国破れて、「青い山脈」あり──歌謡曲史からひもとく戦後


きょうはちょっと目先を変えて、
占領期の日本の様子を、占領期の歌謡曲史をとおして見てみたいと思います。

南の島々の玉砕を聞き、日本全土の都市がB29による空襲を受け、
いよいよ本土決戦の覚悟にせまられて、死を覚悟したころ、
突如、ひとびとはラジオから流れる「終戦の詔勅」を聞きます。

ぷっつりと切れた緊張の糸。
敗戦の悲しみもあったものの、長く続いた灯火管制から解放され、
人々はあかあかと灯る暖かい色の白熱電球に、
戦争が終わった実感にひたりました。
もう、敵機から逃げる必要はなくなったのです。

延々と広がる焼け跡の中で、こんどは一人ひとりが「生きる」ための戦いが始まります。
生活レベルが都会では戦前の35%まで落ち込んでいました。

生存のためにはどこにも足りない「配給」を補うために、
「闇」の生活物資を求めて、ひとびとはハイパー・インフレの巷をさまよいます。

8月30日、厚木飛行場に降り立ったダグラス・マッカーサーは、サングラスとコーンパイプで不安な胸の内を隠していました。
彼は、日本人は占領に対して激しく抵抗するのではないか?という疑念が払拭しきれませんでした。

GHQ東京占領

その日、マッカーサーは約3000名の空挺隊員とともに横浜に移動し、
焦土と化した横浜の街にポツンと焼け残ったホテル・ニューグランドに宿泊します。
連合国軍最高司令官として正式に東京に乗り込むまで、横浜税関ビルが仮のGHQ司令部となりました。

9月15日、マッカーサーが東京入りすると、おほりをはさんで皇居と向き合う日比谷の第一生命館が接収され、GHQ=連合国軍最高司令官総司令部となりました。
丸の内地区一帯の焼け残ったオフィスビルの多くがGHQによって接収され、「リトル・アメリカ」の風情を醸し出すこととなりました。

銀座・松屋はPX(米軍専用の売店)になりました。松田(東芝)ビル、伊東屋、千疋屋なども接収され、日本人オフ・リミットとなりました。

有楽町の東京宝塚劇場はアメリカ第8軍に接収され、沖縄伊江島で日本軍狙撃兵の銃弾に倒れたアメリカの名従軍記者アーニー・パイルを記念して、「アーニー・パイル劇場」と名称を変更されました。
ここでは天皇が登場するオペレッタ『ミカド』が上演されています。もちろん、進駐軍とその家族を慰安するための劇場なので、一般の日本人は入れませんでした。
劇場のプログラムはショーと映画で、アメリカ本国から慰問に来るプロの芸人と、G・Iのなかの芸人や腕達者の素人、そして日本人メンバーで構成するアーニー・パイル舞踊団によって成り立っていました。

帝国生命ビルには、GHQの通信隊写真部が陣取りました。日本での占領統治を、写真を使って詳細に記録するのが任務でした。

NHKの放送会館は、6階に民間検閲局(CCD)、4階に民間情報教育局(CIE)、2階に渉外局・英米通信社など、1階にCIEのアメリカ文化センター、外国放送諜報局(FBIS)などのGHQの各部局に占拠され、NHKが使用許可されたのはわずかに3階と5階のみでした。

築地の聖路加病院は米陸軍病院として接収されました。

また、大日本帝国陸軍の代々木の原練兵場が米軍に接収され、92.4万平米の敷地にアメリカ空軍とその家族が暮らすための団地が造成され、「ワシントン・ハイツ」と呼ばれました。
いま問題になっている国立競技場のあたりですね。

皇居前広場では、アメリカの独立記念日に連合国軍1万5千人がパレードしたり、エリザベス女王とフィリップ殿下の結婚を祝して英国軍が閲兵式をやったり、ビクトリア女王の誕生日の「エンパイヤー・デー」には、インド軍楽隊やオーストラリア軍、バグパイプ演奏をするスコットランド軍などが、GHQ本部である第一生命ビル前を行進したこともありました。

