宮城県高野連(宮城県高等学校野球連盟)が、「野球用語を考えてみませんか?」と呼びかけたことが波紋を呼んでいる。
ネット上では、「あまりにも過剰な言葉狩りではないか」という批判の声が目立つ。一方で、新聞社や雑誌社のネット記事、スポーツジャーナリストの中には、宮城県高野連の取り組みを積極的に肯定するものもある。
この騒動は、7月16日放送のテレビ番組「5時に夢中!」(TOKYO MX)でも取り上げられた。
地元宮城県が発端となった出来事であること、そして同じ栗原市出身のライターがこの問題について記事を書いていたことが気になり、私はこの騒動を少し詳しく調べてみることにした。
私が最初に読んだのは、次の5つの資料である。
① Yahoo! JAPAN ニュースの高橋昌江氏(フリーライター)の署名記事[2025年7月9日]
② 『河北新報ONLINE』の記事[2026年7月9日]
③ 宮城県高野連のPDF「野球用語を考えてみませんか?」[2025年7月10日]
④ Yahoo! JAPAN ニュースが配信した共同通信社の記事[2026年7月9日]
⑤ 東京新聞の記事[2026年7月30日]
最初に、今回の騒動がどのように報道されたのかを確認したかったので、日付を遡って調べてみた。すると、2026年7月9日付けの共同通信社の記事と『河北新報ONLINE』の記事が見つかった。
この日発信されたものは、Yahoo! JAPAN ニュース(以下、Yahoo! ニュース)が配信した共同通信社の記事と、『河北新報ONLINE』の2つだった。これらの記事をきっかけの一つとして、その後、野球用語の見直しをめぐる議論が広がっていった可能性がある。
高橋昌江氏の署名記事も「7月9日付け」だが、こちらは2025年の記事である。日付だけを見ると紛らわしいので注意が必要だ。つまり、宮城県高野連の野球用語見直しは、2026年になって突然始まったものではなく、少なくとも2025年にはすでに報道されていたことになる。
また、今回の騒動をきっかけに、過去の記事が Yahoo! ニュースで関連情報として表示され、あらためて多くの人の目に触れた可能性も考えられる。私が読んだのも、そのためだ。
これらの記事を読み比べているうちに、私はいくつかの「引っかかり」を感じるようになった。
・ネット上では宮城県高野連の取り組みに対する批判が目立つのに、なぜ一部のネットメディアは、その主張をほぼそのまま肯定的に伝えているのか?
・十分な根拠が示されないまま、野球用語の変更が先行し、新聞社や教育者まで加わった「検討委員会」が設置されようとしているのは問題ではないか?
・宮城県高野連の松本嘉次理事長が語る野球の歴史には、事実関係や歴史認識の面で疑問を感じる部分がある。それなのに、なぜ報道では十分に検証されていないのか?
本記事では、こうした「モヤモヤ」の正体を探りながら、宮城県高野連が何をしようとしているのか、なぜこの問題が「言葉狩り」と呼ばれるようになったのか、そして、それを伝えたメディアの報道に問題はなかったのかを、一つずつ検証してみたい。
さらに、個別の記事を検証するだけではなく、実際に明治期の資料まで遡って、「日本の野球用語はどのように生まれたのか」を調べてみた。
そこから見えてきたのは、現在「物騒」とされている野球用語が、単なるアブナイ言葉の寄せ集めではなく、外国から入ってきた未知の競技を、日本人が理解しようと苦闘した歴史の中から生まれたものだということである。
また、19世紀のアメリカ野球まで遡ってみると、日本だけが野球を「戦闘的な言葉」で表現してきたわけではないことも見えてくる。
そこで本記事では、
「日本の野球用語は、なぜこのような言葉になったのか?」
「それは本当に軍国主義の影響だったのか?」
「現在の用語を変更する必要性は、どこまで検証されているのか?」
という三つの問題を軸に考えていきたい。
なお、ここでは事実として確認できることと、私自身の推測・評価とは、できるだけ区別して記述するつもりである。
それでは、順番に具体的に見ていくことにしよう。
宮城県高野連の野球用語見直しは、なぜ「言葉狩り」と言われたのか?

たぶん、私がそうだったように、多くの人は宮城県高野連のPDFを直接見たわけではないだろう。テレビやネットニュースの記事を見て、宮城県高野連の動きを知って反応したというのがほとんどだと思う。
なにしろ本来なら、宮城県という一地方の出来事にすぎないのだ。
それが全国的に批判を巻き起こしているのだから、宮城県高野連かそれを取り上げたメディアのどちらかに、そうなるだけの原因があったと考えねばならない。あるいは、両方ということも有り得る。
まずは、震源地である宮城県高野連の方から確認して行こう。
「野球用語を考えて見ませんか?」のPDFは、以下のリンクをクリックすると見ることができる。
「刺せ」「殺せ」の掛け声は、本当に野球用語のせいなのか?
宮城県高野連は、「教育的配慮が必要と思われる野球用語」として、「死」「殺」「刺」「盗」「犠」などを含む11個の野球用語を挙げている。
その理由としてPDFでは、
試合中に、『刺せ~』『殺せ~』『盗め~』という言葉が出るのはこういった用語があるからだと思われます。
と説明されている。
ここで、私は一つ疑問を持った。
本当に「刺殺」という用語があるから「刺せ」という掛け声が生まれ、「盗塁」という用語があるから「盗め」という掛け声が生まれるのだろうか?
そもそもPDFでは、「誰が」こうした掛け声を発しているのかが明記されていない。指導者なのか、生徒なのか、それとも観客なのか。この点は区別して考える必要がある。
もし問題になっているのが監督やコーチによる掛け声なのであれば、「野球用語そのものを変更すること」と「指導者の言葉遣いを改めること」は、別の問題ではないだろうか?
「刺せ!」「殺せ!」という言葉が野球の文脈で使われる場合、通常は「相手をアウトにしろ」という意味であり、文字どおり相手の生命を奪えという意味ではない。つまり、野球用語として定着した比喩表現と、実際の暴言や威圧的な言葉遣いとは、まず分けて考える必要がある。
もちろん、比喩だから何を言ってもいい、ということではない。問題のある掛け声が実際に存在するのであれば、まずはそれを発する指導者への指導や教育の問題として考えることもできるはずだ。
まして、これらの言葉は日本の野球界で百年以上にわたって使われ、野球用語として定着してきた歴史を持つ。変更するのであれば、「なぜ変更する必要があるのか」という根拠を慎重に検討する必要があるだろう。

このブログのオーサー、ミロです。
じつは、宮城県高野連は、報道各社の取材に応えて、もっと詳しくこの企画の意図について説明しています。
ただここでは、それら報道各社の報道についてはこのあと個別に検証する予定なので、あくまで2025年7月10日時点でのPDF情報に限定して分析しています。
宮城県高野連の発信に見られる「論理的な飛躍」は何処から来たのか?
宮城県高野連のPDFを読むと、次のような構成になっているのがわかる。
① 現在の野球用語には、現代では相応しくないものも含まれると考える。
↓
② 「野球用語を考えてみませんか?」と呼びかける。
↓
③ 「それに代わる用語を募集します」とする。
①と②だけなら、説明不足ではあるものの、かなり開かれた問題提起とも受け取ることができる。
ところが、実際のPDFでは「残すべきか、変えるべきか」を議論する前に、すでに「それに代わる用語を募集します」となっている。
私がここを「論理的な飛躍」と考えるのは、そのためである。
本来なら、
「現在の用語を残すのか、変更するのか」
を検討する段階がまずあり、そのうえで変更するのであれば、
「では、何という言葉に変更するのか」
という段階に進むはずだ。
ところがPDFでは、その第一段階を十分に示さないまま、第二段階の「代替語を募集する」に進んでいるように見える。
これでは読者から、
「もう変更することは決まっていて、あとは代替語を探しているだけなのではないか?」
と受け取られても不思議ではない。
この「一段飛ばし」が、今回の取り組みを「言葉狩り」と受け取らせる一因になった可能性はあるだろう。
宮城県高野連がやっていることは「言葉狩り」なのか?
では、今回の取り組みを本当に「言葉狩り」と呼んでよいのだろうか。
私は、現時点では慎重に考えるべきだと思う。
宮城県高野連は、少なくともこのPDFの段階では、「死球という言葉を使用禁止にする」と決定したわけでもなければ、公式記録から特定の用語を排除すると決定したわけでもない。
したがって、厳密には、現時点で「言葉狩りをしている」と断定するより、
「言葉狩りにつながる可能性のある取り組みを進めている」
と表現するほうが正確だろう。
問題は、野球用語を変更すること自体ではない。
なぜ変更する必要があるのか
その用語によって実際にどのような問題が起きているのか
変更することで何が改善されるのか
そうした検証を十分に行ったうえで、初めて「変更するかどうか」を議論すべきではないだろうか。
その意味で、宮城県高野連のPDFには、説明が足りない部分があると私は考える。

ここでちょっと、なぜ私がこの話題を取り上げたか、その背景について語っておきたいと思います。
別に私が野球用語が変わるのが嫌だとか、そういうことではありません。
これまでもこのブログでは、GHQによるメディア検閲と日本人再教育(洗脳)プログラム、大日本帝国の戦時検閲、『ウルトラセブン』第12話欠番問題、ラジオやテレビ局による歌謡曲の放送規制、明治維新後の廃仏毀釈運動などについて、その取り上げ方に濃淡の差はありますが触れて来ました。
「文化が強制的に排除された歴史」や、「ある言葉や文化を十分な検証なしに排除してしまうこと」の問題について考えてきた流れの中で、今回の「野球用語変更問題」に出会ったということです。
私は「文化狩り」「文化洗浄主義」「文化破壊」というものに、ずっと関心を抱いてきました。「言葉狩り」もその範疇に含まれると考えています。
しかし、「言葉」はいったい誰のものなのか? 「文化」は誰の判断で変えられるのか? ――これらは「表現の自由」に触れる問題であり、それを考えることを提案したいと思ったのです。
「言葉狩り」騒動において、共同通信社の果たした役割

