新日本童謡集【ら】
『ラバウル小唄』(昭和19年・1944年)

作詞/若杉雄三郎 作曲/島口駒夫
『ラバウル小唄』は、船乗りがビスマルク諸島のニューブリテン島東端にあるラバウルを夜に出港し、離れていく島影を見ながら、「恋しなつかし」と涙にくれる様子が歌われています。椰子の葉陰には南十字星が光っています。南十字星は、南方を舞台にした歌謡には常に出て来るアイコンです。
『ラバウル小唄』の元歌となった新田八郎の『南洋航路』は、昭和15年(1940年)に発売された流行歌です。『南洋航路』は、戦争ともラバウルとも関係のない、マドロス(船乗り)の心意気を歌った歌でした。『ラバウル小唄』は『南洋航路』の替え歌なので、作られたのはそれ以降ということになります。
『ラバウル小唄』は、一番の歌詞だけは全く独自に作られたものですが、二番と三番はほぼ元歌をそのまま使っていて、替え歌として中途半端なのが気にかかります。何か急いで作らなければならない事情でもあったのでしょうか?
全体を通して聞くと、まるでラバウルが「南洋航路」にあったかのように受け取れますが、ラバウルは「南洋航路」とは無関係です。たぶん多くの日本人は、そのことにいまだに気づいていないと思われます。
大東亜戦争以前は、南洋航路の定期船が横浜港発着で運航されており、サイパン、テニアン、ヤップ、パラオ、メナド、トラック等の島々を回っていました。ラバウルはこれらの島々よりさらに南東に位置していて、この航路には含まれていません。
大東亜戦争開戦後は、これら南洋航路の船舶はすべて軍に徴集され、軍需物資や兵員輸送に使用されました。そのためアメリカ軍の潜水艦に狙われ、ほとんど壊滅的な打撃を受けています。
長田暁二の『唄でつづる20世紀~あの歌が流れていた頃』によると、「ラバウルを撤退する時、兵士たちが涙で歌ったというこの歌」とありますが、私はそのような兵士の証言や記録を読んだことがなく、いまだに疑問符が付いたままです。
歌詞も曲調も、ほとんど「戦争」を感じさせない気軽で楽し気な唄のため、激戦だった頃のラバウルやその後の戦線から取り残されたラバウルを考えると、どうもラバウル引揚者が作ったように思えないところがあり、歌詞もしっくりこない気がします。
戦後に製作された戦争映画『さらばラバウル 最後の戦斗機』(本多猪四郎監督、東宝、1954年2月10日封切)では、ラバウル航空隊がトラック島へ移動することが決定し、その前夜の荒れた酒宴で兵隊たちが歌ったのが次のような歌でした。
〽さらばラバウルよ また来る日まで
しばし別れの 涙がうるむ
恋し珊瑚の 島々見れば
椰子の葉陰に 十字星
さすが男と あの娘が言うた
恋ゆる思いの 翼にまかせ
明日はいずこぞ 大空さして
おいら空ゆく 旅ガラス
替え歌をするなら、せめてこれぐらいまでしてほしいものです。これなら、ラバウル航空隊の隊員が歌ってもおかしくない歌詞になっていると思います。
脚本は、奥宮正武著『翼なき操縦士』や坂井三郎著『坂井三郎空戦記録』などを参考にして書かれた架空の戦記ラブロマンスのようですが、この映画版『ラバウル小唄』が、記録に基づいたものなのか、脚本家の創作なのかは確認できていません。