東京中心部はまさに「植民地街」と化していました。

第一生命館(GHQ=連合国軍最高司令官総司令部) 1950年頃

「ウィキペディア」より

街角には戦勝国のアメリカ兵が行きかい、
その周りに広がる焼け跡の瓦礫の中に立てられたバラックが日本人の棲家でした。
東京の全家屋の65%が、米軍の空襲により破壊されていました。
日本人は「飢餓と貧窮」のまっただ中であえいでいました。

この色彩をなくした世界に、ある日突然、赤いリンゴと青空の風景が出現します。

「りんごの唄」から始まる

戦後流行歌第一号、それが並木路子の歌う『リンゴの唄』でした。
敗戦の年の10月から流行の始まった、時局に似合わぬこの「明るすぎる」歌を、人びとは競うように空腹を忘れるために歌いました。


『りんごの唄』 並木路子  昭和21年(1946)

サトウハチロー作詞/万城目正作曲

『りんごの唄』は、松竹映画『そよかぜ』(昭和20年封切。GHQ検閲第一号映画)の挿入歌でしたが、映画の方はいまではすっかり忘れられてしまって、歌だけが鮮やかに記憶されています。

映画『そよかぜ』 昭和20年(1945)

佐々木康監督作品。昭和20年10月10日封切。並木路子、上原謙、佐野周二出演。

映画『そよかぜ』は、秋田県増田町のリンゴ畑で撮影されました。
わたしの知り合いの秋田美人のおかあさんが、撮影現場をみています。

歌手並木路子は当時、東京松竹歌劇団の一員で、昭和20年3月の東京大空襲で母を亡くしています。
彼女自身も、隅田川に飛び込んで空襲をのがれ、間一髪で救い出されました。
芝・増上寺で母の遺体と対面し、ひとりで母を骨にして埋葬しました。

彼女の父は南方で亡くなり、長兄は千島北方で戦死していました。
でも彼女が『りんごの唄』を歌ったころ、まだ彼女はそれを知りませんでした。
もし知っていたら、あんな明るい歌声で歌えたでしょうか?

『りんごの唄』の作詞者サトウ・ハチローによると、
もともと2番の歌詞だったものが、作曲者の万城目正によって1番の歌詞と入れ替えられて完成したそうです。
いまの1番は、

赤いリンゴに くちびるよせて
だまってみている 青い空

ですが、

リンゴ畑の 香りにむせて

という「幻の一番」がかつて存在したそうです。(『占領期雑誌資料大系1』)
この歌詞が映画の中で歌われていることに気が付きました。
聞き取りにくいところもあるのですが、採詞しておきます。

リンゴ畑の 香りにむせて
駈けても来るよな よろこびよ
若さにぬれてる リンゴの瞳
おどる希望が 光ってる
リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

昔の映画って、けっこうレコードの歌詞とは違う歌詞で歌っていることがよくありました。
『網走番外地』シリーズとか、『昭和残侠伝』シリーズとか、
『男はつらいよ』シリーズなんかでもあったな。

こうして戦後日本歌謡史は『りんごの唄』から始まりました。

昭和20年の終わり頃には、海外からの引揚者が日本本土に帰り着き始めました。
海外にいる日本人全員に対して、GHQが引き揚げ命令を出したためです。
抱えられるだけの財産を持って、土地や家や農地はそのままに、
いのちからがら逃げ帰ってくる人々で、町は溢れました。
その中には復員兵の姿もありました。
誇り高い「皇軍」の一員だった兵隊も、GHQ占領下の日本では「賤民」のひとりにすぎなかったそうです。

「軍艦マーチ」にのって威勢よく世界へ出て行った日本人は、
傷心を抱いて、大海に漂うような船にのって戻ってきました。
田端義夫の『かえり船』(昭和21年)は、そんな思いが伝わる歌です。
『岸壁の母』(昭和29年)にまでつながる、たくさん生まれた「引き揚げソング」の走りの作品です。

こんな女に誰がした

昭和21年9月29日付『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に、21歳の娼婦からの投書が載りました。

 ここを寝所にして勤口を捜しましたが、見つからず、何も食べない日が三日も続きました。すると三日目の夜、知らない男が握り飯を二つくれました。私はそれを貪り食べました。その方は翌日の夜もまたおにぎりを二つ持ってきてくれました。そして話があるから公園まで来てくれといいました。私はついてゆきました。その日はたしか六月十二日だったと思います。それ以来私は「闇の女」とさげすまれるような商売に落ちてゆきました。

