで屑鉄屋に叩き売ったりしているうちに、 盗みが発覚して警察に逮捕され、ネリカン送りとなりました。

東京少年鑑別所ネリカンには9カ月ほど居ましたが、ヒマだけはたっぷりあったので、そこらへんにあったギターを手に取って、適当な詞を付けて歌っていました。そのうちに同房の仲間たちも加わって詞を作り始め、最終的には何十番にもなる長い歌が出来上がりました。

出所後は、愚連隊に逆戻り、ボクサー、ロカビリー・バンド、藤田功の芸名で歌手デビュー、レコード発売、映画出演、……落ち目となってキャバレーのドサ廻りなどをやりました。
昭和40年、再起を期してテイチク・レコードから『ひとりぽっちの唄』を発売。それはネリカンで仲間たちと作ったあの歌でした。

  お前のかァさん 何処に居る
  いいや おいらは ひとりぼっち
  冷たい雪の 降る夜に 
  淋しく死んでった

しかし、売れ行きは振るわず、生活もままならない状態がなおも続きました。
翌年、歌詞を変えて使いたいという敏腕女性ディレクターから声がかかり、中村泰士・富田清吾の作詞で発売されたのが、園まりが歌う『夢は夜ひらく』でした。
こうして人生土壇場の「満塁サヨナラホームラン」をかっ飛ばして、作曲家・曽根幸明としての新しい人生への道が開けていきました。
ここにも「浮浪児の栄光」があったわけです。

以上、この記事は『ROADSIDERS’ weekly』を参考にさせていただきました。感謝!

新日本童謡集【よ】

『宵待草』(大正2年・1913年)

宵待草よいまちぐさ
 作詞/竹久夢二 作曲/多 忠亮

まてどくらせど
こぬひとを
宵待草のやるせなさ
 こよいは月も
 でぬそうな

セノオ楽譜『宵待草』表紙 (1924年、竹久夢二画)

『宵待草』は、大正2年(1913年)、竹久夢二の 絵入り小唄集『どんたく』で発表されました。
大正6年(1917年)、宮内省雅楽部のヴァイオリン奏者・おおの 忠亮ただすけが曲をつけ、第2回「芸術座音楽会」で初演されると、翌大正7年に「セノオ楽譜」(セノオ音楽出版社刊)から竹久の表紙画で出版されて、これをきっかけに全国的なヒット曲となりました。

『ヨサホイ節』(大正13年・1924年)

『ヨサホイ節』
 作詞・作曲/不詳

一つ出たホイのヨサホイのホイ
ひとり娘とする時は ホイ
親の承諾しょうだく得にゃならぬ

二つ出たホイのヨサホイのホイ
ふたり娘とするときは ホイ
姉のほうからせにゃならぬ

三つ出たホイのヨサホイのホイ
みにくい娘とするときは ホイ
顔にハンカチせにゃならぬ

四つ出たホイのヨサホイのホイ
よその二階でするときは ホイ
音のせぬようにせにゃならぬ

五つ出たホイのヨサホイのホイ
いつもの娘とするときは ホイ
手練てれん手管てくだでせにゃならぬ

六つ出たホイのヨサホイのホイ
昔なじみとするときは ホイ
心ゆくまでせにゃならぬ

七つ出たホイのヨサホイのホイ
質屋の娘とするときは ホイ
出したり入れたりせにゃならぬ

八つ出たホイのヨサホイのホイ
八百屋の娘とするときは ホイ
かぼちゃ枕にせにゃならぬ

九つ出たホイのヨサホイのホイ
校長の娘とするときは ホイ
退学覚悟でせにゃならぬ

ォと出たホイのヨサホイのホイ
尊いお方とするときは ホイ
羽織はおりはかまでせにゃならぬ

添田知道『日本春歌考』(昭和41年、光文社)
※省略部分の復元は、ミロの責任において行いました。

寺山修司編著『日本童謡詩集』に唯一掲載されている春歌(猥歌)が『ヨサホイ節』です。

「春歌」とは何か、日によっては日本より海外からのアクセスの方が多くなっているので、ここで解説しておくと、Japan’s Erotic Nonsense Songs といったものです。「春の歌」ではありません。

