昭和百年・新日本童謡集【は行】~『花いちもんめ』『冬の星座』『梵坊の子守唄』ほか

  1. 新日本童謡集【は】
    1. 『花いちもんめ』[わらべうた]
    2. 『はなさかじじい』[文部省唱歌](明治34年・1901年)
    3. 『春が来た』[文部省唱歌](明治43年・1910年)
    4. 『春の小川』[文部省唱歌](大正元年・1912年)
    5. 『馬賊の唄』(大正11年・1922年)
    6. 『白鳥の騎士』高城丈二[TV映画主題歌](昭和37年・1962年)
    7. 『バカ田大学校歌』[TVアニメ『天才バカボン』挿入歌]
      1. 『天才バカボン』[TVアニメ主題歌](昭和46年・1971年)
  2. 新日本童謡集【ひ】
    1. 『ひとつとや』[わらべうた]
    2. 『白虎隊』霧島 昇(昭和12年・1937年)
      1. 『白虎隊』[文部省唱歌](明治37年・1904年)
  3. 新日本童謡集【ふ】
    1. 『冬景色』[文部省唱歌](大正2年・1913年)
    2. 『故郷』[文部省唱歌](大正3年・1914年)
    3. 『冬の星座』[文部省唱歌](昭和22年・1947年)
    4. 『笛吹童子』[ラジオドラマ主題歌](昭和28年・1953年)
    5. 『風雲真田城』[TVドラマ主題歌](昭和39年・1964年)
    6. 『ファンキー・モンキー・ベイビー』キャロル(昭和48年・1973年)
  4. 新日本童謡集【へ】
    1. 『ペチカ』(大正14年・1925年)
  5. 新日本童謡集【ほ】
    1. 『星の界よ』[文部省唱歌](明治43年・1910年)
    2. 『ポプラ』[文部省唱歌](昭和7年・1932年)
    3. 『北帰行』小林 旭(昭和36年・1961年)
      1. 『旅順高等学校逍遥歌』(昭和16年・1941年)『北帰行』の元歌
    4. 『星めぐりの歌』宮沢賢治
    5. 『梵坊の子守唄』野坂昭如(昭和44年・1969年)
      1. 映画『青春の門』で織江が歌う『ぼんぼの子守唄』
    6. 『僕の好きな先生』RCサクセション(昭和47年・1972年)

新日本童謡集【は】

『花いちもんめ』[わらべうた]

『花いちもんめ』[わらべうた]

故郷ふるさともとめて 花いちもんめ
故郷ふるさともとめて 花いちもんめ
隣のおばさん ちょっとおいで
鬼がいるから よういかん
お釜かぶって ちょっとおいで
それでもこわくて よういかん
あの子がほしい
あの子じゃ分からん
「相談しよう」
「そうしよう」(指名する子を双方で決める)
「○○ちゃんが欲しい」
「△△ちゃんが欲しい」
じゃんけんぽん あいこでしょ
勝ってうれしい 花いちもんめ(勝った方が歌う)
負けてくやしい 花いちもんめ(負けた方が歌う)

※また、最初から繰り返す

『花いちもんめ』は「子取り遊び」の一種で、2組に分かれて列を作って向かい合い、この歌を歌いながら、列は交互に前進したり、後退したりを繰り返します。前進する時は、最後に右足を蹴るようにちょんと上げます。最後にじゃんけんぽんで勝負を決め、負けた子は勝った方の列に入り、また最初から繰り返して遊びます。

上に挙げた歌詞は、時代がかなり新しいもので、もともとは次のような歌詞で歌われていました。

『花いちもんめ』

故郷ふるさともとめて 花一はないちもんめ
もんめもんめ、花一
○○さんもとめて 花一
△△さんもとめて 花一
勝ってうれしい  花一
負けて口惜くやしい 花一

『わらべうた 日本の伝承童謡』(1962年、岩波文庫)によると、これは京都で歌われていた歌詞であり、「京都を中心に全国へ普及したものか」としています。

寺山修司は『日本童謡詩集』(1992年、立風書房)の「プロローグ」の中で『花いちもんめ』を取り上げ、或る女子大生の思いがけない発見について書いています。
彼女によれば、「花一匁」の「花」とは植物の花ではなく、女郎じょろうの「花代はなだい」のことであり、「一匁」とは金の単位だといいます。つまり、この歌は、都の人買いが不作続きの農村の娘たちをわずか一匁で買いたたいたことを歌ったもので、「買って嬉しい花一匁」というのは人買いたちのセリフで、「まけて悔しい花一匁」は一匁に値切ねぎられて娘を売ることになった親たちの言葉だということです。そんな村の歴史が、わらべ歌の中で伝承され続けてきたというのです。
《何でもないわらべ唄のなかに、どろどろとした女郎哀史、人身売買の「物語」がはらまれてあると思うと、童謡もひとすじなわではいかなくなってくるのである。》と寺山は言っています。

『はなさかじじい』[文部省唱歌](明治34年・1901年)