日本の人びとが「パンパン」と呼ばれる女性たちの実態に触れた初めての記事でした。
作詞者の清水みのるは、この記事にくぎずけにされ、
「こんな女になったのも元はといえば戦争が悪い!戦争が心から憎い!」と、憤りをぶつけるように徹夜で書きあげたのが、『星の流れに』だったそうです。


「星の流れに」 菊池章子 昭和22年(1947)
<br>清水みのる作詞/利根一郎作曲<br>

パンパンというのは、戦後、街角のガード下などに現れた売春婦のことです。豊かな物資をもっている占領軍を相手にする者が大部分でした。
パンパンになった女性は、戦災孤児か、でなければ父をなくした「長女」が多かったといいます。
家族を養わなくてはならないという責任感から、元手のかからない商売の道に飛び込んだのでした。

この歌が戦後歌謡の中でも「異色」とされるのは、「こんな女に誰がした」という怒りが直接に歌われているためです。こんな歌はこれまでありませんでした。
こんな女にしたのは誰なのか、人びとが考えた一般的な答えは、無能な政府と役人組織でした。

また、昭和22年4月22日の夜には、NHKが「らく町(有楽町)のお時」という通名の、19歳の街娼のインタビューを放送しました。番組タイトルは「ガード下の娘たち」で、全国に大反響を巻き起こしたそうです。

「……そりゃア、パン助は悪いわ、だけど戦災で身寄りもなく職もないワタシたちはどうして生きていけばいいの……好きでサ、こんな商売をしている人なんて何人もいないのヨ……それなのに、苦労してカタギになって職を見つけたって、世間の人は、アイツはパン助だったって、うしろ指をさすじゃないの。ワタシは今までに何人も、ここの娘たちをカタギにして世間に送り出してやったわヨ、それが……みんな(涙声になる)いじめられ追い立てられて、またこのガード下に戻ってくるじゃないの……世間なんて、いいかげん、ワタシたちを馬鹿にしてるわヨ……」(『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻「らく町お時の涙」)

しかし、この放送を聞いて、最も強い衝撃を受けたのは、お時さんその人でした。ラジオから流れる自分の声が「悪魔の声」に聞こえ、まもなく彼女はヤクザの足をあらい、らく町から消えてしまいました。
9ヶ月後、番組担当の藤倉修一に、西田時子という見知らぬ女性から手紙が届きました。

──女だてらに思い上がって、パン助たちに姐さんと呼ばせ親分と慕われて、いい気になっていた私は、何という馬鹿な女でしょう。あの晩、藤倉さんに威張ったように「らく町」の女を一人でも多く更生させるためには私自身がヤクザの足を洗い現実の社会に飛び込み、その苦しみを味わわなければと東京を去り、市川市のある会社に勤めました。<br> ずいぶん堅い決心でカタギの生活に入りはしましたが、浮世の風は冷たく、決心も時にはくずれそうになります。そんな時、フイと思い出すのはあの晩の藤倉さんの言葉です。「あなたの力で一人でも多く、ここの娘たちを更生させて下さい……」これを思い返して私はまた心をかため、強くなろうとしております──(同前)

その後、彼女は、結婚して幸福に暮らしたということです。
戦争の時代にはどこの国にもあった小さな話のひとつかもしれませんが、人間の性善説を感じさせる挿話ではあります。

『東京ブギウギ』爆発!

笠置シズ子『東京ブギウギ』は、闇夜に百万ワットの電球がともったような衝撃をひとびとに与えましたが、
作曲した服部良一にしてみれば、戦時中からながいあいだあたためてきたアイデアが、
笠置シズ子というボードビリアン歌手と、廃墟になった街という絶好のロケーションを得て花開いた一曲なのでした。

服部良一は、李香蘭の『夜来香幻想曲』にふれて、こんなことを書いてます。

…この夜来香の幻想曲の最後のところにブギウギのリズムを挿入してみた。練習のとき、李香蘭はしきりに首をかしげ、
「先生、このリズム、なんだか歌いにくいわ。お尻がむずむずしてきて、じっと立ったままでは歌えません」と言う。
 ぼくは、胸中、会心の笑みをもらした。今は戦争中で、敵国アメリカの新リズムとは言えない。しかし、いつかは日本でも使える日がくるだろう。じっと立ってでなく、思いきりステージを踊りまわってブギが歌える日がくるだろう。そうあって欲しい、と心から念じたものである。
 この八拍(エイトビート)の躍動するリズムは、ぼくが昭和十七年ごろ、『ビューグル・コール・ブギウギ』の楽譜を手に入れて知っていた。(服部良一『ぼくの音楽人生』)