寺山は《どうしても入れたいと思ったのは「お医者さんごっこ」のたびに唄った一連の春歌であった。》と書いています。
「春歌」は性を主題にしたモノローグの唄であり、

私たちは子供時代に、性の問題を男と女の合作として、ダイアローグとして習得するかわりに、きわめて未知なものの狩猟として、誰からも教わることのできないもの、として直面した。性は男の子みんなの共通の不安であり、「春歌」をうたうことは性の孤児たちのモノローグによる連帯以外の何ものでもなかった。
 だが性体験をへたあとで「二度目にあらわれてくる一連の春歌」は、まさにユーモラスな唄であり、ナンセンスな唄でもあった。こうした子供時代と成人後のあいだに断層をもつ唄は、どうしても入れたいものなのだったが、法律的に印刷公刊を禁止されているものが多いので、ここでは「ヨサホイ節」を一つだけ入れるにとどめた。もし、海賊版で『日本童謡詩集・番外版』をつくろうという御仁ごじんでもいたら、ぜひとも春歌を大量にくわえていただきたい。

寺山修司編著『日本童謡詩集』(立風書房・1992年)

私の『昭和百年・新日本童謡集』では、この寺山修司の呼びかけに応えて、選り抜きの「春歌」を数曲掲載しています。

『四丁目の犬』(大正9年・1920年)

『四丁目の犬』
 作詞/野口雨情 作曲/本居長世

一丁目いっちょうめ子供こども
け 
帰れ

二丁目の子供
泣き泣き
逃げた

四丁目の犬は
足長あしなが
犬だ

三丁目のかど
此方こっち向いて
いたぞ。

『金の船』

子供の頃から、どうも犬が苦手です。
昭和30年代はどの家も貧しく、犬を飼っているような家はまれでした。それでもたまに、玄関先に犬がいたりすると、そこには近づかないようにしたものです。あの頃の犬は、どこの家の犬もよく吠えました。
やがて日本が高度経済成長期に突入すると、そこかしこで犬を飼う家が増えて、往生しました。

よく吠えるあの四丁目の犬が三丁目の角でこっちの方を見てゐるから、一丁目の子供たちも二丁目の子供たちも吠えられないうちに急いで家にお帰んなさいといふ町中でよくあるかうした事をうたったのであります。
この童謡は最も無邪気に子供と犬とを取り合わせたところに、童心の境地があるのであります。

野口雨情『童謡と童心芸術』「四丁目の犬」内容の説明

「一丁目」「二丁目」「三丁目」などの言葉に、「都会」っぽさを感じたものです。きっかりと区画整備されていること自体が、自然発生的に集落ができた田舎にはないものでした。

「恐怖の四丁目の犬」出現! 「足長」というところが、いかにも超速で追いかけて来そうで、犬の苦手な田舎の少年には、不気味さ漂う童謡となっています。

『ヨイトマケの唄』丸山明宏(美輪明宏)(昭和39年・1964年)

     作詞・作曲・歌/丸山明宏

初めて『ヨイトマケの歌』を聞いたのがいつなのか、はっきりした記憶がありません。
ただ、「お父ちゃんのためなら、エーンヤコラ。お母ちゃんのためなら、エーンヤコラ」という言葉は、テレビのお笑い番組か漫画雑誌で、何度も聞くか読むかして知っていたような気がします。

小学生か中学生だった頃に、「ヨイトマケって何?」と母に尋ねて、「土方が土を固めるためにぼんぎり木(丸太のこと。栗原の方言。)を引っ張り上げる時に、よーいと巻けという掛け声で上げるのだ」と教えられた記憶があります。多分、その頃にはもう丸山明宏の『ヨイトマケの歌』を聞いていたのでしょう。

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