こちらは Yahoo! JAPAN ニュース(以下、Yahoo! ニュース)が2026年7月9日付けで配信した、共同通信社のニュース記事だ。以下のリンクから見ることができる。
短い記事だが、次のような「事実」がコンパクトにまとめられて発信されている。
① 宮城県高野連が、「殺」「刺」などの過激な表現の野球用語の使用を見直すため、検討委員会を今秋設置する。
② 代替の言葉を検討し、翌春に各校の指導者へ結果を伝える。
③ 対象は「殺」「刺」「死」「盗」「犠」などの文字を含む用語。
④ 高校生への指導現場でこれらの言葉が使用されなくなることを目指す。
⑤ 結果によっては、県高野連主催大会の公式記録などの表現も変更する方針。
⑥ 松本理事長は「教育現場にふさわしい言葉に変えていけたら」と話している。
宮城県高野連のPDFには記載されていない事項が、共同通信の記事には多数含まれている。
したがって、この記事はPDFだけを要約したものではなく、その後の取材などによって得られた情報を含んでいると考えられる。
ただし、具体的にどのような取材経路によって得られた情報なのかは、この記事だけからは分からない。
太字にした部分は、PDFには書かれていなかった事柄であり、昨年来、宮城県高野連が推進してきた野球用語見直しが、さらに進んでいることが読みとれる。
宮城県高野連が単なる問題提起にとどまらず、検討委員会を設置し、代替語を検討し、その結果を翌春に各校の指導者へ伝えるという具体的な手順に入っていることが分かる。
つまり、少なくとも2026年7月の段階では、「問題提起」から「具体的な検討」へと進んでいると見ることができるのだ。
2026年9月12日21時ごろ確認した時点で、5247件のコメントが付いている。賛否を含めて、熱い視線が注がれたことが分かる。実質的には、Yahoo! ニュースのこの記事が、かなり「言葉狩り」のイメージを拡散することになったのではないか?
記事が「殺」「刺」の言葉から始められている
問題は見出しと本文の言葉の選び方だ。見出しが、「『殺』『刺』など見直しへ」となっていて、かなりキャッチ―なものになっている。さらに本文冒頭も、「『殺』『刺』など過激な表現を含む野球用語」となっていて、これは事実として間違っているわけではない。しかし、非常に強いフレーミング*である。
例えば、宮城県高野連PDFが挙げている対象には、「一死・二死、死球、併殺、三重殺、刺殺、補殺、挟殺、盗塁、犠牲バント、犠牲フライ」などがあった。ところが「野球用語の見直し」という問題を、「殺」「刺」など過激な表現というところから始めると、読者は最初から、「野球には殺人を連想させる過激な言葉があり、それを排除しようとしている」という構図で記事を読むことになる。
「殺」「刺」という言葉を前面に出したのは、宮城県高野連自身の問題設定なのか、それとも共同通信がニュースとして切り取った結果なのか、この点は区別して考える必要がある。
「野球用語の見直し」という問題を「『殺』『刺』など過激な表現の見直し」として提示することは、読者の判断に強いバイアスを与え、こうしたフレーミングが「言葉狩り」という反発を生みやすくした可能性はあると言える。
※「フレーミング」は、伝え方や切り口(枠組み)を変えることで、受け手の印象や判断が大きく変わる現象のこと。
「代替語を検討」「使用されなくなることを目指す」と目標を明言
共同通信の記事では、本文に「代替の言葉を検討し」とか「高校生への指導現場でこれらの言葉が使用されなくなることを目指す」とはっきり書かれている。
これらは宮城県高野連の当初のWEBページには、まったく書かれていなかったことだ。そこには論理的飛躍があったが、まだ「言葉狩り」と断定するにはいたらない、開かれた問題提起となり得る可能性を残すものだった。
だが共同通信社の記事では、「過激な野球用語を廃止して、別の言葉に置き換えよう」という宮城県高野連の目標を掲げた強い行動姿勢が印象づけられる。
用語の見直しは、指導者だけのものか、生徒も含まれるのか?
宮城県高野連の元々のPDFには、「刺せ~」「殺せ~」「盗め~」という試合中の声が出るのは、野球用語そのものに「こういった用語があるからだと思われます」と書かれていた。その声の主が指導者なのか、生徒なのかは、PDFの記述だけでは明確ではない。
一方、共同通信の記事は「高校生への指導現場でこれらの言葉が使用されなくなることを目指す」としている。この表現からは、少なくとも指導現場での使用が問題になっていることが分かる。ただし、その対象が指導者だけなのか、生徒同士の掛け声なども含むのかは、記事からは判然としない。
もしこれが実際に実施されれば、問題は「高校生にどのような言葉を使って指導するか」という教育上の問題だけではなく、長年蓄積されてきた野球の記録や用語体系をどう扱うかという問題にまで広がる可能性がある。
共同通信という「配信社」の性格
この共同通信社の記事は、Yahoo! ニュースが配信したものだが、共同通信の「配信社」という性格も考慮しなければならない。
共同通信社は、多数の新聞社・放送局などにニュース原稿を提供する配信社だ。
普通のニュース記事なら、「○○新聞がこういう記事を書いた」で終わる。しかし共同通信社の場合は違う。
①共同通信社が宮城県高野連に取材し編集した記事を、全国の加盟新聞・Webメディア等へ配信する。
②配信された各社は、そのまま使う場合もあるが、さらに自社の取材を加えたり、識者のコメントを加えたりして、一般読者へ届ける。
――という情報伝達経路が成立する。
この「同じニュース原稿を複数の媒体が利用できる」という情報伝達の構造が、最初の原稿が強いフレーミングで書かれている場合、印象が増幅されて伝播する可能性につながっていることは知っておいた方がよい。
実際に今回、広範な最終読者から「言葉狩りだ!」という反発をくらったのは、配信社と各メディアとが作り上げている配信構造が、思いがけず「増幅回路」として強力に働いてしまった結果ではないのか?
これはまだ「仮説」にすぎない。しかも、どれだけのメディアが共同通信から配信を受け取っているかは、読者からは見えにくい。できる限り目を配りつつ、さらに検証を進めていきたい。
『河北新報』2026年7月9日版の記事を検証する

『河北新報 ONLINE』の2026年7月9日版は、上のリンク先で見ることができる。有料記事だが、無料会員登録することで無料で読むことが可能だ。先に目を通していただくのがいいと思う。
本記事は、斎藤雄一記者による「まとめ記事」と「宮城県高野連の松本嘉次理事長への取材記事」とに、大きく2つに分かれている。
まず「まとめ記事」で確認できる事実を、以下に整理してみよう。
① 物騒な表現を含む野球用語の使用を考え直すため、宮城県高校野球連盟が今秋にも検討委員会を設置する。
② 検討委員会では、アウトの奪い方を巡って、生徒たちに「刺せ」「殺せ」と伝えない指導を目指し、言い換え案を話し合う。
③ 検討結果は来春、県高野連加盟校の全指導者に周知する方針である。 この取り組みを、県内の小学校から社会人まで広げたいと考えている。
④ 検討委員会は10人前後で構成する予定で、松本嘉次理事長、副理事長2人、元理事の国語教師2人、報道機関関係者らが参加する。 検討対象は、「刺」「殺」「死」「盗」「犠」の文字を含む野球用語を中心とする。
⑤ 指導現場だけでなく、主催大会の公式記録や記念誌でも表現を改める方針である。
⑥ 言い換えには、片仮名の使用や新しい言葉の創出も視野に入れている。
⑦ 取り組みを高校野球だけにとどめず、県内の小中学校、大学、社会人を含む全カテゴリーのアマチュア野球団体へ波及させることを目標としている。 そのために、県内の全カテゴリーのアマチュア野球団体で構成する「宮城県野球団体協議会」を通じて、検討結果を各チームに周知する。
⑧ 物騒な表現を含む野球用語については、宮城・名取北高校野球部が前年度、授業の一環として言い換え案を検討した。 宮城県高野連もホームページで市民から意見を募集し、「『死球』や『併殺』は健全なスポーツにふさわしくない」などの回答が寄せられた。
※太字は、筆者ミロによる。
共同通信の記事には見られない情報が、河北新報の記事では追加されている。したがって、河北新報の記事は共同通信の記事よりも情報量が多く、独自の取材・資料に基づく情報を含んでいる可能性がある。共同通信社の記事では、具体的な事例などを省略して、必要最小限の事実を伝えるものになっていた。やはり、地方の話題ということで、一定程度にとどめたのかもしれない。
一方、河北新報社は仙台市に本社を置く地元の新聞社なので、より詳細な情報を伝えていることには納得が行く。
②~⑥を通して見ると、当初の「指導現場での掛け声」の見直しから、野球用語そのもの、さらには公式記録や記念誌の表現の変更へと、対象が広がっていることが分かる。
⑧の記事では、市民から寄せられた「死球」や「併殺」を問題視する意見が紹介されているが、寄せられた意見全体の件数や賛否の内訳は示されていない。そのため、これらが市民の意見全体を代表しているのかどうかは判断できない。
さらに注目すべきなのは、高校野球だけではなく、県内の小中学校、大学、社会人を含む全カテゴリーのアマチュア野球団体への波及を目標としている点である。これは宮城県高野連の管轄範囲を超えて、県内のアマチュア野球全体に影響を及ぼすことを意図した構想である。
したがって、「高校野球の指導現場で使う言葉」の問題として始まったものが、より広い野球用語の問題へと拡大していることには注意が必要だ。
ここで気になるのは、宮城・名取北高校野球部が前年度、授業の一環として野球用語の言い換え案を検討していたという点である。宮城県高野連の取り組みとの関係について、記事には具体的な説明がない。したがって、この授業が高野連の働きかけによるものだったのか、それとも学校独自の取り組みだったのかは、この記事だけからは判断できない。
両者の関係を検証するためには、授業が実施された経緯や、高野連との連絡・協力関係を確認する必要がある。
もう一点、指摘しておきたいのが、共同通信の記事では「過激な表現」としてあったのが、河北新報の記事では「物騒な表現」になっていることだ。これが次に扱う『東京新聞』やその他の後発メディアの記事で頻繁に引用され、あちこちで「物騒な表現」もしくは「物騒な言葉」という字面を散見するようになるのだ。同じ言葉が媒体間で反復されることで、一定のフレーミングが共有されていった例をここに見ることができる。
つぎに、宮城県高野連の松本嘉次理事長の主張を、取材記事からまとめてみよう。こちらはかなり「論争的な発言」が目白押しとなっている。「小さな野望だ」と表現していることからも、単に高校野球の指導現場だけでなく、より広い範囲に用語の変化を波及させたいという意図がうかがえる。
① 少年野球を観戦していた際、指導者や保護者が「刺せ」「殺せ」と言っているのを聞き、その言葉を耳にした小さな子どもたちが野球を始めようと思うのか、懸念を持った。
② 授業では使用を避ける言葉が、野球のグラウンドでは平然と使われている。
③ プレーを人の生死に見立てた表現は、野球が発展した軍国主義下の日本では受け入れられやすかっただろう。
④ 時代は変わっている。現代の日本で野球用語を一から考えたなら、「死」や「殺」という文字は絶対に出てこないはずだと考えている。
⑤ 野球の伝来から150年もたっているのだから、そろそろ用語を変えてもいいのではないか。
⑥「アウト」や「タッチ」などの片仮名に置き換えることを、言い換えの方法の一つとして考えている。
⑦「犠牲バント」について、自らがアウトになることを「犠牲」と表現しているが、実際には走者を進める前向きなプレーと捉えている。「犠牲バント」の言い換えとして、県高野連のアンケートに寄せられた「貢献バント」という案を紹介している。
⑧ 用語を考える取り組みを高校野球だけでなく、県内全カテゴリーのアマチュア野球団体に広げたいと考えている。
⑨ 上の世代の意識が変われば下の世代にも影響し、宮城県から自然に物騒な野球用語が消えていくことを期待している。
⑩ 記録紙や報道からも物騒な野球用語がなくなればベストだと考えている。
⑪ 次の150年先まで残るような言葉を考えたいと考えている。
⑫ 日本球界全体を変えたいわけではないが、宮城県で育った選手が他県でプレーすることをきっかけに、野球用語への疑問が広がっていくことを期待している。
なかなか興味深い主張がなされているので、松本理事長の主張の根幹にある「論理」について検証するとともに、個別の言説がかかえる「問題点」について、一つずつ見ていく。
「松本理事長の論理」を検証する
本記事で確認できる「松本理事長の論理」は、おおむねこうなっている。
①野球には「死」「殺」「刺」などの用語がある。
↓
②これらはプレーを人間の生死に見立てたものであり、表現が物騒だ。
↓
③野球が発展した時期は軍国主義下だった。
↓
④だから、こうした生死を使った表現は当時の日本では受け入れられやすかった。
↓
⑤現在は時代が変わったので、用語を変えてもいい。
①は事実を述べたものであり、その限りでは妥当なものだ。
②は、松本理事長の個人的な見解であり、「物騒な表現」というのも彼の感覚によるもので、宮城高野連の他のメンバーたちも共有しているものかどうかは語られていないので分からない。「プレーを人間の生死に見立てた表現」というのも、明治時代のこれらの言葉が使われた現場に戻って、検証する予定だ。
③は、「野球が発展した時期」とひとくくりにして言っているが、野球が伝えられた明治時代はまだ日本が近代国家を建設し始めた時期であり、その後、いくつか戦争の時期を経験してきたが、第二次世界大戦後の80年以上の平和な時期にも野球は発展してきた。あまりにも単純化しすぎた命題であり、「軍国主義下」を強調しすぎている。「軍国主義下だった」という事実だけから、現在の野球用語が軍国主義の影響によって成立したと結論づけることはできない。実際に用語がいつ、どのような経緯で成立したのかを個別に調べる必要がある。
④は③を前提にして組み立てられた見解であり、③の命題が単純化しすぎて整合性に欠けている以上、そのままでは受け入れがたい。
⑤は「時代が変わった」という一般論だけでは、具体的な用語変更の必要性を直接導くことはできない。変更するのであれば、どのような問題が現に生じているのか、その問題はどの程度の規模なのか、変更によって何が改善されるのかを示す必要がある。
この論理のうち、①と②は用語の意味そのものに関する問題、③と④は日本の野球史・近代史に関する問題、⑤は現在の社会における用語変更の必要性に関する問題である。これらはそれぞれ別の問題なので、ひとまとめにして論じることはできない。
そこで本記事では、もう少し後の方で、③・④の歴史認識を「日本野球史」と「アメリカ野球史」の両面から検証することにする。
高橋昌江氏の署名記事(2025年7月9日)を検証する