レコードの吹込みは九月十日で、内幸町のコロムビア・スタジオには、
隣の政友会ビルが進駐軍の下士官クラブになっていたため、
日本人がブギをやるということを聞きつけた米兵たちが、ビールを片手に集まってきて、
笠置シズ子とオーケストラを取り囲んでしまいました。

 懸命に静粛を呼びかけていたが、心配は無用だった。指揮棒がおろされると、ぴたりと私語がやみ、全員の体はスイングしているが、セキ一つ出さない。
 笠置シズ子のパンチある咆哮のような歌唱、ビートのきいたコロムビア・オーケストラ、それを全身で盛り立てている大勢のG・I、最高のライブ録音のムードだった。
 OKのランプがつくと、真っ先に歓声をあげたのは、ぼくたちではなく、G・Iたちであった。たちまち『東京ブギウギ』の大合唱だ。ビールやウイスキーや、チョコレートや、そのほか当時の日本人には貴重なものがどんどんスタジオ内に運びこまれ、期せずして大祝賀会になってしまった。(前掲書)


「東京ブギウギ」 笠置シヅ子 昭和23年(1948)

鈴木 勝作詞/服部良一作曲


敗戦の鬱憤を晴らすようなリズムの爆発と、脳天気な明るさの歌詞が廃墟の人びとを魅了しました。
天下無一物の境涯に居直ってしまうなんて、ある意味、日本人のとんでもない凄さを感じます。
とくに、闇の世界で生きるプロテスチュートたちに圧倒的に支持されたということです。

 第二次大戦がおわって、日本人、米兵、”三国人”に共通する「世紀」という世界史的な時間感覚がこの曲にはあるように感じる。
(中略)
 もののみごとに東京が破壊されたからこの解放感のスケールが生まれた。ちょっと打倒すればちょっと気持ちよく、さらに打倒すればさらに気持ちよく、徹底的に打倒すれば徹底的に気持ちよい、という明快さがあって、ここには自暴自棄(ヤケクソ)はない。(平岡正明『大歌謡論』)

昭和23年。この年から、いわゆる「逆コース」が始まります。

節も悲しい…『悲しき口笛』

終戦の年、「数え年九歳の戦前派」(平岡正明)だった美空ひばりは、父が復員するとすぐに立ち上げたアマチュア楽団「美空楽団」のたった一人の歌手でした。

12才でレコード・デビューしたての頃の美空ひばりの持ち歌が、笠置シズ子の「東京ブギウギ」や「セコハン娘」などだったことはよく知られています。
そして、笠置シズ子からうとまれて、笠置の持ち歌だけでなく、服部良一が作曲した歌すべての使用禁止を申し渡されたことも!

美空ひばりが笠置の曲を歌うと、笠置にはないペーソスが聴く人を惹きつけました。この12歳の少女の持っている恐るべき天才を、笠置シズ子は本能的に察知して、自己防衛本能からいじめぬいたのではないか? こんにちでは、そのように解釈されています。

この「事件」の結果として、服部といちおう「和解」はしたものの、その後も長いあいだ、美空ひばりは服部良一の歌をうたうことはありませんでした。「別れのブルース」も、「蘇州夜曲」も、「銀座カンカン娘」も、「青い山脈」も。
これは歌謡界の大きな損失ではなかったでしょうか?

