- 『新日本童謡集』について
- 新日本童謡集【あ】
- 『青葉茂れる桜井の』(明治32年・1899年)
- 『嗚呼玉杯に花うけて』第一高等学校第十二回紀念祭東寮寮歌(明治35年・1902年)
- 『青葉の笛』尋常小学唱歌(明治39年・1906年)
- 『雨』(大正7年・1918年)
- 『赤蜻蛉(あかとんぼ)』(大正10年・1921年)
- 『赤い靴』(大正10年・1921年)
- 『青い眼の人形』(大正10年・1921年)
- 『あの町この町』(大正13年・1924年)
- 『雨降りお月さん』(大正14年・1925年)
- 『あの子はたあれ』(昭和14年・1939年)
- 『青い山脈』藤山一郎・奈良光枝(昭和24年・1949年)
- 『有難や節』守屋浩(昭和35年・1960年)
- 『赤いハンカチ』石原裕次郎(昭和37年・1962年)
- 『あゝ上野駅』井沢八郎(昭和39年・1964年)
- 『網走番外地』高倉健(昭和40年・1965年)
- 『安奈』甲斐バンド(昭和54年・1979年)
『新日本童謡集』について
寺山修司編著『日本童謡詩集』(1992年、立風書房)という本があります。
この本では、一般によく知られた童謡や唱歌のほかに、わらべ唄・演歌・寮歌・軍歌・春歌・ラジオやテレビのCMソング・映画の主題歌などまで〈童謡〉として扱われているのが特徴です。
寺山にとって、人生の伴奏歌だった歌はすべて〈童謡〉であり、ジャンルによって差別されるものではありませんでした。
寺山は、すぐれた童謡は人生において二度あらわれる、と言っています。一度目は子ども時代の歌として、二度目は大人になってからの歌として──。
また〈童謡〉は、孤立した個人の内部から歌い出されるものであり、子ども時代に閉じ込めておくべきものではなく、長く一生歌い継がれていくべきものだ、とも言っています。
〈童謡〉は、歌う人の子供時代そのものであり、大人になって子供時代を歌うことにより、ひとは自らの現在地を確かめることができるからです。
映画に主題歌があるように、人の一生にもそれぞれ主題歌があるのではないだろうか。そして、それを思い出して唄ってみるときに、人はいつでも原点に立ち戻り、人生のやり直しがきくようなカタルシスを味わうのではないだろうか。
寺山修司『日本童謡詩集』(1992年、立風書房)
私の『新日本童謡集』では、この寺山修司の童謡観を継承しながら、今年は「昭和百年」にあたるということなので、それを記念して、現時点の私の価値観で、ディープな日本が味わえる〈童謡〉を選び出してみたいと思っています。
NHKが試聴者の投書にもとづいて選んだ「日本のうたふるさとのうた100選」などというものもありますが、個人にとっては、より頻繁に思い出しては口ずさむ歌こそが重要な歌なのだと思います。
このブログでも、「姿三四郎」のテレビ主題歌や「ネリカンブルース」、「ズンドコ節」など、様々な歌を紹介してきましたが、それらはほとんどが「私の童謡」と言えるものです。
この『新日本童謡集』が、あなた自身の〈童謡〉を確認するための手掛かりとなれれば幸いです。
なお作詞家の死後70年が経過してパブリック・ドメインになっている作品の詞は掲載する方針ですが、掲載してないものは、作詞家の著作権の保護期間が継続中のものと考えていただいてよいです。
またタイトル内の年号は、歌詞が最初に発表された年であり、その時点ではまだ作曲がなされていないこともあります。童謡がレコード化のために作られるようになって初めて、作詞・作曲の発表年が揃うようになります。
それでは、今回はまず【あ】で始まるタイトルの新童謡から! この後は五十音順に行きます。
リストアップしてみたら、【あ】から始まる歌って、けっこう多いんだよね。厳選して発表します。
野口雨情は「(詩は)なるべく『ア』で始まるのが効果的です。それからリフレーン(繰返し)も大切です。」(藍川由美『これでいいのかにっぽんのうた』1998年、文春新書)と言っていたそうなので、それも一因となっているのでしょう。
もちろん、該当する歌がない五十音もありますので、あらかじめお断りしておきます。
新日本童謡集【あ】
『青葉茂れる桜井の』(明治32年・1899年)
![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/湊川_600_001.jpg)
『青葉茂れる桜井の』
作詞/落合直文 作曲/奥山朝恭
青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて
父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討死せん
いましはここ迄来れども とくとく帰れ故郷へ
父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ諸共に 御供仕えん死出の旅
いましをここより帰さんは わが私の為ならず
己れ討死為さんには 世は尊氏の儘ならん
早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国の為め
此一刀は住し年 君の賜いしものなるぞ
此世の別れの形見にと いましにこれを贈りてん
行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん
共に見送り見返りて 別れを惜む折からに
復も降りくる五月雨の 空に聞こゆる時鳥
誰か哀と聞かざらん あわれ血に泣く其声を
※いまし……汝。お前。
発表時は『学校生徒行軍歌 湊川』の第一篇「桜井訣別」という題名で、楽譜として発表されました。そのため『桜井の訣別』と呼ばれることもあります。もともとは国とは無関係に発行されたものでしたが、尽忠報国が強調されているのが評価され文部省検定済みとなったため、小中学校の音楽教材として使われるようになりました。そこから現代では〈唱歌〉として分類されています。