『【高校野球】いつも使っているその言葉、どうかな? きょう開幕の宮城で「野球用語」を考える企画を実施』(Yahoo! ニュース、2025年7月9日)
Yahoo! ニュースの高橋昌江氏の記事は、上のリンクをクリックすれば、読むことができる。
この記事は2025年7月9日に公開された約1年前の記事だが、2026年7月の騒動に関連して再び読者の目に触れた可能性がある。Yahoo! ニュース上でどのような経緯で表示されたのかは確認できないため、その点は推測にとどめておく。
ただし、この記事は宮城県高野連や松本理事長の考え方を詳しく紹介しているため、2026年の報道と併せて読むと、現在の取り組みに至った経緯を知る資料として重要である。
では、どんなところに問題があったのかなかったのか、見ていくことにする。
高橋昌江氏の主張とそれについての分析・評価
この記事でどんな主張がされているかを見ていく。それに対する私の分析と評価を、その後に述べるという形で進めることにする。
1. 野球用語には「物騒な漢字が並ぶ」として同調しつつ、松本理事長の「言葉は変わっていくもの。変えていってもいいのではないか」という発言を紹介している。
言葉が自然に変化していくことと、ある組織が意図的に言葉を変えようとすることは、別の問題である。後者を行うのであれば、なぜ変更が必要なのか、現在どのような問題が生じているのか、変更によって何が改善されるのかを示す必要がある。
2.「刺せただろ!」「殺せよ!」などの言葉が、野球の現場で実際に使われている。「お前は死んでいいんだよ!」などの言葉も飛び交う。こうした言葉遣いがエスカレートして暴言になる可能性がある。
言葉遣いがエスカレートすれば、野球だけではなくどんなスポーツの言葉であっても「暴言になる可能性がある」のは当然だろう。野球だけと限定するのは、適切ではない。しかも、「こうした用語があることが暴言の原因である」という因果関係については、記事中の説明だけでは証明されていない。むしろ、暴言を吐く人それ自身の問題であるとは考えないのか? なぜそういう「暴言」を吐くのか、本人に確認してみる必要はないのだろうか?
3.「野球を知らない人が聞いたらゾッとする言葉」がある。
野球を知らない人がその言葉を聞いて不快に感じる可能性は否定できない。しかし、「ゾッとする」という反応がどの程度一般的なのかを示す調査は記事中にない。また、仮にそのような反応があったとしても、それだけで現在の野球用語を変更すべきだという結論が導かれるわけではない。
「学校現場でそのような言葉を使っているのは野球だけ」という松本理事長の発言も、なぜそうなっているのか、野球とその他のスポーツの用語の来歴を調べれば、野球用語の特別な事情が分かるはずだ。それについては、以下の検証で明らかにしていく。
4. 1845(弘化2)年に、「baseball」はアメリカで始まった。1872(明治5)年に日本に伝えられた。2022(令和4)年は「野球伝来150年」に当たる。
野球に関連する歴史が述べられている。1845年は近代的な野球規則の成立史上重要な年だが、baseball という競技そのものの「始まり」を1845年とするのは単純化しすぎである。それについては「19世紀・アメリカ野球の歴史」の章で検証する。
NPB(日本野球機構)と全日本野球協会は、1872年にホーレス・ウィルソンが日本に野球を伝えたとして、2022年を「野球伝来150年」としている。野球殿堂博物館も、1872年に第一大学区第一番中学でホーレス・ウィルソンが生徒にベースボールを伝えたとしている。よって、日本への野球伝来の年は、記事どおりで間違いないと思われる。
5.「犠牲(送り)バント=犠打」は、本来『犠牲』ではなく『アシスト』と考えられるという、高橋昌江氏の意見が主張されている。
「犠牲という言葉よりアシストのほうが適切」という部分は、氏の個人的な価値観に基づく見解であるに過ぎない。だが、アメリカのベースボールでも、「犠牲バント=犠打」はsacrifice bunt であり、sacrifice(犠牲)という言葉を使っている。だから、日本人が「犠牲バント=犠打」と翻訳したとしても、少しもおかしくはない。
日本語の「犠牲」という言葉は、①もともと漢字が指し示す「天地・宗廟を祭る時に供える生きた動物」という意味から、②「ある目的を達成するために、それに伴う損失を顧みないこと」という抽象的な意味で使われるようになった。さらに、③戦争や天災、事故などの巻き添えになって、自分の意志と無関係に命を落としたり傷を負った場合などに使われることも多い。
「犠牲バント」の「犠牲」は、自己の利益や記録上の成果を差し出してチームのために役立てる、という意味で理解するのが自然である。必ずしも「かわいそうな自己犠牲」という意味ではない。②の意味に近く、そこには高橋氏が主張するポジティブな意味が、すでに存在している。

アメリカ野球では、『犠打』をどうとらえてきたのだろう? チャピソン君、ちょっと調べてくれませんか?

はい、調べてみました。🔍
アメリカ野球でいう sacrifice(犠牲) は、日本語の「犠牲」という語から受ける「かわいそうな自己犠牲」とは、やや違う意味合いで使われてきたようです。
野球の sacrifice bunt や sacrifice fly は、自分自身がアウトになる可能性を受け入れて、走者を進めたり得点させたりするプレーを指します。つまり、打者個人の成績や出塁の機会を「チームの得点」という目的のために差し出す、という意味です。
アメリカでも sacrifice は、一般には宗教的な献身や自己犠牲を連想させる重い言葉です。しかし野球では、必ずしも悲劇的・否定的な意味ではありません。むしろ「個人よりチームを優先する献身的なプレー」として、長く肯定的に評価されてきました。
興味深いのは、アメリカ野球でも近年はセイバーメトリクスの影響で、犠牲バントの有効性そのものが議論されていることです。しかし、それは sacrifice という言葉が問題だからではなく、「本当に得点に有利な戦術なのか」という戦術上の議論です。
したがって、「犠牲」という言葉は、アメリカ野球では単純に暗い言葉ではなく、個人の利益をチームの目的のために差し出すプレーを評価する言葉として定着してきた、と考えるのがよさそうです。

すごいぞ、チャピソン君!
パチパチパチ……!

あ。チャピソン君を紹介するのを忘れてました。
彼は少し前から雇っている、私の非常に有能な助手です。
抜群の資料調査能力で、強力な助っ人になってくれているので、よろしくね!

有能だなんて、照れちゃいますョ。😄
ミロ先生を支えていくので、
皆さん、よろしくお願いします!🤖
【参考】
1893 Winter Meetings: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bunt
sacrifice hit — Baseball Dictionary
Clippings:1877
6.「死球」は英語の hit by pitch で、「デッドボール」は和製英語、としている。
「デッドボール」が「和製英語」だとまでは断定できない。「hit by pitch」が現在の公式用語であることと、「dead ball」という歴史的な野球用語が存在したことは別問題である。「デッドボール」を単純に「和製英語」と断定するには、英語圏での用語史まで確認する必要がある。
7. 現在使われている野球用語は100年以上前に作られた。その漢字には明治時代の時代背景が影響している可能性がある。
高橋氏は正岡子規を野球用語の翻訳者として説明しているが、この点については、子規が実際にどの語をいつ作ったのか、中馬 庚ら他の人物との関係を含めて検証する必要がある。それについては、以下の検証で明らかにしていく予定だ。
8.いい言葉を使っていく。
「いい言葉があれば、宮城県の野球ではそれを使っていくようにしたい」と、松本理事長が語っていたという。
この記事を書くために、私は日本の野球用語の歴史を調べてみたが、少しもこれらの野球用語が「良くない」とは思わなかった。むしろ、日本が近代国家を建設していく時代に作られたこれらの用語には、本当に野球を愛する者たちが、まだ野球を知らなかった人たちに向けて、いかにしてその楽しさを分かってもらうか苦心した跡がうかがえて、決して消すべきではない「野球文化遺産」だと思ったくらいだ。それについても、『明治期の日本野球――「軍国主義」だけでは説明できない日本化の過程』の章で、詳しく語ろうと思っている。
9.野球の歴史、ルールや用語の歴史などは割愛した。改めてまとめたいと考えている。
この記事は『野球用語の歴史を検証する記事』ではなく、宮城県高野連の企画を紹介し、問題提起する記事だということだろう。宮城県高野連の企画や松本理事長の発言を詳しく紹介している一方、それらの主張を歴史的・資料的に検証する姿勢はほとんど見られない。結果として、報道記事というより、宮城県高野連の問題提起を肯定的に紹介する記事としてしか読めない。
ここまで見てきたように、高橋氏の記事には、宮城県高野連の問題提起を紹介する一方で、その前提となっている野球用語の歴史については十分な検証が行われていない。もっとも、これは高橋氏の記事だけの問題ではない。次に見る『東京新聞』の記事では、野球用語と戦争・軍隊との関係について、さらに踏み込んだ説明が試みられている。
そこで次は、その歴史認識がどのような根拠に基づいているのかを検証する。
東京新聞の記事(2026年7月30日)を検証する