さらにまた長田によると、昭和19年(1944年)に日本放送協会が波岡惣一郎の歌で度々放送したことから、替え歌の歌詞が人々を惹きつけて大ヒットしたということです。それから『ラバウル小唄』と通称されるようになり、戦争が逼迫して来ると歌詞の「ラバウル」の部分をそれぞれの地名に変えて、至る所で作られて歌われたとあります。戦地でも銃後でも大流行したそうです。放送前は、曲名もないままに人々に歌われていました。
長田は、この歌は兵隊たちが替え歌して作ったとしていますが、元歌の『南洋航路』の作詞家である若杉雄三郎が報道部員として従軍した時に、兵士たちのために自ら替え歌を作ったという説や、『南洋航路』の歌手である新田八郎が軍需工場や諸部隊を慰問で歌って廻ったので、それを聞いて覚えた誰かが替え歌したという説もあるようです。
『ラバウル小唄』は、もう少し資料を集めて調べていきたいと思っている歌の一つです。
『南洋航路』新田八郎(昭和15年・1940年)
こちらが『ラバウル小唄』の元歌である『南洋航路』です。大東亜戦争開始前の昭和15年に発売されています。
「明日は赤道 椰子の島」とあり、日本から赤道直下の南洋の島へ向かって航海をする南洋航路の船乗りの心意気を歌った歌です。
新日本童謡集【り】
『旅愁』[文部省唱歌](明治40年・1907年)

『旅愁』
作詞/犬童球渓 作曲/オードウェイ
一 更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思いに、ひとりなやむ。
恋しやふるさと、なつかし父母、
夢じにたどるは、故郷の家路。
更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思いに、ひとりなやむ。
ニ 窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遥けき彼方に、こころ迷う。
恋しやふるさと、なつかし父母、
思いに浮ぶは、杜のこずえ。
窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遥けきかなたに、心まよう。
『中等教育唱歌集』
『旅愁』は、旅する者の望郷の念を歌った歌です。
「更け行く秋の夜」といい、「旅の空」といい、「わびしき思い」がいやがうえにも募らざるを得ない情景が描き出されています。
「窓うつ嵐」が困難な状況に見舞われている作者を想像させ、「夢もやぶれ」「遥けき彼方に、こころ迷う」という切羽詰まったところにいるのが伝わります。
そんな時にも作者の心に去来するのは、恋しいふるさとであり、なつかしい父母でした。
元歌は、アメリカの J・P・オードウェイ作詞作曲の『夢にも見る家庭と母』で、作詞は犬童球渓による創作、つまり、この唱歌も当時よくあった外国曲の替え歌でした。
作詞の犬童球渓は熊本県人吉市出身で、球渓という名は故郷の球磨川渓谷から取ったそうです。
熊本師範学校を卒業後、宇土郡網田小学校に勤務し、そこでの熱心な音楽教育が認められ、推薦で東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学しました。
明治38年4月、音楽学校を卒業した球渓は、旧制兵庫県立柏原中学校から招請されて音楽と国語を兼任する教師として赴任しましたが、ここで生徒たちから強烈な洗礼を受けることになります。
球渓がオルガンを弾き始めたとたんに、生徒たちは床を足で踏み鳴らしたり、机を手でバンバン叩いたりして、「西洋音楽は軟弱だ!」という声をあちこちから浴びせられました。
音楽の授業はこの年初めて取り入れられたので、生徒たちの拒絶反応が強かったのはそのせいもあったでしょう。
また、この年は日露戦争の真っ最中で、奉天会戦に帝国陸軍が勝利し、さらにロシアのバルチック艦隊が日本に向かっていて、やがて日本海海戦を迎えようとしていた時期でもあります。
日本各地では戦争勝利を祝う提灯行列が行われて、ロシアや西洋列強に対する国民感情も沸騰していました。
教師に成り立ての球渓は、まったく立往生してしまいました。
明治38年1月、一年足らずで柏原中学校を追われて去ると、球渓は新潟県立新潟高等女学校へと転任してゆきました。ここでは音楽の授業が排斥されることもなく、安穏な教師生活を送ることができました。この時期に作られたのが代表作となる『旅愁』と『故郷の廃屋』でした。
『旅愁』に歌われた流離の想いが、犬童球渓の新任教師としての躓き体験が元になっているのは、疑うことはできないと思います。
『りんごのひとりごと』(昭和15年・1940年)