発表当時から大人気になり、よく大衆に歌われたようです。音楽文化研究家の長田暁二によると、原作はヨナ抜き長音階だったのが、大衆はヨナ抜き短音階に変えて愛唱したとのことです。ファとシの音を使用しない「ヨナ抜き短音階」こそ、我々日本人の心に染み付いた音楽と言えるでしょう。
いつこの歌を知ったのか記憶がないのですが、いつの間にか好きな歌の一つとなっていました。うちの母も口ずさんでいたので、ごく自然に受け入れていたものと思います。私が日本の歴史に興味を持つようになったきっかけが、ここらへんにもあったのかなと思います。
この歌については、『太平記』との関連でこちらでも書いているので、ご覧ください。
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「古関裕而の音楽」──『七生報国』(昭和16年2月20日)
『嗚呼玉杯に花うけて』第一高等学校第十二回紀念祭東寮寮歌(明治35年・1902年)
![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/旧制一高_800.jpg)
歌/加藤登紀子
『嗚呼玉杯に花うけて』
作詞/矢野勘治 作曲/楠 正一
嗚呼玉杯に花うけて
緑酒に月の影やどし
治安の夢に耽りたる
栄華の巷低く見て
向ヵ岡にそそり立つ
五寮の健児意気高し
芙蓉の雪の精をとり
芳野の花の華を奪い
清き心の益良雄が
剣と筆とをとり持ちて
一たび起たば何事か
人世の偉業成らざらん
濁れる海に漂える
我国民を救わんと
逆巻く浪をかきわけて
自治の大船勇ましく
尚武の風を帆にはらみ
船出せしより十二年
花咲き花はうつろいて
露おき露のひるがごと
星霜移り人は去り
舵とる舟師は変るとも
我のる船は常えに
理想の自治に進むなり
行途を拒むものあらば
斬りて捨つるに何かある
破邪の剣を抜き持ちて
舳に立ちて我よべば
魑魅魍魎も影ひそめ
金波銀波の海静か
旧制第一高等学校の寮歌は、明治28年以来、毎年2月の寮祭の宵に、学生から募集したものの中から入選作を発表していました。本寮歌は、明治35年の第12回寮祭において発表された東寮の寮歌です。
当時は、この旧制一高の寮歌が、全国の旧制高校でも好んで歌われていたそうです。そんな情勢から、やがて他校でも、次々に独自の寮歌が作られるようになっていきます。
当時から旧制一高には校歌がなく、戦後になって東京大学に改組されてからも同様だったため、『嗚呼玉杯』は校歌代わりに歌われていたようです。
この寮歌が作られた明治35年というのは、日清戦争(明治27年7月~明治28年)と日露戦争(明治37年2月~明治38年9月)の間の時期に当たります。日本という近代国家が興隆していく時期であり、その国家をやがて背負って立つという学生たちの自負にあふれた歌詞が、自己陶酔的に歌われたのでしょう。ヒーロー物の主題歌みたいな歌詞もあり、何かほほ笑ましささえ感じてしまいます。
『青葉の笛』尋常小学唱歌(明治39年・1906年)
![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/平忠度_500.jpg)
『青葉の笛』
作詩/大和田建樹 作曲/田村虎蔵
一の谷の軍 破れ
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛
更くる夜半に 門を敲き
わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙に
残れるは「花や 今宵」の歌
一番は平敦盛、二番は平忠度のことを歌っています。そのため原題は『敦盛と忠度』でした。
『平家物語』には、「敦盛最期」「忠度最期」というようにそれぞれ一章をもうけて、平家の武将たちの死が描かれています。
平敦盛については、こちらで詳しく書いているのでご覧ください。
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「クマガイソウとアツモリソウ」
ここでは薩摩守平忠度について書こうと思います。
薩摩守平忠度は当時、歌の名人として広く知られていました。
源氏の木曽義仲軍が京の都に迫ったため、平家一門が「都落ち」する際に、平忠度は夜陰に紛れてわずかな侍者を連れ都に取って返し、歌の師匠である藤原俊成の家の門を叩きます。
家人たちは落人が荒らしに来たと思って、誰も出てきません。
薩摩守忠度であることを告げると、俊成は家人に門を開かせ、中へと招じ入れました。
忠度は、長い間の無沙汰を詫び、日ごろから作り続けてきた歌を書き留めた巻物を取り出して、戦火が止めば勅撰集の選定が再開されるだろうから、もしお目に留まるものがあったら一首なりとも載せていただけないか、と頼み込みます。
俊成が快く受け取ると、忠度は、「これで何一つ思い残すことなく、西海の波に沈むことができます」と言って別れていきました。
のちに俊成は忠度との約束通り、彼が撰した『千載和歌集』(1188年)に、忠度の歌一首を載せました。ただ、源氏政権の目に留まる危険を考え、「読人知らず」としてありました。その歌が、「さざ浪や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな」でした。
『新勅撰和歌集』(1235年)以降は、晴れて薩摩守忠度名義で掲載されるようになりました。
「花や 今宵」の歌というのは、忠度が討ち死にした折り、箙に結び付けていた文に書かれていた「ゆき暮れて 木のしたかげを 宿とせば 花やこよいの あるじならまし」という歌を指します。
この歌を読むと私は、都落ちの旅に疲れて夕暮れを迎えるころ、桜の木の下で夜を明かそうと思っていると、桜の花がそこだけ明るく輝いて、宿の主でもあるかのように桜の精が迎えてくれる、という幻想的な情景を思い浮かべてしまいます。