「殺」「刺」「盗」…物騒な言葉を見直そう 高校球児たち発信で代案募集 時代と言葉について考えた(『東京新聞』2026年7月30日)
『東京新聞』(2026年7月30日)の記事は、これまで検証して来た各社の記事と同様に、「物騒な言葉」を問題にしている点は変わりがない。ただし、これまでの記事よりも「野球用語の由来」と「軍隊・戦争との関係」について、さらに踏み込んだ主張が見られる。
一方で、そこには「研究者の見解」と「記事側の推測」が混在しており、それぞれがどの程度の根拠に基づくものなのかが明確に区別されていない。特に、野球用語の成立と軍隊・戦争との関係については、具体的な一次資料を示した論証が十分ではない。
この記事は、「言葉狩り」にしてはいけない、「禁止」ではなく議論が必要、言葉の由来を知ることが大切、という専門家の意見を紹介しており、単純に「物騒だから全部変えよう」という記事でない点は評価できる。
しかし一方で、記事が展開する「物騒な言葉」→「戦争・軍隊に由来」→「野球の軍隊的文化」という単純化されたストーリーについては、ここでも相変わらず歴史的な一次資料による裏付けがなされていない。
新聞社内に残っている、「戦争・軍隊に由来」と思われる時代錯誤な用語を取り上げている部分は、初耳の情報が多かっただけに、個人的には興味深かった。しかし、それらの事例が確認できたとしても、それだけで野球用語の成立過程まで説明できるわけではない。野球用語についても同じような語源関係があるというのであれば、個々の用語について成立時期と出典を示す必要がある。
なお、記事中の松井真人教授、広尾晃氏、笹原宏之教授、青木理氏などの見解は、『東京新聞』が引用・構成したものであり、各氏の本意とは違っている可能性もあるので、そこは区別して考えるべきだと言っておこう。
名取北高校の生徒が、野球用語の言い換えを考えた
記事によれば、名取北高校(宮城県)の2年生の野球部員らが、2025年春から、週に1回程度の「探究学習」の時間のテーマに「暴力的な野球用語」を取り上げ、代替表現を考えたという。
同校の山本泰介教諭によると、「もしも自分が指導者になったら、『死』や『刺』など物騒な言葉をどう扱えばいいのか」と引っ掛かりを持ったのがきっかけだそうだ。今年の5月に発表したようだが、そういえばテレビのニュースで見た記憶がある。
「暴力的な野球用語」に違和感を持つこと自体は、探究の出発点として理解できる。しかし、そこで代替表現を考えるだけでなく、なぜその言葉が使われるようになったのか、なぜ100年以上にわたって定着してきたのか、自分たちが「暴力的」と感じた意味は本当にその言葉の歴史的・現在的な意味と一致しているのか、といった点まで調べてみる必要があるだろう。
自分たちの最初の印象そのものを疑ってみることも、「探究学習」の重要な作業の一つではないだろうか。
山形県立米沢女子短大の松井真人教授(認知言語学)の見解
本記事では、2人の大学教授と1人の野球ライターの話を構成することで、『東京新聞』としての主張を提示する方法が採られている。
まず、山形県立米沢女子短大の松井真人教授(認知言語学)の見解を見ていく。
①野球用語は「戦争や軍隊の言葉」を比喩として使ったのではないか
②軍隊の言葉が野球の上下関係・絶対服従につながったのではないか
③野球用語を見直せば、野球への認識が変わる可能性がある
①は、《明治期に野球が日本に導入された際、野球の用語は日本人にはなじみがなかった。そこで野球関係者が、日本人にとって身近だった戦争・軍隊の言葉を比喩として利用して、野球を理解・普及させようとしたのではないか》という仮説を述べたものである。
松井教授の指摘は、一つの歴史的仮説としては興味深い。しかし、それを歴史的事実として受け取るには、具体的にどの野球用語が、どの「戦争や軍隊の言葉」から、いつごろ、誰によって転用されたのか、その成立過程を示す一次資料が必要である。
②は、《軍隊の「厳格に規律を守る」という性質が野球にも反映された。それが、上下関係の厳しさ、監督・先輩への絶対服従、野球部の独特の雰囲気、につながったのではないか》とする松井教授の見解が紹介されている。だが、東京新聞の記事だけでは、その因果関係は証明できない。
③は、野球部のいじめ問題に触れながら、「野球用語を見直すことで、野球に対する社会的認識も変わる可能性がある」という見解が紹介されている。ただし、これは用語の歴史的な成立過程や語源の問題とは別の論点である。社会的なイメージを改善することが用語変更の目的だとしても、それによって具体的にどのような問題が解決されるのかは、別途検証する必要がある。
広尾晃氏(野球ライター)の見解
次に、野球ライター広尾晃氏の発言を見ていく。
①「殺」「刺」「死」などの野球用語は、暴力的な意味で使われているわけではない。
②野球用語を変更しても、広く浸透させるのは不可能。
③本当に問題なのは用語より「勝利至上主義」や威圧的な声出しではないか。
①は、専門家の意見として《暴力的な意図で使われているわけではない》との指摘は、宮城県高野連の見解を真っ向から否定しているところが斬新だ。ただし、これも実証的に主張されているわけではなく、個人的見解の域を出ない。また、「殺す」という言葉が野球用語として慣用化していることと、「殺す」という言葉が実際の暴言として使われることは、分けて考える必要がある。この記事自身も後半では、この二つを区別しようとしている。
②も、《現在の野球人口を考えると、用語を改定して全国に広めることは不可能だろう》という、広尾晃氏の個人的な見解にすぎない。しかし、全国的な定着には大きな困難があると見通しているという意味でなら、直感的には、うなづけるところのある意見だ。
③は、《少年野球などでは「ピッチャーびびってる」「セカンドが穴だよ」などの挑発・威圧的な声出しがある。こうした勝利至上主義的な文化のほうが、スポーツのイメージを悪化させ、教育的にも問題がある》とする広尾氏の取材コメントだ。これは記事の中では比較的説得力のある論点である。「言葉を変えること」と「その言葉が使われる環境を変えること」が別であることを問題提起しているのは評価できる。
早稲田大学・笹原宏之教授(日本語学)の見解
①戦争用語が残るのは「短く端的に表現できる」から
②戦争用語の由来を知ることが大切
③言葉を安易に禁止すると「言葉狩り」になる
④言い換えるなら、多くの人で議論することが重要
⑤言葉は時代に合わせて改良されるべき
①は、戦争用語は短く端的に表現しやすい。そのため戦争の凄惨さから切り離され、「無色化」されて一般語として使われるようになった、とする笹原宏之早稲田大学教授(日本語学)の見解だ。「短くて便利だから残る」という説明自体は、言語学的には十分考えられる仮説だ。「戦争用語だから残った」のか「短くて便利だから残った」のか、論点が二つに分けられる。
②は、戦争用語は、受け手によっては傷つける場合がある。だからまず言葉の由来を知ろうとする意識が必要、との見解である。
③は、「戦争由来だからという理由だけで言葉を禁止するべきではない。コミュニケーションをかえって困難にする可能性がある」という意見だ。青木理氏も「安易な用語の禁止は言葉狩りになる」と指摘していることが紹介されている。宮城県高野連に対して警鐘を鳴らしている点は、他のメディアにはないものであり、評価できる。
④は、「野球用語を変える場合、単純に禁止・置換するのではなく、利便性、分かりやすさ、使用者の受け止め、などを考慮し、多くの人で議論する必要がある。」という提言だ。至極最もな意見である。
⑤は、「言葉は時代に合わせて改良されることで、多くの人が使える道具になる」という考え方自体は、一般的な言語観として理解できる。しかし、それはあくまで一般論であり、特定の野球用語を現在変更する必要性を直接示すものではない。現在の用語が具体的にどのような問題を生み、その問題を言い換えによってどの程度解決できるのかは、別途検討する必要がある。
言葉というのは単なる「道具」ではない。その言葉が使われてきた社会や時代の痕跡を残しているタイムカプセルのような存在なのだ。
記事から読み取れる「因果関係」の連鎖
松本嘉次理事長が「野球が発展した時期は軍国主義下だった。だから、こうした生死を使った表現は当時の日本では受け入れられやすかった」という考えを持っていることは、すでに確認してきた。
本記事ではさらに一歩進んで、「軍隊・戦争の言葉」が野球用語に与えた歴史に言及し、野球部内の上下関係やいじめ問題にまで、因果関係の連鎖があることが主張されている。
明治期に野球が導入された
↓
日本人は野球を知らなかった
↓
軍隊・戦争の言葉を比喩として利用した
↓
野球に軍隊的な上下関係が生まれた
↓
現在の野球部の厳しい上下関係やいじめにもつながった可能性がある
しかし、記事中で具体的な史料によって証明されているのは、この連鎖のごく一部だけだ。特に、「野球用語が軍事用語から作られた」という部分は、「松井教授がそう考えている」という以上の証拠は提示されていない。
たとえば本当にこれを証明するなら、
・「遊撃手」は○○という軍事用語から転用された
・「刺殺」は○○という軍事概念を参考に作られた
・「併殺」は○○という軍事用語を参考にした
・それを明治○年の○○という資料で確認できる
というところまで具体的に示す必要がある。だがこの記事では、そこまでの論拠の提示はない。
「遊撃手」という言葉が軍事的なイメージを持っていることと、「遊撃手」という野球用語が軍事用語から直接作られたことは、同じではない。後者を主張するには、成立時期、命名者、参照された軍事用語などを示す史料が必要になる。
ここまで見てきたように、東京新聞の記事には、「野球用語と戦争・軍隊との関係」という重要な問題提起が含まれている。また、安易な禁止を「言葉狩り」とする警告や、言葉の由来を知ることの重要性を指摘する意見も紹介されている。
一方で、「物騒な言葉」→「戦争・軍隊に由来する言葉」→「野球の軍隊的文化」という因果関係については、個々の野球用語の成立過程を示す一次資料が十分に提示されていない。
そこで次章では、東京新聞の記事の説明をいったん脇に置き、明治期の一次資料に戻ってみたい。正岡子規や中馬 庚は、実際にどのような言葉を使い、どのように baseball を日本語で説明していたのか。そして現在の「死球」「刺殺」「盗塁」などの用語は、どのような過程を経て成立したのか。
ここを確認しなければ、「日本の野球用語は軍事的な背景から生まれた」という説明が、歴史的事実なのか、それとも後から作られた解釈なのかを判断することはできない。
明治期の日本野球――「軍国主義」だけでは説明できない日本化の過程