歌/河村順子
『りんごのひとりごと』
作詞/竹内俊子 作曲/河村光陽
わたしは真赤な リンゴです
お国は寒い 北の国
リンゴ畑の 晴れた日に
箱につめられ 汽車ポッポ
町の市場へ 着きました
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴ かわいい ひとりごと
果物店の 小父さんに
お顔をきれいに みがかれて
みんな並んだ お店先
青いお空を 見るたびに
リンゴ畑を おもいだす
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴ かわいい ひとりごと
今頃どうして いるかしら
リンゴ畑の おじいさん
箱へリンゴを つめながら
唄をうたって いるかしら
たばこふかして いるかしら
リンゴ リンゴ リンゴ
リンゴ かわいい ひとりごと
『りんごのひとりごと』は、汽車で遠くから運ばれて来るところから始まって、果物店の店頭に並んだリンゴの想いが一人称で書かれています。
「お国は寒い 北の国」とありますが、当時は青森県がリンゴの主産地でした。現代よりもずっと高価な果物だったリンゴですが、真っ赤な色の磨き上げられてピカピカのリンゴを人々は愛しました。
昭和14年のこと、武内俊子が猩紅熱で入院しているところを見舞いに来たキングレコードの柳井尭夫ディレクターは、枕元にあったノートの中から『りんごのひとりごと』の詞を見つけました。
柳井が「これはいい、レコード化しよう」と勧めましたが、武内は、この詞が作曲家・長妻完至が見舞いに持ってきたリンゴを見て思い付いた詞を書き留めたものだったため、すぐにはうんと言わず、作曲を長妻完至にすることを条件にようやく了承しました。
しかし、柳井は、この詞は河村光陽にぴったりだ! とひらめいたため、あえて武内の希望に背く形で、レコード化を進めました。
『りんごのひとりごと』のレコードが発売されたのは、日華事変から大東亜戦争へと向かう昭和15年4月のことでした。
リンゴという果物は、日本では1870年代にセイヨウリンゴの苗木を輸入した当初から昭和15年にかけては、入院した人へお見舞いに持って行くために買う程度のもので、庶民には縁遠い高価なものでした。
リンゴは生産拡大と共に徐々に価格が低落してはいたものの、いまだに「舶来の果物」であり、贅沢な「嗜好品」扱いされていました。そのため、翌昭和16年に大東亜戦争が始まると、リンゴにも配給統制や価格統制が及んで、果物屋の店頭から姿を消すことになります。
昭和19年になると、リンゴは腹の足しにもならない「不要不急」の物資として、栽培規制やリンゴの木の整理伐採まで行われて、リンゴ農家は壊滅的な危機に瀕しました。
『りんごのひとりごと』は、そんなリンゴ栽培史上、ぎりぎりの時期に日の目を見た歌でした。大東亜戦争が開戦してしまっていたら、この歌は発表することが出来なかったかもしれません。
『リンゴの唄』並木路子(昭和20年・1945年)

