わが母校「宮城県築館高等学校」のこと

バンカラ・スタイル、いまいずこ!

「あまちゃん」の再放送がされてますね。
いまだにコアなファンがいて、けっこうたくさんの人が見ているようです。
小劇団パワーが発散されまくっている作品なので、
いつ見ても一日を始める活力がもらえますね。

きょうは以前お約束したように、
「あまちゃん」の作者、宮藤官九郎の出身校にして、
我が母校でもある「宮城県築館高等学校」を紹介したいと思います。

築館つきだては宮城県北部に有るひなびた町ですが、
我が母校は仙北せんぽくゆうと自ら号して来ました。
仙北とは「仙台以北地域」という意味です。

旧制中学以来の伝統を受け継ぐ、
「バンカラ」スタイルで通して来ました。

「蛮カラ」って、いまでは死語なんでしょうね。
弊衣破帽へいいはぼうに高下駄を履いて、腰には手ぬぐい、
それがいわゆるバンカラ・スタイルです。


これは昭和50年代くらいの『週刊プレイボーイ』の記事です。
この中で、盛岡一高や黒沢尻北高(岩手県)とともに、
「宮城県一のバンカラ高校」として、わが築館高校が紹介されています。
私の卒業後ですけどね。

さすがに私も「弊衣」は経験ありませんが、
破帽に高下駄、腰に手ぬぐいはやっていました。
晴れた土曜日などは、いつもはバス通なんですが、
「歩いて帰るかあ!」といって、
20kmの道を友と、下駄を鳴らしながら帰ったものです。

野球の応援で仙台に行く時など、
「お前たちを連れて歩くのが恥ずかしい」と言う教師もあり
ザマーミロという感じでした。(笑)

私が在学中は、デイビッドというアメリカ人の「交換留学生」がいて、
彼もまた学生服に学帽、腰に手ぬぐい、高下駄の出で立ちで、
すれ違う時よく「オシ!」(押忍!)と挨拶を交わしていました。

アメリカ人が、のりのりでバンカラやってましたね!(笑)

ちなみに築高では、「おはよう」も「こんにちは」も「さよなら」も、
挨拶はすべて「押忍おす!」でした。

わが築高の伝統のいくばくかが、
アメリカにも伝わっていることは愉快なことです!

それがいまでは、古くなった校舎は取り壊され、
女子校と統合されて、男女共学の高校となっています。

時代の変化もあり、生徒数も減少し、
男女共学はやむをえないと思うものの、
校歌や校訓、校章まで替えられてしまっては、
歴史や伝統というものの価値を、教育関係者は理解できていないのではないか?
と思わざるを得ません。

「質実剛健」、それが私達の頃の「校訓」でした。

そして「校歌」は、
民衆詩派の築高出身の詩人・白鳥しろとり省吾せいごが作詞し、
作曲は大御所、古関こせき裕而ゆうじによるものです。

私のブログを読んでくださっている方ならよくご存知だと思いますが、
古関裕而は、

「若鷲の歌」
「ラバウル海軍航空隊」
「露営の歌」
「暁に祈る」
「桃太郎 海の神兵」
「大阪タイガースの歌(六甲颪)」
「巨人軍の歌(野球の王者)」

戦後は、
「長崎の鐘」
「とんがり帽子」(「鐘の鳴る丘」主題歌)
「栄冠は君に輝く」(高校野球大会歌)
「巨人軍の歌(闘魂こめて)」
陸上自衛隊隊歌「この国は」ほか
「オリンピック・マーチ」
「二本松少年隊」
アニメンタリー「決断」主題歌
「モスラの歌」
などなど。

このほかに、全国の校歌や応援歌など、300曲以上があるそうで、
わが築館高等学校校歌もその中の1曲なわけです。

「国民栄誉賞」を受賞してもおかしくない経歴ですが、
1989年(平成元年)8月18日に80歳でなくなった時、
時の竹下内閣はなんら顕彰することなく見送っています。

古関が数多くの軍歌の名曲を残しているのが障碍だったのでしょうか?
すでに自民党に、愛国的作曲家を捧持するだけの矜持が失われていたということでしょう。

しかも、町内に「白鳥省吾記念館」を設けながら、
この得難い財産である伝統ある「校歌」をあっさり捨てることの出来る、
関係者のメンタリティというものは、どうなっているのでしょう?