前章までは、宮城県高野連やネット記事が、野球用語と戦争・軍隊との関係をどのように説明しているのかを見てきた。
では、実際の日本野球の歴史において、現在使われている「刺殺」「挟殺」「併殺」「死球」「盗塁」などの言葉は、どのように成立したのだろうか?
ここでは、明治期の野球資料に戻り、正岡子規や中馬 庚の文章を確認しながら、その成立過程をできるだけ具体的にたどってみたい。
特に重要なのは、「軍事的な比喩が使われたこと」と「野球用語そのものが軍事用語から作られたこと」を区別することである。この二つは、似ているようで同じではない。
「野球」という言葉は誰が作ったのか?
「野球」という言葉は正岡子規が作った、という有名な伝説がある。しかし、現在では、中馬 庚が baseball を「野球」と訳したというのが一般的である。
子規が「野球」という文字を使ったのは、じつは中馬より早いのだが、文章を書く時の「雅号」として、幼名が「升」だったのに掛けて「野球」と署名したことに伝説は端を発している。
子規の弟子だった河東碧梧桐が、《「ベースボール」を訳して「野球」と書いたのは子規が嚆矢であった。が、それは本名の「升」をもぢった「野球」の意味であった。》(『子規の回想』昭和19年)と書いことから、誤って広まる結果となった。この話は、司馬遼太郎も『坂の上の雲』の中で触れている。
重要なのは、誰が「野球」という名称を作ったかという伝説そのものよりも、明治の日本人が baseball を日本語で説明する際に、どのような言葉を選んだかである。
正岡子規の随筆『筆まかせ』(明治21年・1888年)に見るベースボール観
子規は、随筆『筆まかせ』(明治21年・1888年)の中の「Base-Ball」という文章で、ローンテニス(庭球)とベースボールを比較して次のように書いている。なお、ここで子規は「ベースボール」を「ベース、ボール」と表記している。
人数よりいふてもベース、ボールは十八人を要し、したがって戦争の烈しきことローン、テニスの比にあらず。二町四方の間は弾丸は縦横無尽に飛びめぐり、攻め手はこれにつれて戦場を馳せまはり、防ぎ手は弾丸を受けて投げ返し、おつかけなどし、あるは要害をくひとめて敵を擒にし、弾丸を受けて敵を殺し、あるは不意を討ち、あるは挟み撃し、あるは戦場までこぬうちやみ討ちにあふも少なからず。実際の戦争は危険多くして損失夥し。ベース、ボールほど愉快にてみちたる戦争は他になかるべし。
正岡子規「Base-Ball」、随筆『筆まかせ』(明治21年)所収(『正岡子規ベースボール文集』岩波文庫)
《実際の戦争は危険多くして損失夥し。》と書いていることからも分かるように、子規はベースボールを戦争になぞらえているが、「実際の戦争」と「ベースボール」を区別している。したがって、ここでの「戦争」は、競技の構造や面白さを説明するための比喩として読むのが自然である。「戦争」のメタファーを徹底的に展開して、ベースボールの面白さを説明しているのだ。
この文章で子規はベースボールの個々のプレーを、かなり具体的に戦闘行為に対応させて描いている。
- 弾丸が飛び交う → 弾丸=ボール
- 攻め手が戦場を馳せ回る → 走者を表現したもの
- 防ぎ手が弾丸を受けて投げ返す → 守備の様子を表現したもの
- 要害を食い止めて敵を擒にする → 守備で走者をアウトにすることの表現
- 弾丸を受けて敵を殺す → 捕球などによるアウトを取るプレーを表現したもの
- 不意を討つ → 牽制球などの意表を突くプレーを表現したもの
- 挟み撃ち → ランダウンプレー
- 戦場まで来る前に闇討ちに遭う → 走者が塁を離れてアウトになることを表現したもの
という具合だ。
そして最後に、「ベース、ボールほど愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」と結んでいる。
子規にとってベースボールは「戦争そのもの」ではなく、「戦争に似た構造を持ちながら、危険も損失もない、愉快な戦争」だった。つまり、ボールとバットを使った「戦争ごっこ」だ。野球を「打球鬼ごっこ」と表現した人もいる。(下村泰大編『西洋戸外遊戯』明治18年3月)
それにくらべたら、子規の解説の方が、野球の持つ、大人数で、広い空間を走り回り、攻撃と防御が交替し、ボールをめぐって敵味方が知恵を競い合うという、集団的な攻防のダイナミズムをよく伝え得ているのではないだろうか?
ここで注意しなければならないのは、「戦争を連想させる比喩」が使われていることと、現在の野球用語が「軍事用語を語源として成立した」ことは別問題だということである。子規の文章から確認できるのは、明治期に野球を戦闘にたとえて説明する表現が実際に存在したという事実であって、「刺殺」や「挟殺」などの個々の用語が軍事用語から作られたことではない。
この文章が書かれたのは、日清戦争(1894~95年)が始まる6年前だということに注目してほしい。子規がここに書いた戦闘描写は、実際の戦争というよりも、子供の戦争ごっこに毛を生やした程度の牧歌的なものにしか見えない。「戦争」と言っても、当時の人々にはまだ、大量殺戮兵器を用いた近代戦のイメージはなかったはずだ。「戦争」や「軍隊」と聞いて、すぐに帝国陸軍や近代戦を連想するのは、「想像の翼」(by 村岡花子)をすぼめすぎていて危険だ。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて、日本と清(中国)の間で行われた。
戦争といっても、第一次世界大戦以後の戦争のように国民生活まで窮乏においこむようなそれではない。経費は、その後のそれからみればただのようにやすかった。
砲弾の使用量も敵味方ともにたかがしれたものであったし、戦死者の数もすくなく、なによりも兵士ひとりあたりの経費がおどろくほどやすかった。かれらは梅ぼし入りのにぎりめしでたたかいえたし、しかも極寒の満州でろくな防寒外套ももたず行軍し、野営し、戦闘した。戦争というより、合戦のようであった。内地の連中も、戦勝の光景を、ちょうど戦国時代の豪傑どもの武勇伝かなにかのように想像し、熱狂した。
司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫、1978年
引用した司馬遼太郎の文章は、小説ではあるが、日清戦争というものを当時の日本人がどう受け止めていたか、一つの参考になると思い取り上げた。
野球では、敵と味方、攻める集団と守る集団がいて、投手と打者が戦い、まるで戦国時代の侍が一騎打ちするような場面もある。それを子規は、戦国時代の合戦や古典軍記や江戸の読本に出て来るような「戦いの物語」に当てはめて、野球を解説しているように思われる。
言葉を変えれば、野球という未知のスポーツを解説するために、日本人がすでに知っていた「戦い」「合戦」という物語的・身体的カテゴリーを利用したと考えられるのだ。
そう考えると、これはむしろ「戦争賛美」というよりも、野球というスポーツの面白さを訴えかけるために、当時の人々になじみのある、武士の合戦や戦争ごっこのように描き出した、とするのが妥当だろう。
正岡子規は、日清戦争終盤の1895年(明治28年)4月に、所属する「日本新聞」の陸軍従軍記者として中国(遼東半島)へ渡っている。4月10日に宇品港を出港し、金州や旅順などに赴いたものの、すでに戦闘は終息していた。講和が成立したため、同年5月には帰国の途につき、その船上で喀血した。ひと月あまりの短い従軍生活だった。従軍したにもかかわらず、ほとんど戦争らしい戦争を子規は経験していないのだ。
子規の従軍生活がうかがえる記事が残っている。
『筆まかせ』の中の「Base-Ball」では、ベースボールがどんな遊戯かを解説しているだけだが、次に挙げる『ベースボール』という文章には、子規が初めて翻訳したとされるいくつかの野球用語を見ることができる。
正岡子規『ベースボール』初出:「日本」日本新聞社、明治29年(1896年)7月19日号~27日号
子規が新聞『日本』(日本新聞社)に『ベースボール』を書いたのは、従軍から帰国後の明治29年(1896年)7月である。
日本に帰っても、神戸病院に入院した子規の喀血は続いていた。2カ月入院したあと、子規は故郷の松山に帰った。ちょうどそのころ、夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任してきていた。漱石は、大学時代からの友人だったため、子規は漱石が下宿していた所の1階2間を借りて移り住んだ。漱石は2階2間にいた。子規はこの下宿に、家主に断ることなく「愚陀仏庵」と名付けた。
子規は52日間漱石と暮らした後、結核が悪化して、東京根岸の子規庵へと戻った。『ベースボール』が書かれたのは、それからほぼ1年後である。
『ベースボール』は、明治29年(1896年)7月19日、7月23日、7月27日と、新聞『日本』に、3回に分けて掲載された。後に、子規の随筆集『松蘿玉液』(明治29年・1896年)に収録されている。
「文字の連続」と「意味の連続」は別問題である
ここで子規は、野球のルールを解説するために、自分で訳した野球用語を使っている。
出現順に挙げてみると、
仕合、攫者、直球、投者、正投、小球、棒、基、本基、審判者、打者、短遮、場右、場中、場左、廻了、走者、除外、小勝負、勝負、球、正球、基、死球、満基、立尽、外曲、内曲、墜落、飛球
となる。「ストライカー」というのは、当時の「バッター」を指す英語だ。
じつは「四球」という言葉も出て来るが、まだフォアボールの規定が定まっておらず、《今まで九球なりし者を四球(あるいは六球なりしか)に改めたるが如き》(7月19日)という形で使用されている。意味的に現在と変わりがなさそうに見えるが、しかし、「用語の訳」として使われているわけではない。
この中で、子規が挙げた英語の意味で現在も使われている日本語は、打者、走者、飛球くらいのものだ。あとは、みんながより相応しいと感じる用語に置き換えられて、歴史的時間の経過の中で淘汰されてしまった。言葉が残るというのは、そういうことである。
たとえば、子規が「短遮」と訳した Short Stop は、現代では「ショート」とか「遊撃手」と呼ばれている。ピッチャーは「投者」ではなく「投手」、キャッチャーは「攫者」ではなく「捕手」、ホームベースは「本基」ではなく「本塁」、フルベースは「満基」ではなく「満塁」、Right fielder は「ライト」または「右翼手」、Center Fielder は「センター」または「中堅手」、Left Fielder は「レフト」または「左翼手」だ。ホームインを「廻了」としているのも、実に悩ましい。ホームインは和製英語だからだ。アメリカでは、score が一般的な呼び方だ。しかし、「廻了」は消えてしまったが、「ホームイン」は今でも生きている。ただし、最初に言ったのが子規かどうかははっきりしない。
「直球」を子規訳とする人もいる。だが、現在の「直球」がストレートボールを意味するのに対して、子規の「直球」は《投者の手を離れていまだ土に触れざる球をいう》とわざわざ注釈している通りの意味だ。「直球」とは、ワンバウンドのボールに対して、地面に触れずにキャッチャーまで届いた球を指しているに過ぎない。文字面は同じだが、意味はまるで違っている。これでは現在使われている「直球」が、子規が訳したものとは到底言えないだろう。
Dead Ball は、なぜ「死球」なのか?
Dead Ball を「死球」と訳したのは子規だとする記事を、Web上でよく見かける。
今走者と球との関係を明かにせんに走者はただ一人敵陣の中を通過せんとするがごとき者、球は敵の弾丸のごとき者なり。走者は正方形(前回の図を参照すべし)の四辺を一周せんとする者にして一歩もこの線外に出ずるを許さずしかしてこの線上において一たび敵の球に触るれば立どころに討ち死(除外)を遂ぐべし。※(始め二重括弧)ここに球に触るるというは防者の一人が手に球を持ちてその手を走者の身体の一部に触るることにして決して球を敵に投げつくることに非ず。もし投げたる球が走者に中れば死球といいて敵を殺さぬのみならずかえって防者の損になるべし※(終わり二重括弧)
※太字は筆者による。
『ベースボール』「日本」日本新聞社、明治29年(1896年)7月19日号~27日号(『正岡子規ベースボール文集』岩波文庫)
確かにそれは、この文章で確認できる。
だが、ここで非常に重要なのが、子規がこの文章で 「死球とは何か」を説明しているわけではないことだ。しかも、Dead Ball の意味が、現代のわれわれが了解している意味では使われていない。
《もし投げたる球が走者に中
れば死球
といいて敵を殺さぬのみならずかえって防者の損になるべし》と子規は書いている。
一見、Dead Ball について解説しているように思われがちだが、前後の文章をよく読めば、塁間を走る走者に対して「投げたボールが走者に当たったらどうなるか」を説明しているにすぎない。その結果は「死球」になる、と子規は言っているのだ。子規の使った「死球」が、現在のわれわれが使っているように、投球されたボールが打者の体や衣服に触れることを意味していないことは明らかだ。子規が対象にしているのは「打者」ではなく「走者」だからだ。
この文章から、子規が「死球」という野球用語を、現代の「 hit by pitch」という意味で作った、と断定することはできない。むしろ、子規の「死球」は、「hit by pitch」を訳したものでないことが確かめ得るだけだ。
Dead Ball を「和製英語」だとする人もいるが、19世紀のアメリカのルールブックにすでに出ているのが確認できるので、それは正しくない。
たとえば1884年の American Association の規則にも “A Dead Ball” が登場している。
Rule 26. Dead Ball とは、投手が打者に投じた球が、打者が打とうとせずに、そのバットに触れた場合、または打者が自分の位置に立ったまま打とうとせずに、その身体または衣服のいずれかの部分に触れた場合をいう。また、捕手を通過することなく、審判員の身体または衣服のいずれかの部分に触れた球も、デッドボールとする。
ただし Dead Ball の規定が、現在のものとはだいぶ違っていることが分かる。Dead Ball の規定は、それ以降、何度も改訂され、内容はだいぶ変遷して行くのだが、やがて現在行われているように、「Dead Ball」とは別に「hit by pitch」という規定が設けられるようになる。しかし、残念ながら、「hit by pitch」がいつごろ登場したのか、私はそこまでの情報は持ち合わせていない。
「hit by pitch」を「死球」と訳した者は、アメリカのルールブックに「hit by pitch」が登場した以降に現れたと考えるのが自然だろう。それが子規でないことだけは、確かだと言える。当時のアメリカのルールブックには、まだ「hit by pitch」が現われていないことだけは確認できるからだ。
この文章における「死球」は、走者をアウトにする方法を説明する中で、一度だけ現れた不思議な語なのだ。いったい子規は、何をもってここで「死球」という言葉を使ったのか? 彼が読んだルールブックにそう書かれていたのか? 誰かがそう説明したのを聞いたのか? 或いは、ベースボールを戦いになぞらえたのに合わせて、「死球」という言葉が出てきただけなのか? ――様々に解釈することはできるだろう。しかし私は、結論として、子規の「死球」は「謎に満ちた言葉」であると言うに留めようと思う。「謎」は残るが、それでよい。
それよりも注目してほしいのは、《討ち死(除外)》の部分だ。走者は敵がボールを握ってタッチすれば out になると言っているのだが、子規は out を「除外」と訳した上で、さらにそれを「討ち死」と解説しているのだ。
ここでも子規は、『筆まかせ』(明治21年)の中の「Base-Ball」でのように、「戦い」あるいは「戦争」の比喩の下に、走者は「敵陣」を通過する者であり、球は「敵の弾丸」のようなものだ、と書いている。だから、out は「除外」であるだけでなく「討ち死」でなければならない。「戦争」コードで比喩表現を統一しているのだ。
ベースボールいまだかつて訳語あらず、今ここに掲
げたる訳語はわれの創意に係
る。訳語妥当
ならざるは自らこれを知るといえども匆卒
の際改竄
するに由
なし。君子
幸に正
を賜え。
「ベースボールには、今に至るまで日本語の訳語がない。今ここに載せた訳語は、私が自分で考え出したものだ。この訳語が適切でないことは自分でも分かっているのだが、大急ぎで作ったため、直す余裕がなかった。知識のある方は、どうか遠慮なく正しい訳に訂正していただきたい。」
『ベースボール』「日本」日本新聞社、明治29年(1896年)7月19日号~27日号(『正岡子規ベースボール文集』岩波文庫)
子規は記事の最後に、上のように書き添えている。《ベースボールいまだかつて訳語あらず》として、この文章ではそのまま「ベースボール」と音写して呼んでいる。それも一つの正しい翻訳者・解説者としての態度だろう。
中馬 庚『野球』明治30年(1897年)7月30日発行、前川文栄堂