「悲しき口笛」 美空ひばり 昭和24年(1949)

作詞/藤浦 洸 作曲/万城目正

先に引用させてもらった平岡正明のこの歌のつぎのような解釈を読んだ時から、
わたしは美空ひばりの『悲しき口笛』をきくと、いつもこんな情景が思い浮かびます。

画面に米軍は出てこないようだが、丘の上のホテルには戦勝者の米軍がおり、丘の下の路地を特攻隊くずれの兄が、節も悲しく、口笛を吹いてさまよっていたのだろう。舞台はやはり横浜だったのだ。

口笛で吹いていたのは「同期の桜」だったかもしれないな。
死んでいった戦友をおもえば、いのちながらえて敵の占領下に自分がいることは、特攻隊の生き残りとしてさぞ悲しかったことだろう。
横浜生まれ・育ちの、ひばりならではの情景喚起力です。

少女の目には父や兄が、戦争に敗れた側にいる。だから悲しみがある。そう聴こえてしまうのだからどうしようもない。デビューの瞬間に美空ひばりが内蔵していたとほうもない能力は、はやくも藤浦洸の作詞を射ぬいたところがあり、またここが、勝利者米国の音楽ブギウギに拠って底抜けに陽性な笠置シズ子の歌と美空ひばりを分かつものである。

この歌は美空ひばりのレコード・デビュー第2作でした。

平岡正明は「形成期の戦後民主主義も美空ひばりに追いつけなかった」として、その理由を、元祖ゴッド・マザーであったひばりの母の「戦争のひっかぶりかた」から読み解いています。

ご亭主は勇躍応召、女房どのは家族の魚屋の経営を女の細腕で支えねばならず、「些々タル一家庭ノ事情」など国の大義の前に吹きとんでしまった。昼は仕入れのリヤカーをひき、夜は防空壕で子どもらをしっかりと抱きしめて寝る。炊事洗濯はもとより、男手のなくなった銃後では糞尿処理にいたるまで。
(中略)
 母親は戦後民主主義に影響されたのではけっしてなく、だんこ戦中体験に居直ったのである。(竹中労)
 これなのである。戦後民主主義はマッカーサーが運んできたのではなく、女たちの戦争体験に基板を置いていた。男はといえば敗残兵で茫然自失(中略)、壁をよじのぼるパワーがなかった。
 美空ひばりは母親の戦争体験に接続していた。そしてそれが日本史への接続である。(『大歌謡論』)

わたしはこれを読んだとき、「DIY」(Do It Yourself)運動のことを思い出しました。
第二次世界大戦中のイギリスでおこった銃後の運動ですが、男たちがみんな戦争に出て行ってしまったために、居残った女たちの手で、それこそ家の修繕からなんでもじぶんたちでやってしまおう!という趣旨の運動でした。
この運動の流れから、アメリカで初めて生まれたのが、「DIYホームセンター」でした。
戦後だいぶたってから日本にも輸入され、その第一号店が「ドイト与野店」でした。いまでは世界一と目される「ジョイフル本田」ほかが、日本全国に展開するにいたっています。

日本では、やはり戦争が女性の自立をうながすことになり、「戦後強くなったのは女性と靴下」という言葉までうまれることになります。

「歌とは数十年にわたって蓄積された民族の感情の噴出である。」(平岡正明)
美空ひばりは、少女時代に母親をとおしてそれを受けとめ、その後さらに数十年をかけて、「国民歌手」への道を登りつめていくことになります。

青春賛歌「青い山脈」

「青い山脈」は、 これも映画の主題歌ですが、本編のほうが東宝争議のあおりをくらって封切の見通しが立たず、
宣伝戦略としてひと足先にレコードが発売され、主題歌だけが先行して大ヒットすることになりました。

明るく、リズミカルで、しかも力強い行進曲風の曲調が、終戦後4年目の日本の大衆に受け入れられました。

作詞の西条八十は、戦時中はたくさんの軍歌を書いていたため、
GHQが進駐してくると、戦争犯罪人リストに入れられていたそうです。

その時が来たら、妻とともに死ぬつもりで、
いつも紫色の小瓶に青酸加里を入れて持ち歩いていました。
青酸加里は、耳かきいっぱいで人が死ぬと言われる、猛毒薬です。

西条は、軍のためでなく兵隊たちを励ますつもりで「軍歌」を書きましたが、
自分の書いた軍歌に鼓舞されて、たくさんの若者が死んでいったことを思い、
戦後は自分を責めつづけていたと言われます。
これは作曲家の古関裕而も同じでした。

昭和23年、プロデューサーの藤本真澄から「青い山脈」の作詞依頼を受けたとき、
シナリオを読んで想を練ったすえに最初に書き上げた一行は、

古い上衣よ さようなら

でした。
この一行から、青春賛歌「青い山脈」は生まれました。


「青い山脈」 歌/藤山一郎・奈良光枝 昭和24年(1949)

