【第6回】いざ来いニミッツ、マッカーサー!『比島決戦の歌』で大騒動
2020.09.30
昭和19年(1944年)の発表曲
古関裕而がこの年に発表した曲数は、17曲。
大東亜戦争開戦以来、レコード発表曲数は年々減少傾向にあった。レコード盤原料の「物資欠乏」が一番の大きな理由であっただろう。
さらに、歌手も、作詞家も、作曲家も、楽団員も、戦地慰問に狩り出されていたために、思うようにスケジュールが組めないことも影響していたと思われる。
大東亜戦開戦前から「食糧不足」は始まっていたが、この頃には一層深刻になっていた。
作詞家・西條八十は、1月26日、茨木県下館に疎開し、早稲田大学へは、4月から週に2日だけ出勤して、戦時下ながら相変わらずフランス語の講義をしていた。八十の作詞の数も、古関同様、非常に少なくなっていた。
古関も、娘二人だけ福島の弟の家に疎開させ、古関と妻金子は東京に残った。古関の、主にラジオの仕事が忙しかったためだった。
この年の8月からは、「集団学童疎開」が実施された。縁故疎開はとっくに始まっていたが、疎開先の宛てがない家の子供も、割り当てられた地方に集団で疎開することが実施された。
10月には、フィリピン・レイテ沖海戦で、最初の「特攻」が行われた。
「神風特別攻撃隊」の出現は、日本人だけでなく連合国側にも衝撃を与えた。
『亜細亜は晴れて』(昭和19年1月25日)
戦闘機の「増産」を訴える歌である。
前線では、撃滅しても撃滅しても次から次へと補充され増加してくる敵戦闘機や爆撃機に圧倒されていた。
前年の昭和18年9月22日に、東条首相はラジオで「一億総蹶起」を呼びかけた。航空機生産を最優先に、食料完全自給の実現が東条首相の話の要項だった。
満洲やビルマには「米」が有り余っていたが、もはや、それを運ぶ「船」が軍隊に徴用されて無かったのだ。
銃後では、勤労動員や学徒動員で動員された人々が、産業戦士として兵器製造工場で働いており、彼らを励ます歌がたくさん作られた。
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/楠木繁夫
この歌の作詞をした西條八十は、このあと3月に、コロムビアの歌手・霧島昇の出征祝いとして『今ぞ召されて』(万城目正作曲)を書いて贈った。
召集令状を右手に握りしめた霧島昇が、この歌をレコーディングする写真が、各新聞に掲載された。
そうして霧島は、横須賀海兵団に入隊して行った。
『ヨカレン節』(昭和19年3月20日)
『若鷲の歌』以来の「予科練」の歌だが、こちらの曲は小唄風の曲調になっている。
古関裕而は自伝で、最初『若鷲の歌』の作詞には、歌詞の終わりに「ハア ヨカレン ヨカレン」という言葉が入っていて、前の部分とちぐはぐな感じがしたために、作詞した西條八十に話して、この部分をカットしたといっている。
しかし西條八十は、『若鷲の歌』に触れたどの文章でもこの点に言及しておらず、そもそも土浦航空隊側の「良い歌を」という依頼を受けた時の状況からして、若い「予科練生」の歌に、それも映画の主題歌に、「ハア ヨカレン ヨカレン」などという合いの手を入れるとは考えにくいので、私は古関の説は取らなかった。
古関の自伝には、けっこう記憶違いがあちこちに見られるし、この『ヨカレン節』に「ハー ヨカレン ヨカレン」という歌詞があることから、古関はこれと混同して記憶してしまっていたのではないだろうか?と考えた。
古関は、よほどヒットした曲でない限り、自分の作った曲でも忘れてしまっていることがよくある。戦後、『六甲颪』が話題になった時でさえ、最初は自分が作ったことを忘れていたくらいだ。
作詞/檜山陸郎 作曲/古関裕而 歌/霧島昇 近江俊郎
「予科練」を終えると、次は「飛練」つまり「飛行練習生」となる。
「飛行練習生」には「中間練習機課程」と「実用機課程」があり、土浦以外の航空隊に行って練習するのが一般的だった。そこを終了して、晴れて一人前の戦闘機乗りや爆撃機搭乗員、偵察機搭乗員などとして実戦部隊に配属されるのである。
「予科練」には、4種あった。
「予科練習生制度」は昭和4年に開設され、高等小学校修了以上の満14歳以上20歳未満の少年から志願を募った。
第一期生は、志願者六千名の中から合格者は79名という狭き門であった。
昭和12年よりこれまでの「予科練習生」は「乙種飛行予科練習生」に改められ、新たに「甲種飛行予科練習生」(甲飛)制度が設置された。募集資格は、旧制中学校4学年1学期終了程度とされた。
甲飛の目的は航空隊の下級士官養成であり、乙飛に比べ訓練期間が短く、失望する者も多かったという。『若鷲の歌』を作って募集しようとしたのは、「甲種飛行予科練習生」である。
このほかに「予科練」には、従来の「操縦練習生」「偵察練習生」を名称変更した「丙種」と、朝鮮学生や台湾学生などを対象にした「乙種(特)」が存在した。
大東亜戦争が激化し航空搭乗員の消耗が激しくなるに従って、「予科練」は航空戦闘員の短期・大量養成機関へと変貌していく。技量未熟なまま、特別攻撃隊の主体を担わされるようにもなっていく。
それでも特に貧しい家庭の少年たちには、費用はすべて国費持ちで中学終了程度の勉強ができるとあって、「予科練」は人気があったのである。
『制空戦士』(昭和19年5月20日)
「制空」とは「防空」と意味は同じである。
しかし、この歌『制空戦士』では、敵機来襲の危機と攻撃された場合の「消火活動」を訴えている。
4月2日、陸軍はB29が支那大陸の桂林飛行場に飛来したことを確認しており、ドーリットル隊による本土爆撃以来2度目の本土爆撃の可能性が高まっているのを察知していた。
歌の発表のタイミングが絶妙に思われるが、軍部や政府からの何らかの要請があったのかも知れない。
6月16日未明、B29は福岡の八幡、若松地区を無差別爆撃した。2度目の日本本土爆撃が現実のものとなったのである。
作詞/大木惇夫 作曲/古関裕而 歌/波平暁男 酒井弘 奈良光枝
『一億邀えうつ』(昭和19年5月20日)
この歌も、『制空戦士』と同じ意図のもとに作られた歌であろう。
6月8日、アメリカ「第二十航空軍」の《超空の要塞》ボーイングB29爆撃機部隊が、中国・成都から出撃した。日本本土爆撃を目的とする「マッターホルン計画」の発動であった。
済州島のレーダーがB29の編隊をとらえ、「不明機東進中」の情報が西部軍司令部に届いた。
出撃命令により樫出勇中尉は、愛機の「屠龍」で、7機の僚機とともに八幡上空で敵機を待ち受けていた。
樫出中尉の所属する陸軍飛行第四戦隊では、南方で捕獲したB17を使用して、夜間攻撃訓練を繰り返しており、三七ミリ機関砲(対戦車砲)を搭載した二式複座戦闘機「屠龍」を邀撃機として準備していた。
数十条の照空灯の光りの帯が夜空を嘗め回していたが、その光の中に姿を現したのは、B29の銀色の巨体だった。成都を出撃したB29は68機だったが、48機が北九州上空に達していた。
樫出中尉は、B17とは比較にならないB29の巨大さに目を瞠った。軽く「屠龍」の4倍はあるように見えた。
樫出中尉は、B29の巨体が照準眼鏡からはみ出すまで肉薄し、三七ミリ機関砲を発砲した。B29は片翼から出火し、やがて全身を炎に包まれて、遠賀川の左岸へと墜落していった。
この九州地方へのB29初空襲から終戦まで、樫出勇中尉はB29二十六機を撃墜したとされる日本陸軍のエースパイロットであった。これはB29の最多撃墜記録である。
作詞/大木惇夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男 奈良光枝
『水兵さん』霧島昇/歌(昭和19年5月25日)【映画主題歌】
この歌『水兵さん』は、松竹大船映画『水兵さん』(昭和19年5月25日封切)の主題歌である。
この映画は、海軍省軍事普及部の依頼で製作された、志願兵募集を目的にした日本海軍のPR映画であった。
歌手・霧島昇は、すでに徴兵されて海軍に入隊していたため、このレコーディングのためコロムビアでは海軍に根回しをして、霧島の出番を依頼していたが、レコーディング当日、本当に霧島が来るかどうかはわからない状態だった。
もしもに備えて、コロムビアでは霧島が来なかった場合は近江俊郎一人で歌ってもらう準備をしていた。
吹込みの当日、水兵服姿の霧島が、海軍の上官に引率されて、レコーディング室に姿を現した。
吹込みは無事に終了したが、吹込みが終わりそうになると、隣室で待っていた上官に、コロムビアの新人女性歌手やらコーラスガールやらが、しきりと話しかけ始めた。上官はすっかりのぼせ上ってしまい、誘われるままに地下の食堂へコーヒーを飲みに行ってしまった。
じつは、霧島の細君である松島操(コロムビアローズ)と逢引の時間を作ってやるために、コロムビア社員たちによってあらかじめ仕組まれていたものであった。
作戦はみごとに成功し、霧島は、原版倉庫に隠れて待っていた妻の松原と、悩ましいひと時を持つことができたのである。
霧島が何食わぬ顔をして戻ると、若い女性たちに囲まれてにやけた上官が、
「遅かったじゃないかあ」とだけ言って、叱りもしなかった。
作詞/米山忠雄 作曲/古関裕而 歌/霧島昇 近江俊郎
『海の初陣』(昭和19年5月25日)【映画主題歌】
こちらは映画『水兵さん』の挿入歌である。
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男 近江俊郎
『突撃喇叭鳴り渡る(一億総蹶起の唄)』(昭和19年6月10日)【国民合唱】
『突撃喇叭鳴り渡る(一億総蹶起の唄)』は、JOAK東京中央放送局のラジオ番組「国民合唱」で放送されたものだ。
日支事変当時は「国民歌謡」という番組タイトルだったが、1941年2月から「われらのうた」と変わり、大東亜戦争開戦とともに、1942年2月からは「国民合唱」と番組名が改変された。