baseball を「野球」と訳したのが、中馬 庚である。
彼が書いた『野球』(明治30年・1897年)は、日本で最初の体系的な野球解説書とされている。
『野球』では「野球ノ大要」の章の冒頭で、
此技ハ北米合衆国ノ国技ニシテ彼ニアッテハ Base Ballト 称シ、我ニアッテハ明治二十六年四月以来、第一高等中学校ニ於テ、其野外ノ遊戯ナルヲ以テ、庭球ニ対シテ野球ト命名セルヨリ原名ト併用セラルルニ至レリ。然レドモ全ク新来ノ技ニシテ、本邦未ダ嘗テ類似ノ技ナク、加ウルニ其法複雑ナルガ故ニ是レガ詳説ヲ述ブルニ先ダチ先ヅ其大要ヲ略述シテ、読者ノ便ニ供セン。
「この競技は北米合衆国の国技であり、向こうでは「Base Ball」と呼ばれている。日本では、明治26年(1893年)4月以来、第一高等中学校において、これが野外で行う遊戯であることから、庭球に対して「野球」と名づけられ、それ以来、原名(Base Ball)と併用されるようになった。しかし、これはまったく新しく入ってきた競技であって、日本にはこれまで一度も類似した競技がなかった。そのうえ、そのルールは複雑である。そこで、これについて詳しく説明する前に、まずはその大まかな概要を簡単に述べ、読者の理解の便に供することにしよう。」
中馬 庚『野球』明治30年(1897年)7月30日発行、前川文栄堂
と書かれている。
中馬は、明治26年4月以来、第一高等中学校では「ベースボール」を「野球」と命名して、元の名称である「ベースボール」と併用してきた、と書いているのだ。「野外で行う球技」だから「野球」にしたという、非常に漢語的な命名なのが分かる。なお、第一高等中学校とは、後の第一高等学校(一高)であり、現在の東京大学だ。
この一文で重要なのは、「新しく入って来た競技だ」「日本には類似した競技がなかった」「ルールが複雑だ」という、中馬のベースボール認識が語られていることである。『野球』が書かれた当時の状況がわかるとともに、これを書かねばならなかった彼の動機も窺い知ることができる。
実際に「野球」という言葉が記録として確認できるのは、中馬が執筆した『一高野球部史』(明治27年)であるため、公式的には、最初に「野球」と訳されたのは明治27年とするのが一般的である。
中馬 庚の『野球』は、以下のリンク先で読むことができる。
”shortstop”を「遊撃手」と命名したのは中馬 庚か?
中馬 庚は、baseball を「野球」と命名したと共に、shortstop を「遊撃手」と翻訳したことでも有名だ。Web を調べると、あちこちの記事でそう書かれているのを見る。
だが、本当にそうなのか?
『野球』で、shortstop について解説した部分を実際に見てみよう。
Short Stop
全軍ノ花役者 内野ノ遊軍 其地ヤ最モ球ノ来ル所ニシテ 最モ功ヲ為シ易キ所ニアリ べーすヲ守ルノ煩累ナク 出入進退唯吾ノ欲スル所 遊撃援助唯時ノ宜シキニ随フ
「全軍の中で最も華やかで目立つスター選手であり、内野の自由自在に動ける遊軍(遊撃部隊)である。そのポジションは最もボールが飛んでくる場所であり、最も手柄を立てやすい(アウトを取りやすい)場所にある。ベースに張り付いて守るという煩わしさがなく、前に出るのも後ろに下がるのもただ自分の思うがままであり、自由に動き回って他のポジションをカバーしたり助けたりするのは、ただその時の状況に応じて行うのである。」
中馬 庚『野球』明治30年(1897年)7月30日発行、前川文栄堂
《遊軍》《遊撃援助》という言葉は出て来るが、どこにも「遊撃手」という言葉は出て来ない。
中馬 庚が『野球』で「遊撃手」と命名したという通説には疑問が生じる。少なくとも同書で確認できるのは、「遊軍」「遊撃援助」という表現のみであり、「遊撃手」という語そのものではない。
では「遊撃手」という語は、いつ、誰によって成立したのか? それについては、さらに資料を調査する必要があるとしか言えない。
明治期の日本野球の歴史・概観
日本における野球の伝来は、明治5年(1872年)、第一大学区第一番中学のアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンによって、生徒たちへと伝えられたのが起点とされる。ウィルソンは当時多かった「雇われ外国人」の一人で、英語や歴史などを教えていたが、ベースボールが大好きで、生徒たちを相手にノックをして楽しんでいるうちに、次第に参加する生徒が増えてきて、ベースボールを教えることになったという。第一大学区第一番中学は、のちに開成学校へと変わり、さらに東京大学へと変わっていく。
※この時代の「学校名の変遷」は頻繁かつ複雑なので、ここで順序を説明しておく。
【第一高等学校】「東京英語学校」(明治8年)→「東京大学予備門」(明治10年)→「第一高等中学校」(明治19年)→「第一高等学校(一高・旧制一高とも)」(明治27年)→「東京大学教養学部」(昭和24年)
【東京大学】「大学南校」(明治2年)→「南校」(明治4年)→「第一大学区第一番中学」(明治5年)→「開成学校」(明治7年)→「東京大学」(明治10年)→「帝国大学」(明治19年)→「東京帝国大学」(明治30年)→「東京大学」(昭和22年)
注目すべきは「明治10年」だ。「東京大学予備門」は、「開成学校・予科」と「東京英語学校」が統合されて出来たものだ。「開成学校・本科」は「東京大学」(法・理・文学部)となった。
明治11年(1878年)、平岡 熈がアメリカ留学から帰国し、わが国初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を結成した。ユニフォームをそろえた野球チームはこれが最初だった。
一高でユニフォームを採用したのはいつからか、はっきりした資料が見つからないが、明治30年代に撮られた写真には、ユニフォーム姿で写っているものがある。
明治23年5月に行われた、一高対明治学院白銀倶楽部が試合した時は、体操部の青い小倉の古体操服を借りたが、あまりに不格好だったため、2回目の白銀倶楽部戦の時は、色はまちまちだったが当時流行していた編み上げシャツにニッカボッカ、足袋はだしという服装だった。白銀倶楽部のほうは、白シャツに、胸にビロードをM字型に裁ったものを縫い付け、白フランネルのニッカボッカに紅糸で梅花を刺繍したおしゃれなものだったという。
この話から、少なくとも野球のユニフォームが軍服をモデルにして導入されたと単純に説明することはできない。
アメリカでは、1849年(嘉永2年)頃のニューヨーク・ニッカーボッカーズが、最初に統一したユニフォームを採用したチームとして知られている。青いウールのズボンに白いフランネル製シャツ、それに麦わら帽子という出で立ちで、これは今日の「野球ユニフォーム」というより、当時の男性のスポーツウェアやクラブ制服に近いものだったということだ。チームにはボランティア消防団に参加している者も多数いたため、消防団の制服の影響も指摘されている。
日本で「野球」が普及した時期は1870年代であり、約10年程遅れているが講道館柔道が興隆した時期と重なっている。
明治維新によって武士という身分がなくなり、武士の文化であった武術は廃れつつあった。そんな時代に、廃れゆく柔術諸派の技を研究し、近代的な「柔道」として統合することに成功したのが、講道館の嘉納治五郎だった。
撃剣とか剣術と言っていた武術も、大正期以降は「柔道」にならって「剣道」と称するようになった。さらに、弓術は「弓道」、唐手は「空手道」になっていく。やがて学校教育へと導入されることになったのは、古武術が「近代的な武道」へと改変することで時代に適応したことが大きかったと言える。
嘉納治五郎は、東京大学の学生だった頃を振り返る文章で、《自分がベースボールの選手だといったら不思議がろうが、その頃自分は五代竜作と共にピッチャアで、本山と塩田仁松とがキャッチャアの選手であったのだ。》(『作興』昭和2年1月)と語っている。
嘉納が東京大学に入学したのは明治10年(1877年)なので、ホーレス・ウィルソンによって第一大学区第一番中学に伝えられた野球は、開成学校から東京大学へと改組される中で、伝統となって継承されていたのだろう。
その頃の嘉納は、柔術の師を探して稽古を続けながら、大学の勉学にも励んでいた。
五代竜作というのは嘉納の親友で、明治12年(1879年)にグラント将軍(当時の米国大統領)が国賓として来日した時は、渋沢栄一の意向を受けて、将軍の前で嘉納と柔道の乱取りを披露したこともあった。
嘉納が稲荷町の永昌寺を間借りして講道館を設立したのは、明治15年(1882年)である。22歳だった。東京大学は、この年に卒業していた。
西郷四郎が17歳で福島から上京し、講道館に入門したのもこの年だった。
明治19年(1884年)、警視庁武術大会で、西郷四郎が楊心流戸塚流・照島太郎と試合して「山嵐」の大技で勝つと、講道館は一躍有名になった。
明治21年(1888年)には、正岡子規が「Base-Ball」(『筆まかせ』所収)を書き、彼が結核の病を患う中でも熱中していた「ベースボール」の魅力を熱く語っている。子規は21歳だった。西郷四郎より一つ年下だ。
翌年に、「大日本帝国憲法」が発布されている。
明治28年(1895年)2月、第一高等学校(旧制一高)の中馬 庚が、一高校友会雑誌号外『野球部史・附則付』(通称「一高野球部史」)を執筆し、これが「野球」というベースボールの訳語を使用した最初とされる。中馬はこの時、24歳だった。「野球」という訳語の出現によって、「野球部」や「野球場」のような言葉も派生した。一高では、本家のアメリカとは違った、日本の環境に合わせた独自のルールが作られていた。「ロストボール」の規定などがそれである。
明治29年(1896年)には、第一高等学校が横浜の外国人チーム YCAC を相手に、「治外法権」下の横浜居留地にあった横浜公園球場で試合をして初めて勝利した。中馬 庚も、二塁手として出場していた。スコアは29対4という大勝だったため、都下の新聞のほとんどが報じ、横浜の2つの英字新聞も非常に好意的に報じた。このことは、野球への社会的関心を高める一つの契機になったと考えられる。
応援に来ていた校友たちは、日米決戦の大勝利に狂喜し、すぐさま人力車を雇って選手たちを乗せると、一緒に横浜停車場まで走った。駅に着くとすぐに、電報で、久原校長や木下前校長に知らせ、仙台(二高)、京都(三高)、金沢(四高)、千葉(医学部)の仲間たちへも知らせたという。(城井睦夫『”野球”の名付け親中馬庚伝』1988年、ベースボール・マガジン社)
同じ年の7月に、正岡子規は『日本』紙上に『ベースボール』を書いて載せた。その冒頭で、《近時第一高等学校と在横浜米人との間に仕合ありしより以来ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり。されどもベースボールの何たるやは殆どこれを知る人無かるべし。》と書いている。そういう社会状況の中で、この野球解説記事は書かれたのだ。そこでは「打者」「走者」「飛球」「死球」「直球」などの野球用語の試訳が披露されている。
5年後の明治34年(1901年)、子規は32歳で生涯を閉じた。
明治30年(1897年)には、中馬 庚が野球ルールの体系的な解説書『野球』を刊行した。新しく入って来た、日本人にとって未知のスポーツである「野球」の「複雑なルール」について、原語と彼が訳した言葉とでもって解説している。シンシナティ・レッドストッキングスを「赤脚絆組」と紹介しているのも愉快だ。
