ども。ミロです。
私がどのようにして太平洋戦争(大東亜戦争)を知って来たか、
当時のメディア状況などをからめながら紹介してきましたが、
もう少し続けたいと思います。
前回までの記事で、
私が子供のころは、
まだまだ太平洋戦争(大東亜戦争)を知る手がかりがそこかしこに
ゴロゴロしていたことを知っていただけたと思います。
ことさら「歴史観」を問題にしなくても、
誰もがメディアが投げかけてくる情報を、
自分の体験を通して受け止めていました。
当時はまだ戦争は遠いものではなかったのです。
最近のテレビの戦争番組は、
一定の歴史観でまとめ上げたものが多いですが、
戦争体験のない日本人が多くなった時代には、
そうならざるを得ないのでしょうね。
今回は「軍歌」をとりあげたいと思います。
「軍歌」を聞いたことはありますか?
私が小学生から中学生くらいの頃には、
テレビのゴールデンタイムに、
軍歌や戦時歌謡の歌番組が普通に放送されていました。
親父やお袋が見ているのを一緒に見て、
けっこういくつか覚えてしまいました。
私が初めて「軍歌」って、なんかすごくいいぞ!
と思った1曲を、まず紹介します!
これです!
鶴田浩二『同期の桜』(台詞) 昭和45年(1970)
昭和20年3月21日
陽光うららかな日 美しく立派に散るぞ
そう言って 一番機に向かう友の胸に
俺は まだつぼみだった桜の一枝を 飾って贈った
明日は俺の番だ
死ぬ時が別々になってしまったが
靖国神社で逢える
その時は きっと 桜の花も満開だろう
3月26日
花 さわやかに開く日 お父さん お母さん
ただ今より出発します
この世に生を受けて23年
まさか お父さんやお母さんより 早く死ぬとは思ってもみませんでした
お母さん 泣くなと言うのは無理かもしれません
でも どうか よく死んでくれた!
そう言って下さい
私達は祖国を護るために死んでゆくのですから
4月2日
春雨のけむる日 幸か不幸か 俺は まだ
今日も生きのびている
だが 雨が上がり 虹が橋をかけ
あかね色の夕焼け空が広がる時に 俺は必ず征く
後に続くことを信じて
俺達の死を 決して 犬死にしてもらいたくないのだ
海軍少尉 小野栄一 身長五尺七寸
体重十七貫五百 きわめて健康!
「小野栄一」とは、歌手・鶴田浩二の本名です。
鶴田は特攻隊くずれを売りにたくさんの戦争映画に出演しましたが、
じつは航空隊の整備兵あがりであり、
実際の戦闘経験はなかったようです。
厳密にいえば、
この歌は、軍歌『同期の桜』をもとに再構成した「歌謡曲」というべきかも知れません。
作詞の西條八十の版権の関係で、
台詞だけの『同期の桜』が生まれたそうです。
ごくせまい意味で「軍歌」とは何か?というと、
軍が正式に定めた軍隊内で歌うべき歌ということになりますが、
一般的には、
兵隊たちが戦場や訓練中によく歌っていた歌や、戦時歌謡、
戦時中の戦意高揚映画の中に登場した主題歌・挿入歌など、
割と大まかにひっくるめて「軍歌」と呼んでいるようです。
鶴田浩二の『同期の桜』を初めて聞いたのは高校生の頃で、
ラジオから流れてくるこの歌を録音して聞いていた覚えがあります。
深夜放送が流行っていた時代でした。
「オールナイトニッポン」や「セイヤング」など、
ラジカセにイヤホンで聞いていたものです。
30代のころだったか、
日本在住のアメリカ人が、
この鶴田浩二の歌をステレオでガンガン鳴らしながら、
「いいぞ! バカヤロ!」といってノリノリで聞いている映像をテレビで見てしまいました。
それを見たとき、
しまった! と思ったんですね。
日本人の大事なものを、敵だった国の人間に奪われてしまってるじゃねえか!
ちくしょう! 俺だって聞いてやる!
と、即、鶴田浩二のCD全集を買って、
それからは毎日聞きまくりました。(爆)
あらためて鶴田浩二のこの歌を聞いたときは、
究極の選択を突きつけられるのを感じました。
おまえは国が危機の時に、自分の命を差し出せるのか?
国とは何か、が問題だと思いました。
政府や大企業などの国民の生殺与奪の権を握る支配層を国というなら、
どうもこんな国のためには死にたくねえなと思いました。
しかし、自分が育った美しい四季のある国土や、
自分をあたたかく見守ってくれた家族や恋人や友人たち、
それらが国なのだとしたら、
それを守るために命を散らすのは有りだなと思いましたね。
元歌の方もお聞きください。
『同期の桜』
作詞/西條八十 作曲/大村能章
作詞はいちおう西條八十ということになっていますが、
じつは西條作詞の『二輪の桜』という歌の替え歌として軍隊の中でひろまっていったもので、
歌いつがれていく過程で複数の人の手で歌詞が変えられています。
西條八十は、兵士たちによって変えられ歌い継がれたこの歌詞をよしとし、
ことに3番の歌詞などは元歌にない完全に新たに付け加えられたものでしたが、
これを聞いた西條八十はひとこと「うまい!」といったと伝わっています。
じっさい、大勢の人々の口を経て、歌われ磨きあげられた『同期の桜』の歌詞も曲も、
ほかの軍歌と比べても格別に美しいと思います。
元歌のさらに元歌がこちらです。
『戦友の唄』(『二輪の桜』)昭和14年(1939)7月
作詞/西條八十 作曲/大村能章 歌/樋口静雄
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや(寺山修司)