何か「凄惨さ」さえ感じる歌詞だが、古関の曲がつくと、不思議と親しみやすくなる。
もはや、前線も銃後も、男も女も、老人も若者もなく、日本国民一億すべてが戦場にあり、その頭上で突撃ラッパが鳴り響いているのだという、軍部の要請に沿って作られた歌だった。
作詞の勝承夫は、『海を渡る荒鷲』『密林進撃』などの軍歌も書いてはいるが、「いつもいつも通る夜汽車」の『夜汽車』や「よい子の住んでるよい町は楽しい楽しい歌の町」の『歌の町』(戦後)など、唱歌・童謡で有名である。
作詞/勝承夫 作曲/古関裕而 歌/楠木繁夫 三原純子 近江俊郎
6月18日、米軍はサイパン島上陸作戦を開始した。
6月22日、天皇は「速やかに終戦を実現せよ」と指示をした。
『女子挺身隊の歌(輝く黒髪)』(昭和19年7月20日)
8月23日、「学徒勤労令」と「女子挺身勤労令」が同時に公布された。
女子挺身隊は、12歳から40歳までの女性が対象とされ、軍需工場などの戦争遂行機関に動員されたものである。
大東亜戦争の激化による軍需生産力不足に直面し、女性や学生までも生産戦士として活用すべく国民総動員体制の強化がされた。その中でも特に優先されたのが、戦争の帰趨を直接左右する航空機生産であった。
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/千葉静子
『同期の桜』(西條八十作詞)の変遷
『同期の桜』は、昭和15年ぐらいから、海軍兵学校で歌われていた。
本格的に人々が歌い始めたのは、昭和19年の夏ごろだった。
神風特別攻撃隊が編成される頃になると、海軍のどの特攻基地でも『同期の桜』は歌われるようになっていた。
戦後になっても、いや、戦中以上に戦後になってから、さらに多数の一般大衆に好んで歌われるようになったのが『同期の桜』だった。
しかし長い間、この歌は作詞・作曲者不詳として、誰によって作られたのか判らないままに全国的に広まっていた。
作詞/西條八十 作曲/大村能章 歌/松方弘樹
昭和42年3月18日、西條八十はコロムビアで、松方弘樹の『同期の桜』のレコード吹込みに立ち会っていた。
松方弘樹主演で東映映画『あゝ同期の桜』(昭和42年6月3日封切)が製作されていたのに合わせたものだった。B面の『あいつの消えた雲の果』も、八十の作詞である。
映画のオープニングでは、『同期の桜』のアカペラの歌が流れる中、満開の桜の映像にかぶせて、スタッフ等のクレジットが映し出される。「挿入歌」として『同期の桜』作詞 西條八十とされているが、作曲家の名前はない。
八十は、隣にいた森一也に、
「仰いだ夕焼南の空に、未だ帰らぬ一番機────というのは僕が作ったんじゃないけどうまいね」と語った。
少なくともこの時点でコロムビアでは、『同期の桜』の作詞が西條八十であることはわかっていたが、作曲家が誰なのかは不明だったようだ。
また八十自身、『同期の桜』の歌詞が、自分の作詞そのままではなく、戦場の兵士たちによって改作されて歌われていたことを知っていたし、特に三番の歌詞などは、まったく新たに付け加えられたものであったが、そのまま受け入れたようだ。
兵隊たちの戦場での実感が込められて改変された『同期の桜』の出来の良さが、八十にはわかっていた。
しかし、コロムビア以外の場所では、相変わらず『同期の桜』の作詞・作曲者は不詳のままだった。
昭和42年3月、『週間読売』は2回にわたって、「幻の作者を探る」という特集を組んだ。旧海軍兵学校関係者は、海軍兵学校七十一期生の砧佐裕をこの歌の作者としていることが判った。
昭和49年、ルポライターの児玉隆也が「『同期の桜』成立考」を書いた。
児玉が調査したところによると、砧佐裕は海兵在学中に、江田島の金本倶楽部という日曜下宿的なクラブで『二輪の桜』というレコードを聞き、自分の心情を託して改作したのが『同期の桜』だということだった。
砧佐は、昭和17年11月に海兵を卒業し、ソロモン海戦、トラック島空襲と転戦して、呉に帰港した。19年5月、大竹の潜水学校に入学すると、自分がクラブのレコードを聞いて作った歌が、あまりに広く歌われていることを知って驚いたという。
元海軍少尉船渡哲夫の回想によると、18年6月頃、横須賀海軍病院に入院中、日曜になると看護婦たちが傷病兵のために素人劇を演じてくれたが、その最後に看護婦たちは「君と僕とは」と『二輪の桜』(『戦友の歌』)を歌った。
三か月後、船渡少尉はトラック島に出撃したが艦が沈められて、19年6月に呉の隊に戻ると、みんなが「貴様と俺とは」と『同期の桜』を歌っていたということだ。
だが、砧佐が聞いたという『二輪の桜』のレコードは、レコード会社に問い合わせても、存在が確認できなかった。
昭和55年(1980年)3月、元海軍主計兵曹山下輝義が、自分が作詞の『神雷部隊の歌』と『同期の桜』が酷似しているとして、レコード六社に製作販売の禁止と損害賠償、ならびに著作権確認の訴訟を起こした。
「東京新聞」がこの裁判を報道した時、『少女倶楽部』(昭和13年2月号)に掲載された西條八十作『二輪の桜』を紹介したところ、サブタイトルに「戦友の歌」とあるのを見た音楽評論家長田暁二は、キングレコードに『戦友の歌』(昭和14年4月新譜)があるのを見つけて、新聞社に知らせた。
レコード各社に問い合わせても該当するものが見つからなかったのは、『二輪の桜』のタイトルで照会したためだった。
「東京新聞」の並木記者は、『戦友の歌』B面の『軍港千鳥』の作曲者斉藤潔の息子の所で、現物レコードを発見した。
藤家虹二にメロディの鑑定を依頼した結果、『戦友の歌』と『同期の桜』は全く同一であると確定した。
鑑定結果を受けて、東京地裁は昭和58年6月20日、原告の訴えを棄却したのだった。
『神雷部隊の歌』の方が、『同期の桜』の歌詞の一部を替えて歌ったものだったことになる。
じつはこれ以外にも、『同期の桜』の本当の作者は私だと名乗りを上げる例は、あとを絶たなかったという。「同じ兵学校の庭に咲く」という部分を、それぞれの部隊に合わせて改作され、歌われていたケースが数多くあったということだろう。
この裁判以降、『同期の桜』の作詞は西條八十、作曲は大村能章であることが確定した。
『二輪の桜─戦友の歌─』
詩/西條八十
君と僕とは二輪のさくら
積んだ土嚢の陰に咲く
どうせ花なら散らなきゃならぬ
見事散りましょ 皇国のため
君と僕とは二輪のさくら
同じ部隊の枝に咲く
もとは兄でも弟でもないが
なぜか気が合うて忘られぬ
君と僕とは二輪のさくら
共に皇国のために咲く
昼は並んで 夜は抱き合うて
弾丸の衾で結ぶ夢
君と僕とは二輪のさくら
別れ別れに散らうとも
花の都の靖国神社
春の梢で咲いて会ふ
(『少女倶楽部』昭和13年2月号)
『少女倶楽部』に発表された『二輪の桜』を少し変えて作詞したのが、キングレコード版『戦友の歌』だった。
『戦友の歌』はこちらで!
↓ ↓ ↓
ミロの軍歌入門その1 鶴田浩二『同期の桜』
確かに、歌の基本的な発想や詩の骨格は八十が作ったものだが、「君と僕とは二輪のさくら」を「貴様と俺とは同期の桜」と変えた、砧佐裕の功績は大きい。
このことによって、本当にリアルな兵隊たちの歌になったのだと言えるだろう。だからこそ、急速に軍隊内で広まり、驚くほどたくさんの部隊で替え歌が作られたのだ。
さらに驚くのは、八十が褒めた三番の歌詞を付け加えたのは砧佐裕ではなかったということである。砧佐以外にも別な歌の匠が軍隊にはいたらしい。
まさに「兵隊節」は、『万葉集』などと同レベルの現代版「歌謡」であった。
近代的な文学観では作者の個性や著作権が重視され、勝手な改変や引用は許されないが、近代以前の「歌謡」では、自由に引用され、新たな歌謡に仕立て上げられても何の問題もなかった。むしろそうして人々は「歌謡」を楽しんで来たのである。《詠み人知らず》が、「歌謡」の本然の姿でさえあった。
古関裕而の「インパール作戦従軍記」
「インパール作戦」の概要
昭和19年1月7日、大本営は「ウ号作戦」、通称「インパール作戦」を認可した。
印度のインパールは、印度から中国を繋ぐ援蒋ルートの要衝であり、此処を制圧することで、完全にルートの遮断をするとともに、連合国のビルマ反攻計画を阻止することを目的とした。
同時に、印度国内の反英運動を激化させることで、英国の戦争離脱も期待できた。
また、インパール作戦に参戦することを強く希望していた、スパス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍に応える政治的な意味もあった。
チャンドラ・ボースは、デリー進撃を企図し、祖国印度を英国から解放する悲願に燃えていた。
1月25日、ビルマ方面軍(司令官・河辺正三中将)の第十五軍司令官・牟田口廉也中将は、インパール作戦発動を指令した。
十五軍隷下の第三十一師団(佐藤幸徳中将、”烈”兵団)、第十五師団(山内正文中将、”祭”兵団)、第三十三師団(柳田元三中将、”弓”兵団)が、それぞれ北部・中部・南部から印度―ビルマ国境を越えて、インパール目指して進撃を開始した。
国境には、標高二〇〇〇メートルを超えるアラカン山系の急峻な山岳と深いジャングルがあり、その手前にはイラワジ河支流のチンドウィン河、マニプール河などが横たわっており、これを渡河して進む必要があった。
独立工兵連隊が山道啓開にあたり、トラック等は折畳舟艇に乗せたり、急造りの橋を渡って渡河したが、連合国軍の航空機が空から渡河点を狙って攻撃して来た。
制空権はすでに連合国側に握られていた。
日本軍は、航空機も高射砲も用意していなかったので、やられ放題だった。
英軍は空中補給により食料や弾薬を確保していたが、制空権を奪われた日本軍には、空中補給は期待できなかった。
五月中~下旬には雨季が訪れ、進撃路は豪雨と泥濘となり、河は激流となって渡河することは不可能となる。まして、後方からの食糧補給は、補給路がどんどん伸びていくので、いよいよ困難になる。