〈花〉という言葉は、万葉時代には「梅」の花を指していましたが、平安時代には「桜」の花を指すようになっていました。〈花〉が意味するものが「梅」から「桜」へ変化した裏には、この頃に都では輸入物である大陸・中華文化から、独自性の強い国風文化への脱皮があったことが考えられます。
『敦盛』幸若舞
黒澤明監督『影武者』の信長のシーン
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享けて、滅せぬもののあるべきか
織田信長は、桶狭間の戦いにおいて、この『敦盛』を舞った後、「法螺を吹け! 具足を持て!」と命じ、立ったまま湯漬けをかっ込んで、出陣したと言われています。
『太閤記』は中学生の頃に読んで好きになり、テレビドラマをやるときは欠かさず見ていました。信長が「人間五十年……」を舞うシーンは必ず出て来るので、この歌は早くから覚えてしまいました。
この幸若舞の『敦盛』も、平敦盛と熊谷直実を扱った物語です。『平家物語』の「敦盛最期」を基に、お話を膨らませてあります。直実は敦盛の首を挙げた後、世の無常を感じ、出家を決意する時に歌うのが「人間五十年……」です。
直実が無常観を語ったこの歌を、なぜ信長が好んだのか、定かではありませんが、「人間死ぬときは死ぬ。生きているうちは、天下を取るためにこの瞬間に賭ける!」みたいな決意を感じます。
『雨』(大正7年・1918年)
![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/雨_800.jpg)
歌/木村百合子
『雨』
作詞/北原白秋 作曲/広田龍太郎
雨がふります。雨がふる。
遊びにゆきたし、傘はなし、
紅緒の木履も緒が切れた。
雨がふります。雨がふる。
いやでもお家で遊びましょう、
千代紙折りましょう、たたみましょう。
雨がふります。雨がふる。
けんけん小雉子が 今啼いた、
小雉子も寒かろ、寂しかろ。
雨がふります。雨がふる。
お人形寝かせどまだ止まぬ。
お線香花火もみな焚いた。
雨がふります。雨がふる。
昼もふるふる。夜もふる。
雨がふります。雨がふる。
雨が降ったら、本を読めばいい。雨が降ったら、テレビを見ればいい。雨が降ったら、ゲームをすればいい。──暇つぶしの手段には事欠かない現代からは想像もつかない、大正時代の雨の日の子供ごころを白秋は書いています。
『雨』が児童雑誌『赤い鳥』で発表された大正7年という年は、白秋が経済的にどん底だった時代のようです。一方、童謡の方では、次々にすぐれた作品を発表して、名声を高めてゆきます。長女が生まれたのは大正14年なので、『雨』の少女のモデルとはなり得ません。『雨』は、白秋の想像力で書かれた作品と言えるでしょう。
「雨がふる」という何気ない現象を、「雨がふります。雨がふる。」という詩句の繰り返しによって、暗鬱な雰囲気を醸し出すにとどまらず、子供を災難に等しい事態にまで追い込んでいきます。とても「不条理」を感じさせられる童謡です。
雨がふっている。遊びに行きたいのに、傘がない。赤い鼻緒の下駄を突っかけると、鼻緒が切れてしまった。もう、いやでもお家で遊ぶしかない。
千代紙を折って遊んでみる。すると、近くに山か野原があるのであろう、雉子のケーンと啼く声が聞こえてきた。あんなに啼いて、雉子も寒くて、寂しいんだろうな。自分もおんなじ気持ちだ。
子守唄を歌って、お人形を眠らせてやる。外を見ると、雨はまだ降っている。線香花火で遊んでみるが、最後の一つまで使い切ってしまった。でも、雨はまだふっている。
外は日が暮れて、いつの間にか夜になっている。もうすっかりこの家に閉じ込められてしまった。それなのに雨はまだ降っている。
雨だけが、いつまでもふっている。……
この子の両親はいるのかいないのか判りませんが、この女の子の〈世界〉にいないことは確かです。それが女の子の「孤独感」を際立たせています。
傘がないとはいえ、千代紙やお人形や線香花火を持っているところを見ると、この子の親が、一人で遊べるように買い与えていたことを想像させます。しかし、雨は、その親ごころさえ無効にしてしまいます。
『雨』といえば思い出すのが、綾辻行人『霧越邸殺人事件』です。この小説は、『雨』という童謡が持つ「閉塞感」と「孤独感」をうまく使っていると思います。
吹雪で謎の山荘に閉じ込められた8人の劇団員が、オルゴールが奏でる『雨』の旋律と共に、『雨』の歌詞に見立てて、ひとり、またひとりと殺されてゆきます。
この手の「見立て殺人」という手法は、横溝正史の『悪魔の手毬唄』やアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』など、内外のミステリー作家によってたくさん用いられていますね。
『赤蜻蛉(あかとんぼ)』(大正10年・1921年)
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歌/由紀さおり 安田祥子
『赤蜻蛉』
作詞/三木露風 作曲/山田耕作
夕焼、小焼の
あかとんぼ
負われて見たのは
いつの日か。
山の畑の 桑の実を
小籠に摘んだは
まぼろしか。
十五で姐やは嫁に行き
お里のたよりも
絶えはてた。
夕やけ小やけの 赤とんぼ
とまってゐるよ
竿の先。
『赤蜻蛉』は、作詞の三木露風が、北海道のトラピスト修道院で、竿の先にじっと留まっている赤とんぼを窓から見たことがきっかけとなり、後に、自分の幼いころの体験を想いつつ書いたものだということが、本人の書いた文章から分かっています。童謡というのは、ちょっとした情景との出会いから得た発想を、詩人が育てていって出来上がるものなのですね。
姐やの背中越しに見た夕焼けの空には、あかとんぼがたくさん飛んでいたっけ。あれはいつ頃のことだったろう。
母親代わりに子守をしてくれていた姐やと、山の桑畑で桑の実を小籠に摘んだ記憶は、まぼろしだろうか。
その姐やも十五になるとお嫁に行き、それまで届いていた実家で暮らす母からの音信も途絶えてしまった。
夕焼けた日暮れ時に、赤とんぼが竿の先にとまっている。今も、幼いころと同じように。しかし、懐かしい母や姐やは、もういない。