作詞/サトウハチロー 作曲/万城目 正 歌/並木路子、霧島 昇
〽赤いリンゴに 口びるよせて だまってみている 青い空
やはり「真赤なリンゴ」には「青い空」がよく似合います。
『りんごのひとりごと』の本歌取りのような歌詞ですが、竹内俊子と同じようにサトウハチローもまた「リンゴの気持は よくわかる」ようです。
戦争という歴史を一回りして、歌がふたたび「リンゴ」に還って行ったことに、不思議な感慨を覚えます。
昭和20年11月の或る日、大本営発表と戦争関連のニュースや情報局によって統制された番組ばかりを放送していたラジオから、突如『リンゴの唄』が流れました。
やがてラジオをつければ『リンゴの唄』が流れ出すという日々が続くようになりました。
赤いリンゴに青い空の色彩も鮮やかなイメージが、食料もままならない日々を生きていた人々に、戦争が終わった開放感を与え、戦後最初の大ヒット流行歌となりました。
『リンゴの唄』は、GHQ検閲第一号映画とされる松竹映画『そよかぜ』(昭和20年10月10日封切)の挿入歌でした。『リンゴの唄』のレコードが発売されたのは、昭和21年1月のことです。
昭和20年8月に、詩人のサトウハチローと松竹の映画監督の佐々木康と松竹の音楽部長兼作曲家の万城目正は、三人で面白い映画を作ろうと酒を酌み交わしながら相談したそうです。万城目が「歌が歌える女優が欲しい」と言い、「SSKの並木路子はどうか」と提案したところ、二人とも異存なく、佐々木の「決めた」という一声で決定しました。しかし、この話は、8月15日の終戦によってお流れになってしまいました。
終戦後の8月21日、万城目から電話で呼び出されてハチローが行ってみると、一冊の脚本を手渡され「至急歌をつくれ」と言われました。それから数日間、家でぼんやりしていましたが、催促されて書き上げたのが、映画『そよ風』の挿入歌『リンゴの唄』でした。
サトウハチローは、『リンゴの唄』が流行ったことではなく、並木路子という新人がおどり出たことを喜んでいると言っています。
並木路子のリンゴの唄は、たしかにリンゴの唄だ。まさしく、これこそリンゴの唄だ。豊島珠江が、(可哀想にこの間死んでしまつたが、キミヨウチョウライ、サンタマリア)リンゴの唄を唄つたが、リンゴがいたみかけてゐるやうで、すツぱい味がして、どうにもいたゞけなかツた。
松田トシも唄つたが、この方は又、カサカサと汁気のないかはいたリンゴをたべてるやうで、ねがひさげにしたい気がした。
リンゴの気持は、並木路子が一番よくわかツてゐるらしい。
もう一度言ふ。僕は、リンゴの唄を書いていいことをした。それは並木路子が出て来たからだと……。
(サトウハチロー「リンゴ余談」、『占領期雑誌資料体系』大衆文化編Ⅰ、岩波書店、2008年、所収)
歌い手が歌う声には、その時代特有の緊張感というものが出ているように思います。人々を惹き付けるのは、そんな同時代的な緊張感なのではないかという気がします。平和な時代が続いた後に歌った並木路子の『リンゴの唄』には、戦後すぐの緊張感は消えてしまっています。だからどうだと言うのでなしに、歌というのはそういうものであり、それゆえにこそ「歴史の記憶」になり得るのだと思うわけです。
『リンゴの唄』が発表された当時、巷はハイパーインフレの渦中で食料不足が深刻化しており、リンゴには闇値が付いて値段が高騰していたため、庶民には容易に口にすることができない「高嶺の花」の存在となっていました。
戦争中は「不要不急の嗜好品」として生産が制限されていたリンゴでしたが、敗戦後は主食の米が不足したため、人々は代用食としてサツマイモ・ジャガイモ・大豆・トウモロコシ・コウリャン・小麦粉などのほか、お金のある人はリンゴも食べるようになりました。闇値の高い値段で取引されるのを見たリンゴ農家は、これ幸いと生産量を増やしました。
戦前の昭和15年当時、200~300万箱程度だった青森県のリンゴ生産量は、戦後の昭和23年には戦前のピークを上回る1377万箱にまで生産が回復しました。
昭和20年頃のサラリーマンの月収は100~300円程度でしたが、リンゴの値段は1個5円もしました。
当時のリンゴの値段の高さを歌った『リンゴの唄』の替え歌が伝わっています。
〽赤いリンゴの 露店の前で
黙ってみている 青い顔
リンゴの値段は 知らないけれど
リンゴのうまさは よくわかる
リンゴうまいや 高いやリンゴ
(『歌謡曲はどこへ行く? 流行歌と人々の暮らし 昭和二〇~四〇年』阿子島たけし、つくばね舎、2005年)
最後の一行は「リンゴ高いや 高いやリンゴ」と歌われることもあります。
『リンゴの唄』には幻の一番の歌詞があったことや、並木路子の凄絶な戦争体験については、以前に書いていますので、こちらからどうぞ!
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国破れて、「青い山脈」あり──歌謡曲史からひもとく戦後
新日本童謡集【る】
『流浪の旅』(大正10年・1924年)