そこで牟田口中将が考えたのは、兵が携帯可能な最大量である二〇日分の食糧をそれぞれが背負って、その期日内に作戦を終了させることだった。突進と奇襲が、インパール作戦の基本計画となった。
古関裕而、「インパール作戦」に従軍する
インパール作戦は、開始直後は順調に進んでいるように思われた。
第三十一師団「烈」は、3月15日、チンドウィン河を渡河すると、4月6日、早くも「インド北東部の門」と言われるコヒマを占領してしまった。
内地の新聞・ラジオは、「インパール入城間近し」と大々的に報じた。
大本営は、インパール作戦に「特別報道班員派遣」を企画し、インパール入城の現場に詩人、作曲家、画家を送り込んで、詩人の感激の作詞に曲を付けて画家の絵を添えて発表し、国民の士気を盛り立てることを考えた。
作家の火野葦平は、みずから志願してインパール作戦従軍に名乗りを上げた。日華事変以来、数々の戦場に身を投じて来た火野であったが、今回は祖国の命運を決する最後の大作戦と思い、死を覚悟しての従軍だった。
火野のほかに画壇から宮本三郎が選ばれたが、送別会まで開いたものの出発の前日に急病を発して、向井潤吉がかわりに派遣されることになった。
向井は、一緒に行く作家は誰か聞いたところ火野だというので「そんなら行きましょう」と即答した。
火野と向井はともに「兵隊作家」「兵隊画家」として、戦場の実相を国民に知らせなければならない使命を認め合う仲だった。
文壇・画壇の二人とともに、楽檀からは古関が選ばれた。「軍歌」作曲の第一人者として、実績が買われたものだろう。
その頃、古関の母は福島市で病床にあった。
古関の子供も十二歳と十歳であり、長男として二つの生活の責任を背負っていることから、古関は辞退を申し出た。
「貴下に万一のことがあった場合は、靖国神社にお祭りいたします。ご母堂もそれほどご重態でもなさそうですし」というのが、軍からの答えだった。
なにもかも調べ尽くしたうえでの、軍からの命令であった。
古関はこれ以上あらがうことは諦め、不本意ながら承諾した。
大本営から「四月二十九日の天長節がインパール陥落予定日だから、急いで行ってくれ」と古関はせかされた。
四月中旬、朝日新聞記者の石山慶二郎が同行者として加わり、古関らは四名で羽田を飛び立った。
しかし、これは古関の記憶違いのようだ。
火野と向井は「雁ノ原飛行場」(福岡第一飛行場)から搭乗したことが、火野の『インパール作戦従軍記』に記されている。羽田から飛び立ったのは、古関と石山の二人だけだっただろう。
これ以外にも古関の『自伝』では、インパール作戦従軍に関して日時等の記憶違いがしばしば見られるので、いちいち断らずに私の判断で修正した結果だけを記すことにする。
火野の『インパール作戦従軍記』は従軍手帖6冊の復刻なので、一日ごとに詳しく記録されている。言葉で勝負する文学者らしく、また記録文学を得意とする火野ならではのこだわりが見られるので、信用性は高いと思う。
火野は、これらの日記を元に『青春と泥濘』という文学作品も発表している。古関は読者に、インパール作戦の最前線の情況がよく描かれているので、この作品を一読することを薦めている。
一方、古関の『自伝』は戦後だいぶたってから(昭和50年代)、出版社の求めに応じて古関の記憶にもとずいて書かれたものなので、そもそも文章にして発表するために記録をとる習慣は古関になかったのだろう。そこは音楽家と文学者の違いということで、責められるものではない。
10月25日9時、古関らが乗った新鋭重爆撃機は、福岡の雁ノ原飛行場を離陸した。客席などはないため、四人は狭い通路に荷物とともに座り込んだ。
八木操縦士、副操縦士、富澤機関士、通信士の四人が、重爆撃機の乗員だったことが火野の記録と向井のスケッチから推定できる。
通常の数の重爆搭乗員が乗り組んでいたとすれば、ほかに銃手と爆撃照準士がいたと思われるが、それは確認できない。重爆がビルマへの輸送用に使われていたのを見ると、或いは乗り組んでいなかった可能性も高い。
同日12時40分、上海・大場鎮飛行場に到着。上海に一泊。
翌4月26日9時、上海の飛行場を離陸。
12時43分、台湾の屏東飛行場に着く。鳳凰木、椰子、檳榔などの熱帯樹が、出迎えた。
夜、四人は、観山亭というレストランで、高砂ビールを飲んだ。
古関は下戸だったので、食事をしただけだったかもしれない。
ビフテキやオムレツなど料理がいくつも出て来て、勘定は88円とかだったので、その安さにみんなで大笑いした。
4月27日8時、屏東飛行場を離陸。海南島に1時間ほど立ち寄って、3時にサイゴンに到着。そこで一泊した。
古関は、アジアレコードという新会社立ち上げのため代表として赴任していたコロムビアの檜山と会い、火野にも紹介して、ショロンの町まで一緒に自動車で見物をした。
夜、翠光園という畳を敷いた日本料亭で、古関、火野、向井と、飛行機の四人を招いて一緒に食事会をした。
火野はタイガービールという地ビールを飲んだが、水っぽいばかりでまずかったと書いている。
向井画伯が酔いを発して、腹に顔を描いて「私のラバさん」を踊った。
4月28日9時30分、サイゴンの飛行場を離陸。
メコン河やカンボジア大平原を突っ切って行くと、アンコールワットの巨塔群が見えて来た。八木機長はアンコールワットの上を超低空で4、5周旋回してくれ、ゆっくり俯瞰することができた。
12時45分、バンコク、ドン・ムアン飛行場着。そこからバンコクの市街地までは、車で30分ほどかかった。
火野は、バンコクの朝日新聞支局で、ラングーンから帰って来たばかりの横田記者からインパール情勢を聞いた。
想像以上の苦戦で、最初4月29日の天長節といっていた入城予測がどんどん延びているという。コヒマ方面もとったりとられたりの激戦で、ラングーンは毎日のように爆撃があるということだった。
バンコクの市街地は、電車通りの目抜き街の片側が爆撃され廃墟となっていた。
その夜は、朝日支局の招宴で海天楼という支那街の料亭で、広東料理をご馳走になった。朝日の人たち、飛行機の人たちと一緒に、子豚の丸焼きという料理を古関は初めて食べた。
そこを出たあと、安っぽい場末の劇場に入った。客はあまり入っていなくてジンタが流れていた。「タイ不美人の猥褻ダンス。振袖で東京音頭。二階にかわり裸ダンス。汚く不快のみ。」と火野は書いている。
4月29日8時45分、ドン・ムアン飛行場を離陸。
ビルマとタイの国境の密林を抜けると、燦然と輝くラングーンのシュエダゴン・パゴダが見えて来た。古関は昭和十七年に慰問に来たラングーンの地を、再び踏むことになった。
10時45分、ミンガラドン飛行場着。飛行機の人たちとは、此処でお別れだった。
車でラングーンに向かった。火焔樹の並木が鮮やかだった。
コカイン・ヒルの朝日新聞支局に着いた。戦前は英国通信社の支社だったところで、広大な敷地の中央にメイン・オフィスの堂々たる建物があった。ほかにも、一号館、二号館、三号館と、いくつもの建物が建っていた。
ここが古関たちの宿所だった。一号館は向井画伯、二号館は火野、三号館は古関と、それぞれ一室をあてがわれた。
派遣軍宣伝部に行き、そこで火野は、古関を宣伝部部長の井上大佐に紹介した。
井上大佐は好々爺然とした人だったが、
「『露営の歌』はけしからん。死んで帰れなどと、兵隊は死ぬのが本意ではない、生きて帰らなくちゃいかん。憤慨にたえんので、自分の師団だけはこの歌をうたうなといったことがある。」と言った。
『露営の歌』を作詞した薮内喜一郎もラングーンに来ていると、澤山少尉が話した。薮内は当時読売新聞記者だったので、派遣されて来ていたのだろう。
火野が印刷屋に用事ができたというので、古関や向井たちも車に同乗してラングーン市内を見物することになった。
ラングーンは爆撃により広大な地域が廃墟となって、破壊され人ひとりいない家屋の残骸が続いていた。
パゴダの周りに人々は集まり、続々と家が建って、新しい部落が形作られつつあった。
宿舎に戻った古関たちは、庭の芝生に出て夕食になった。
ブーゲンビリアの濃いピンクの花がどこにも咲いていた。庭ではリスが遊び、部屋の中を雀が飛び回るというちょっとした楽園であった。
『ビルマ派遣軍の歌』(昭和19年)
翌日4月30日、古関たちは派遣軍司令部に行き、担当の青木参謀に挨拶した。
「インパール陥落は、まだまだです。しばらくラングーンで休養していてください。」と言われた。
なにやら内地で聞いた話とは違っていた。
その夜は皆で、庭で「豚肉のすき焼き」を囲んだ。
酔っぱらった火野が、へんな豊後浄瑠璃をうなって、みんなを笑わせた。
それからは毎日、古関たちは司令部に顔を出して戦況を聞いていたが、一向に進展を見ないようだった。
一日に三回はオフィスに集まり、記者や通信員の人々と雑談をしながら食事をしたり、お茶を飲んだりという生活が続いた。
5月6日、司令部へ行くと、青木参謀はインパール方面の地形が一目でわかる模型を見せてくれ、それを使って戦況を説明してくれた。
5月7日、満月の水祭があるというので、古関、火野、向井は、シェイダゴン・パゴダへ行った。
着飾った善男善女の人出が、堂宇にあふれていた。
この日の夕方、火野と向井は、インパール作戦の前線を見るために、古関を残してメイミョウへとミンガラドン飛行場を飛び立って行った。
古関は、インパール陥落後、参謀部と一緒に行くことになった。
出発前、火野は、司令部から頼まれていた『ビルマ派遣軍の歌』の原稿を、古関に託して行った。
古関はすぐに作曲することを約束した。
原稿に目を通すと、それは火野葦平らしい格調の高い詩であった。
作詞/火野葦平 作曲/古関裕而
火野と向井が出発すると間もなく、猛烈な雨が降り出した。
初めは二、三日で止むかと思われたが、止まずに降り続けた。
例年より早い「雨季」がやって来たのだった。
ラングーンの街は、道路が川のようになって、雨水が溢れかえっていた。