『赤蜻蛉』の歌詞を解釈してみると、こんな感じでしょうか? 望郷の歌でありながら、故郷との大きな断絶感や家族の喪失感で、この作品が満たされているのを感じます。
三木露風は、5歳の時に両親が離婚しており、祖父の元で育てられた経歴を持っています。
『赤い靴』(大正10年・1921年)
![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/赤い靴_800.jpg)
歌/安田章子(由紀さおり)
『赤い靴』
作詞/野口雨情 作曲/本居長世
赤い靴 はいてた
女の子
異人さんに つれらて
行っちゃった
横浜の 埠頭から
船に乗って
異人さんに つれらて
行っちゃった
今では 青い目に
なっちゃって
異人さんのお国に
いるんだろう
赤い靴 見るたび
考える
異人さんに逢うたび
考える
『赤い靴』については、作者自身が詳しく解説した文章が残されているので、それを引用しておきます。
この童謡は、小作『青い眼の人形』と反対の気持ちを歌ったものであります。この童謡の意味は云ふまでもなく、いつも靴はいて元気よく遊んでいたあの女の児は、異人さんにつれられて遠い外国に行ってしまってから今年で数年になる。今では異人さんのやうにやっぱり青い眼になってしまったであらう。赤い靴見るたび異人さんにつれらて横濱の波止場から船にのって行ってしまったあの女の児が思い出されてならない。また異人さんたちを見るたびに、赤い靴はいて元気よく遊んでいたあの女の児が今はどこにどうしてゐるか考えられてならない。という気持ちをうたったのであります。
ここで注意を申し上げて置きますが、この童謡は表面から見ただけでは、單に異人さんにつれられていった子供といふにすぎませんが、赤い靴とか、青い眼になってしまっただろうといふことばのかげには、その児に対する惻隠の情が含まれてゐることを見遁さぬやうにしていただきたいのであります。
「惻隠の情」とは、親が子を思うように他人の困難や苦しみを思いやる心を言います。
また、作詞家・丘灯至夫は、『赤い靴』について、次のように解説しています。
(雨情は)家庭的には恵まれず、転々と居所をかえ窮乏生活をつづけた。しかしその放浪のなかにも詩作だけは忘れず、はじめて東京に出たおり、外人を見て、その異様な姿におどろいてこしらえたといわれる「赤い靴」は、「十五夜お月さん」などとともに、ひろく幼童に唱われた。
丘灯至夫『明治・大正・昭和歌謡集』(昭和42年11月10日初版発行、彌生書房)
雨情がはじめて外人を見て、その容貌に衝撃を受けたことが、『赤い靴』を創作するモチーフになったということですね。この歌になぜ「異人さん」が登場するかがわかります。
そして、問題なのが「赤い靴」です。
女の子が「赤い靴」をはいているのは、社会主義を象徴していると言った人がいるそうです。放送作家で作詞家の永六輔とか、作家の阿井渉介とか。いずれも2000年代になってからのこと。
そう思いたい人にはそれなりの理由があるのでしょうが、この童謡にとって「だから何なの?」というレベルの、些末な思い着きにすぎないと思います。
野口雨情は、『赤い靴』も掲載されている第二童謡集『青い眼の人形』(大正13年)の序文で、次のように書いています。
童謡は童心性を基調として、真、善、美の上に立つてゐる芸術であります。
童謡の本質は知識の芸術ではありません、童謡が直
に児童と握手の出来るのも知識の芸術でないからであります。
童謡が児童の生活に一致し、真、善、美の上に立つて情操陶冶の教育と一致するのも超知識的であるからであります。野口雨情『青い眼の人形』(青空文庫より引用)
「童謡」というものを、〈童心〉にもとづいて、知識などを用いずに、児童の心に直接届くように創作するものと考えていた野口雨情が、どうして「赤い靴」に社会主義を象徴させるなどということがあるでしょうか?
そんな小賢しい解釈をするぐらいなら、アンデルセンの童話『赤い靴』が、明治36年(1906年)に本邦で初翻訳されている以上、そこからの影響を考える方がまだしもまっとうなのではないでしょうか。
『赤い靴』の主人公カレンは貧しい少女で、夏ははだしで、冬はぶ厚い木靴をはいて暮らしていましたが、年取った靴屋のおかみさんがこの子を憐れんで、赤い羅紗の端切れでこしらえた靴をあげました。カレンは母親の葬式でも、弔いにはふさわしくなかったのですが、赤い靴を履いていました。この靴しかなかったからです。
そこに通りかかった大きな馬車に乗った恰幅のよい奥様が、カレンの様子を見てかわいそうに思い、お坊さんに話してもらい受けることになりました。カレンは、こんなことになったのも、赤い靴のおかげだと思いました。……
これがアンデルセンの『赤い靴』の物語の導入部になります。赤い靴をはいていた女の子がもらわれていくというストーリーに、童謡との共通点があります。雨情の発想のきっかけになったということは、十分にあり得ると思います。
雨情の童謡で女の子がはいていた赤い靴も、きっと誰かの思いがこもった贈り物だったのかもしれません。そう考えると、雨情が「惻隠の情」と言っていることとも、辻褄が合います。
赤い靴の女の子が、なぜ青い眼の異人さんに海の向こうへと連れていかれてしまったのか。今でも異人さんの国に居て、女の子は青い眼になってしまっているのか。……様々な疑問が湧いても、何一つ事実は知らされないまま、この童謡を歌う者・聞く者は、この救いようのない二つの事件によって突き放されます。そこにこの童謡の持つ衝撃性があり、詩があります。そしてただ、その二つの謎について考えることだけが、これからも続いていくのです。
『赤い靴』のモデル実在伝説
童謡『赤い靴』にはモデルとなった人物が実在するという言説が、テレビや新聞、書籍を通じてまことしやかに伝えられ、増殖されてきました。今では、モデルになったされる少女の像が、あちこちに七つも立てられている始末です。日本人は、モデル探しが好きじゃなあ!