講談社の絵本24『花咲爺』講談社

『はなさかじじい』
 作詞/石原和三郎 作曲/田村虎蔵

一 うらのはたけで、ぽちがなく、
  しょうじきじいさん、ほったれば、
  おおばん、こばんが、ザクザクザクザク。

二 いじわるじいさん、ぽちかりて、
  うらのはたけを、ほったれば、
  かわらや、かいがら、ガラガラガラガラ。

三 しょうじきじいいさん、うすほって、
  それで、もちを、ついたれば、
  またぞろこばんが、ザクザクザクザク。

四 意地悪爺さん、うすかりて、
  それで、もちを、ついたれば、
  またぞろかいがら、ガラガラガラガラ。

五 しょうじきじいさん、はいまけば、
  はなは、さいた、かれえだに、
  ほうびはたくさん、おくらに一ぱい。

六 いじわるじいさん、はいまけば、
  とのさまの、めに、それがいり、
  とうとうろうやに、つながれました。

『幼年唱歌(初の下)』

私が小学生の低学年だった頃、町内の部落対抗運動会というのがあって、同じ部落の小学生から中学生までの生徒たちが地元の神社の境内に集まって、応援の練習をすることがありました。その時歌ったのが、次のような歌詞の歌です。『はなさかじじい』の節で、○○には自分の部落名が入ります。

もしも○○が勝ったなら 
電信柱に花が咲き
絵にかいたダルマさんが
下駄はいて 歩き出す

『はなさかじじい』は、日本の昔話を題材にした唱歌です。
『一寸法師』や『浦島太郎』、『キンタロウ』など、昔話唱歌はたくさんありますが、『花咲爺』の昔話が少々違っているのは、文字化、つまり本として広まったものではないということです。この話は、多くの昔話の種本になっている『お伽草子』には入っていません。それはこの説話が、本からの受け売りといったものが混じらずに、自由に口から口へと範囲を広げながら伝えられて来たことを意味します。

唱歌『はなさかじじい』は、巌谷小波『日本昔噺』の『花咲爺』とほぼ同じ最終形態の話になっていますが、唱歌の方はかなりお話を端折はしょっていますので、まず『日本昔噺』に基づいて、「あらすじ」を確認しておきます。『日本昔噺』の方は、余計なことを書きすぎているうらみはありますが、要点だけを抜き出してみます。

① 子の無いじじいばばあが、一匹の犬を飼い、四郎しろと名付けて「わがも同然に」可愛がっていた。
② となりにも爺と婆が住んでいたが、これが良くない奴で、いつも四郎しろをいじめていた。
③ ある日、四郎が裏のはたけで、「ここ掘れ、ワンワン!」といていた。
④ 爺がくわで掘ってみると、カチリと当たる音がして、ピカリと何かが光ったので、さらに掘っていくと山吹色やまぶきいろ小判こばんが山のように出て来た。爺さんの家は、にわかにお金持ちになった。
⑤ これを知った隣の爺は、四郎を借りて、無理やり小判の在処ありかを教えさせようとした。四郎が前足で土をき出したので、「おお、ここか!」と思って鍬で掘ってみると、穴いっぱいに犬のくそが出て来た。
⑥ 爺は怒って、鍬で四郎をなぐり殺してしまった。四郎のむくろは、そのまま穴に埋めて、知らん顔をしていた。
⑦ 四郎の家では、いつまでたっても四郎が帰って来ないので、隣の家に聞きに行くと、「あの犬は悪戯わるさをする不埒ふらちな犬なので、殺してしまった」と言われる。それを聞いて爺さんはオイオイ泣きながら、「せめて四郎の死体を引き取っていきたい」と言うと、隣の爺は「死体はえのきの下に埋めてしまった」と答えた。
⑧ 「それではその榎を四郎と思うのでゆずってください」と言うと、隣の爺は承知した。
⑨ 爺さんは、その榎からうすきねこしらえて、粟餅あわもちをペンタラコペンタラコとき始めると、みるみる2倍3倍になり、果ては何も入れなくてもどんどん粟餅が現れた。そのもちは、一切れ食べただけで、三度の飯を食べる必要がなくなった。
⑩ これを知った隣の爺が、臼と杵を借りに来たので、爺さんは仕方なく貸してやった。
⑪ 隣の爺が、借りて来た臼で粟餅を搗くと、またもや犬の糞が湧いてきて、粟餅がくそまみれになった。隣の爺は、臼をぶち壊してかまどで燃やしてしまった。
⑫ 二日たっても三日たっても臼を返しに来ないので、爺さんが隣家を尋ねると、「臼は焼いてしまった」と言われる。「それなら灰でももらって帰りましょう」と言って、笊一杯ざるいっぱいの灰をもらって帰った。
⑬ 気立てのよい爺さんだったため、人をうらみもせず、何事も因縁いんねんとあきらめて、庭にもらって来た灰をいた。すると、枝ばかりになっていた桜や梅に、春まっ盛りのように花が咲いた。見事なながめに爺さんは手を打って喜び、これは有りがたいと残りの灰を大事に取っておいた。
⑭ ある日、爺さんの家に殿様の家来けらいがやって来て、「殿様の大事にしている桜の木が枯れてしまい、出入りの植木屋も手の施しようがなくなっているのだが、こちらの家には枯れ木に花を咲かせる不思議な灰があると聞いた。どうか御殿ごてんに来て、桜の木に花を咲かせてくれまいか」と口上を述べた。
⑮ 爺さんは武士の申し出に驚いたが、言われるままに御殿にうかがい、殿様の命じるままに桜の枯れ枝に灰桶からすくって灰を振りかけると、みるみる花が咲き出して目もくらむばかりになった。
⑯ 殿様はたいそう喜んで、手ずから酒をたまわったり、金銀やけっこうな衣類きものや道具類を山のように積んで爺さんに取らせ、「これからは、花咲はなさかじじいと名乗るがよい」と名前までたまわった。
⑰ これを聞いた隣の爺は、「よしよし、灰ならまだこちらにも残っているぞ」とかまどの灰を桶に詰め、「これは評判の花咲爺、枯れ木に花を咲かせましょう!」と往来おうらいを触れて回った。
⑱ この声を先の殿様が聞きつけて、「ちょうど退屈をしていたところだ、なぐさみにひと花咲かせて見よう。すぐにあれを呼べ」と家来に命じた。
⑲ しめた! と思いながら、隣の爺は殿様の御前に出ると、「花咲爺は手前が本家で、先日のは手前共の受け売りでございます。」と述べた。「これは面白い。本家ならば、効き目もさぞ多かろう。あそこの枯れ木で、一つ手並みを見せてくれ」と言われた。
⑳ 隣の爺は、枯れ木に進み寄り、灰をつかんで振りかけるのだが、何の変化もない。これはならぬと、もうひとかけ、もうひとかけとするうちに、庭は灰だらけになり、殿様の目にも灰が入ってしまった。殿様はご立腹し、「おのれ花咲爺の偽物にせものめ! よくもだましおったな! 者どもし取れ!」とご下知げぢなさり、隣の爺は高手小手にしばり上げられて、牢屋ろうやの中にぶち込まれてしまった。