古関がいる建物も、床や柱に黒いカビがべったりと生え、置いてある家具や物にも、例外なくカビが蔓延っていた。
洗濯屋に出した衣類が戻って来たのを見ると、カビのせいで前よりも黒くなって返って来ていた。
部屋から傘をさしてオフィスへ行くと、懐中電灯が照らした草むらの中でピカリと光るのは、蛇の眼だった。
食堂で食事をしていると、ボーイたちが箒を持って走り回っている。
「何ですか」と古関が聞くと、
「サソリですよ。ほら、そこにも、ここにも」
指さす方を見ると、壁際に数匹のサソリがうごめいていた。ボーイたちが叩き潰してくれた。
ある日、軍医がやって来て、全員に注射をした。ラングーンでペストが発生したという。コレラの予防注射もやられた。
蔓延する悪疫に、古関は火野たちは戦場でどうしていることかと案じざるを得なかった。
『ビルマ派遣軍の歌』の作曲が出来上がった。さっそく古関は参謀部に持って行き、軍楽隊長と発表の方法を打ち合わせた。
古関は、ラングーンで各部隊から「部隊歌を作ってくれ」と頼まれてたくさん作ったことや、ビルマの踊りや歌の曲をじっくりと採譜したということを書き記しているが、『ビルマ派遣軍の歌』をどこかで発表したということは一切書いていない。
本来であれば、インパール作戦に派遣された以上、まずもって『ビルマ派遣軍の歌』を現地部隊に届けることが優先されそうに思うが、或いは、この直後、古関がデング熱を発病したために、発表まで至らなかったことが考えられる。
三十八度の熱が出て、熱帯特有の病気・デング熱とわかったが、古関の発熱は十日ほど続き、やがて全快した。途中、このまま死ぬかもと思った時もあったが、デング熱で死ぬことはないという。
前線から戻って来る従軍記者たちが、悲惨な戦況を古関たちに伝えた。
英空挺部隊がジャングルに降下したことや、猛烈な雨のために河川が氾濫したり、道路が崩落しているという。
火野と向井の安否が気遣かわれるようになっていた。
降り続いた雨の勢いがやや衰えた7月、古関は石山記者等とともに、インド国民軍の兵舎を訪れた。チャンドラ・ボースはメイミョウを本拠地としていたためいなかった。
軍楽隊が彼等インド国民軍の軍歌を演奏してくれた。軍楽隊と言っても、ドラムとハンド・オルガンだけの簡単なものだった。
その中で、古関は「印度国歌」(ヒンドスタン・ハマラ)と「デリー進撃の歌」が面白いと思い、その場で採譜するとともに、石山記者に歌詞を翻訳してもらって、楽譜に歌詞を割り当て、ピアノ伴奏をつけたものを、日本の派遣軍軍楽隊に渡したらたいへん喜ばれた。
インド愛国歌『ヒンドスタン・ハマラ Hindustan Hamara』
タイトルは「インドは我等のもの」という意味らしい。
古関は『自伝』の中で、「印度国歌」(ヒンドスタン・ハマラ)と書いているが、現在のインド国歌は『ジャナ・ガナ・マナ』で、『ヒンドスタン・ハマラ』は愛国歌となっている。
なので、ここでは愛国歌『ヒンドスタン・ハマラ』の方を紹介しておきたい。
インド国民軍軍歌『征け征けデリーへ』
古関が「デリー進撃の歌」といっているのは、この『征け征けデリーへ』だろう。
なるほど、インドの軍歌とはこういうものかという、なっとくの一曲だ。
7月4日、スパス・チャンドラ・ボースは、シンガポールで開催されたインド独立連盟総会の壇上で、数万のインド国民軍将兵とインド人大衆に向かって演説した。
ボースは、力強くインドの英国からの武力解放を訴え、演説の最後をこう締めくくった。
「チャロー・ディッリー!(進め、デリーへ!)」
インド人大衆は、熱狂的な声援でそれに応えた。
『Chalo Delhi (चलो दिल्ली)』(原語版)
『コヒマ戦記』【兵隊節】
歌詞のみが児島襄の『太平洋戦争(下)』で紹介されているが、歌詞の内容から推測して山中みゆきの『ほんとにほんとに御苦労ね』(野村俊夫作詞)の替え歌であろう。『軍隊小唄』だけでなく、軍隊内で様々な替え歌となって歌われていたことがうかがわれる。
『コヒマ戦記』
昼は飛行機 夜は迫(撃砲)
雨と降りくる 弾の中
今日も出て行く 肉攻班
お国のためとは いいながら
ほんとに ほんとに ご苦労ね
雨のアラカン どこまでも
担架かついで さまよえど
米の補給は さらになし
糧を求めて 移動する
ほんとに ほんとに ご苦労ね
向井潤吉画伯、前線より帰還する
7月4日、大本営はインパール作戦の失敗を認め、作戦中止命令を出したが、前線にはその情報がすぐには届かず、戦闘を続けていた。
8月になると、向井潤吉が一人で戻って来た。
火野は、7月29日、マンダレーで足掛け4か月のビルマ従軍を終え、そこからは彼の原隊である一一四連隊が戦っている、中国国境の雲南戦線へ向かったため、向井とは別れたのだった。
その夜、オフィスで、古関らは、向井が体験して来た前線の惨状を、夜が更けるのも忘れて聞き入っていた。
大雨と泥濘の中の行軍、兵隊たちを襲うマラリア・コレラ・アメーバ赤痢・脚気などの悪疫疾病、前線へ食料の補給もせず攻撃命令のみを発する参謀、向井は自身が描いたスケッチを示しながら語った。
8月27日、火野は、メイミョウまで雲南戦線から帰って来ていた。そこで火野は、朝日の記者から、古関はしばらくバンコクに滞在するので、『ビルマ派遣軍の歌』はそこで作曲して、ラングーンに送る手はずになっていると聞いた。
じつは8月6日、古関、向井、石山記者は、すでにラングーンを立って帰国の途についていた。
古関だけは、仏印派遣軍司令部から公文書で、サイゴンへ立ち寄ってもらいたいと連絡が来ていて、シンガポールで飛行機を降りてサイゴンへ向かわなければならなかった。
よって、火野が聞いた「バンコク」というのは「サイゴン」の誤りだったろう。
ここでひとつ疑問が起きる。
古関の『自伝』によると、『ビルマ派遣軍の歌』はだいぶ前に完成していたはずだ。しかし、火野が聞いた内容からは、まだ古関は作曲していないと受け取れる。どちらが本当なのだろう?
また、古関の『自伝』によると、火野はすでにラングーンに帰還していて、過酷な戦場の情況を古関らに話したり、また、一緒の飛行機でにラングーンを飛び立ったことになっているが、火野がラングーンに着いたのは9月2日のことである。そして、9月3日に大本営の飛行機に同乗させてもらって、帰国の途に就いている。古関らとは最後まで別行動をしており、古関たちに戦況報告をしたり、一緒に帰国してはいないことになる。
古関の記憶は、かなり曖昧に思われる。
シンガポールで古関は、東京の朝日新聞本社からの一通の電報を受け取った。そこには8月5日に母が福島で亡くなったとあった。
古関は母が死んだことを知って、打ちのめされた。その夜は一睡もできなかった。
古関の母は、五年前に父が亡くなってからは女中と二人きりで暮らしており、直近の一年間は中風のため寝たきりの生活をしていた。
古関は、従軍前に母のもとを訪れたかったが、多忙のため果たせず、帰国してからすぐに行くつもりでいたのだった。
サイゴンに着くと、司令部の将校二名とアジアレコードの檜山、詩人の奥野椰子夫などが古関を出迎えた。
そこで古関は、このまま直行で帰国したい旨を申し入れたが、
「軍の計画としての行事があり変更できないので、ぜひ降りていただきたい」と、軍はあくまでも強硬だった。
古関が参謀部に直行すると、武人らしい風貌の河村参謀長が、古関の母の死を悼んだうえで、仏印派遣軍の歌を作曲してほしいこと、陸・海軍の慰問をしてほしいこと、残留フランス人と現地人のための音楽会開催などを依頼して来た。必要なものは調達してくれるということだった。
宿舎のマジェスティック・ホテルの古関の部屋に、さっそく兵士数名がピアノを運び込んだ。注文した五線紙も届いた。
翌日、古関は音楽会で演奏するバンドを探して、市内のキャバレーやレストランのバンドを聞いて回った。「大世界」というキャバレーの、メンバーの大部分がフィリピン人のバンドを使うことに決めた。
8月18日、日本文化会館主催で、「古関裕而音楽と映画の夕」が、エデン映画劇場を会場にして開催された。
入場者は招待客だけで、陸・海軍高官、総領事、日本人会、コーチン・チャイナの知事、サイゴン市長、フランス軍関係者、タイ総領事、ドイツ、フランスの外交官、安南の著名人等、約七百名になった。
映画は「日本ニュース」「世界ニュース」「水泳日本」が上映された。
演奏は、 最初にワルツ『南国の朝』をバンド演奏、日本人小学校の生徒による童謡三曲の合唱、台湾系歌手の黄さんのソロ、『派遣軍行進曲』『民謡集』と続いた。
アンコールもあって、古関は大いに面目をほどこした。
休憩に入ると、フランス人などが控室に大勢入って来て、口々に褒めてくれた。
それからも数回の慰問演奏をして、喜ばれた。
帰国と羊羹
これで帰国できるかと思ったが、ホテルは内地行きの飛行機の空席を待つ大勢の将校たちで溢れており、一か月も待っているという人もいて、古関は席が取れるか心配になった。
それとなく参謀長に話すと、すぐに担当将校を呼んで席をとってくれたので、古関は待っている人たちに済まないような気がした。
帰国の日が来ると、参謀長は、
「君はお酒を飲まないから」と言って、フランス製の大形チョコレート五十枚と、急いで作らせたという羊羹五十本。それと『仏領印度支那の音楽考』仏文上下二冊、ラオス族の民族楽器等をそろえて、
「おかげで何よりの慰問と、現地人との友好に役立ってくれてありがとうございました。お母様のご冥福を祈ります」と丁重な挨拶をした。
大勢の関係者に見送られて、古関はサイゴンの地を後にした。
飛行機は羽田行きの直行だったが、福岡に着陸して軍人二、三名を降ろすと、突然空襲警報が鳴り響いた。
乗客も待避すると、この便は此処で打ち切りという発表がされた。
やむなく福岡に一泊して、翌日東京行きの汽車に乗った。
途中で古関が弁当を買おうとすると、外食券がないとダメだと断られてしまった。しまった! 宿で作ってもらって来るんだった!と思ったが、もう遅い。