モデルをいくら探したって、『赤い靴』という童謡を理解したことにはなりません。現実と創作物の関係がいつまでも理解できないようでは、民度の低さをさらけ出すだけのことです。モデルなんかいなくたって、ちょっとした経験を膨らませて、すぐれた詩人は素晴らしい作品を作り上げることができるのです!
童謡『赤い靴』のモデル実在伝説は、次のような順番で作り上げられていきました。
①「北海道新聞」に、「幻の姉『赤い靴』の女の子」という読者投書が載る。(昭和43年11月17日)
②北海道テレビのプロデューサー菊池 寛がその投書に興味を持ち、事実関係を追跡取材し、その結果をまとめる形で、ドキュメンタリー番組『赤い靴をはいてた女の子』を制作、地方局制作の番組だったがテレビ朝日系列局で全国放送された。(昭和53年11月)
③菊池寛プロデューサー、テレビ放送を基に、書籍『赤い靴をはいてた女の子』を出版。(昭和54年、現代評論社)
菊池寛プロデューサーの本やテレビ番組の内容、また新聞投書に書かれていた「赤い靴」のモデルになった女の子が実在するという事実関係に疑問を持った者によって、反論が展開されました。その反論の主な物には、次のようなものがあります。
阿井渉介『捏像はいてなかった赤い靴 定説はこうして作られた』(2007年、徳間書店)
阿井渉介『「「赤い靴」をめぐる言説」について』(2014年4月17日)
福地純一『童謡「赤い靴」のモデルについて』(2014年4月17日)
成り行きを詳しく解説するだけの情熱が持てないので、ここでは結論だけを紹介します。
詳しく知りたい方は、リンク先を見ていただくことをお勧めします。重要なことはそこで、すべて語り尽くされているので。
①を投書したのは、岡そのという女性で、彼女の姉〈岩崎きみ〉が童謡「赤い靴」のモデルだということでした。すでに亡くなっている母親から聞いた話が元になっているようなのですが、彼女の投書には多くの間違いが存在していました。
まず、岩崎きみは、岡そのが言うように、アメリカ人宣教師の養女になってもいなければ、アメリカに渡ってもいないこと。
父が野口雨情と同じ新聞社に勤めていたことから、借家で両親と雨情が同居していた時に、母かよが姉きみのことを話したらしいと言うが、雨情と彼女の両親一家が借家で同居していたという事実は確認できないこと。
また、岩崎きみは、祖父の養女として籍が入れられており、しかも東京にある麻布教会永坂孤女院に預けられると間もなく死んでいたことが分かっています。
これでは、「異人さんにつれられて」外国へ行きようがありません。きみが、赤い靴をはいていたという事実さえ確認できません。
これだけの事実が判れば、岩崎きみが童謡『赤い靴』のモデルにはなり得ないことがわかります。たとえ雨情に母かよが話す機会があったとしても、きみを養女に出したということ以上のことは、何も話せなかったはずです。岩崎きみが童謡『赤い靴』のモデルと成り得ないことは、ほとんど確実でしょう。
つまり、モデルだと言われてきた少女・岩崎きみと童謡『赤い靴』とは、無関係だということです。
そんなことはどうでもいいのですが、それよりも問題なのは、この間違いだらけの投書に飛びついて、捏造とやらせでテレビ番組を作ったり、虚構まみれの情報を鵜呑みにして、岩崎きみの像を立てることに奔走した人たちの存在の方です。
安っぽいヒューマニズムや「文学」(物語)が大好きな人たちが、「岩崎きみの像」を乱立してきました。いわゆる「赤い靴の女の子像」は、彼らの愚行の記念とは成り得ても、野口雨情の童謡『赤い靴』とは無関係なので、早期に解消するのが望ましいと思います。
横浜の山下公園の『赤い靴はいてた女の子像』は、純粋に野口雨情の童謡『赤い靴』を記念したものなので、何ら問題はないでしょう。
『青い眼の人形』(大正10年・1921年)
![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/青い眼の人形_800.jpg)
歌/東郷真知子
『青い眼の人形』
作詞/野口雨情 作曲/本居長世
青い眼をした
お人形は
アメリカ生れの
セルロイド
日本の港へ
ついたとき
一杯涙を
うかべてた
「わたしは言葉が
わからない
迷い子になったら
なんとしょう」
やさしい日本の
嬢ちゃんよ
仲よく遊んで
やっとくれ
野口雨情の『赤い靴』は、日本の女の子が外国へ連れられて行く歌ですが、同じ作者による『青い眼の人形』は、それとは逆に、アメリカ生まれの人形が日本へと連れて来られる歌になっています。
童謡『青い眼の人形』の発想のもとになったのは、じつはセルロイド製のキューピー人形だったようです。
『唱歌・童謡ものがたり』(1999年、岩波書店)によれば、《雨情の回想文によると、国境や民族を超えた普遍的な愛を歌った良い童謡がなく、〈その頃日本の子供さん達にもよろこばれていたセルロイド製のキューピーを見て〉歌詞を考えたという。》とあります。
「わたしは言葉がわからない 迷い子になったらなんとしょう」と、人形の心を言葉にしてやることで、日本の嬢ちゃんたちに、アメリカ生まれの人形に対する思いやりの心を喚起するという、教育的な目的を持った歌といえるでしょう。
『あの町この町』(大正13年・1924年)
![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/あの町この町_800-2.jpg)
歌/平井英子
『あの町この町』
作詞/野口雨情 作曲/中山晋平
あの町 この町
日が暮れる 日が暮れる
今きた この道
帰りゃんせ 帰りゃんせ
お家が だんだん
遠くなる 遠くなる
今きた この道
帰りゃんせ 帰りゃんせ
お空に 夕べの
星が出る 星が出る
今きた この道
帰りゃんせ 帰りゃんせ