『花咲爺』は、昔話のパターンとしては「隣の爺型」に属します。いいお爺さんの隣に悪いお爺さんが住んでいて、いいお爺さんは何かするたびに奇瑞が起こってどんどん富貴になっていくのに対して、隣の爺が真似をしても、ことごとく失敗して罰を食らうという、おなじみの話の構造になっています。

柳田國男『昔話と文学』所収の「花咲爺」(「文学」昭和12年3月)によれば、「花咲爺」の話は全国に及んではおらず、その外延部では、奥州の「雁取がんとりじじい」などのようにこれとよく似た別種の話が伝わっているとしています。それらの細部を比較検討することによって、柳田國男は「花咲爺」には現代まで伝わる話とは違った「原型」があったことを仮定しています。

たとえばこの話では、「犬」(ぽち・四郎しろ)がどうしてこんな不思議な力を持っているかが説明されていません。しかし、周縁部に伝わる類話では、「犬」がどのようにして爺婆の前に現れたかについて言及しているものがありました。
それを見ると、川上から桃太郎の桃のように、三段重ねの重箱や香箱などが流れて来て、開けてみると中から子犬が出てきます。そして、その小犬を大事に育てていると、小犬が奇瑞を表し、爺さんたちが富を得るのは『花咲爺』と同じです。
どうして桃太郎や小犬のような「不思議なもの」が、いつも「川上から」流れて来るのでしょう? 川はその淵源えんげんたずねると、高い山に至ります。日本では、神は高い山の頂に降臨し、高い山自体が不思議な霊力を持つ場として信仰されてきた長い歴史があります。そこから、不思議な霊力を持ったものが、川上から流れて来るという、日本独特の昔話の形式ができたと考えられます。

犬の手柄が、以前は金銀財宝ではなくて、鹿や猪などの猟の獲物だった時代もありました。それが金銀財宝に変わるのは、比較的に新しい時代になってからのことです。

『春が来た』[文部省唱歌](明治43年・1910年)

『春が来た』[文部省唱歌]
 作詞/高野辰之 作曲/岡野貞一

一 春が来た 春が来た どこに来た。
     山に来た 里に来た、
         野にも来た。

二 花がさく 花がさく どこにさく。
     山にさく 里にさく、
         野にもさく。

三 鳥がなく 鳥がなく どこでなく。
     山で鳴く 里で鳴く、
         野でも鳴く。

『尋常小学読本唱歌(巻五)』

「春」を体いっぱいに浴びて、その喜びを表した唱歌です。
冬から春になる時に感じる喜びは、時代や地域を越えて共感される普遍的なものだと思います。

『春の小川』[文部省唱歌](大正元年・1912年)

『春の小川』[文部省唱歌]
 作詞/高野辰之 作曲/岡野貞一

一 春の小川は さらさら流る。
  岸のすみれや れんげの花に、
  においめでたく 色うつくしく
  咲けよ咲けよと ささやくごとく。

二 春の小川は さらさら流る。
  えびやめだかや 小鮒こぶなむれに、
  今日きょう一日いちにち ひなたにいででて
  遊べ遊べと ささやく如く。

三 春の小川は さらさら流る。
  歌の上手じょうずよ いとしき子ども、
  声をそろえて 小川の歌を
  うたえうたえと ささやく如く。

『尋常小学唱歌(四)』

この唱歌も、『春が来た』と同じく、高野辰之作詞、岡野貞一作曲のものです。この作詞作曲コンビには、『紅葉』『故郷』『朧月夜』などの唱歌の名作がたくさんあります。

『春の小川』の歌詞は、後に『初等科音楽(一)』(昭和17年3月刊)に収録された際に、「さらさら流る」は「さらさらいくよ」に、「ささやく如く」は「ささやきながら」に変えられています。この本が、国民学校の初等科三年で使われる教科書だったため、口語体でなければならないとされたためでした。

猪瀬直樹『唱歌誕生 ふるさとを創った男』(1990年、日本放送出版協会)によると、『春の小川』は代々木練兵場の傍らを流れていた河骨川こうほねがわという小川のことだそうです。河骨川は現在は暗渠あんきょになっているため、見ることはできません。当時、この付近一帯は田圃たんぼで、あたり一面にたんぽぽやスミレが咲き乱れており、川にはメダカも泳いでいました。作詞の高野辰之は、娘の手を引いてここを散歩している時にこの作詞が浮かんだということを、娘の弘子は聞かされていました。

『馬賊の唄』(大正11年・1922年)

