GHQは日本で「何を」やっていったのか?

きょうは、占領期間中にGHQがなにをやっていったのか、
駆け足になりますが見てみたいと思います。

わが国が歴史上初めて味わった「敗戦」と「占領」という屈辱の、
おおまかなイメージを把握することにここでは主眼を置き、
早くつぎの「各論」へ行きたいというのが、目下のわたしの思惑であります。

GHQが出したSCAPIN第1号は、
昭和20年8月16日の「日本陸海空軍の降伏及び武装解除について」でした。
日付を見れば分かる通り、天皇の玉音放送の翌日という早い段階でした。

SCAPIN(スキャピン)というのは、「連合国軍最高司令官(SCAP)命令」のことです。
マッカーサーが日本に到着したのは8月30日でしたが、
すぐに矢継ぎ早にいろいろな命令を日本政府に発し始めます。
日本政府は、降伏文書による拘束から、SCAPINが出されればそれに従うしかありませんでした。

GHQは日本に軍政を敷き、「間接統治」を原則としましたから、
直接、日本国民に対して命令を下すということはなく、
日本政府に対して命令を出すと、日本政府はすぐにその命令に沿った法律を議会で作って公布する、ということが繰り返されました。
日本の政府と官僚機構を最大限に利用する──それがGHQの「間接統治」の実態だったわけです。
国民はGHQが日本政府に命令を出しているのが見えず、
あたかも自国の政府が自発的に行動しているとしか受け取りようがありません。
SCAPINのことは秘密にしておくようにとの命令も出ていました。
この支配上のトリックこそが、日本人洗脳のメカニズムでした。

このようにして、1万を超える数の命令がGHQから出され、日本政府と官僚機構は「箸の上げ下ろしまで」GHQの命令で動いたと自嘲がきこえてくるほどでした。
占領期間をとおして日本政府の「国家主権」は停止されていました。

GHQが日本に来てまずやったのは、陸・海軍全軍の「武装解除」であり、
武器・兵器等の焼却処分や破壊処理がなされました。
占領に対する日本人の抵抗を恐れていたマッカーサーは、これでようやく安心できたわけです。
最終的に、日本の軍隊は解体され、大本営も廃止されました。
日本は国家としての自己防衛能力が「0」にされてしまったのです。

海外の大使館や領事館が廃止され、外交文書はGHQ に没収されて、日本の「外交権」が停止されました。

SCAPINにより「航空禁止命令」が出され、民間飛行機が日本の空を飛ぶこともできませんでした。
「財閥解体」や「産業の集中化の禁止」の影響もあって、
日本の航空産業の不振は、戦後も長く続くことになります。

昭和20年10月1日から昭和21年12月31日までに、
米軍が借り上げた約200隻のLST(大型揚陸艦)や貨物船と、日本艦隊生き残りの「ボロ船」に乗って、
アジア各地や太平洋の島々から、510万人以上の日本人が祖国に帰って来ました。
昭和22年中には、さらに100万人が本土の土を踏むことが出来ました。

寝る家もなければ食べる食料もない敗戦後の日本に、
海外からおおぜいの民間人や兵士が帰ってくることによって、
住宅難・食糧難はいっそう深刻にならざるを得ませんでした。

「貿易」や「為替取引」が禁じられ、日本人の自由な海外渡航も厳しく制限されました。
日本人の海外資産は全面的に凍結されました。
日本経済は海外からの輸入なしに食料の自給自足も出来なければ、資源の輸入なしに工業生産もできません。
軍需産業はつぎつぎに取り潰され、ひとびとは就業もままなりませんでした。
日本人の「生きるすべ」が次々と奪われていきました。
日本はGHQによって世界から隔絶され、見えない檻の中に収容されて、日本人洗脳計画だけが着々と進められて行きました。

さらに追い打ちをかけた、日本政府の想定外のことがありました。
「GHQ占領費用の全額負担」が日本政府に義務付けられたことです。これは当時の国家財政の3分の1を占めるにいたりました。GHQはこれを「終戦処理費」と呼んで偽装するよう日本政府に命じ、国民の眼からその本質を隠しました。

「GHQ占領費用」とは、GHQ隊員の給与はもちろんのこと、接収した建造物の改築費、ワシントンハイツなどの住居費とその維持費、占領政策にかかる費用の一切合財を含みました。

この巨額の負担が、救済を必要としていた多くの人々──浮浪児、戦災孤児、戦争未亡人、焼け出された人びと、引揚者、復員兵たちを見捨てる原因となったことは否定できないと思います。そして日本人の住宅対策や経済の復興に及ぼした影響も決して小さいものではなかったはずです。
まいにち栄養失調死や餓死する人びとが続いていました。彼らの前で「民主主義」とはいったいなんだったのでしょうか?