作詞・作曲/後藤紫雲・宮島郁芳
『馬賊の唄』と同じ頃に、やはり演歌師たちによって歌い広められた歌です。
『馬賊の唄』は、当時の日本青年に支那大陸への海外雄飛の夢をかき立てるものでしたが、『流浪の旅』の方は、シベリアやジャワへと流転を重ねる、海外雄飛の夢破れた者の哀歌となっています。
〽流れ流れて、落ち行く先は 北はシベリア 南はジャバよ
ロシアのウラジオストックは、日露戦争以来、日本の影響力が強く残っていたことと日本から近かったため、仕事を求めて渡って行った日本人が多くいました。
シベリアは、ロシア政府が極東開発のため、幕末期以降、盛んに移民を募集したため、多くの日本人移民が住み着いていました。
この歌が流行った頃は、シベリア出兵で日本軍が進出していたことから、ビジネスチャンスを求めてシベリアへ渡る日本人の数もピークに達していました。
国内ではコメ価格の高騰から米騒動が起きたりして、経済的にも社会的にも不安定な時期でした。
またジャワやマレーも、日本人が大農園経営で一旗揚げたり、女性の場合はカラユキさん(海外出稼ぎの売春婦)となる者もいました。
〽果なき海の 沖の中なる 島にてもよし 永住の地欲し
一旗揚げて豊かに暮らすことよりも、どんな所でもいいから永住できる地が欲しいというのが、流浪の旅を続ける者の、究極の願いだったに違いありません。
新日本童謡集【れ】
『レインボー戦隊ロビン』『レッツ・ゴー ライダーキック』『レット・イット・ビー』……いろいろと考えてはみたのですが、いまいちしっくり来るものがなく、【れ】の項目はパスしたいと思います。
新日本童謡集【ろ】
『老人と子供のポルカ』左卜全とひまわりキティーズ(昭和46年・1970年)

作詞・作曲/早川博二 歌/左卜全とひまわりキティーズ
左卜全といえば、黒澤明監督の映画『七人の侍』(1954年、東宝)の与平が思い出されますが、当時「最高齢新人歌手」としてレコードデビューした『老人と子供のポルカ』も忘れがたいです。1970年のことです。やはり、1970年には何かがあるな。
『老人と子供のポルカ』と聞いてすぐに私が思い出すのは、寺山修司監督の実験映画『トマトケチャップ皇帝』(1971年)です。
この映画では、サイレントの映像が先に撮られて、ナレーションや音楽は後から付けられていますが、一人の老人が子どものテロリスト集団に追いかけられる、東京市街で撮影されたシーンで流された音楽が『老人と子供のポルカ』でした。
〽やめてケレ やめてケレ やめてケーレ ゲバゲバ
『トマトケチャップ皇帝』は寺山修司初めての映像作品です。制作の田中未知が作曲したカルメン・マキの『時には母のない子のように』(1969年、寺山修司作詞)で得た印税で作られた映画でした。
この時、カルメン・マキは17歳で、寺山率いる演劇実験室・天井桟敷の新人劇団員でした。『時には母のない子のように』は百六十万枚を売り上げ、1968年に創立したCBSソニーにとって、最初の大ヒット曲となりました。
『トマトケチャップ皇帝』のテーマは、大人に管理されていた子供たちが、空想のユートピアを求めて「大人狩り」を始めるという、「革命」のカリカチュアです。六十年代に熾烈をきわめた学園闘争に対する幻滅を描いたものでした。
「トマトケチャップ皇帝」というのは、子どもの革命軍を統轄する一人の子ども独裁者の称号です。革命成功後に成立したトマトケチャップ帝国の「トマトケチャップ憲法」や「バッテン法典」などが、ナレーションで読み上げられます。

この映画は、最初は二時間もある長篇でしたが、俺が編集するともっと良くなるという人が次々に現れ、徐々に削られて最終的には四十分ほどになっていました。
後にカンヌ映画祭の監督週間で上映されましたが、寺山はスピーチで「来年は失くなってしまうから、今のうちに見てくれ」と言っていました。
新日本童謡集【わ】
『若葉』[文部省唱歌](昭和17年・1942年)

『若葉』[文部省唱歌]
作詞/松永みやお 作曲/平岡均之
あざやかなみどりよ
あかるいみどりよ
鳥居をつつみ
わら屋をかくし
かおる かおる
若葉がかおる
さわやかなみどりよ
ゆたかなみどりよ
田畑をうずめ
野山をおおい
そよぐ そよぐ
若葉がそよぐ
『初等音楽(ニ)』
『若葉』が発表されたのは、大東亜戦争開戦2年目に当たる昭和17年3月です。
歌詞から戦時色は全く感じませんが、日本軍がシンガポールを陥落させたのが同年2月であり、勝ち戦続きで日本国内が勢いづいていた頃です。
若葉のみどりの鮮やかさや爽やかさを歌い上げている底には、そんな高揚した時代感情が流れているのかも知れません。
『若鷲の歌』[映画『決戦の大空へ』主題歌](昭和18年・1943年)