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作詞/西条八十 作曲/服部良一

さて。「雪割桜」ってなんだ?
わたしは最初は冬季に咲く桜の花のことだと思っていました。
しかし、「雪割草」とか「雪割小桜」を知ってからは、
高山性の小桜草類をそう呼んでいるのかな?と思って来ました。

後年筆者が名古屋の繁華街を歩いていると、桜草に似た淡紅色の花をつけた植物を売っている男が「青い山脈 雪割桜だよ。買ってらっしゃい」と口上を述べていた。
 そこで八十にその植物の話をすると、「その植物は「雪割草」が正しい名前で、「雪割桜」と言うのは、僕の考えた新語だよ」との事だった。(『西條八十全集 9』国書刊行会)

これは架空の「桜」ということか?

映画には「青い海」は出て来るが、「青い山脈」を思わせる映像は出てきません。
初めてこの映画を見た時から、そのことがずっと気にかかっていました。
「青い山脈」とはどうも、具体的な山を意味するのではなく、象徴的な「何か」なのだと思う。
若い教師と若い生徒たちの上にそびえ立つ大きな「何か」!
それは「自由」かもしれない、「希望」かもしれない、「平和」かもしれない。
それらすべてを含んだ「理想」なのかもしれない。

そんなこんなを思い合わせながら、私なりに歌詞を解釈してみると、

こころを縛り付けていた時代の桎梏がいま崩れ落ち、
われらのこころに青い山脈がそびえ立つ。
「青い山脈」とは、かつてあり、今もあり、将来もあり続けるもの=普遍的な「若者の理想」である。
若く明るい歌声がこだまして、
こころを蔽っていた雪は雪崩となって消え、桜がいま花を咲かせている。
雪のなかで咲く、元気な桜の花だ。
あの空の果てに、かつて多くの若者がいのちを散らしていった。
きょうもわれらに、かれらは夢を持てと呼びかけてくるのだ。
戦争の日々が染み付いた服よ、
ついに叶わなかったあの日の夢よ、いまはすべてを捨てて旅立とう。
見上げた空にバラ色の朝焼け雲がひろがり、
あこがれをもとめて旅をゆく乙女に、鳥も挨拶をおくっているではないか。
雨に濡れて、黒く光っている焼け跡。
あの日、雨のようにたくさんの人の涙で濡らしたこの空襲のあとに、
名も知らぬ花が、太陽に向かって花を葉をひろげている。
太陽にかがやく神々しい嶺々の姿を見ると、懐かしさに涙がまたも滲んでしまう。
若きころ、父は夢見た、そして若きころ、母もまた。
あの青い山脈を!
長い旅路をたどってきて、道が途絶えようとするこの時に、
青い鳥の棲むみどりの谷が目の前にひろがっている。
勇敢に道を進み行く若いわれらに、
祝福するような鐘の音が鳴り響いているよ。

あえて、作詞者西条八十の体験と時代性に重きをおいた読解をこころみてみました。とうぜん、いまはじめて聞かれる方は、時代性等を無視して自由に聴く権利があります。ただそうすると、とても明るい歌だなとは感じるものの、いざ歌詞の意味を吟味した時に、よく理解できない部分があることに気づくのではないでしょうか?

作曲家服部良一は、西条とは逆に、戦時中1曲も「軍歌」を作曲していません。じぶんは「ジャズ畑」だったので、作らなかったというより、つくれなかったのだ、といっています。
作曲家高木東六なども、「軍歌」をつくるのがいやで、仕方なく1曲だけつくったのが『空の神兵』でしたが、戦後になって、当時の軍歌の水準を超える名曲と評価されているのは、なんとも皮肉なことです。

服部良一は、西条の作詞を見ると、「軍歌を書こう。新しい時代に向けて、みんなの心がひとつになれるような軍歌を書こう」と決意しました。こうして、新しい時代への行進曲「青い山脈」ができました。

さて、主題歌は出来上がって、大ヒットしましたが、
映画会社・東宝の労働組合は、1200名という大量首切りに抗議して、全面ストライキが続いていました。
最終的に、武装警官が出動する事態となり、米軍も戦車を向けて威嚇するという局面に至ります。