小学校の一年生か二年生のことだったと思います。あたりも暗くなった夕暮れ時に、私の家を訪ねてきた人がありました。小学校の小使いさんで、同級生の女の子が家を出たきり帰らないので、何か知っていることはないかと、同級生の自宅を1軒1軒回って、聞いて歩いているということでした。固定電話のない家がほとんどだった時代のことです。
行方不明のその子は、前髪が長めのおかっぱ頭で、色黒の小さな女の子でした。遠方の親戚の家へ行くと言って出たまま、先方にも着いていないということでした。
小使いさんは次の家に回って行ってしまいましたが、すっかり暗くなった外の、入日でわずかに夕焼けた遠い空を見ながら、「あの子はどうしてこんな暗くなる時間に家を出たんだろう? こんな夜の道を、今もまだ歩き続けているのだろうか?」と、女の子の身の上を想って不安な気持ちになったことを覚えています。
その後、女の子がどうなったのか、記憶に残っていませんが、この歌を聞くたびに、あの家出した同級生の女の子のことを思い出します。
『雨降りお月さん』(大正14年・1925年)
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歌/田端典子
『雨降りお月さん』
作詞/野口雨情 作曲/中山晋平
雨降りお月さん 雲のかげ
お嫁に行くときゃ 誰と行く
一人でからかさ さして行く
からかさないときゃ 誰と行く
しゃらしゃら しゃんしゃん鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく
いそがにゃ お馬よ 夜があけよ
たずなの下から ちょいと見たりゃ
おそででお顔を かくしてる
おそでは ぬれても 乾しゃかわく
雨降りお月さん 雲のかげ
お馬にゆられて ぬれてゆく
野口雨情の奥さんが輿入れしたのは雨の日だったそうで、花嫁は、栃木県塩谷郡喜連川から茨城県磯原まで、三日がかりで馬の背に揺られて、びしょ濡れになりながら来たそうです。
『雨降りお月さん』では、花嫁は馬の背に揺られて雨に濡れながらも、雲に隠れた「雨降りお月さん」が、どこまでも花嫁と一緒に付いていく様を歌っています。せめて歌の中では、花嫁さんが寂しくならないように、朧ながらも月の光を用意してあげたのだと思います。
たぶん、花嫁さんが乗ったお馬は、馬方さんがたずなを引いているのでしょう。「たずなの下から ちょいと見たりゃ」というのは、馬方さんの視線でなければ理屈が合いません。
「おそででお顔を かくしてる」というのは、花嫁道中では、花嫁さんは着物の袖で顔を隠しながら行くのが慣習だったのかもしれません。また、雲のかげになっているお月様と袖で顔を隠している花嫁とが、二重写しになって見える効果を狙っていると思います。
ほとんど歴史遺産的な童謡ですね。
『あの子はたあれ』(昭和14年・1939年)
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作詞/細川雄太郎 作曲/海沼 實 歌/秋田喜美子
作詞の細川雄太郎は、大正3年(1914年)に滋賀県日野町で生まれ、16歳で群馬県薮塚本町の味噌・醤油醸造会社に奉公に出ています。父親がそこで働いていましたが、亡くなったため、そこで働かせてもらったということです。
『あの子はたあれ』は最初は『泣く子はたァれ』というタイトルで、昭和14年(1939年)、東京の童謡同人誌『童謡と唱歌』(加藤省吾編集)に発表されました。それが作曲家・海沼實の目に留まり、レコード化される時に、タイトルや詩の一部が変えられました。
『あの子はたあれ』は、母や妹を故郷に残しての初めての孤独な生活の中、楽しかった故郷を思って書いた望郷の唄でした。
私は「あの子はだあれ」と歌っていましたが、細川によれば「たあれ」が正しいということです。歌のイメージとして「たあれ」のほうがきれいだと、海沼實によって変えられました。
「たれ」も「誰」も意味は同じですが、『広辞苑』によると、もともとは「たれ」だったのが、江戸時代以降「だれ」に転訛したということです。
『青い山脈』藤山一郎・奈良光枝(昭和24年・1949年)
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作詞/西条八十 作曲/服部良一 歌/藤山一郎 奈良光枝
戦後の解放感を歌い上げるような明るい内容の歌詞と曲調が多くの人々に愛されてきましたが、熱狂的な藤山一郎ファンだった小沢昭一は、次のようなことを言っております。
…しかし藤山ソングなら何でもいいかというと、そうはいかないんですよ。例えば「青い山脈」。藤山ファンならずとも戦後の歌ナンバーワンに挙げる人が多いようでございますが、私はノー、ノーです。何故ってみなさんが大勢お好きだとなりますと、私だけの藤山一郎じゃなくなるから、ノーでございます。
『小沢昭一的流行歌・昭和のこころ』(2000年8月20日発行、新潮社)
複雑なファン心理が垣間見られる言葉ですが、一方で私なんかは天邪鬼なもんですから、あまりにも明るすぎて健康的すぎる歌詞だと、気恥ずかしくてそのまま歌う気になれません。そこで歌うのが、次のような替え歌でした。
『青い山脈』[匪歌版]
作詞/不詳 作曲/服部良一
むねもふくらみ けもはえて
おしりもおおきく なりました
青いパンティを ひざまでさげて
はやくして 早くしないと
パパがくる
パパがきました パパが来た
わたしも仲間にいれてよと
青いサルマタを ひざまでさげて
はやくして 早くしないと
ママがくる
ママがきました ママが来た
わたしも仲間にいれてよと
青いズロースを ひざまでさげて
はやくして 早くしないと
じじがくる
じじがきました 爺が来た
わたしも仲間にいれてよと
青いフンドシを ひざまでさげて
はやくして 早くしないと
ばばがくる
ばばがきました 婆が来た
わたしも仲間にいれてよと
青い腰巻を ひざまでさげて
はやくして 早くしないと
孫が来る
ほほえましい(?)家族関係が描かれていますが、穿いているものをひざまでさげて、いったいみんなで何をしてるんでしょうかね?