     作詞/宮島みやじま郁芳いくほう 作曲/鳥取とっとり春陽しゅんよう

『馬賊の唄』は、作詞の宮島郁芳、作曲の鳥取春陽が共に演歌師であり、街頭で歌われて広まりました。
演歌師というのは、明治20年頃に現れた、新聞に載るような政治的なニュースを大衆の言葉にかみ砕き、節に乗せて歌い広めた者たちをいいます。当初は明治政府から弾圧された民権論者が多かったため、政府批判的な内容の演歌が多い傾向にありました。

添田知道『演歌の明治大正史』によると、『馬賊の唄』は伝宮崎みやざき滔天とうてん作として大陸浪人に歌われたものが国内に流入したようです。しかし本当の作詞者は宮島郁芳だったわけで、なぜ、そんな誤った情報が伝わっていたのか、今となってはもうわかりません。
宮崎滔天は、明治30年に孫文(孫逸仙)と知り合って以降、中国の革命運動を支援してきた人物です。大正2年(1913年)には、第一次革命の成功を謝して孫文が長崎を訪れましたが、孫文と一緒に宮崎滔天が写っている写真が残されています。そこには、大陸浪人の一人だった頃の西郷四郎(「姿三四郎」のモデルとされる)も写っています。

朽木くちき寒三かんぞう『馬賊戦記』(1966年、番町書房)によると、《『馬賊の唄』の流行は、一般に大正11年頃となっているが、大正5年の頃すでに艶歌師はさかんに歌っていた。が、余りにもその内容が隣邦支那に対し侵略的ということで、一時日本政府がこれを禁止したのであった。》と、あります。
また、《当時、「狭い日本にゃ住みあいた」というのは、少しでも元気のある日本人青年の実感であった。大陸にあこがれ、大陸に夢をはせるすべての青少年の心を、『馬賊の唄』ははげしく捕らえたのである。》とも言っています。

『馬賊の唄』の流行によって、当時の日本の青少年たちは「大陸雄飛」の夢をかき立てられ、実際に続々と支那大陸へと渡っていくことになります。なにしろ「支那にゃ 四億の民が待つ」のですから。もっとも、待っていたのは、日本人に好意的な民だけではなかったのは言うまでもありません。

それら支那大陸へ渡って行った青年の中からは、伊達だて順之介じゅんのすけ小日向こひなた白朗はくろうなど「馬賊」として頭角を現した者たちがいました。
伊達順之介(中国名・張宗援)は、大陸浪人たちが集う満洲独立勢力の一味となったり、馬賊・張作霖の下で奉天軍少将として働いたかと思うと、今度は関東軍と合流して活動したりと、目まぐるしく立場を入れ替えているのが目に付きます。伊達順之介は、支那大陸を深く愛していたにもかかわらず、自らのやっていることが結局は日本軍の御用馬賊でしかない事には、ついに気づきませんでした。
一方、小日向白朗(中国名・小旭東)は、支那馬賊の下働きから始めて、後には「大攬把ターランパ」(義勇軍隊長)たちを統轄する「保衛総団長」にまでのし上っています。やがて東北抗日義勇軍指令に祭り上げられて、支那の民衆を守るために日本軍と戦うようになります。

伊達順之介については、以前こちらの記事でも取り上げていますので、よろしければ、どうぞ。
    ↓   ↓   ↓
『古関裕而の音楽』──『馬賊の歌』(昭和31年)【映画『夕日と拳銃』主題歌】

ぞく」という言葉はもともと日本の官憲が用いたもので、中国側官憲が「ぞく」と呼んでいたものを、日露戦争を契機としてそう呼ぶようになりました。「匪賊」とは、盗賊のことです。

渡辺龍策は『馬賊 日中戦争史の側面』(昭和39年、中公新書)において、
《本来の「馬賊」は、たんなる賊ないし匪ではなかった。中央権力の不備と腐敗を要因として発生した民衆的自衛組織に根を下ろした武装集団だったのである。》
《…「馬賊」も「匪賊」もいっしょにしてしまっては、馬賊というものが、すくなくともその縄張り内においては、仁義をまもる任侠的存在として農民たちを保衛するという、日本の侠客仁義とかなりあい通ずる馬賊道ともいうべき一面を持つことを、無視してしまうことになりかねない。馬賊には馬賊なりの厳格な統制があり、独自の作法や習慣があって、それはあくまでも住民の自衛のための組織集団、ないしは住民の唯一の保護者であったといっても過言ではないのである。しかしまた、たとえば、歩兵銃を一ちょう背負い、拳銃の一、二梃をぶらさげて、百騎、二百騎と群れなして原野を疾駆する遊撃隊の、その精悍せいかんで異様なイメージからすれば、いかにも「馬賊」と称するにふさわしかったのかもしれない。》
と言っています。

『白鳥の騎士』高城丈二[TV映画主題歌](昭和37年・1962年)

     作詞/水木かおる 作曲/小池青磁、江口夜詩 歌/高城丈二

『白鳥の騎士』は、1962年7月から1963年3月まで、NET(後のテレビ朝日)系列で放送されました。それ以前に、NHKのラジオドラマ『新諸国物語 白鳥の騎士』として放送されて、大人気を博していました。また、映画化もされており、『白鳥の騎士』(1953年7月1日封切、新東宝)が公開されていました。それらの人気を受けて制作されたのが、テレビ版の『白鳥の騎士』でした。

タイトルの「新諸国物語」というのは、すでに森鴎外が諸外国の奇譚・不思議噺・恐怖譚などを集めた『諸国物語』というのを出していたので、タイトルに《新》の語をくっつけたものと思われます。吉川英治が『新平家物語』や『新書太閤記』などを出したのと、同じ発想ですね。