原油も輸入禁止になったため、自動車は「木炭自動車」に変わっていました。
自転車やリアカーが日常的な移動や運送の手段となりました。

旧軍隊の隠匿物資やGHQの横流し品が大量に出回り、ブラック・マーケット(闇市)を形成しました。
ここでは米や物資が高額で取引されたため、米や物資が正規のルートに流れずに、食料不足・物資不足に拍車がかかりました。
市場には物資も現金も不足し、その結果当然のこととして、天井知らずのインフレが発生しました。

学校の校庭などの「空き地」は芋畑に変わり、米不足を補う「代用食」にされました。
うちのお袋なども、家は農家でしたが、米は供出され配給だったため、芋や豆や大根混じりのご飯を食べた経験から、白いお米のご飯が大好きで、イモ類は戦中戦後の代用食を思い出すので大嫌いでした。

街には浮浪児があふれました。
多くは空襲によって両親を失った戦災孤児でしたが、窃盗や強盗など悪さをする者が多く、
彼らに救済の手を差しのべるものはありませんでした。
占領政策上よくないと考えたGHQの要請により、役人たちは「浮浪児狩りカリコミ」を実施して、浮浪児たちを鉄の檻に収容しました。野良猫や野良犬でも扱うように、役人は彼らを「1匹、2匹」と数えたそうです。
民間による救済事業もあったようですが、浮浪児たちは窮屈な施設を嫌って、逃亡するものがあとをたちませんでした。

お台場の浮浪児収容施設

一般庶民の中でも、住居が焼け残ったものと焼け出されたものとでは、
その後の「運命」に大きな差が付きましたが、
それにつけても政治家と官僚たちは、それまでとかわりなく「料亭政治」に明け暮れていたため、
飢餓線をさまよっている庶民からは怨嗟えんさの対象でしかありませんでした。

実際、戦後のどさくさに紛れて、本土決戦のために溜め込んでいた物資を隠匿して、
巨利を得ていた不届きな政治家や軍人がいたのも、戦後日本史の恥部のひとつです。
それらが庶民の救済に使われていたら、もっと生命が救われた人びとが増えていたのではないでしょうか?

 戦争に負けたというのに、特権階層の連中は戦争中と同じように景気よくやっているという思いが、一般の人々のやる気をいっそう失わせた。日本の降伏から一六ヵ月後、近所の二軒の高級店の様子について、一人の労働者が次のように怒りと恨みをこめて書き綴っている。一軒めの高級洋食店には、「われわれのちょっと想像もつかぬ山海の珍味」がそろっており、官僚、銀行家、会社の重役、警察官がひきもきらずやってきた。その近くにあるもう一軒の高級料亭には、夜ごと車で乗りつける人間であふれかえり、酒が入るにしたがって、客たちは戦時中の軍歌を歌って騒いだ。こうした実態と、これから国民がつくるはずの「民主主義」とは遠くかけ離れていると、この労働者は書いている。(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』上)

昭和20年(1945)、この年の農業生産は、天候不順や労働力不足、肥料生産の減少などにより、収穫高が例年の40%近い減少となりました。GHQの輸入禁止命令により、米、砂糖、塩、大豆なども入ってきません。
しかも、収穫した穀物を農民は大量に闇に流しました。

大蔵大臣はUP通信社に、食料がすぐに輸入されなければ、1000万人の日本人が餓死するだろうと述べました。

このままでは餓死者が続出すると見たGHQは、米軍の携帯口糧を放出し応急手当を行いました。
アメリカではガリオア資金(占領地救済資金)が創設され、それが順調に稼働し始めると、大量の援助食糧が到着するようになります。
さすがにこれには多くの日本国民がアメリカに感謝し、感謝の祭りを催す自治体まであらわれました。
それでも、「なんとか生きていられる」というレベルの改善で、「飢え」から解放されたわけではありません。
こういう生活が、それから4年以上は続きました。

巷間がこういう状況のなかで、GHQが力を入れたのは「戦犯の逮捕」でした。極東軍事裁判に向けて、戦犯に関する情報を細大漏らさず収集しました。そこで強化されたのが「郵便検閲」でした。

知られざる同胞監視~GHQ・日本人検閲官たちの告白~

GHQが次に力を入れたのが、教育分野でした。
東京進駐から3ヶ月強のあいだに、4つの教育に関する指令がGHQから出されています。
昭和20年10月20日「日本教育制度に対する管理政策」(SCAPIN─178)
昭和20年10月30日「教職追放令」(SCAPIN─212)
昭和20年12月15日「神道指令」(SCAPIN─448)
昭和20年12月31日「修身、日本歴史及び地理に関する件」(SCAPIN─519)