まったく理解不能です!

どうぞ古関裕而作曲のわが「築館高等学校校歌」をお聞き下さい。
古関の作曲ではありませんが、
スポーツ大会で勝利した時に歌う凱歌がいかも入ってます。

『宮城県築館高等学校校歌』(昭和25年制定)

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     作詞/白鳥省吾 作曲/古関裕而

このほかに、第一応援歌、第二応援歌、第三応援歌があり、 新入生で入学すると、 1週間で「校歌」「凱歌」「応援歌」を覚えさせられるという、 応援団による強烈な「洗礼」を受けます。

じつは、そのほかにも、 「築高小唄」というのがありまして、 これは応援団とは無関係で、 全く非公式に歌い継がれているものです。

築高小唄
作詞者不詳  曲/軍隊小唄の節で

1.築高つきこうよいとこ だれうた
  薬師山やくしやまの すぐそばに
  いき学生がくせい むという
  一度いちどれてみたいもの

2.かたけカバンに すがりつき
  れてきゃんせ 築高つきこう
  れてゆくのは いいけれど
  おんなすわせきはない

3.すわせきが ないならば
  せめてあなたの ひざうえ
  いてかれた なかだもの
  校長先生こうちょうせんせいゆるすでしょ

4.築高生徒つきこうせいとにゃ あじがある
  いきでいなせで 親切しんせつ
  そのうえちょっぴり 哲学者てつがくしゃ
  およめにゆくなら築高生つきこうせい

節がわからないと歌えないでしょうから、 「軍隊小唄」も上げておきます。

軍隊小唄

現在の築高の校歌の作曲者は、みなみらんぼうですが、 ちょっと作曲家としての「格」が違うと言ったら失礼になるでしょうか? 彼もまた、築館高校出身の先輩では有りますが。

いまさら校歌を変えるのは難しいでしょうから、 後輩たちにはせめて「裏校歌」として歌い継いでもらいたいと思います。

ほんとは、こっちのほうが「校歌」であって欲しかったんだけどね!

男女共学になってからの築高というのは、 正直な話、ほとんど知らなかったんですが、 なんか地元のテレビでも取り上げられているようです。

築館高校VS古川高校 定期戦2015


(元動画削除のため、編集済み)

兄弟校である古川高校との定期戦ですね。
いまでも続いているんだ。しかも、勝っている!

俺達の頃は3年連続敗戦というヘタレぶりでした。
いまの校長って、俺と同学年らしい。

女子学生たちも頑張っているなあ!
応援の方はかなり伝統を受け継いでいるようだ。

でも、ガクランに「ヤンキー」がはいってないか?
正統なバンカラは、やはり廃れつつ有るようだ。

これだったら、校歌も前のままの方がよかったんじゃない?

「予定〜宮城に帰ったら〜」宮藤官九郎と中村雅俊とナンバーザ

[追記]校歌の作曲の件で、古関裕而から白鳥省吾へあてた手紙を見て来た(2020年6月24日)

6月17日の『河北新報』に、「白鳥しろとり省吾せいご記念館」(栗原市築館)が、古関裕而が白鳥省吾にあてた手紙を特別展示していると出ていたので、見て来た。

築館高校創立五十周年を記念して校歌を作ることになり、作詞した白鳥省吾が古関に作曲の依頼をした件についての手紙のようだ。1950年の手紙とのこと。
築高卒業生(旧制中学時代)でもある白鳥が、当時すでに高名作曲家だった古関裕而に、校歌作曲をしてもらおうと一肌脱いだということなのだろう。

新聞に出ていた便箋2枚の手紙と、古関直筆の楽譜、白鳥の校歌原稿の現物を見ることができた。いくつか気付いたことがあるので、ここに記しておく。

冠省
ご無沙汰して居りました。お元気で何よりと存じます。
さて、御申越の校歌の件、他ならぬ白鳥さんからのお話ですので御引受け致します。
九月末日には作曲をお送りする様作る考へです。
ご上京の折はお立寄り下さい。
引越ししましたが、同じ小田急の世田谷代田駅下車で前よりずっと駅に近く、駅から下北沢の方に行った処です。
千葉の田舎の秋も又格別と存じますが、なかなか忙しくて外へ出られません。
 先は取り急ぎ右まで。
                                     草々
九月廿日
                                   古関裕而
白鳥省吾様