中学生の時、転校してきたS君が、よく『白鳥の騎士』を口ずさんでいたのですが、私はその歌を知りませんでした。それ以来ずっと、『白鳥の騎士』とは何なのか、気になり続けていました。

原作者・北村寿男の小説『白鳥の騎士』(『【完全版】新諸国物語』第一巻、2010年、作品社)では、奈良時代が物語の舞台であり、主人公丹後たんごおみ雄麿おまろは、《いつもの白銀しろがねいろのよろい。白いかぶと、白いよろい、白い馬。まるで美しい白鳥にもにるというところから人よんで白鳥の騎士。》と説明されています。
また、『新諸国物語』全体を貫いているのは、正義の象徴「白鳥はくちょうだま」を代々継承する「白鳥党」と悪の象徴「されこうべだま」を受け継ぐ「されこうべ党」の、時代を超えた戦いです。
『白鳥の騎士』では、「白鳥の騎士」丹後の雄麿おまろとその許婚いいなずけの雪姫を中心に、腹心の武士・小鷹こたか蝦夷えみしの大酋長思荷オムカの娘・珠路たまじ、大盗・夕霧丸ゆうぎりまる髭丸ひげまるなどの「白鳥党」と、軽部かるべ黒主くろぬし広足ひろたり親子や盗賊・羅生らしょうまるなどの「されこうべ党」の一味との戦いが描かれます。

『バカ田大学校歌』[TVアニメ『天才バカボン』挿入歌]

『バカ大学校歌』
作詞/赤塚不二夫 作曲/不詳

〽みやこの西北せいほく ワセダのとなり
 のさばる校舎こうしゃは われらが母校ぼこう

 われらのノーミソ タリラリランよ
 先生せんせいもドアホで 授業じゅぎょうはパアでも

 社会しゃかいはまねくよ われらの頭脳ずのう
 かがやくわれらの バカぶりみろよ

 バカ バカ バカ バカ バカ~~ 

あーあ、歌っちゃってる! しかも、歌詞ぜんぶ! テレビアニメでは、さわりしか歌ってないのは、原作通りです。ワセダ大学がよくクレーム付けなかったなあと思うのですが、そこは大人の対応をしたのでしょう。

『天才バカボン』は、『週刊少年マガジン』に1967年4月9日発行号から連載されました。バカボンのパパが「バカ田大学校歌」を歌う回は、リアルタイムで読んだ記憶があります。
アニメの方は、『天才バカボン』と『元祖天才バカボン』は見ていましたが、「バカ田大学校歌」を歌う回はよく覚えていません。

最初にバカ田大学校歌が登場したころは、たぶん「みやこの西北 ワセダのとなり バカ田 バカ田 バカ田~」しか作者は考えていなかったと思うのですが、いつの間にか全歌詞が完成していたようです。

パパの専攻は、オレと近い。

次にこれは、バカ田大学のライバル校のテイノウ義塾大学の学生とパパが言い争っているところです!

次に紹介するアニメ『平成天才バカボン』は、バカボンパパがバカ田大学の後輩たちと校歌を合唱するシーンが出て来るエピソードの回です。君のその目で、たしかめるのだ!

なお、この記事に出て来る大学名は、実在する大学とはいっさい関係ありません。たぶん。

『天才バカボン』[TVアニメ主題歌](昭和46年・1971年)

『天才バカボン』
 作詞/東京ムービー企画部 作曲/渡辺岳夫 歌/アイドル・フォー

西から昇った おひさまが
東へ沈む (あっ たいへーん!)
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バカボンボン

柳の枝に 猫がいる
だから ネコヤナギ (えっ ホント!)
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バカボンボン

四たす四は 六でもない
8はパーなのさ (ウワ カッコイイ)
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バカボンボン

崖から落ちて ケガをした
だから ガケなのだ (ウッ カッコワルイ)
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バカボンボン

赤でスタート 黄でダッシュ
それで 事故なのだ (キャー アブナイ)
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バカボンボン

バカでなくても バカなのだ
それが天才だ (ヘッ ムツカシイナァ!)
これでいいのだ これでいいのだ
ボンボン バカボン バカボンボン
天才一家だ バカボンボン

新日本童謡集【ひ】

『ひとつとや』[わらべうた]

『ひとつとや』[わらべうた]

一つとや ひと夜あければ
にぎやかで にぎやかで
おかざり立てたり
松かざり 松かざり

二つとや ふたばの松は
色ようて 色ようて
三がい松の
上総山 上総山

三つとや 皆さんこの日は
楽あそび 楽あそび
春さき 小窓で
羽根をつく 羽根をつく

四つとや 吉原女郎衆は
手まりつく 手まりつく
手まりの拍子の
面白や 面白や

五つとや いつも変わらぬ
年男 年男
お年も とらぬに
嫁をとる 嫁をとる

六つとや むりよりたたんだ
玉だすき 玉だすき
雨風 吹けども
まだ解けぬ まだ解けぬ

七つとや 何よりめでたい
お酒盛り お酒盛り
三五に 重ねて 
祝いましょ 祝いましょ

八つとや やわらこの子は
千代の子じゃ 千代の子じゃ
お千代で育てた
お子じゃもの お子じゃもの

九つとや ここへござれや
姉さんや 姉さんや
白足袋 雪駄で
ちゃらちゃらと ちゃらちゃらと

十とや 歳神様の
お飾りは お飾りは
橙 九年母くねんぼ
ほんだわら ほんだわら

十一とや 十一吉日
蔵開き 蔵開き
お蔵を開いて 
祝いましょ 祝いましょ

十二とや 十二の神楽を
舞い上げて 舞い上げて
歳神様へ 
舞納め 舞納め

この数え歌を私は、テレビのバラエティ番組などで、断片的にしか聞いたことがありません。それほど全国的に広まっていた歌ではないようです。

『日本唱歌集』(岩波文庫)には、《曲は東京附近で江戸時代から歌われていた「わらべうた」。…(中略)…歌詞は江戸時代から「一つとや ひと夜あければ にぎやかで……」という年中行事の文句が広く歌われていた」とあります。