私の想像では、……たぶん「カンチョー」だと思います!
西条先生、ごめんなさい!
『青い山脈』の原曲についての考察は、こちらでしておりますのでご覧ください。
↓ ↓ ↓
『国破れて、「青い山脈」あり──歌謡曲史からひもとく戦後』
『有難や節』守屋浩(昭和35年・1960年)
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作詞/浜口庫之助 採譜/森一也 補作曲/浜口庫之助 歌/守屋浩
この歌が発表された1960年は、60年安保の年。
6月15日、安保反対デモが過激化し、全学連の主流派約7000名が国会構内に突入、警官隊と乱闘になり、活動家の東大生・樺 美智子が死亡しました。
岸首相は当時、新安保条約発効を強行して、退陣。後継の池田首相の就任祝賀会で、右翼暴漢に左太腿をナイフで数回刺されて重傷を負いました。
さらに10月には、社会党の浅沼稲次郎委員長が、日比谷公会堂で演説中に、17歳の右翼少年に刺殺される事件が起きました。
こんな社会情勢の中で、『有難や節』は大ヒットしました。『アキラのズンドコ節』が大ヒットしたのもこの年で、音楽評論家の園部三郎は、《この類いの「節もの」がうたわれたり復活する時には、必ず世相不安が底をついているときであることを、わたしたちはすでに知っている。それは社会に虚無感が流れ、殺人、心中、自殺、その他さまざまの傷害事件が頻発する年である。一九六〇年も、いまだかつてないほど社会が騒然とした年であった。》(『日本民衆歌謡史考』1980年、朝日新書)と書いています。
映画『有難や節 あゝ有難や有難や』(1961年5月3日封切、日活)は、『有難や節』のヒットを受け、翌年に、歌詞の内容を題材にして映画化されたものです。『有難や節』を歌った守屋浩も出演しています。
『赤いハンカチ』石原裕次郎(昭和37年・1962年)
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作詞/萩原四朗 作曲/上原賢六 歌/石原裕次郎
私の「失恋ソング」。
「死ぬ気になれば ふたりとも 霞の彼方へ 行かれたものを」という部分を歌う時には、自分の「恋のなきがら」(『錆びたナイフ』)を弔うような気持ちで歌ったものです。
『あゝ上野駅』井沢八郎(昭和39年・1964年)
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![](https://xn--r9jfb9671asuv520a3vjhx6c.com/wp-content/uploads/2025/01/あゝ上野駅_500.jpg)
作詞/関口義明 作曲/荒井英一 歌/井沢八郎
上野駅というのは東北人にとって、鉄道が東京まで通った時から、特別な意味を持つ場所になりました。青森県出身の井沢八郎が歌う『あゝ上野駅』は、その間の事情を余すところなく歌い上げています。
石川啄木は明治時代にすでに「ふるさとの訛なつかし 停車場の人ごみの中に そを聞きにゆく」(『一握の砂』明治43年・1910年刊)と詠んでいます。停車場とは、上野停車場のことです。
この啄木の短歌が「上野はおいらの 心の駅だ/配達帰りの 自転車を/とめて聞いてる 国なまり」という歌詞のモチーフになっていますね。「本歌取り」は、日本の伝統文化です。
寺山修司は『あゝ上野駅』について、次のように解説しています。
この関口義明の詩は、集団就職で上京してくる農村のハイティーンの立場に立って書いたものである。「家の光」協会選定ということで作曲され、井沢八郎の唄によって新宿や池袋の盛り場の大衆食堂などのスピーカーから流されている。
私は、この唄を聞きながらパチンコをやっているひとりの工員を見たことがある。彼は、球が皿いっぱいにあふれているのに、はじくこともせずにじっとしている。どうしたのだろうと思ってのぞきこむと、唄に一々うなずきながら涙ぐんでいるのだった。
井沢八郎は、この「詩」をうたうとき「くじけちゃいけない人生が」というところで、ふいに咽喉の奥につまっているものでも吐き出すように、はげしい地声をひびかせる。それはふだん決して「人生」などというボキャブラリィを用いることのなかった農村出身のハイティーンが、はじめて「人生」ということばを知ったおどろきと、認識の荒野へ向かって目をみひらきはじめた悲しみ──といったものにあふれている。
寺山修司編著『人生処方詩集』1993年、立風書房
この歌が「集団就職」世代の心の歌だということは、情報としては知っていましたが、それより後に東京で就職した人たちにとっても、ずっと心の歌であり続けたことを知る機会がありました。
私が初めて就職した会社の宴会で、Uターン就職した先輩たちがいて、この歌をまるで軍歌のように威勢よく声を張り上げて歌う姿を見ました。仕事の時は結構反目し合っている人たちが、この歌を歌う時は肩を組まんばかりに一緒になって歌う姿を見て、この歌は東京に出て働いている人たちのずっと魂の依り代だったんだなあと、つくづく思った出来事でした。
宮藤官九郎が映画の初日あいさつで言っていましたが、「歩いている人の数よりも、空を飛んでいる白鳥の数の方が多い」地域にずっと住んでいると、なかなかわからない部分なのかなと思います。