向かいの席の品のいいお婆さんが、大きなおにぎりを、うまそうなたくあんで食べ始めた。
古関は、サイゴンで貰った羊羹を一本取り出して、思い切ってかぶりついた。
お婆さんはびっくりして、しばらく古関が羊羹を食う姿にみとれていた。
古関は、お婆さんに事情を話して、
「すみませんが、そういうわけで弁当を持っていないので、この羊羹一本とおにぎり一個と交換してくださいませんか」と言うと、お婆さんはニコニコして、
「一つと言わずに二つ取ってください。羊羹など何年も食べてなくて夢に見ていたくらいです。ありがとう」と、逆にお礼を言われた。
その後は、羊羹ばかり食って、東京に着いた。
帰宅すると、妻に留守中の苦労を謝し、母の臨終の模様を聞いた。葬儀は、古関の帰国を待って、まだ行っていないということだった。
9月5日、郷里福島で、母の葬儀を執り行った。亡くなってから、ちょうど一か月がたっていた。
集団学童疎開、始まる(昭和19年8月)
7月にはいる頃には、軍部はサイパン戦の帰趨が解っており、勝機は限りなく薄かった。
政府は6月30日の閣議で「学童疎開促進要綱」を決定した。
縁故疎開を原則とするが、それができない東京都、横浜市、川崎市、横須賀市、名古屋市、大阪市、神戸市、尼崎市、小倉などの、国民学校初等科の三年生から六年生を対象とした「集団疎開」を実施することを決めたのである。決定・実施までのスピードは、かなり早かった。
「集団疎開」は、あくまで「勧奨」であり、「保護者の申請により」実施されるたてまえだが、実質は強制であった。命が助かることを強制されるのだから、文句を言う理由もないだろう。
昭和19年7月9日、サイパン島がついに陥落した。すぐに発表されることはなく、サイパン玉砕の大本営発表は、7月18日である。
この日、ついに東条内閣は総辞職に追い込まれた。
サイパン島が戦場になったり、北九州がB29による空襲を受けたことで、国民の間に不安が広がり、反東条政府の声が高まっていたのだった。
次期内閣は小磯内閣となり、「七割決戦」を歌ったが、国民の間では《決戦思想》がもてはやされるようになり、軍部は危ぶんだ。政府のおこなって来た「戦意高揚政策」は十分すぎるくらい国民に浸透し、国民の士気はあがっていたし、なにより新聞が「決戦」を煽っていた。
『決戦の海』(昭和19年9月中旬)【国民合唱】
作詞の与田準一は、児童文学者で詩人だ。
この歌のほかに、戦時歌謡で有名なものに『父母の声』(草川信作曲)の作詞がある。『父母の声』は、7月ころ東京中央放送局の「国民合唱」で放送されている。疎開児童を歌った歌である。
作詞/与田準一 作曲/古関裕而・佐々木すぐる 歌/伊藤武雄
『父母の声』(昭和19年7月)【国民合唱】
作曲の草川信は、『夕焼け小焼け』の作曲で知られる。
この曲のレコードはコロムビアから出ているが、やはり、こういう歌の作曲は、古関には回ってこないのだな。
作詞/与田準一 作曲/草川 信 歌/山上万智子
『あゝ紅の血は燃ゆる』野村俊夫作詞(昭和19年9月)
古関の同郷の友、野村俊夫作詞の『あゝ紅の血は燃ゆる』がこの年発表された。作曲は古関ではないが、紹介しておく。
この歌は、戦後になって「学徒出陣」の歌だと思われているようだ。テレビドラマなどで、学徒出陣の映像にかぶせて、この歌が流されるのをよく見かける。
だがこの歌は、「学徒(勤労)動員」の歌であって、「学徒出陣」の歌ではない。
昭和19年8月23日、「学徒勤労令」が発布された。
中等学校以上の生徒・学生は、男女を問わず、軍需工場での兵器生産や食料生産のため農作業に動員されることになった。
『あゝ紅の血は燃ゆる』は、この時に、「軍需省推薦歌」として作られたものである。
学徒が動員されている工場でたいへん喜ばれたようだが、森一也が女子挺身隊のいる工場へ、アコーディオンを持って歌唱指導に行った時は、「軍歌の焼き直しみたい」とか、「もっと明朗な歌がいい」とか、評判はさんざんだったそうだ。
「学徒動員」の歌として歌うには、いささかこの歌は《勇ましすぎた》のかもしれない。
しかし「学徒出陣」の歌と思って歌うと、勇壮さや悲壮感でこれほどぴったりした歌も他にないのも事実である。ゆえに、いつの間にか人々に「学徒出陣」の歌として歌われるようになったのだろう。
それも、ひとつの《歌》の在り方であるに違いない。
作詞/野村俊夫 作曲/明本京静 歌/酒井弘 安西愛子
『雷撃隊出動の歌』(昭和19年11月20日)【映画主題歌】
『雷撃隊出動の歌』は、東宝映画『雷撃隊出動』(昭和19年12月7日封切)の主題歌である。
「雷撃」とは魚雷攻撃のことで、航空母艦搭載の艦上攻撃機によって行われる。
この映画では、九七式艦上攻撃機の雷撃シーンや艦上攻撃機「天山」が空母「瑞鶴」から発進する実写が見られる。
大本営海軍報道部企画、海軍省後援なので、戦闘機の実機も多数出演し、円谷英二の特撮による戦闘シーンとともに、見ごたえのある映画となっている。
艦上攻撃機による「雷撃」は、海面すれすれを敵艦の艦砲射撃を浴びながら進撃し、敵艦にぶつかる直前まで肉薄、魚雷を発射して急上昇して離脱するという決死的攻撃を身上とする。「一機で一艦を葬る」のが雷撃精神であり、日本がこの戦争に勝利するにはこれしかない、と映画の中では語られている。
だが映画の最後で、主人公の艦攻は自爆攻撃をして終わる。見終わって、なんら希望も感じられないし、明るい気持ちにはなれない映画である。
自爆攻撃そのものは、ミッドウェイ海戦において、空母「飛竜」母艦攻撃隊の友永丈市大尉によって為されたのが最初だが、これはいわゆる「特攻」ではない。状況判断から個人的に行った、単発のものであった。
作詞の米山忠雄は、海軍報道部の嘱託で、海軍報道部というのは「宣伝報道」が任務であり、占領地での「文化工作」にも関わっていた。
『桃太郎の海鷲』『桃太郎海の神兵』などのアニメ映画も、『ハワイマレー沖海戦』『決戦の大空へ』などの国策映画も、海軍報道部の指導の下に製作されている。
米山は、軍歌『轟沈』などの作詞もしているが、映画製作の担当をしていたようで、アニメーション映画を国家のプロパガンダや科学教育の手段として活用する必要性を訴える文章を発表したりもしている。
のちに古関も、アニメ映画『桃太郎海の神兵』の映画音楽を担当することになるが、あるいは米山忠雄とのつながりから依頼されたとも考えられる。
『雷撃隊出動の歌』(昭和19年11月20日)
この主題歌は、画面にかぶせて流れるという使い方はされず、飛行場を襲撃した敵大型爆撃機部隊を邀撃したあとの、南十字星が輝く夕空の下で祝宴が開かれるシーンで、それぞれのチームが、『雷撃隊出動の歌』と『男散るなら』を放歌高吟するという形で使われている。
三番の冒頭から、急にメロディが変わりテンポが遅くなるが、これは『加藤隼戦闘隊』で途中から短調に変わるのを参考にした、と古関は言っていたそうだ。より悲壮感を際立たせるために採用したテクニックだった。
作詞/米山忠雄 作曲/古関裕而 歌/霧島昇 波平暁男
『男散るなら』 米山忠雄作詞 鈴木静一作曲
もう一曲、同映画の挿入歌を米山忠雄が作詞しているので、古関の作曲ではないが紹介しておく。作曲の鈴木静一は、本映画の音楽監督である。
こちらの曲は、出撃シーンのバックに曲だけで流れるシーンもある。
作詞/米山忠雄 作曲/鈴木静一 歌/霧島昇
軍歌『雷撃隊の歌』(昭和20年1月新譜)【参考】
この歌は、海軍兵学校第六十九期生の航空要員が、卒業制作として作詞・作曲したものであり、映画『雷撃隊出動』とは無関係である。
霧島昇の歌で、海軍軍楽隊の演奏のもとに、昭和20年1月新譜(昭和19年12月発売)としてコロムビアからレコードが出たが、すでに作詞・作曲者は、南海に散華したあとだったという。
軍隊内で作られた《雷撃隊》の歌として、参考までにあげておく。
作詞・作曲/海軍雷撃隊 歌/霧島昇 演奏/海軍軍楽隊
『母も戦の庭に立つ』(昭和19年12月20日)
作詞/朝倉安蔵 作曲/古関裕而 歌/波平暁男 松原操
古関は、この年、35歳になった。
誤報から生まれた『台湾沖の凱歌』『フィリピン沖の決戦』(昭和19年)
大本営が、日本本土防衛と時間稼ぎのための「七割決戦」作戦を考えている頃、アメリカ軍は、フィリピン攻略への着手を決定していた。
両軍はフィリピン・レイテ島沖にて激突交戦するが、その前哨戦として台湾沖航空戦が行われることになった。
レイテ沖海戦では、最初の神風特別攻撃隊の4機が、アメリカ護衛空母隊に体当り攻撃した。
比島沖決戦の大戦勝報道に国民が沸き立っていた頃、古関は『台湾沖の凱歌』『フィリピン沖の決戦』『嗚呼神風特別攻撃隊』の三曲を作曲し、いつものようにすぐにラジオで放送することになった。
『台湾沖の凱歌』『フィリピン沖の決戦』のレコードは両面カップリングされて、翌20年2月20日に発売された。『嗚呼神風特別攻撃隊』のレコードも同日発売された。
もう少し詳しく、当時の状況を見てみよう。
参謀本部「捷号作戦」を策定
サイパン戦後に残った日本軍の戦力は、第一線空母が「瑞鶴」「千歳」「千代田」「瑞鳳」の四隻にすぎず、航空機は陸海軍併せて約二五〇〇機(実動約一五〇〇機)まで減っていた。
これでは、もはや、一度失った制海権・制空権を取り戻すことは不可能である。
B29による本土工業地帯への爆撃がこれから始まるだろうが、それを防ぐ手立てはすでになかった。
参謀本部第二十班(戦争指導)も、すでにこの戦争は終末期に入ったと見ていた。
広大な占領地の防衛に回すだけの国力・戦力はもはやない。ここまでくれば、本土防衛に集中し、そのための時間を稼ぐために、可能な限り敵に大打撃を与えて、本土防衛体制確立に努力するしかない。
この「七割決戦」案に基づいて、「捷号」作戦計画が立てられた。
「フィリピン」「台湾・琉球方面」「本土」「北海道・千島・樺太方面」の4方面を決戦場と定め、敵の来攻が予測される順にそれぞれ捷一号~四号作戦と名付けた。