そもそも、「年中行事」の内容が、江戸とそれ以外の農村部や地方ではまるで違っていたために、受け入れられなかったのだと思います。農村部の年中行事というのは、農作業に関連したものがほとんどなので、一年を通してこよみとしてきっちりと決まっていました。

『白虎隊』霧島 昇(昭和12年・1937年)

会津若松駅前に立つ白虎隊士の像。二人の視線の先には、彼らが自刃した飯森山があります。
映画『花の白虎隊』(1954年8月25日封切、大映)市川雷蔵と勝新太郎のデビュー作。

     作詞/島田磬也 作曲/古賀政男 歌/霧島 昇

「白虎隊」とは、会津藩が会津戦争当時に組織していた戦闘集団の一つです。会津藩では、年齢別の軍事組織を編成し、中国の四神思想から取った部隊名を冠していました。すなわち、先鋒軍の18歳から35歳の隊士の「朱雀すざく隊」(年齢は数え年)、後備軍として36歳から49歳の「青龍せいりゅう隊」、国境の関門守備として50歳以上60歳までの「玄武げんぶ隊」、そして君側の護衛のための16・17歳の隊士たちの「白虎びゃっこ隊」がそれです。

さらに「白虎隊」は、身分別に、会津の藩校である旧日新館出身の学生からなる「士中白虎隊」とそれ以外のやや身分の低い者が選抜された「寄合組白虎隊」とに分かれていました。飯森山で集団で自刃したのは、日新館出身の「士中白虎隊」のうちの士中二番隊十七名でした。その中で、飯沼貞吉だけが息のあるうちに発見され、命を取り留めました。後になって、彼が詳細な事実の証言を残したため、今日白虎隊の最後が伝承されています。

それによると、飯森山より西方の鶴ヶ城を見れば敵の砲撃により城から上がった炎が天を焦していて、北を見れば滝沢街道を数えきれないほどの敵兵が行進しており、南の天神口だけがまだ無事に見えました。
どう対処するか、隊士同士で激論になり、或る者は滝沢口の敵軍に討って出ると言い、或る者は炎に包まれているとはいえ鶴ヶ城は簡単には落ちないので、城に入って戦おうと言うが、寡兵ではどうにもならず、敵に捕縛されたりすれば君にも御先祖に対しても申し訳が立たないので、武士の本分を明らかにするために自刃することに衆議が一決しました。
慶応四年(明治元年)旧暦八月二十三日の午前10時頃、一同は鶴ヶ城に向かって列座し、遥拝して訣別の辞を述べて後、揃って自刃しました。

月岡芳年『会津若松戦争之図』明治9年

『白虎隊』[文部省唱歌](明治37年・1904年)

     歌/会津若松第一小学校 第一白虎少年団

『白虎隊』[文部省唱歌]
 作詞/不詳 作曲/田村虎蔵

一 あられのごとくみだれくる 敵の弾丸だんがんひきうけて、
  命をちりと戦ひし、三十七のゆう少年しょうねん
  これぞ会津あいづの落城に、その名聞えし白虎隊びゃっこたい

二 味方みかた少なく、敵多く、日は暮れはてゝ、雨暗し。
  はやる勇気はたわまねど、疲れし身をばいかにせん。
  倒るゝかばね、流るゝ血。たのむ矢玉もつきはてぬ。

三 残るは、わづかに十六士、「一たび、あとに立ち帰り、
  主君の最後さいごにあはばや。」と、飯盛いいもり山によぢのぼり、
  見れば、早くも、城落ちて、ほのほは天をこがしたり。

四 「臣子しんしつとめはこれまでぞ。いで。いさぎよく死すべし。」と、
  枕ならべて、こゝろよく、やいばしゝ物語、
  つたへて、今に、美談とす。散りたる花のかんばしさ。

『国定小学読本唱歌集(巻の2)』

『白虎隊』は、明治時代に作られた唱歌です。明治37年といえば日露戦争の開始した年ですが、御一新からこれくらい時がたつと明治新政府の基盤も固まって、かつての敵である会津の白虎隊を唱歌にするくらいの余裕もできているようです。
自刃は新政府が御破算にしたサムライの作法だったはずですが、「臣子しんし」を最後まで果たし、「いさぎよく死す」ことを良しとする気風は、明治の世にも通用する価値観であり続けたようです。

新日本童謡集【ふ】

『冬景色』[文部省唱歌](大正2年・1913年)

ふゆ景色げしき[文部省唱歌]

一 さぎりゆるみなと
    舟に白し、朝の霜。
  ただ水鳥みずとりの声はして
    いまだめず、岸の家。

二 からすきて木に高く、
    ひとはたむぎむ。
  げに小春日こはるびののどけしや。
    かえりざきの花も見ゆ。

三 嵐吹きて雲は落ち、
    時雨しぐれ降りて日は暮れぬ。
  燈火ともしびずば、
    それとかじ、野辺のべさと

『尋常小学唱歌(五)』

どこの地方がこの歌のモデルになっているのだろう? 海にはずいぶん釣りのため通ったし、真冬の海にも釣り糸を垂らしたことがあります。港に車を止めて、車中で夜を明かしたことも、数えきれないほどある。でも、ついぞ、霧の立ち込める港を見たことがありません。