古関の手紙を書き起こしてみた。

九月二十日付の手紙で、九月末日には作曲を送るというのだから、予定通りの日程で出来上がったとすれば、『築高校歌』の作曲は10日程度しかかかっていないことがわかる。本業の作曲の合間にである。
膨大な数の全国の校歌や応援歌を作った古関だが、このスピードで書けるからこそ可能だったということだろう。詩を読んでイメージを思い描くだけでメロディが浮かんだという古関だから、こんなものだったのだろう。

また、作曲の際はいっさい楽器を使わないのが、古関が作曲家になって以来のやり方だった。浮かんだ曲を楽譜に書くだけだから、確かにムダがない。

「早書き」は、菊田一夫とラジオドラマをやったことで鍛えられてもいた。菊田の原稿の上りが遅いために、いつも放送ぎりぎりで作曲を上げていたのだ。それを歌ったり演奏する方も大変だったらしい。

はじめて、古関直筆の楽譜を見た。
さすがきれいに清書するものだなと、きっちり書かれた音符の列に見とれた。
「築館高等学校の歌」と少し崩した字でタイトルが書かれており、さらにその下に達筆な英語でYuji Kosekiと、青い字でサインしてあった。

じつは、わが築館高校校歌に「前奏」があることを、記録として残すために作られたCDを聴くまで、私は知らなかった。
学生時代は、応援団長の掛け声だけで校歌を歌っていたので、ブラバンが校歌を演奏するのを聞いたことがなかったのである。

なんだ、この前奏は! すごいじゃないか! 誰がいつこんなものを作ったのか?

ふつう作曲を頼むと歌詞に対して作曲するだけで、前奏とか間奏とか後奏は「編曲」として別途依頼するものらしいが、古関裕而の場合は、みんな自分で作曲しているということを、誰かが書いていた。

古関の楽譜を確かめた。
ある! 前奏が書かれている! 
やはり、CDで聞いた前奏は、古関裕而が作曲したものだったのだ!
何ということだろう! せっかく古関が作曲してくれていた前奏を、学校出てから何十年してから、私ははじめて聞いたのだ!
豚に真珠、とは、このことだな。
古関裕而が作曲してくれた校歌の、その値打ちの半分しか俺たちは知らなかったのだ!

『築館高校校歌』が作られたのは、昭和25年(1950年)であり、昭和23年(1948年)に学制改革があり、旧制中学は新制高校に変わった。GHQの占領下である。
この前後に古関裕而が作曲したものを挙げてみると、

全国高等学校野球大会の歌『栄冠は君に輝く』(昭和24年7月)
『スポーツショー行進曲』【NHKスポーツ放送テーマ曲】(昭和24年4月)
『長崎の鐘』(昭和24年7月)
『イヨマンテの夜』(昭和25年1月)
『築館高校校歌』(昭和25年10月)
『さくらんぼ大将』(昭和26年8月)
『憧れの郵便馬車』(昭和26年12月)
『君の名は』(昭和27年4月)

古関裕而の音楽人生において、もっとも豊かな音楽的収穫を生み出した時期であることが判る。
そういう意味でも、わが『築館高等学校校歌』が、いかに校歌として貴重であるかがわかってもらえると思う。

「校歌」とは、学生たちにとっては、学校の儀式の時に歌ったり、野球の応援でエールの交換の時に歌うもので、そもそもは《愛校心》を育て《学校という集団への帰属意識》をつちかう目的に「使用されるもの」である。
その目的から離れて聞く場合は、「鑑賞用」ということになり、おのずと聞き方も違ってくる。古関裕而が作った校歌が、十分「鑑賞」にも耐えられるものであることに、改めて気が付いたということだ。