敵の攻撃に応じて、決戦を挑む作戦である。
8月3日、テニアンでは角田海軍中将が部下とともに玉砕。
8月11日、グアムで、小畑、高品両陸軍中将の部隊が玉砕。
両島の戦いにおける戦死者は、島民を入れて約3万にのぼった。
雲南・ビルマ国境では、遠征中国軍第一、第二十集団がなだれ込んでいた。
9月8日、西部ニューギニアのビアク島では、葛目連隊が玉砕した。
日本の絶対防衛ラインは、急速に縮小しつつあった。
台湾沖航空戦
ニミッツ、マッカーサー、ハルゼー大将らは、フィリピン攻略に動き出していた。
10月9日、ハルゼー大将は、指揮官アラン・スミス少将に「できるだけ騒々しく動いて、大艦隊接近の印象を日本に与えろ」と命じ、南鳥島を襲撃させた。
翌10日、効果十分と見たハルゼー大将は、沖縄、奄美大島、南大東島、宮古島などに340機を飛ばして襲わせた。日本軍の損害は、飛行機45機、艦艇22、船舶4隻にのぼった。
11日、ハルゼー部隊はルソン島北部のアパリ飛行場を襲い、12日には台湾南部を攻撃した。これがハルゼー大将の本来の目標であり、レイテ上陸作戦の支援攻撃だった。それ以外は、陽動作戦だった。
19日、参謀本部は午前零時をもって「捷一号第一次発動」を命じた。軍令部も連合艦隊に発動を許可し、連合艦隊は午後5時32分、捷一号作戦発動を下令した。
南九州、台湾には、第二航空戦隊が展開しており、12日から15日にかけて、ハルゼー部隊を求めて毎日出撃した。
15日に大本営が発表した台湾沖航空戦の戦果は、空母11隻撃沈、八隻撃破という大戦果だった。
ラジオでは大本営発表の戦果を発表し、新聞は久しぶりの大戦果を派手に報じ、天皇は連合艦隊に嘉賞の勅語をくだすなど、国民を狂喜させることとなった。
「敵兵力の過半を壊滅」と書いた新聞まであったが、実際には、重巡「キャンベラ」「ヒューストン」の2隻が大破しただけだった。
実戦未経験の搭乗員が、味方機の自爆を敵艦轟沈と見誤ったり、海面着弾を命中と誤認したのが原因だった。
9月9日にも、ミンドロ島ダバオで、監視員が波のきらめきを敵上陸用舟艇の大群と見間違え、守備部隊が撤退したり、大本営が「捷一号作戦」を警戒発令するという大騒ぎがあったばかりであった。
もちろん、そのような軍の不祥事が新聞に載ることはなかった。
その後、敵空母13隻発見という偵察機からの報告を受けた豊田長官は、台湾沖航空戦の戦果を疑い始めたが、陸軍にそれを伝えなかったため、大戦果を信じた陸軍に、その後の比島決戦において作戦判断を誤らせることになるのである。
『台湾沖の凱歌』(昭和20年2月20日)
作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而 歌/近江俊郎 朝倉春子
比島沖海戦(レイテ沖海戦)
10月20日、米軍がフィリピン・レイテ島に上陸した。
(工事中)
『フィリピン沖の決戦』(昭和20年2月20日)
「フィリピン沖の決戦」とは、現在で言う「レイテ沖海戦」のことである。
作詞/藤浦洸 作曲/古関裕而 歌/伊藤武雄
『嗚呼神風特別攻撃隊』(昭和20年2月20日)
福島県出身コンビによる作品。
(工事中)
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
『比島決戦の歌』が呼んだ悲喜劇
昭和19年12月19日、レイテ作戦は終了した。すでにアメリカ軍は、ミンドロ島にも上陸を始めていた。ルソン島に歩を進めるのも間近であった。
読売新聞社は、国民の士気を鼓舞するために、公募によらずに、作詞を西條八十に、作曲を古関裕而に依嘱することによって、新作戦時歌謡を製作することを決めた。
読売新聞社から、記者で音楽評論家の吉本明光と美川徳之助が、八十のもとに作詞を依頼に来た。そうして『比島決戦の歌』ができた。
八十の詞ができると、読売は歌詞の検討、作曲者への注文、完成後の発表会などを議題に会議を開いた。八十と古関、読売幹部、軍部の将校などが集まって、意見を交わした。
詞に関しては、これで良しと決まりかけた時、某将校が、
「自分が小さい時歌った小学唱歌『水師営の会見』の中に、敵将ステッセルの名が入っているのが非常に強く印象に残っている。この際、ぜひとも敵のマッカーサーとニミッツの名前を中に入れてくれ。敵将の名前を国民に印象付けることが一番だ。」
と、強硬に主張して譲らなかった。
八十は、
「そんな勝手なことを言われても入る余地はないし、人名を入れるのは断る。」
と語気を強めて反論した。
だが将校も一歩も引かず、最終的に八十が折れた。
レイテは地獄の三丁目
出て来りゃ地獄へさか落とし
とあったところを、
いざ来いニミッツ、マッカーサー
出て来りゃ地獄へさか落とし
と、無理矢理変えられた。
昭和19年12月10日、『比島決戦の歌』は読売新聞紙上で発表され、17日にラジオ放送もされた。以後、何度かラジオで流されたようだ。
詩人・作詞家の白鳥省吾は、当時、妻の故郷の千葉県九十九里に疎開していたが、地元の国民学校の生徒たちが毎日のように「出て来いニミッツ、マッカーサー 出て来りゃ地獄へさか落とし」と歌っているのを聞いている。
それから暫くして、「いざ来いニミッツ、マッカーサー 出て来りゃ地獄へさか落とし」と書かれた、大きく長い垂れ幕が丸ビルの屋上から下げられた。
有楽町のビルの屋上にも、同じ文句の大看板が掲げられた。
これを見た有識者ばかりか一般庶民も、憎むべき敵将とはいえあまりの罵言にいささかたじろいだ。
詩人や国学者など百人ほどが、「行き過ぎた良識なき行為は、今後日本文化の名誉のために慎まれたい」と、情報局に対して申し入れを行ったのであった。
古関の記憶によると、『比島決戦の歌』は『神風特別攻撃隊の歌』と一緒に発売されるはずだったが、実際には製造されなかったという。『神風特別攻撃隊の歌』は、西條八十作詞のもので、野村俊夫作詞の『嗚呼神風特別攻撃隊』とは別物である。
終戦になって、八十は茨城県下館の疎開地で、
「西條八十が進駐軍によって絞首刑にされるだろう。それは、読売新聞に発表した〈出て来いニミッツ、マッカーサー 出て来りゃ地獄へさか落とし〉というひどい詞句のためだ」という新聞記事を読んだ。
読売記者の吉本明光もその記事を読み、八十に手紙をよこした。
「あの繰り返し句はあなたの創作ではない。あの時、レコード吹込みに立ち会った参謀本部の軍人たちが創作して無理に入れさせたものだ。いざという時には、ぼくが生証人に立ちます。」と書いてあった。
八十は、一応は覚悟をして、絞首刑になった時口元がだらしないのはみっともないと思い、歯の治療に通い始めた。
しかし、結局、何事も起こらずに終わってしまった。
これも終戦直後のことだが、進駐軍が東宝撮影所に見学に来ることになった。
東宝の連中は、米兵のジープが門を入って来ると、歓迎の曲として『比島決戦の歌』の試聴版レコードを流した。
日本語のわからない米兵たちにも、「ニミッツ マッカーサー」だけは分かるので、大喝采だったという。
子供と米兵にはうけた『比島決戦の歌』!
『比島決戦の歌』(昭和19年)
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/酒井弘 朝倉春子
戦後、古関は何度か『比島決戦の歌』のレコード化の打診を受けたが、「あれだけは勘弁してくれ!」と言って、最後まで断り続けた。
古関にとっては「いやな歌」という思い出しかなかったのである。
映画『桃太郎海の神兵』(昭和19年12月)
日本最初の長編アニメ『桃太郎の海鷲』
昭和20年(1945年)の発表曲
昭和20年は、B29の東京空襲とともに明けた。鳴り渡る空襲警報が、「除夜の鐘」代わりだった。
もっとも、この頃のほとんどの寺には、金属供出に出してしまって、除夜の鐘を衝くべき当の「鐘」が無かったのであるが。
古関裕而がこの年発表した曲は、レコードによるものが5曲と、ラジオ「国民合唱」で放送したものが2曲のみである。そのほかにアニメ映画『桃太郎海の神兵』の映画音楽を作曲しているが、その分はカウントされていない。
生涯でもっとも少ない発表曲数だが、日本敗戦の年となれば、軍歌(戦時歌謡)にすべてを注ぎ込んで来た古関にとって、誰よりも精神的打撃は大きかったはずだ。
5月20日、『ほまれの海軍志願兵』(西條八十作詞)をJOAKで放送したのを最後に、この年の作曲活動は途絶えている。
だが、ラジオの仕事が忙しくて、娘は疎開させても自分は東京に残っていたくらいなので、放送用に何がしかの作曲はしていたのかも知れない。
『特別攻撃隊「斬込隊」』(昭和20年4月1日)【国民合唱】
「斬込隊」とは、地上戦での「奇襲攻撃隊」の日本軍での呼称である。レイテ戦やサイパン戦においては、空挺部隊の敵中降下において「斬込隊」の名称が使われている。沖縄特攻「義号作戦」でも空挺部隊が降下作戦を実行して、やはり「斬込」と呼ばれた。空挺部隊に「斬込」は付き物らしい。
ただ、この歌では、空挺部隊ではなく、歩兵部隊による「斬込」が歌われ、戦車に爆薬を抱えて飛び込む決死隊の模様をうかがうことができる。
インパール作戦では、歩兵部隊による「斬込」が行われた。戦車攻撃にすっかり慣れてしまって、「戦車なんて怖くない」という兵士を、火野葦平は『インパール作戦従軍記』に書き記している。
また沖縄戦においても、残存兵力を結集しての「斬込」が、頻繁に行われている。
インターネットを検索していて、「松山高等女学校勤労動員関係史料」の中に《『特別攻撃隊「斬込隊」』歌詞》とあるのを見つけた。勤労動員の女学生たちに歌われたらしき痕跡を発見したのである。
歌というのは、たとえ記録には残っていなくとも、とある場所では歌われていたりするものなのだろう。
作詞/勝承夫 作曲/古関裕而 歌/藍川由美
古関先生、応召す!
古関裕而海軍二等水兵誕生!