それでも、どこかに、この歌に歌われたような景色があるような気がして、記憶の中で過去に見た景色を辿たどっている自分がいます。

『故郷』[文部省唱歌](大正3年・1914年)

故郷ふるさと[文部省唱歌]
 作詞/高野辰之 作曲/岡野貞一

一 うさぎいしかの山、
  小鮒こぶなりしかの川、
  夢は今もめぐりて、
  わすれがたき故郷ふるさと

二 如何いかにいます父母ちちはは
  つつがなしや友がき、
  雨に風につけても、
  思いいずる故郷ふるさと

三 こころざしをはたして、
  いつの日にか帰らん、
  山はあおき故郷ふるさと
  水は清き故郷ふるさと

『尋常小学唱歌(六)』

『冬の星座』[文部省唱歌](昭和22年・1947年)

     作詞/堀内敬三 作曲/ヘイス

『冬の星座』は、終戦後間もなく『中学音楽(一)』(昭和22年7月発行)に掲載された唱歌です。この年の4月から、日本の教育制度はGHQの「四大指令」のもと、六・三・三・四制に移行しました。その結果、この音楽教科書は最後の文部省編集のものとなり、これを限りに「文部省唱歌」は終わりを告げました。

『笛吹童子』[ラジオドラマ主題歌](昭和28年・1953年)

     作詞/北村寿男 作曲/福田蘭堂 歌/上高田少年合唱団

『笛吹童子』は、『白鳥の騎士』に続く北村寿男原作の『新諸国物語』シリーズの第二作目です。

『風雲真田城』[TVドラマ主題歌](昭和39年・1964年)

     作詞/松井由利夫 作曲/増田幸造 歌/高田浩吉、東芝男声合唱団

風雲ふううん真田さなだじょう』は、朝日放送制作の時代劇で、1964年9月6日から1965年7月25日まで、TBS系列で放送されました。戦国時代の武将・真田幸村と真田十勇士の物語です。

昭和39年は『少年忍者風のフジ丸』が放送開始した年でもあり、「忍者ブーム」が続いていた時期に当たります。猿飛佐助とか霧隠才蔵などの忍者の有名どころや真田十勇士を私が知ったのは、たぶんこの『風雲真田城』によってだったと思います。この年は、藤子不二雄原作の『忍者ハットリくん』の実写版なども、放送が始まっています。

真田十勇士とは、真田幸村に仕えた豪傑たちで、猿飛さるとび佐助さすけ霧隠きりがくれ才蔵さいぞうを初めとして、三好みよし清海せいかい入道にゅうどう三好みよし伊左いさ入道にゅうどう(清海入道の弟)、穴山あなやま小助こすけ由利ゆり鎌之助かまのすけかけい十蔵じゅうぞう海野うんの六郎ろくろう根津ねず甚八じんぱち望月もちづき六郎ろくろうの十人をいいます。
ちなみに、すでに故人ですが、俳優の根津甚八の名は、彼が状況劇場の劇団員時代に、座長のから十郎じゅうろうが真田十勇士の根津甚八から取って付けた芸名でした。

『ファンキー・モンキー・ベイビー』キャロル(昭和48年・1973年)

          作詞:大倉洋一 作曲:矢沢永吉 歌/キャロル

ラジオから流れて来たキャロルの『ファンキー・モンキー・ベイビー』を初めて聞いた時は、簡単な英語交じりの歌詞と言い、ノリのいいサウンドといい、なんつう日本離れした明るい歌だろう!と思いました。恋人の女の子のことを「ファンキー・モンキー・ベイビー」と表現するセンスにも、ぶっ飛びました。

テレビに出演することもなく、これ以外にキャロルの歌というのは知らなかったんですが、1975年にバンドが解散した時は、雑誌でもちょっと騒いだのが記憶に残っています。その後、矢沢永吉はソロ活動を初め、1978年に自伝『成り上がり』が発売されてベストセラーになった時は、あまりにも騒がれ過ぎているために、どうも手を出す気がしなくて、いろいろな人が書いた書評を読んだだけで満足していました。そして糸井重里がこの本のゴーストライターだったと知ってからは、完全に興味が薄れてしまいました。

矢沢がすっかりビッグになった後のことですが、仙台でコンサートがあった日の深夜、仙台駅のホームで数人の若い男たちが、「YAZAWA」とロゴの入ったバスタオルを肩にかけて、うんこ座りして円陣を組んでいるのに出会いました。内心「うへえ~」と思っていると、後ろから来た女子高生たちが「恥ずかしい~~」とか言いながらせせら笑って行ったことを覚えています。

ジョニー大倉はキャロル解散後は俳優になっていましたが、柴田恭兵と共演した映画『チ・ン・ピ・ラ』(1984年11月17日封切、東宝)が印象に残っています。キャロル時代は、楽曲のほとんどの作詞を担当していたようです。

日本のロックは、キャロルから変わったと思います。良くも、悪くも。

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『ペチカ』(大正14年・1925年)

『ペチカ』
 作詞/北原白秋 作曲/山田耕筰

雪の降る夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、お話しましょ。
むかしむかしよ、
燃えろよ、ペチカ。

雪の降る夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、おもては寒い。
くりや栗やと、
呼びます、ペチカ。

雪の降る夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、じき春来ます。
いまにやなぎも、
えましょ、ペチカ。