白鳥省吾について

白鳥省吾(1890~1973年)は、築館高校の前身である旧制築館中学校出身で、大正から昭和初期に注目された「民衆詩派」の詩人だった。

名前の読み方に諸説があって、私もいつも迷っていた。
「白鳥省吾記念館」では、「しろとり せいご」が正しいということだった。
私が読んだ本では、フリガナまで振って「しらとり しょうご」となっているものがあったが、今後は安心して「しろとり せいご」と呼ぶことにする。
いろいろな読み方をされているのは、ペンネームとして使ったものと本名とが混在して使われているためらしい。

私は白鳥を「作詞家」として考えたことがなかったが、いくつか作詞もしていることを知った。

『龍峡小唄』 

     作詞/白鳥省吾 作曲/中山晋平 歌/市丸

いや、旧郡内の小学校・中学校・高校の校歌を、たくさん作詞していたことは知っていたが、詩人の余技、地元へのサービスくらいにしかとらえていなかった。
しかし、地元の町の名を冠した「小唄」や「音頭」も多く作っていたことを知って、民衆詩派の詩人として民謡集を出していた彼の、本来の仕事としてとらえる必要があるかも知れない。

いちばん気になっているのは、白鳥省吾と北原白秋の間で、詩の芸術性をめぐって激しい論争があったことだ。
白秋が、三木露風一派と対立し、それぞれの派閥に所属する詩人たちも対立していたことは知っていた。
西條八十が、自分はどちらとも親しいのに、白秋側から三木一派と見られていて困ったということを書いている。
白鳥省吾は、三木露風と付き合いがあったようなので、明らかにこの対立の構図の中で、白秋との論争を繰り広げたものだろう。もっとこれに関しては、知りたいと思っている。

ところで、白鳥と古関の関係だが、もっとも古いと思われる古関との作品では、『旧鶯沢町細倉小校歌』(1940)があるという(研究者・佐藤吉一氏による。)。
細倉は鉱山の町であり、戦時中は銅山として栄え、郡内でも特別に景気が良かった地域だ。

昭和16年(1941)7月20日には、『大日本女学生の歌』が、二葉あき子の歌でレコードが出ている。聞いてみたいが、音源が見つからない。
この年の12月8日に、太平洋戦争が始まるわけだ。

戦後になって、昭和24年(1949)、『鈴蘭の歌』が「ラジオ歌謡」として発表されている。
こうしてみると、白鳥と古関の関係はかなり古いものだということがわかる。
同じ東北出身ということで、気やすいところがあったかもしれない。《奥羽越列藩同盟》のよしみもある。

『マロニエに降る雨』(昭和28年)

    『マロニエに降る雨』 作詞/白鳥省吾 作曲/古関裕而

校歌のCDを聞いて、ひとつだけ引っかかるところがあった。《あゝ東北の 栗原に》の「栗原」を「くりばら」と発声していることだ。私たちは「くりはら」と濁らずに歌っていた。現在でも、「栗原市」は「くりはらし」である。なぜ、「くりばら」なのか?

白鳥の校歌の原稿を見て、わかった。
白鳥は、漢字にすべてフリガナを振っており、「栗原」には「くりばら」とあった。つまり、CDは原作通りに歌っていたのだ。
歴史的資料として考えた場合は、それでいいだろうと思うしかない。

あらためていうならば、ぜひ『築館高等学校校歌』を、その《前奏》の部分からお楽しみいただきたい。
この前奏は、いかにも古関裕而らしい、明朗にして格調高い響きがある!

古関裕而には、『長崎の鐘』『フランチェスカの鐘』『ニコライの鐘』『希望の鐘』『青春の鐘』など、タイトルに《鐘》のつく歌が多い。
《鐘》は、古関にとって、戦争の時代への《鎮魂》、戦後の時代の《希望》の象徴だった。
ところで、わが『築館高等学校校歌』にも、「平和の朝の鐘」が歌われている。
古関の音楽的な感性は、この詩句にすぐに感応したのではないだろうか?
前奏を含めて、我が校歌に、古関がかなりノッテいるのを感じるのだが、どうだろうか?

ちなみに、白鳥省吾の校歌原稿では、最初に「民主の」と書かれていて、二重線で消し、そのわきに「平和の」と書き直されている。
「民主の朝の鐘」から「平和の朝の鐘」へ。
「平和」に変えてもらってよかったな、と思う。「民主の」では、どこかの政党の歌みたいで、いやではないか!

「白鳥省吾記念館」MAP


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