プロデューサーの藤本は、東宝を退職して独立プロをつくり、東宝スタジオを借りて『青い山脈』の映画作りに取り組みます。

ちなみに当時の世相を見てみると、
占領初期は、戦時中は非合法の存在だった社会主義者・共産主義者が解放され、
も労働組合の組織化を後押ししたため、労働運動・革命運動の嵐が吹き荒れました。
これにソ連の捕虜になって共産主義教育を受けた復員兵や、中国共産軍の捕虜になって思想改造された復員兵たちが加わって、一触即発の社会情勢になっていました。

しかし、ソ連の脅威をアメリカが認識するようになると、
突如てのひらを返すように、GHQは共産主義・社会主義運動の弾圧を始めます。
GHQはこれまでの日本弱体化政策をひるがえし、日本を民主主義勢力の一員として、「反共の砦」として利用することに舵を切ったのでした。
昭和23年、いわゆる「逆コース」の時代の始まりです。

「青い山脈」 昭和24年(1949)

今井正監督作品。昭和24年7月19日封切。

じつは今井正監督は、「青い山脈」の主題歌が気に入らなくて、ほんとうは映画『パリ祭』のような上品な曲にしたかったそうです。プロデューサー藤本と対立しましたが、藤本がゴリ押しして、現主題歌のまま映画を仕上げてしまいました。映画は芸術性より大衆性が大切だという彼の信念に基づく決断でした。
映画が封切られると、映画館にはえんえんと行列ができ、映写機が回り始めるや、主題歌に合わせて観客の合唱が始まりました。2週間で500万人を動員する大ヒット映画となりました。

主演は戦意高揚映画にたくさん出演していた女優原節子です。
民主主義を信じて、古い体質を残す女学校や町の権力者と対立する女性教師、島崎雪子を演じています。
雪子を愛し、味方をして戦う沼田医師を龍崎一郎、高等学校の学生・六助を池部良、その友ガンちゃんを伊豆肇、恋愛問題を起こす女学生・寺沢新子を新人杉葉子が演じています。

この杉葉子、『続・青い山脈』で水着姿を披露しており、こういう「肉体主義」が「戦後」なんですね!
日本人の固定的なイメージをくつがえす健康的な肢体に、当時の観客はきっと息を呑んだことと思います。

なお昭和38年版(日活)では、島崎先生は芦川いづみ、沼田医師は二谷英明、六助は浜田光夫、ガンちゃんは高橋英樹、新子は吉永小百合でした。吉永小百合の水着姿は出て来ません。(笑)
それ以外にも、なんどか映画化、テレビ・ドラマ化がなされています。

『青い山脈』の原作は、『朝日新聞』に1947年6月~10月まで全117回にわたって連載された、石坂洋次郎はじめての新聞小説でした。
当然、この時期の新聞は、全面的にGHQによる検閲を受けています。新聞社の検閲が「事後検閲」に移行するのは1948年7月以降なので、『青い山脈』が連載していた頃はまだ「事前検閲」だったことになります。

実際にどのような手続きが取られていたかというと、まず棒ゲラに組んだ原稿を2部、所定のPPB(プレス・映画・放送課)の担当部門に提出します。
このうち1部は、複雑な行程を経て翻訳・タイプ打ちされ上位者にまわされ、ゲラには何らかの指示を記して新聞社側に返却されます。残りの1部にも同様の検閲内容が記載され、これはPPBで保管されます。
刊行後、新聞社からPPBに送られてきた印刷物が、指示通りに修正のうえ発行されているかどうか、保管してあるゲラと照合して確認されます。

そもそも『青い山脈』は、日本社会が民主主義をどのように受容するかがテーマの小説だったため、CIE(民間情報教育局)が進める日本人の民主化という日本再教育政策にも合致しており、しっかりとGHQの検閲を通過した「作品」であることを確認しておくべきだと思います。検閲されていることなど知らずに読んでいた、という、この時期の読者側の状況も、忘れるべきではないでしょう。

映画化にあたって大きく改変されたのはラストシーン(新子・六助・島崎先生・沼田医師・ガンちゃん・笹井和子が自転車に乗って、海辺へサイクリングする動画の部分)ぐらいで、映画はほぼ原作通りと言っていいくらいの作品です。
戦前からの左翼である今井正が監督ですが、小説も映画も当時の日本の大衆が求めていたテーマであり、GHQの思惑通りの作品だったという意味でも、まことに「時局にあった」作品だったわけです。