この本では、すでに「死ぬ」とか「殺す」といった out をめぐるプレーについての解説語が、様々なバリエーションで頻出している。
そこではボールの「受け方」から「投げ方」、「打ち方」にはじまり、バッテリーや内野手、外野手と各ポジションごとに、それぞれどういう役割や特徴があるかを解説している。
「投げ方」の章には「魔球」という項目があって、カーブやドロップなどの変化球を8種類挙げて、ボールの握り方や回転を加える投げ方について、一つずつ詳しく解説している。この頃の一高野球部が、すでにかなり高度な技術段階にあったことがうかがえる。
日本では、大学から旧制中学の校友会活動そして運動部へと、学校を中心に野球が普及したことから、その後、高校野球、大学野球、社会人野球などの学校・企業を基盤とするアマチュア野球文化が発展することになった。
早慶戦の始まったのが明治36年(1903年)、全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園大会)が始まったのが大正4年(1915年)で、日本職業野球連盟が創立したのは昭和11年(1936年)のことだった。昭和になって、ようやく「プロ野球」が登場したのだ。
野球は、柔道や剣道などと共に、高等教育の場に導入されて発展してきたため、「人格形成」や「精神修養」という考え方が付加され、「楽しむ野球」が育たなかったと説明されることが多い。また、明治期の学校体育が軍事目的で導入されたとして、そこから「野球=武士道」の考え方が受け容れられたとする説も、無数に複製されて流布している。しかし、そうとばかりは言えない研究もあるので、ここはもう少し丁寧に見てゆく必要があることを付け加えておく。
日本の野球用語の「戦闘性」について
野球という競技には、そもそも「敵」と「味方」、「攻撃」と「守備」、「奪う」と「守る」、「相手を倒す」といった、対抗関係を基礎とする構造がある。もちろん、これは野球だけに限った話ではない。多くの競技が、相手との勝敗を競う以上、何らかの意味で対抗的な構造を持っている。
だが野球の場合、その競技構造が、独特の言葉によって表現されてきた。
「刺す」「殺す」「盗む」「犠牲にする」「挟み撃ちにする」――。
現在問題になっているのは、まさにこうした言葉である。
ただし、ここで一つ区別しておく必要がある。
野球という競技が持つ対抗的・戦闘的な構造と、個々の野球用語が持つ戦闘的なイメージとは、同じものではないということだ。
「死」「刺」「殺」「盗」といった言葉を別の表現に置き換えたとしても、野球そのものから「攻撃する」「守る」「相手を打ち負かす」「味方のために自己を犠牲にする」といった対抗関係が消えるわけではない。
アメリカの野球を見ても、公式の技術用語とは別に、野球を語る比喩として「戦争」「攻撃」「爆撃」「破壊」などの表現が繰り返し現れてくるのである。
これは、野球に戦争を持ち込もうとする誰かが意図的に考え出したというより、対抗関係を持つ競技を理解し、語ろうとするとき、戦争や戦闘のイメージが比喩として引き寄せられやすいということではないだろうか。
だとすれば、野球用語の「戦闘性」を考えるには、単に「物騒な言葉を使わないようにしよう」と考えるだけでは不十分だ。
なぜ日本の野球では、そもそもこれほど戦闘的な漢語が用いられるようになったのか――?
その背景には、明治期の「翻訳」という問題がある。
明治期の翻訳の歴史
明治時代は、欧米から「science(科学)」「philosophy(哲学)」「economics(経済学)」「politics(政治)」「society(社会)」など、膨大な数の新しい概念が日本に入ってきた時代だった。
それらを日本人が理解し、使いこなすためには、外国語を日本語で表現する必要があった。
そこで盛んに行われたのが、新しい概念を、すでに日本人が知っている漢語によって表現する作業だった。
スポーツも例外ではない。
テニスを「庭球」、バレーボールを「排球」、バスケットボールを「籠球」、テーブル・テニスを「卓球」、サッカーを「ア式蹴球」、ラグビーを「ラ式蹴球」と表現するなど、さまざまなスポーツについて漢語による名称が作られた。
野球の場合も、「baseball」という未知の競技を、日本人が理解可能な言葉に置き換える必要があった。その過程で生まれたのが、「遊撃手」「死球」などの、現在まで残る独特の野球用語である。
ここで重要なのは、これを単純な「英単語の日本語訳」と考えないことである。
それはむしろ、外国から入ってきた新しい競技を、日本人がすでに持っていた文化的な枠組みの中で理解し、説明しようとする作業だったと考えたほうがよい。言い換えれば、翻訳されたのは「言葉」だけではなく、ある意味ではその言葉によって理解される世界そのものだったのである。
当時の日本人が利用できた文化的な枠組みには、合戦、武術、軍学、勝負、敵と味方、戦争、さらには戦争を模した遊びなど、近世以前から蓄積されてきた様々な物語や文化的表現があった。そのため、新しく入ってきた baseball という競技を説明するとき、それらの文化的コードが利用されたとしても不思議ではない。
だから、「戦争」や「軍隊」という言葉が出てきたからといって、ただちに「明治日本は軍国主義だったから、野球を戦争として理解した」と結論づけるのは、少し短絡的ではないだろうか。
むしろ、「未知のものを、既知の文化的コードに置き換えて理解した」と考えたほうが、明治期の翻訳という文化現象をよく説明できる。
子規の「討ち死」
そのことをよく示しているのが、正岡子規の野球論である。
子規は out を単純に「アウト」と音写するのではなく、まず「除外」という意味を示し、そのうえで、この遊戯全体の中では、それが「討ち死」のようなものだと説明している。
ここで重要なのは、英語の out そのものに「死」という意味があるわけではないということだ。
子規は、野球のプレー上の状態を、日本人に理解しやすい「討ち死」という文化的な比喩によって説明している。つまり、「out = 死」という単純な翻訳ではない。
むしろ、野球における out という状態は、戦いにおける「討ち死」のようなものだ、という説明なのである。この違いは重要だ。
子規は、野球という未知の競技を、当時の日本人が理解できる文化的なコードに置き換えながら説明していたのである。
なぜ野球には「刺殺」「挟殺」「併殺」「盗塁」が残ったのか
こうした明治期の翻訳・紹介・日本語化の過程のなかで、現在につながるさまざまな野球用語が形成され、定着していったと考えられる。
ただし、今回確認した正岡子規と中馬 庚の文章には、「刺殺」「挟殺」「併殺」「盗塁」という語句は見当たらなかった。したがって、これらの語句は、子規や中馬以外の人物によって考案された可能性もある。それぞれの用語が誰によって、いつ、どのような意味で作られたのかは、個別に検証する必要がある。
子規や中馬 庚の文章では、アウトにすることをすでに「殺す」と表現していることがわかる。また、アウトになることを「死ぬ」とも表現している。当時の野球人たちは、現在につながる「死」や「殺」の比喩をすでに使っていたように見える。
だが、「刺殺」「挟殺」「併殺」に相当するプレーを説明している箇所でも、これらの言葉は使われていない。――ここには、どんな意味があるのだろうか?
推測すれば、まだそれらの語句が生まれていなかったからだとも考えられる。「殺す」「死ぬ」というのは、人間の生活の中でも古くから存在する基本的な語彙である。そのため、実際の死や殺害を直接意味しない場面についても、「死ぬ」「殺す」という言葉を比喩的に用いることは比較的容易だったのではないだろうか。そこからプレー内容との類似を見つけることも、比較的自然に行われたと想像できる。
ただし、そこから「刺殺」「挟殺」「併殺」という、特定のプレーを表す漢語を生み出すには、単に「殺す」という比喩を使うこととは別の言語的な操作が必要になる。これらの言葉は、試合の記録や新聞報道などで使われる専門用語であり、掛け声として使われる場面は、少なくとも現在ではそれほど多くないように思われる。
このように考えると、むしろ「掛け声」の発生の方が先で、プレー結果を記録・分類するための用語として、「刺殺」「挟殺」「併殺」などの漢語があとから生まれたと考える方が、自然ではないだろうか。
これはあくまでも、私の「推測」である。資料によって裏付けられないうちは、仮説にすぎない。
だが、宮城県高野連の問題提起は、少なくとも私には、こうした記録用語と「刺せ」「殺せ」といった実際の掛け声を、一続きの問題として捉えているように見える。もしそうであるなら、そこに示されている因果関係も、まずは一つの「仮説」として検証されるべきではないだろうか。
そこで私は、それに対する一つの対案となる仮説として、「掛け声が先に生まれ、それを記録・分類するために専門用語が形成された」という可能性を提示したいと思う。
日本語化は野球の普及に役立ったのか?
では、こうした日本語化は、野球の普及にどの程度の役割を果たしたのだろうか?
ここは、断定することはできない。
「野球用語が日本語化されたから野球が普及した」という因果関係を直接示す統計資料があるわけではないからだ。
しかし、想像してみれば、その意味は分かりやすい。
英語を知らない人にとって、「アウト」「ストライク」「スチール」「ヒット」「サクリファイス」といった外国語を並べて競技の仕組みを説明するのと、「除外」「盗塁」「犠牲」「本塁」「一死」といった日本語によって説明するのとでは、受ける印象がかなり違う。
子規や中馬 庚の文章を読めば、彼らが野球の仕組みを、単に外国語を紹介するのではなく、日本人が理解できる言葉とイメージに置き換えながら説明していたことが分かる。それは、少なくとも野球という未知の競技を、日本人に説明し理解させるうえでは、大きな助けになったのではないか?
そして、その後の日本野球の歴史を見ると、野球は学生スポーツとして広まり、早慶戦のような大学野球が大衆的なイベントとなり、やがて日本で最初期のプロスポーツの一つとして発展していく。
戦後には草野球が広く行われ、高校野球もまた巨大な社会的・文化的現象となった。
もちろん、こうした発展を「日本語化された野球用語」の功績だけで説明することはできない。野球そのものが持っていた競技としての面白さ、学校教育、新聞・メディア、大学スポーツ、プロ野球、地域社会など、さまざまな要因があった。
それでも、「ベースボール」という外国の競技が、「野球」という日本語によって日本人の日常語の中に入り込んだことの意味は、もう少し評価されてもいいのではないだろうか?
試しに、子規や中馬 庚の文章から、日本語に翻訳された言葉をすべて取り去り、原語か英語の音写に置き換えて読んでみればいい。
果たして、それでも当時の日本人は、同じように「ベースボールをやってみたい」と思っただろうか?
もちろんこれは、用語の日本語化が野球普及の原因だったことを証明するものではない。しかし、未知の競技を理解する際に、母語による説明が果たした役割を考える手がかりにはなるだろう。
次は、いったん日本野球から離れて、そもそもアメリカの野球はどのような文化だったのか? 日本だけが殊更に「戦争的な野球」を作ったのか? それを確かめるために、19世紀のアメリカ野球の歴史に踏み込んでみたい。
19世紀・アメリカ野球の歴史