20年が明けて、古関は海軍人事局から『特幹連の歌』の作曲を依頼された。
「特幹連」とは、航空隊の特別幹部練習生の略で、作詞は西條八十に依頼するという。
西條はすでに下館に疎開していたので、週に何回か早大の講義のために上京した時に、一緒に人事局へ打ち合わせに行った。
打ち合わせを重ね、作詞が出来上がり次第、作曲にかかる準備をしていた。
ある日突然、古関に召集令状が届いた。
「三月十五日、横須賀海兵団に入団せよ」という命令だった。
古関は徴兵検査で丙種だったので、まさか自分が招集されるとは考えたこともなかった。
驚いて、海軍人事部へ飛んで行き、令状を見せると、
「これは福島連隊区司令部で、本名の古関勇治を古関裕而と気付かず発行したもののようですね。しかし一度出した召集令は取り消すことができません。いま『特幹連の歌』の作曲をお願いしている時ですから、作詞ができるまで一週間くらい入団していらっしゃい。ちょうど体験のためにはいいチャンスで、いい作曲ができるでしょう。海軍の人事はすべてここの管轄ですから、間もなく召集解除します。」
と、担当将校がはっきり言ってくれた。
古関は妻金子と相談し、長女の雅子と二女の紀子を福島に疎開させることを決めた。
3月10日、東京に大空襲があった。
警戒警報発令と同時に、二人の娘たちを、150メートルほど離れた根津山の地下壕まで避難させた。
リュックサックにわずかな着替えや食料、教科書などを入れて背負い、防空頭巾をかぶりながら避難していく娘たちを見送りながら、古関はいつ見納めになる事かと悲痛な思いに胸を痛めた。
だが、妻金子の方は、防空群長として隣組を守るために大活躍だった。落ちた焼夷弾を隣組と協力して消し止め、我が家も無事だった。日頃の訓練でも、世田谷区で一、二位の成績だったのである。
3月15日、古関は隣組の人々に自分の作った歌で送られて、横須賀海兵団に入団した。
古関が配属になった第百分隊は、芸術家や学者など特殊技術者ばかりの分隊だった。
デッキ洗い、ハンモックでの就寝訓練など、すべてが号令によるものだった。
午後は、次に召集される人員の名簿作成などをやらされた。
3月22日、硫黄島の栗林中将以下の部隊の全滅が報じられた。
栗林中将と古関とは、『暁に祈る』を作った時に何度も会っていたので、悲報に古関は胸を打たれた。
そろそろ召集解除ではないかと期待したが、それらしい気配はなかった。
ある日、コロムビア慰問団がやって来た。
古関は一番新米の二等水兵なので、慰問団の世話係であった。敬礼をして迎え、お茶を注いだり、お菓子を配って回った。
すると歌手たちが、
「まあ、先生、そんなことはしなくていいです。私たちがやります」と、古関から急須をひったくって、古関を座らせてお茶を注ぐので困っていると、先輩の一等水兵が、
「まあ、いいだろう。二水でも先生だから仕方がないな」と苦笑しながら許してくれた。
『特幹連の歌』の作詞ができたという連絡は来なかったし、空襲はしょっちゅうあるし、ヘルニアで入院したりと、もうダメかと思った頃、
「重要要務者として召集を解除する。明日午前九時、営門前に集合せよ」と通知があった。
翌朝、古関は第百分隊の人々に別れの挨拶をし、営門前に他の分隊の解除者とともに整列した。
軍楽隊が演奏する軍艦マーチに歩調を合わせて営門を出ると、いったん立ち止まり、兵舎の方へ向き直り、「帽振れ!」の号令で、見送る者と見送られる者は帽子を振り合った。
古関は目頭が熱くなるのを感じた。軍艦マーチが身に染みた。このマーチには、多くの歴史があるのだなと思った。
我が家の玄関に立って、
「ただいま!」
と叫ぶと、金子が飛び出して来て抱きついた。少し遅れて、娘たちも抱きついてきた。
「だめだ、だめだ、シラミがうつるよ!」と古関は叫んでいた。
翌日、古関はコロムビアに顔を出し、海軍人事局へ行き局長に挨拶をして、西條の『特幹連の歌』の作詞原稿を受け取って来た。
疎開と『特幹連の歌』の恩恵
東京への空襲は連日続いていた。
4月29日の天長節に横浜が空襲されると、5月27日には、ふたたび東京が大空襲された。
幸いにも古関の家はまたも焼け残ったが、今度は隣組の家々は焼かれてしまった。
炎に包まれた敵機が古関の家めがけて墜ちて来た。
「もう、だめだよッ!」と古関が廊下で叫んだ時、敵機は屋根の上3、4メートルをかすめて、根津山の向こうに落ちて行った。
古関は、兼ねてから準備していた通りに、子供たちを福島の弟の家に疎開させた。子供たちは金子がつれて行き、子供のいなかった弟嫁に託して、また東京に戻って来た。古関はラジオの仕事があって、動けなかった。
6月21日、沖縄が陥落した。いよいよ本土決戦かと誰もが思った。
7月に入ると、福島も危なくなってきたので、飯坂温泉の知人の離れ屋を借りて、金子は子供たちを飯坂に移すために福島に向かった。
当時、福島の家の二階は、郡山出身の毎日新聞記者・西山安吉が間借りしていた。彼はのちのコロムビア専属作詞家、丘灯至夫である。
福島県は、郡山市が4月12日・7月29日・8月9日~10日、平市(現いわき市)が3月10日・7月13日・7月26日・7月28日と空襲にあっているが、古関家の疎開先の福島市は、周囲の市と比べると被害がかなり少ないようだ。
7月20日に、B29によってパンプキン爆弾(長崎原爆の模擬爆弾)が訓練投下され、水田で草取りをしていた少年一名が犠牲になっている。記録に残っているのはこれだけだ。
7月14日、15日、東北・北海道の諸都市が、米機動部隊による空襲を受けた。
北海道では、旭川・函館・室蘭・帯広・釧路・網走・根室・本別等が大空襲を受けた。
東北の状況を記すと、
八戸市は、14・15日、艦載機グラマンF4F6機によって、工場地帯、港湾、鉄道、飛行場が空襲され、8月19日に大空襲をするという米軍の伝単(宣伝ビラ)が撒かれた。8月15日に終戦したため、大空襲はなかった。
盛岡市は、3月10日以来二度目の空襲が8月10日にあった。グラマンの機銃掃射で、国鉄盛岡工場、盛岡ガス等がやられた。
釜石市は、7月14日と8月9日の二度、十数隻の快速戦艦、重巡、駆逐艦より、艦砲射撃を受けた。市街地と釜石製鉄所が徹底的に破壊された。
秋田市は、7月14日夜10時27分より4時間にわたり、B29により土崎港が空襲された。日本石油秋田製油所が壊滅し、周囲の町も攻撃された。これが、大東亜戦争最後の空襲だったといわれる。
仙台市は、7月10日未明、129機のB29が来襲、高度三〇〇〇メートルより焼夷弾、焼夷収束弾約一万三〇〇〇発が投下された。駅施設から西側の市街地一帯が灰燼に帰した。
7月中旬、東京放送局から古関に連絡があった。福島放送局からの伝言で、金子が腸チフスにかかり重態なので、すぐ来いということだった。
当時は、電話も電報も不通だったので、西山(丘灯至夫)が放送局に走ってくれたのだ。
金子は、福島に来てから三日目に発病し、すでに高熱が一週間も続いていて、うわごとばかり言うようになっていた。幸い娘たちには感染せず、女子医専の附属病院に入院させ、古関が看病することにした。古関は、海兵団で腸チフスの予防注射をしていたので、感染の心配はなかった。
当時は、汽車に乗るにもそのたびごとに通行証を発行してもらう必要があったが、古関は東京放送局と海軍省の特別許可証が与えられていたので、福島との往復でずいぶん助かった。
『特幹連の歌』は、時局重大のため中止になったが、この歌が古関にもたらしたものは思いがけず大きかったことになる。
日本降伏、連合国軍の占領下に入る!
終戦の玉音放送【大東亞戰爭終結ノ詔書】(昭和20年8月15日)
朝のラジオ放送で、昼に重大放送があるので聞くようにという予告がされた。
ラジオから流れて来たのは、国民が初めて聞く天皇の声だった。
天皇の言葉に従って、すべての国民は戦闘を止めた。大東亜戦争は、この日《終戦》したのである。
朕深く世界の大勢と帝國の現狀とに鑑み、非常の措置を以て時局を收拾せむと欲し、玆に忠良なる爾臣民に吿ぐ。
朕は帝國政府をして、米英支蘇四國に對し、其の共同宣言を受諾する旨、通吿せしめたり。
抑〻帝國臣民の康寧を圖り、萬邦共榮の樂を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所、曩に米英二國に宣戰せる所以も亦、實に帝國の自存と東亞の安定とを庻幾するに出て、他國の主權を排し領土を侵すが如きは、固より朕が志にあらず。然るに交戰已に四歲を閱し、朕が陸海將兵の勇戰、朕が百僚有司の勵精、朕が一億衆庶の奉公、各〻最善を盡せるに拘らず、戰局必ずしも好轉せず。世界の大勢亦我に利あらず。加之敵は新に殘虐なる爆彈を使用して、頻に無辜を殺傷し、慘害の及ぶ所、眞に測るべからざるに至る。而も尙交戰を繼續せむか、終に我が民族の滅亡を招來するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くんば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神靈に謝せむや、是れ朕が帝國政府をして共同宣言に應ぜしむるに至れる所以なり。
朕は帝國と共に、終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に對し、遺憾の意を表ぜざるを得ず。帝國臣民にして戰陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者及其の遺族に想を致せば、五內爲に裂く。且戰傷を負い、災禍を蒙り、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。惟うに、今後帝國の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども朕は、時運の趨く所、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世の爲に太平を開かんと欲す。
朕は玆に國體を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。若し夫れ情の激する所濫に事端を滋くし、或は同胞排擠、互に時局を亂り、爲に大道を誤り、信義を世界に失うが如きは、朕最も之を戒む。宜しく擧國一家子孫相傳え、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念い、總力を將來の建設に傾け、道義を篤くし、志操を鞏くし、誓て國體の精華を發揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を體せよ。
[御名御璽]
昭和二十年八月十四日
昭和20年(1945年)9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの艦上で、イギリス、アメリカ、オーストラリア、中華民国、ソ連ら連合国との間で、降伏文書に正式に調印した。
この時、「第二次世界大戦」もまた終わった。
それぞれの終戦前後
古関裕而、新橋駅で玉音放送を聞く
古関は、放送局から出演交渉を受けていて、返事を催促されていたため、妻の退院を見届けて東京へ戻った。
福島駅で顔見知りの記者と会うと、
「どうも戦争も終わるようですよ。日本も負けましたね。」と、それとなく教えてくれた。
東北線の夜汽車に揺られ、新橋駅の改札を出たのは昼近くだったが、見ると駅長室付近に人だかりがしていた。
「何ですか?」と尋ねると、
「正午に天皇陛下の玉音放送があるそうです。敗戦ですかねえ。それとも本土決戦かも。」
まもなく放送が始まったが、人のざわめきでよく聞き取れなかったが、目頭を押さえる人や嗚咽を漏らす人がいて、降伏らしかった。
古関は、内幸町の東京中央放送局へ急いだ。
入口に憲兵が立っていたので、事情を説明したが入れてくれなかった。