『網走番外地』高倉健(昭和40年・1965年)
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作詞/タカオ カンベ 作曲/橋本国彦 採譜・編曲/山田栄一 歌/高倉 健
高倉健の『網走番外地』は、彼が主演した東映映画『網走番外地』の主題歌でした。
「酒ひけ 酒ひけ 酒暮れて」というのは、業界の隠語で、「酒飲め 酒飲め 酒に明け暮れて」という意味になります。
実は、曲が同じで歌詞の違うものを、高倉健がもう一つ歌っています。そちらも、後の方で紹介します。
高校の修学旅行で北海道をバスで巡った時、もみあげの長い運転手さんが歌ってくれたのが『網走番外地』でした。そして、五寸釘の刺さった板を踏み抜いたまま網走刑務所を脱獄した、五寸釘寅吉の話などをしてくれました。獄舎には入りませんでしたが、網走刑務所の高く長い赤レンガの塀に沿ってバスで走った思い出があります。
網走刑務所は無期刑囚や重罪人が容れられていたそうですが、宮城刑務所には死刑囚が収容されていると引率の教師が話すと、「宮城刑務所の方が上だな」と運転手さんが認めてくれたのを覚えています。しかし、宮城刑務所のほうが上になったのは、戦後のことです。第二次大戦中は、網走刑務所の方が、脱獄不能の厳しい監視態勢と囚人に対する厳格な処遇で名を馳せていました。もっとも昭和19年8月に、吉村昭の小説『破獄』のモデルにもなった「昭和の脱獄王」白鳥由栄によって、もろくもその威信は打ち砕かれるわけですが。
網走刑務所の唯一無二性というのは、オホーツク海に面した北海道のさいはてにある立地とか、ロシア帝国の侵略に備えて、囚人たちの強制労働によって防衛拠点を開発した歴史にあると思います。それ以降、網走刑務所の存在によって、網走の町は発展してきました。「囚人さんよ、ありがとう」です。
作詞/矢野 亮 作曲/橋本国彦 採譜・編曲/山田栄一 歌/高倉 健
この版の方が、前奏から歌詞まで、映画で使われている曲と一緒です。健さんのレコードを買って聞いた時、入っていたのが最初に紹介した方の曲だったため、「あれ!?」と思ったのを覚えています。映画と同じ曲を期待していたため、なにか肩透かしを食った感じでした。
『レビューの踊り子』(昭和6年・1931年)「網走番外地」の元歌
作詞/市橋一宏 作曲/橋本国彦 歌/羽衣歌子、田谷力三、桜井京
『網走番外地』は、ずっと「作詞・作曲/不詳」で通っていました。
仲田三孝採譜版『網走ごくつぶし』もそうなっています。LP『鉄格子演歌』の曲目解説には、《別タイトル「網走番外地」。北海道網走刑務所より発生。戦前は政治犯、重刑者が多く、現在はその地方の初犯者が入所させられているが、実際にうたいはじめられたのは、終戦直後からである。》と書かれています。
昭和40年に、映画『網走番外地』が封切られたことによって、映画で使用された歌の作詞家名が表示されるようになってからも、作曲者は依然として「不詳」のままでした。
しかし、Wikipediaによると、《1980年代に入り、SP盤コレクターとして知られるSP懇話会会長(当時)・井上幸七が「レビューの踊子」と「網走番外地」のメロディの同一性に気づき、長田暁二も同じ曲と判定した。これにより「網走番外地」の原曲が「レビューの踊子」であることが知られるようになった。》とあります。
『レビューの踊子』の作曲者は「足利龍之助」となっていますが、実は作曲家・橋本国彦の流行歌を書く時の変名でした。東京音楽学校(後の東京芸術大学)研究科で作曲を学んだので、周囲の流行歌への無理解と偏見から身を守るための変名だったと思います。
歌手・藤山一郎(本名・増永丈夫)なんかも東京音楽学校時代、流行歌を歌っていることが学校に知られると退学にされるというので、変名で歌っていましたからね。
橋本は、同じ年に、慶応大学の応援歌『ブルーレッドアンドブルー』の作曲も手掛けています。こちらは、ちゃんと本名で作曲しています。
橋本国彦は、若くして作曲の才能を認められ、将来を嘱望されながらも戦争によって人生が狂わされると、45歳の若さで世を去っていきました。橋本が裏の名前で書いた『レビューの踊子』が、今も『網走番外地』に姿を変え歌い継がれているのを見ると、歌の生命の不思議さを感じます。
『安奈』甲斐バンド(昭和54年・1979年)
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作詞・作曲/甲斐よしひろ 歌/甲斐バンド
私の「クリスマス・ソング」。
クリスマスにこの歌を歌い続けて●十年、たどり着いた心境が、「花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ」(井伏鱒二)でした。
寺山修司は「さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません」(『人生処方詩集』「幸福が遠すぎたら」1993年、立風書房)と言っています。人生なんかにこだわりすぎないように、とも。
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