「野球には、アメリカという国の空気そのものにある、生気と躍動感と快活さがある。それはわれわれの制度に深く根ざしたものであり、われわれの憲法や法律と同じように、アメリカ社会の制度にしっくりと適合している。」― ウォルト・ホイットマン
1846年(弘化3年)6月19日、ニューヨークのニッカーボッカーズ(Knickerbocker Base Ball Club)は、ニュージャージー州ホーボーケンのエリシアン・フィールズで、初めて自分たちが1845年に制定した「ニッカーボッカーズ・ルール」に則って試合を行った。
この日、ニッカーボッカーズが対戦した相手は、ニューヨーク・ナイン(New York Nine)だ。この試合は、現在では「近代的な base ball ルールに基づいて行われた最初の記録された試合」という位置づけで紹介されることが多い。
地元の新聞・雑誌などの報道機関はこのスポーツを盛んに支持したが、その中にはウォルト・ホイットマンもいた。彼は1846年当時、『ブルックリン・デイリー・イーグル』紙の編集者を務めており、自身も熱心な野球選手だった。冒頭の彼の言葉に見るように、ホイットマンにとって野球は、単なる娯楽ではなく、当時のアメリカ人・アメリカ社会の活力そのものを象徴するものと捉えていた。
この頃が、ベースボールが「単なる子どもの遊び」から、アメリカ社会を象徴する近代的なスポーツへと変化していく時期に当たっていた。
それでは、1845年以前の「ベースボール」はどんなゲームだったのか?
次に、近代的なベースボールに至るアメリカ野球の歴史を見ていく。
イギリスの民俗競技から、アメリカの近代スポーツへ
1845年は「野球誕生」ではない
現在のベースボールの原型として、しばしば1845年(弘化2年)の「ニッカーボッカーズ・ルール」が取り上げられる。しかし、ここで一つ注意しなければならないのは、「1845年に突然、ベースボールという競技が誕生したわけではない」ということだ。
では、それ以前の「ベースボール」は、どのようなものだったのだろうか。
19世紀初頭のアメリカでは、さまざまなバット・アンド・ボール競技が存在していた。
代表的なものとして、「base-ball」「rounders」「round ball」「town ball」などがある。これらは互いによく似ているが、地域によって名称もルールも異なっていた。
例えば、ニューイングランドには、後に Massachusetts Game と呼ばれる形式があり、ニューヨーク周辺では、後に New York Game と呼ばれる形式が発展した。
「ベースボール」という一つの完成した競技が最初から存在していたのではない。
では近代アメリカのベースボールは、どこから生まれたのだろうか。
現在の研究では、近代アメリカのベースボールは、ブリテン諸島に存在した各種のバット・アンド・ボール競技と歴史的なつながりを持つと考えるのが一般的である。
18世紀以前からイギリスには、「stoolball(ストールボール)」「base-ball(ベースボール) / bass-ball(バスボール)」「rounders(ラウンダーズ)」「cricket(クリケット)」など、「ボールを打つ」「走る」「一定の場所を回る」という共通した構造を持つ競技が存在していた。
重要なのは、「base-ball」という名称そのものが、すでに18世紀のイギリスで確認されていることだ。つまり、「baseball」という言葉は、アメリカで突然生まれたものではない。イギリスにはすでに「base-ball」と呼ばれる、地域ごとにさまざまな形式を持つ球技群が存在していたのである。
これらの民俗的な球技が北米に持ち込まれ、19世紀前半のアメリカで独自に発展した。そして、その中の一部がニューヨークのクラブ文化の中で整理され、やがて近代ベースボールへと発展していったのだった。
したがって、「ベースボールのルーツはイギリスだが、近代スポーツとしてのベースボールはアメリカで形成された」と考えるのが最も妥当だろう。
クラブ文化から近代スポーツへ
1845年(弘化2年)以前のニューヨークベースボールを考える上で重要な存在が Gotham Base Ball Club(ゴッサム・ベースボール・クラブ) である。ウィリアム・ルーファス・ウィートンは1887年の新聞インタビューで、1837年にゴッサム・ベースボール・クラブを組織したと回想している。
1845年以前にもニューヨークには野球クラブが存在したことを示すものであり、近代野球が一人の人物によって突然発明されたという単純な説明はできないことがわかる。
こうした状況の中で、アレキサンダー・カートライトが設立したニッカーボッカーズが1845年(弘化2年)にルールを明文化した。重要なのは、彼らが「ベースボールを発明した」のではないということだ。そうではなく、すでに存在していたさまざまなbase ball の慣行の中から、自分たちはこのようなルールでプレーすると明文化したと考えるのが正確だろう。
【参考】
https://baseballhall.org/rules-of-base-ball?utm_source=chatgpt.com
そのルールには、現在のベースボールにつながる重要な特徴がいくつもあった。「ボールを打ったら塁を回り、得点する」という基本構造。「三つのアウトで攻守交代する」という考え方も、その後の近代野球につながっていく。
ベースボールは、すでに存在していた民俗的な球技から、徐々に近代的なスポーツへと変化し始めていたのである。
では、その近代化を進めたのは、どのような人々だったのだろうか。
19世紀前半のニューヨークで発展した初期のベースボール・クラブには、「商人・銀行員・事務員・弁護士・医師・公務員・小規模事業者」など、主として都市の中産階級・ホワイトカラー層が参加していた。だからと言って、初期のベースボールを「エリートだけのスポーツ」と考えるのは正確ではない。同時に、誰もが自由に参加できる労働者の大衆娯楽だったわけでもない。
クラブに参加するためには、ある程度の余暇が必要だった。また、服装を整えたり、仲間との社交に参加したりするための経済的余裕も必要だった。そのため、初期段階ではどうしても、余暇を持つ都市中産階級が中心になった。ニッカーボッカーズの場合は、特にその傾向が強かった。
1857年(安政4年)、ニューヨーク地域のクラブ代表が集まり、複数のクラブが共同でルールを協議し、統一する大会議(Base Ball Convention)が開催された。ここで決められた「Laws of Base Ball」は、
- 1チーム9人
- 塁間90フィート
- 9イニング制
など、現在のベースボールにつながる基本的な枠組みが定められている。しかし、現在と違うルールもいまだ多く、たとえば打球をワンバウンドで捕ってもアウトになる規則が残っていた。これは、アメリカ議会図書館から、野球の「Magna Carta(マグナ・カルタ)」と呼ばれるほど重要な文書とされている。
1858年(安政5年)、恒久的組織としてのNABBP(National Association of Base Ball Players)が成立した。
これによって初めて、
- 加盟クラブ
- 年次大会議
- 共通ルール
- 選手資格
- 試合に関する規則
- クラブ間の問題処理
といった、競技を継続的に運営する仕組みが生まれた。
こうしてベースボールは、地域ごとのゲームから、共通ルールを持つ組織的な競技へと大きく変化していったのである。
野球は「戦争的」なスポーツだったのか?
ベースボールについてもう一つ、興味深い問題についての検証がまだだった。それは、「ベースボールは戦争的なスポーツなのか?」という問題である。
日本の野球用語には、「刺殺」「挟殺」「死球」「犠打」「盗塁」など、現代の感覚では物騒に聞こえるとして、問題視された言葉がある。しかし、アメリカでは、公式用語を見てみると必ずしも同じではないことがわかる。
例えば、日本語の「死」にあたるアウトは、英語では単に out である。「死んだ」という意味ではなく、競技上「アウトになった」という状態を表している。
「死球」も hit by pitch、つまり「投球に当たった」という意味であり、「死」という言葉は入っていない。
一方、「盗塁」は stolen base であるため、steal という「盗む」に相当する語が使われている。
しかし、英語の公式野球用語そのものは、全体として比較的淡々としていて穏健だ。
野球を「描写する言葉」は、とたんに戦争的になる!
ところが、野球のプレーや打球を描写する言葉になると、一気に戦争的な比喩表現が増えるのだ。
例えば、「attack the hitter(打者を攻撃する)」「battle(戦闘=投手と打者が勝負する)」「firepower(火力=打線・投手陣の攻撃力)」「surrender(降伏=投手が点を許す)」「deploy(配備=選手・投手を投入する)」「breakthrough(突破口)」など、戦闘を連想させる言葉が多数使われている。
また、野球のプレーや試合を描写する比喩表現には、「smacked(強くひっぱたいた)」「crushed(打ち砕いた)」「walloped(ぶちのめした)」「destroyed(破壊した)」「punched(パンチを食らわした)」「pounded(叩き潰した)」「belted(締め付けた)」など、「叩く」「打ちのめす」「破壊する」といった激しい動詞も多い。
ホームランを「blast」と表現することもある。blast は本来、「爆発」や「爆風」を意味する言葉だ。さらに、実況や新聞の世界では「bomb(爆弾)」をホームランの意味で使うこともある。
つまり、アメリカの野球文化では、「公式ルールの用語は比較的穏健だが、野球を語る言葉には戦争や戦闘の比喩が大量に使われる」という特徴があるのだ。そこから野球を「戦争」の概念的メタファーによって分析する研究も存在している。
しかし、ここで注意しなければならないのは、アメリカ人が野球を「戦争そのもの」と考えているわけではないということだ。まあ、日本人にしたって、同じことだが。
「戦争の代用品」としてのスポーツ
第二次世界大戦前夜の1941年(昭和16年)、『The Sporting News』は、野球を、ライフルや銃剣、大砲、機関銃、飛行機による戦争ではなく、バットとボールによる battle という趣旨で表現していた。
野球も battle ではある。しかし、それは人を殺す戦争ではない。血を流すことなく競争を決着させる battle なのである。
少なくとも1941年のアメリカのスポーツ言説には、野球を「戦争ではないbattle」として捉える表現が存在した。そこでのスポーツは、現実の戦争とは違う形で、人間の競争心や対抗意識を表現する場なのである。
これはスポーツを、「実際の戦争とは異なる安全な競争」として捉える考え方を示していると言える。
「戦争」と「田園」の間にある野球
現在のアメリカでは、最も人気のあるスポーツとしてNFLのアメリカン・フットボールが挙げられることが多い。
アメリカン・フットボールには、「offense(攻め)」「defense(守り)」「blitz(電撃)」「bomb(爆弾)」「shotgun(散弾銃)」「formation(編隊)」「quarterback(司令塔)」など、軍事や戦闘を連想させる言葉が非常に多い。
アメリカ文化を説明するために、「football is war, baseball is the farm, basketball is the city」(ウィリアム・デレシエヴィッツ)という、それぞれを対比した言葉がある。(下記【出典】参照)
つまり、「フットボール=戦争」「ベースボール=農場・田園」「バスケットボール=都市」という文化的なイメージの違いを言っているのである。
これは、ベースボールがアメリカ文化の中で持つ、もう一つの顔を示している。
ベースボールは戦闘的な言葉によって語られることがある。しかし同時に、「家族」「少年時代」「夏」「地域社会」「田園」「アメリカそのもの」といった、牧歌的でノスタルジックなイメージとも強く結びついている。
だからこそ、baseball は現在でも「America’s national pastime(アメリカの国民的娯楽)」と呼ばれるのである。
それは単に「最も人気のあるスポーツ」という意味ではない。「アメリカ人の生活や記憶、地域社会や文化の中に深く根付いた娯楽」という意味である。
アメリカ人自身によるスポーツ文化論においても、ベースボールはフットボール、バスケットボールとともに、それぞれ異なる社会・文化の比喩として捉えられている。
少なくとも「ベースボール=戦争」という単純な図式が、アメリカ野球文化の基本的な特徴だった、と断定するのは難しい。
【出典】
The American Scholar”Metaphors We Play By” By William Deresiewicz
1845年は「誕生」ではなく「転換点」だった
こうして見てくると、1845年(弘化2年)のニッカーボッカーズ・ルールは「ベースボール誕生」を意味するものでないことは明らかだ。
イギリスには、1845年以前に、 base-ball を含む数多くのバット・アンド・ボール競技が存在していた。それらは北米に渡り、アメリカ各地でさまざまな形に変化した。
ニューヨークでは、都市のクラブ文化の中でルールが整理され、組織的な競技へと発展した。1845年は、その長い変化の過程における重要な転換点の一つだったのである。
19世紀のアメリカで形成されたベースボールは、イギリス諸島に存在したさまざまな球技、北米各地のローカルなゲーム、都市のクラブ文化、共通ルールの形成、大衆化、プロ化など、複数の要素が重なり合いながら成立した。
ベースボールは単なるスポーツではない。総体としての19世紀アメリカ社会が作り上げた、一つの文化だったのだ。
そして、ベースボールを語る言葉には、19世紀から現在まで、戦争や戦闘を連想させる比喩がしばしば用いられてきた。一方で、公式のベースボール用語そのものがすべて軍事用語から成立したわけではない。
このことは、日本の野球を考える際にも重要である。「刺殺」「挟殺」「死球」などの語が存在することと、それらが軍事文化から生まれたこと、さらに日本の野球文化そのものが軍隊的であることは、それぞれ別の問題として検証しなければならない。
まとめ
ここまで、宮城県高野連の野球用語見直しをめぐる各社の報道と、日本野球・アメリカ野球の歴史を見てきた。
明治期の日本では、外国から入ってきた baseball という新しい競技を日本語で説明するため、様々な訳語や比喩が試みられた。正岡子規の文章には、野球を「遊技」と紹介した上で、「戦争」にたとえて説明した具体的な例も確認できる。
しかし、ここから「現在の野球用語は軍事用語を語源としている」と結論することはできない。さらに、「戦争的な比喩が使われたこと」と、「日本の野球文化そのものが軍隊的であること」も別の問題である。
一方、19世紀以降のアメリカ野球を見ても、野球を battle や attack など、戦争・戦闘にたとえて語る表現は存在していた。したがって、戦争を連想させる言葉が使われていることだけを根拠に、日本の野球を特殊な軍事文化の産物とみなすことは慎重であるべきだろう。
また、今回調べてみて分かったのは、「正岡子規が野球用語を翻訳した」「中馬庚が『遊撃手』を作った」といった、現在広く流通している説明にも、史料を確認するとそのまま受け入れることのできないものがあることだった。
だからこそ、私は、
「言葉を変える前に、その言葉がどこから来たのかを知ろう!」
と言いたいのだ。
言葉を変えること自体が悪いわけではない。言葉は時代とともに変化するし、実際、明治期に作られた野球用語の中にも、現在では使われなくなったものが多数ある。
しかし、変更を検討するのであれば、まずその言葉がいつ、誰によって、どのような意味で使われ始め、どのような経緯で現在まで残ってきたのかを調べるべきではないだろうか?
そして、もう一つ忘れてはいけないのが、「野球の基本用語」と「指導者や観客が実際に発する言葉」とは別の問題だということである。
「刺せ」「殺せ」などの掛け声が子どもへの暴言や威圧につながっているのであれば、まず変えるべきなのは、そうした指導や応援のあり方ではないだろうか? 野球用語を変えるかどうかを議論することは、それからでも遅くない。――必要があればだが。
私は、長い歴史の中で使われ続けてきた「野球の基本語彙」は、一種の「文化遺産」として捉えたい。だからこそ、「消す前に調べる。変える前に考える。」それが大切だと言いたいのだ。

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