作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/霧島昇、波平暁男
母と一緒に歌った歌の記憶というのは、人はどんなものを持っているのでしょうか?
私の場合は、母と一緒に歌った記憶のある唯一の歌が『若鷲の歌』です。
どんなきっかけだったか忘れてしまいましたが、大東亜戦争中の話になり、農作業の応援に来ていた若い兵隊たちが、『若鷲の歌』を歌いながら縦列で行軍していたことを聞きました。母が当時を思い出しながら『若鷲の歌』を歌い始めたのに合わせて、私もいっしょに歌いました。
この時、私が話の流れから「日本は太平洋戦争でアメリカに負けた」ということを言ったら、母が「えッ!?」という顔をして、何のことか分からないようでしたので、もう一度詳しく話してやったら、
「なんでそんなにいっつも負けてばかりいるんだ!」と怒っていました。
母は、大東亜戦争のことを太平洋戦争と呼ぶのを知らなかったのです。
私がどちらも同じ戦争であることを説明してやったら、
「おらまだ大東亜戦争に負げだだけでもいいのに、太平洋戦争にも負げだがど思ったっちゃ」と言って大笑いしました。
「国民学校卒業だがら、これだもの」と自嘲していたのを覚えています。
この時、私は気が付きました。親父やお袋が戦ったのは、「大東亜戦争」であって「太平洋戦争」ではなかったのだなと。
そこを無視するようなGHQに強制された「太平洋戦争」史観では、日本人の歴史を正確にとらえることはできないと、それ以来肝に銘じました。
『若鷲の歌』についての詳細は、こちらからどうぞ!
↓ ↓ ↓
古関裕而の音楽──予科練生たちが自ら選んだ『若鷲の歌』!
『わんぱくマーチ』[TV『わんぱく砦』主題歌](昭和41年・1966年)

作詞/しょうめぐみ 作曲/吉田栄治 歌/中森孝子、あいりす児童合唱団
『わんぱくマーチ』は、朝日放送制作の子供向け時代劇『わんぱく砦』の主題歌でした。
『わんぱく砦』は1966年8月7日から1967年6月11日まで、TBS系列の放送局で放送されました。
戦国時代を舞台に、6人の孤児たちがリーダーであるたつまき竜之介をのもと、いろいろな困難に遭遇しながらも、仲間たちと力を合わせて生き抜いて行く物語です。
たつまき竜之介はブーメランの名人。
伴刀左ェ門は算盤の名人で大きなソロバンを持っており、異常に長い刀を差していて、鞘の先端が地面に着いてしまうので先端に小さな車が付いているのが傑作でした。子役時代の火野正平が演じていました。
ほかに、発明狂の学者、食いしん坊で力持ちの十杯、忍術使いのドロン、泣きべそでチビ助のベソがいます。

上の画像は、中島たをがテレビのコミカライズ漫画『わんぱく砦』を連載していた雑誌『まんがジャイアンツ』(日の丸文庫発行)1967年1月号の表紙です。この号を最後に、『わんぱく砦』の連載は終了しているようです。テレビ番組の終了に合わせたものと思われます。
伴刀左ェ門を演じた火野正平については、こちらをどうぞ。
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「わんぱく砦」が歌えない!──『にっぽん縦断 こころ旅』【追悼 火野正平・再録】
『我が良き友よ』かまやつひろし(昭和50年・1975年)

作詞・作曲/吉田拓郎 歌/かまやつひろし
かまやつひろし『我が良き友よ』は、昭和50年(1975年)2月5日発売です。
この頃私は高校三年生で、腰に手ぬぐいぶら下げて、下駄を鳴らして歩いていました。歌のまんまです。
私の高校時代についてはこちらで書いているので、よろしければどうぞ。
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わが母校「宮城県築館高等学校」のこと
『昭和百年・新日本童謡集』は、次回の【インストゥルメンタル編】で完結となります。

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