昭和24年版はいまからみると、あきらかに「民主主義」の宣伝映画になっています。
やたらと出て来る「民主主義」という言葉が空々しく聞こえます。
それは当時の日本人がその程度のレベルでしか「民主主義」を理解していないという石坂洋次郎の反語的表現でしたが、映画化されるとそれとは違ったニュアンスが出てくるところが、「映画」のこわいところではあります。

さすがに38年版では「民主主義」という言葉はもう出てこず、だいいち新子がカブに乗って現れますし、沼田医師の愛車は自転車ではなくスクーターですから、時代の変遷を感じますね。<br>テレビの青春ドラマ・シリーズ第一作『青春とはなんだ』(昭和40年)の世界観に、だいぶ近づいています。

24年版では、六助やガンちゃんのバンカラが楽しめます。
学生服や帽子や手ぬぐいや朴歯が、いい感じで使い込まれており、ヨレ感がとても自然でした。
これが38年版になると、高橋英樹のガンちゃんは妙にこざっぱりとしてきて、もういけません。
もっとも、原作ではガンちゃんが「バンカラ批判」を一席ぶちますが、映画のガンちゃんのバンカラぶりは博物館級だと思います。

この年の10月には、中華人民共和国が成立します。
さらに11月には、湯川秀樹博士が中間子理論によりノーベル物理学賞を受賞し、自信を失っていた敗戦日本人に大きな希望を与えました。
日本人がいよいよ「復興」を意識し始めた頃でしょう。

寺山修司は、西条八十の純粋詩には親しめないが、「マドロス子守唄」や「娘役者の唄」などの歌謡詩には、「これらには形而上学がない代わりに、船員や旅役者の現実がある。」「幾分うそになってはいるが、こうした詩にこそ、わが国の大衆下部構造の擬似ブルース的な名調子がある。」(『戦後詩』)と高く評価しています。
『青い山脈』にも、戦後民衆の心の現実が、明るさや希望を求めるこころの「飢え」が、表現されているのではないでしょうか。

「さよならの総括」の総括ということばにこだわることで、私の六十年代は終ろうとしている。総括にさよならすることで、フリージャズのように、自由な時代を手に入れたいというのが私の考えである。
(中略)
 かつて「青い山脈」のなかでうたった、
 
 古い上着よ 
 さようなら 

の「古い上着」はどんな他のことばにでもあてはまる時代になった、と思われるからである。古い上着=知識人、だめなニッポン、セクショナリズム、伝統、ベトナム戦争、大学、そして今過ぎ去ろうとしている私自身の役に立たない言葉、おこりそうもない革命、佐良直美の「いいじゃないの、幸せならば」、返還される沖縄、一九六九年総選挙!(寺山修司『歴史なんか信じない』)

私の「戦後70年」もまた、同じことを考えています。
「さよなら」をいうためには、その前に、しっかりと「こんにちは」を言っておかなくてはなりません。
この「戦後70年」カテゴリは、歴史にさよならするためのわたしの「こんにちは」なのです。
たぶん、方向性は寺山とは違うが、わたしにも「古い上着」にさよならすることが許されるでしょう。
占領期には新しかったさまざまなことが、今ではすっかり古びてしまい、弊害すら生じていると感じるからです。

アメリカにケツばかり振っているダメなニッポンよ、さようなら!
ニッポン人の自由なこころを縛りつける戦勝国史観の鉄鎖よ、さようなら!
そして日本人の歴史・伝統・文化を破壊したGHQの黒歴史よ、さようなら!

《参考文献》
平岡正明『大歌謡論』(筑摩書房)
『占領期雑誌資料大系1』(岩波書店)
『占領期雑誌資料大系2』(岩波書店)
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』
太平洋戦争研究会『GHQの見たニッポン』(世界文化社)
『「文藝春秋」にみる昭和史』第二巻(文藝春秋)
山本武利『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(岩波書店)
『驚きももの木20世紀』「旅路の果ての 青い山脈」
寺山修司『歴史なんか信じない』(飛鳥新社)