その時はわからなかったが、天皇の玉音盤を奪いに、継戦派の将校たちが放送局に乱入するという事件が起きていたのだった。
福島で金子は、床からはい出して、玉音放送を聞いた。
赤い日の丸のついた飛行機が編隊を組んで、しきりに空を飛び回っていた。
あの姿も見られなくなるのでは? と思うと、悲しくて涙が流れた。
古関は、東京の自宅が無事なのを見届けると、すぐに福島に向かった。東京の留守宅は弟子の母親が守っていてくれたので、よく留守を頼んで来た。
飯坂にも米軍がジープに乗って入って来た。
大きな温泉旅館には米軍、小さな旅館には青ざめた顔いろの疎開児童がおり、日本軍の傷病兵の療養所もあったので、複雑な様相を呈するようになった。
米軍はニューヨーク兵で、治安もよく、ニコニコして親切だったので、何の問題もなかった。
飯坂の周辺は果樹王国で、水蜜桃やリンゴ、ブドウなど、どこでも喜んで売ってくれた。
金子は、起き上がれるようになると、亡き母の着物を持ち出して、米と交換してくるようになった。
古関は、結婚当初は丸のままの泥鰌を恐がって食べられなかった妻が、栄養のために何でも食べるようになっていたことに驚いた。臭いと嫌がっていたニンニクも毎日食べ、近くの養蜂家から分けてもらった蜂蜜も食べていた。
金子の身体は、めきめきと回復して来た。飯坂の方が、東京より食糧事情が良かったのが幸いしたと言えるだろう。
当時の金子は、日本では珍しいドラマティック・ソプラノとして、師のペルトラメリ能子からも、
「あなたは私の後継者よ」と認められていた。
戦争中も、折あるごとに歌っていた。
だから、彼女が身体を回復させることは、歌のためでもあった。
ある夜のこと、アコーディオンの巧い知り合いの青年が来て、金子の歌の伴奏をしてくれたり、音楽の話をして楽しんでいた。
古関の部屋は、横町の通りに面して長い廊下があった。
何やら廊下で人の気配がしたが、よく通りがかりの人や子供が座って歌を聞いていくので気にしてなかった。
イタリアのカンツォーネ「ラ・スパニョーラ」や外国民謡を金子は夢中になって歌っていた。
あとで隣の人が、「アメリカ兵が十人ほど廊下に腰かけて、じっと静かに聞いていた」と教えてくれた。
古関は、エチケットの良さに驚いた。これが民度の高さということなのだろう。
原爆で死にかけた西條八十
西條八十は、7月に、艦政本部第四課長の堀江大佐から、広島に転任して十五の軍需工場を司ることになったので、ぜひ広島に来て、それら全部の工場の士気を鼓舞する歌を作ってほしいと依頼された。
堀江大佐は、八十の歌詞と古関の曲が大好きで、よく八十にいろいろな仕事を頼んで来た。
八十は、空襲が激しくなり、茨城の疎開地に閉じ籠っていたが、長文の依頼電報が三通も来たため、妻の晴子と相談して、とうとう茨城から広島までの切符を買った。
広島行きの日が近づくと、八十は夏風邪をひいて、2、3日寝込んでしまった。
そのあいだに、広島に原爆が落とされたのである。
堀江大佐の消息は、それきり永遠に不明だった。
あの時行ってれば、一、二週間は広島にいたはずなので、八十もまた犠牲者の一人となっていただろう。
八十がそれにつけても思うのは、古関のことであった。
あの日、八十が行っていれば、当然、堀江大佐の大好きな古関も呼ばれていただろう。素直な古関のことだから、誘えば素直に広島へ来て、八十とともに死んでいたはずだ。
知らない間に古関は、命びろいしたことになるではないか。
この話はこれで終わりにしても良さそうだが、八十はこう付け加えずには居られなかった。
気持の上でこのぼくが被爆死のトコトン直前まで行ったということが、あの若き学徒連を戦争に送り、拱手傍観していたおのれの罪のいくぶんを宥してくれるであろう。 (西條八十『私の履歴書』)
被爆死を免れたことは一つの幸運ではあるが、それが言いたかった訳ではないということだろう。
あの時代は、誰もが「死」と隣り合わせに在った。生き残れたことは、ほんの偶然の結果でしかなかった。たとえ広島に行って、原爆を浴びて死んでいたとしても、八十は教え子たちに対し責任を果たしたとは思っても、後悔することはなかっただろう。
古賀政男、米兵と朝鮮人から「天啓」を受ける
3月の東京大空襲のあと、古賀政男は内弟子の山本丈晴とともに、山梨県の川口村に疎開していた。そこは山本の実家だった。
終戦の玉音放送も此処で聞いた。
村人たちは、打ちのめされて、ただ右往左往して、皆涙を流していた。
古賀と山本も、茫然と立ち尽くして、こみあげてくる涙をすすり上げていた。
古賀は、これで自分たちの世代はすべてが終わったのだと思った。再び自分が作曲して発表したり、すでに発表した歌がふたたび歌われる時代は、もう来ないのだと思った。
故郷に帰って、わずかな土地を耕し、暇があればギターを手にするような、「晴耕雨唱」といった生活をおくろうと、古賀は密かに決めていた。
ある日、村役場の女性事務員が、
「先生、大変です!アメリカ兵が来ました。先生を探しているんです。いまのうちに早く裏山にでも逃げて下さい!」
と、血相を変え、息せき切って駈け込んで来た。
米兵がジープ2台に乗ってやって来て、村長をつかまえ、
「ミスター・コガはどこにいるか?」と、しきりに尋ねているという。
村長は時間を稼ぎながら、気を利かして古賀のもとへ、女性事務員を連絡に走らせたのだった。
「いや、ぼくは逃げないよ」と、古賀は答えた。
軍歌を多少は作ったが、逮捕されるほどのことでもあるまい。被圧迫者の一人にすぎなかったことを、説明すればわかるだろうと考えたのだ。
ジープのヘッドライトが近づいて来た。
降りて来た米軍将兵は古賀を見つけると、
「オオ、ミスター・コガ!」と、愛想よく握手を求めて来た。
どうも逮捕しに来たようではないので、古賀が訝っていると、流暢な日本語で一人の兵隊が来訪の目的を話した。
彼らは戦争中から、日本占領後のGHQ要員として、アメリカで日本語教育を受けて来た。
その時、テキストに使った日本映画『東京ラプソディー』(1936年。監督伏見修)で古賀の曲を知り、非常に感動した。
それで、日本に行くことになったら、作曲した古賀という男に会いに行ってみようと相談していたということだった。
古賀も食糧難で困っているだろうと、ジープに食料を一杯積んで、プレゼントしに来てくれたのだった。
その夜は、彼等に自宅に泊まるよう勧めて、僻地の村でもてなすものは何もなかったが、なけなしのウイスキーを開けて、彼等の厚意に報いた。
古賀作曲の歌や外国の歌を一緒に歌って、夜の明けるまで飲み明かした。
朝になり、最後にもう一度、古賀の歌を合唱して別れたのだった。
別れ際に、一人が、
「ミスター・コガ、私たちの日本語が上達したのは、貴男のおかげです。心からお礼を申し上げたい。」
と、頭を下げて行った。
この頃、在日朝鮮人の代表らしき人々が、古賀を訪ねて来たことがあった。
「古賀さん、絶対に他言はしませんから、本当の名前を教えて下さい。そして今後、我々の力になって下さい」
どうやら朝鮮人の間では、古賀が朝鮮人であると信じられているらしかった。
幼少年時代、古賀が朝鮮で過ごしたことが誤って伝わったのか、古賀の作曲した音楽に、故国朝鮮を感じさせるものがあったのか。
戦時中の朝鮮人は、大日本帝国の保護下にあったため、日本人から差別的扱いを受けることが多かったので、同胞である古賀の活躍を誇りに思ったり、古賀の作った歌に慰められることもあったのかも知れない。
古賀は、笑って否定するわけには行かないものを感じた。
この時、古賀がどういう言葉で朝鮮人代表たちに答えたのか、具体的には残していない。ただ古賀が、自分の音楽の「朝鮮ルーツ」を意識した事件であったことは間違いない。
古賀は、米兵と朝鮮人の訪問という二つの出来事を「天啓」と受け取った。
それは古賀を虚脱状態から立ち直らせる力をくれた。
たとえ国はやぶれても、また私の築いた過去の基盤がうたかたのように消え去っても、私の歌は国境を越えて、人の心のなかに生き続けていることを私は改めて確認させられたのであった。私の歌だからということではない。それが歌というものなのだ。私はそのとき改めていのちのあるかぎり作曲を続けようと決意した。(古賀政男『自伝わが心の歌』)
『ワカランソング』西條八十作詞 古賀政男作曲(昭和20年12月)
コロムビアから疎開地の西條八十の所へ、「敗戦で呆然自失している国民を、明るく励ます小唄をお願いしたい」という電報が届いた。
八十は、敗戦後最初の仕事ということで、記念に依頼電報をスクラップブックに保存しておいた。
八十はこの歌を書く時、もうくだらないレコード検閲などはなくなったから、大丈夫だろうと安心していた。
ところが、今度はGHQがクレームをつけて来たので、面食らってしまった。
「銀座ウヨウヨ GIガール」がいけないと言う。
アメリカの兵隊にすがりついて歩いている日本の娘たちを、「GIガール」と表現したのだ。
まだ「パンパン」という呼び名は、生まれていなかった。
それではと「唐人お吉」に変更したが、吹込み直前に不許可となってしまった。
三度目に「有閑娘」としたところ、ようやくOKとなった。
この歌詞からわかるのは、誰よりも「茫然自失」していたのは、八十自身だったということだ。
GHQの検閲にも、「茫然自失」だった。
戦後数年、ぼくは酔生夢死のような生活を送った。敗戦がひどく身にこたえた。ぼくは、生後三年目に日清戦争の凱旋門の下を、乳母に負われてくぐった。中学時代には日露戦争の大勝利の号外の鈴の音を聞き、大学の卒業前後に第一次世界大戦に遭逢した。ぼくの五十年の生涯は、ほとんど祖国の盛んな興隆期に終始したのだ。それがただ一回の敗戦で国土は四分の一という哀れな姿になった。おまけに原爆の投下によって極端な人種差別の実例を見せつけられた。ペンをとって空を詠おうとしても、空はいま頭が支えるほど低く思われ、海を詠おうとしても、そこには眼前に壁が立っているような狭さが感じられるのだった。
(西條八十『私の履歴書』)
それにしても、作曲の古賀政男は「自伝」で、戦後最初の作品として『麗人の歌』(西條八十作詞)をあげて、『ワカランソング』をすっ飛ばしている。
あまり歌われなかったようなので、忘れてしまっているのかも知れないが、いろいろな意味で、味わい深い作品だと思う。
作詞/西條八十 作曲/古賀政男 歌/高倉敏、渡辺一恵、近江俊郎
《参考文献》
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』(文春文庫、2020年3月20日)
『私の履歴書 第17集』「西條八十」(日本経済新聞社、1962年12月20日)
『西條八十全集 第九巻 歌謡・民謡Ⅱ』(国書刊行会、1996年4月30日)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫、2008年12月20日)
藍川由美『レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」─古関裕而歌曲集─2』(日本コロムビア)
菊池清磨『評伝古賀政男』(アテネ書房、2004年7月10日)
藤山一郎『藤山一郎自伝』(光人社NF文庫、1993年11月15日)
火野葦平『インパール作戦従軍記──葦平「従軍手帖」全文翻刻』(集英社、2017年12月10日)
児島襄『太平洋戦争(下)』(中公新書、1966年1月25日)
服部卓四郎『大東亜戦争全史』(原書房、1996年6月5日)
『読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事』(リヨン社、1994年8月17日)
『あの戦争 太平洋戦争全記録中』(ホーム社、2001年8月10日)
『あの戦争 太平洋戦争全記録下』(ホーム社、2001年8月10日)
『大日本帝国の戦争2・太平洋戦争1937-1945』(毎日新聞社、1999年10月30日)