「自由」「人権」といった「民主主義」を、教師・生徒に対して「再教育」する一方で、
「軍国主義」「封建主義」などの戦前文化の徹底的な抹殺が実施されました。

また地方自治体に委託して教師の「適格審査」がおこなわれ、全国約45万人の教師のうち、11万5778人がみずから辞職し、軍国主義的および封建主義的とみなされた約5200人が教職追放されました。軍部に協力的だった教師が、リベラル派や共産主義の教師によって、GHQに通報されることも多かったそうです。

明治以来、日本人子弟の教育に用いられてきた修身・歴史・地理は、内容が封建主義的であるとして、授業の停止と教科書の回収が命じられました。

また、戦時中の国家神道が戦争を扇動したとして、「神道」と「国家」の分離が命じられました。

国民が祝日ごとに掲げていた国旗掲揚も禁止され、国歌を歌うことも禁止されました。
天皇陛下の地方行幸の際も、それまでは普通におこなわれていた国民が日の丸の小旗を振って迎える行為も禁じられました。
占領が終わり間近になると、国旗掲揚はふたたび解禁されますが、すぐに国民が国旗を掲げることはありませんでした。

「あなたはどうやって食べていますか?」
こんな問いかけがNHKのラジオ放送の街頭インタビューでおこなわれていたころ、
日本人はこれ以上には落ちようがない、文字通りの「どん底」を、敗戦と占領によって味わいました。
人々は、「飢餓」と「貧困」といっしょに「自由」と「民主主義」を与えられました。
この「占領期」こそが、いまに続く日本の文化・経済・政治の原点になっていることは間違いないと思います。

GHQの占領にもかかわらず、日本人は日本社会の変革の好機ととらえ、
積極的により望ましい国家像を求めた時期であったことは確かです。

それにもかかわらず、やはりGHQによるアメリカの国益のための占領政策という限界の中でしか、
日本人の理想を求めることは出来なかった、というのも厳然たる事実でしょう。

サンフランシスコ講和条約の発効によって、GHQによる「軍事独裁」は終わりました。
それからが本当の日本の「独立国」としての歩みが始まるはずでしたが、
沖縄は返還されなかったし、本土にも米軍基地が残り、
なにより多くの国民は、アメリカの国益に沿った「洗脳」が解けないまま、
戦後数十年をすごしてきました。

うーむ。「何に」焦点を合わせていいやら、完全にわからなくなって、予想外に長い記事になってしまいました。
多種多様な現象が、いろんな場所で、同時進行的に起こっているというのが、「戦後の混沌」というものなのでしょう。
すっかり「やられて」しまった。
簡単にすまそうと思っても、一つ一つの事柄に深い意味が感じられて、とても一言では済ますわけに行かない。

教科書的に考えれば当然ふれておくべき「農地解放」やら「傾斜生産方式」やらその他諸々のことも、
ふれることができずにしまいました。
なにしろ、GHQがかかわらなかった事柄なんて、「ひとつも」なかったんですから、
とても私の手に負えるシロモノではなかったのかもしれません。

次回からは「必要に応じて」個々のテーマを取り上げていきたいと思います。

「占領」の教訓

GHQの「日本占領」とは、アメリカ側からすれば、「戦争の一部」として遂行されたものでした。
日本人が8月15日を期して「終戦」したと思い込んでいたころ、
アメリカ軍は「占領」という段階の「戦争」を継続していたということです。

この意識の違いが、戦後長きに渡る日本の敗北を宿命づけたように思われます。
日本は、戦闘行為が終わったあとも、さらに新たな「敗北」を重ねてきたということです。
世界史に登場してから、ろくな国際体験をしていなかった日本および日本人が、
はじめて体験した恐るべき戦争が「占領」だったのだと思います。

その点、中国人の方が、歴史的に侵略を無数に経験してきてますから、
政府も軍部も民衆も、戦争の時にはどのように立ち回ればいいか、
よく心得ていたのではないでしょうか?

「南京大虐殺」の国際プロパガンダ闘争ひとつとっても、
みごとなまでに中国は歴史を偽造しおおせており、
アメリカや欧米諸国の世論を味方につけることに成功しています。

こういう戦時の「知恵」が、外国から侵略された経験の無い日本人には、決定的に欠けています。
そういう意味で、第二次世界大戦における「連合国軍による占領」という得難い経験は、
先人たちが血を流しながら残してくれた貴重な歴史の教訓として、
われわれがそこから学べることは多いはずです。

《参考文献》
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』(岩波書店)
山内明義『GHQの日本洗脳』(光文社)