雪の降る夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、だれだか来ます。
お客様でしょ、
うれしい、ペチカ。

雪の降る夜はたのしいペチカ。
ペチカ燃えろよ、お話しましょ。
ばちばち、
はねろよ、ペチカ。

『子供の村』

「ペチカ」とは、暖炉を意味するロシア語です。北原白秋らしい異国趣味に満ちた作詞です。

新日本童謡集【ほ】

『星の界よ』[文部省唱歌](明治43年・1910年)

ほし[文部省唱歌]
 作詞/杉谷代水すぎたにだいすい 作曲/コンヴァース

一 月なきみ空に、きらめく光、
  嗚呼ああその星影、希望のすがた。
      人智じんちは果てなし、無窮むきゅうおちに、
    いざの星影、きわめも行かん。

二 雲なきみ空に、横とう光、
  ああ洋々ようようたる、銀河の流れ。
      あおぎてながむる、万里ばんりのあなた、
    いざさおさせよや、窮理きゅうりの船に。

『教科統合中学唱歌(二)』

星空探求に子どもたちをいざなう唱歌ですね! やはり、「明治」の唱歌は違います。
月と雲があると、淡い光の星たちが見えず、天体観測には向きません。最近は田舎の夜も、街灯やネオンで明るくなってしまい、暗い場所を探して山の方へ移動しないと、「銀河の流れ」もまともに見えなくなりました。もっとも最近は、暗い場所は熊に襲われる危険がいっぱいなので、あまり出かけて行く気にはなれません。

『ポプラ』[文部省唱歌](昭和7年・1932年)

『ポプラ』[文部省唱歌]
 作詞/井上 赳

一 高い空に、つっつポプラ、
  夕日にもえて、枝枝えだえだの、
  きんがきらきらと、
   うれしそうにふるえてる。

二 暗い夜に、つっつポプラ、
  天までとどく黒い影、
  黒いこずえがひそひそと、
   お星さまと話してる。

『新訂尋常小学唱歌(ニ)』

そういえば、小学校の校庭のはずれに、大きなポプラの木が立っていたな。
ときどき猛烈に「ポプラが見たい!」と思う時があるのは、あのひたすら高くどっしりした立ち姿に、郷愁を感じるからだと思います。花も目立たず、特別に美しい樹ではないのですが、下に立って見上げると「高い空」が見えるのがいいと思います。
そんなポプラの魅力を伝えてくれている唱歌です。

最近、うちの近所に、けっこう高いポプラの樹が立っているのを発見しました。車で通りかかっただけで、まだその下に立ったことはありませんが、そのうち歩いて行ってみたいと思っています

『北帰行』小林 旭(昭和36年・1961年)

     作詞・作曲/宇田 博 歌/小林 旭

小林旭の歌でヒットした『北帰行』は、その後、映画『北帰行より 渡り鳥北へ帰る』(1962年1月3日封切、日活)の主題歌にもなっています。ただ、『北帰行』には、『旅順高等学校逍遥歌』という元歌がありました。

『旅順高等学校逍遥歌』(昭和16年・1941年)『北帰行』の元歌

     作詞・作曲/宇田 博

『星めぐりの歌』宮沢賢治

富士と流星とオリオン座

『星めぐりの歌』
 作詞・作曲/宮沢賢治

あかいめだまのさそり
ひろげたわしのつばさ
あをいめだまの小いぬ
ひかりのへびのとぐろ
オリオンは高くうたひ
つゆとしもとをおとす

アンドロメダのくもは
さかなのくちのかたち
大ぐまのあしをきたに
五つのばしたところ
小熊のひたいのうへは
そらのめぐりのめあて

宮沢賢治が作詞したという歌は、全部でニ十一篇が『校本全集』に掲載されていますが、ほとんどが自分の詩に自ら曲を付けたものか、自分が気に入っている曲に独自に詩を付けたものです。自筆の楽譜はほとんど残っておらず、賢治の死後、近親者や花巻農学校の教え子などが覚えていたものを採譜したものになります。

『星めぐりの歌』の詩は、賢治の童話『双子の星』にも同じ詩が出てきます。曲は、賢治の親友だった藤原ふじわらとうが採譜したものです。

「あかいめだまのさそり」は、真紅の一等星アンタレスを持つ夏の星座であるさそりを歌ったものです。アンタレスは西洋や中国ではサソリの「心臓」とされますが、賢治は蠍座を偏愛していたようで、この歌以外にもいろんなところでアンタレスを「目玉」と呼んでいます。以下、わし、小犬座、蛇座、オリオン座を描いています。

二番の歌詞には、少しばかり問題があります。
「アンドロメダのくもは さかなのくちのかたち」は、アンドロメダ座の渦巻状星雲を魚の口に見立てたもので、かろうじて許容できるかと思うのですが、「大ぐまのあしをきたに 五つのばしたところ 小熊のひたいのうへは そらのめぐりのめあて」がいけません。
通常、「そらのめぐりのめあて」つまり「北極星(ポラリス)」は、北斗七星の柄杓ひしゃくの先の2星の見かけの距離を約5倍延ばしたところにあります。北斗七星は大熊座の一部をなしていますが、「大熊のあし」ではなくて、腰と尾の辺りに当たっています。そのため、この歌の通りにやっても、「そらのめぐりのめあて」を見つけることができないのです。
星座や宇宙に詳しい宮沢賢治が知らなかったとは思えないのですが、そこにどんな意図があったのかなかったのか、今となっては知りようがありません。

『梵坊の子守唄』野坂昭如(昭和44年・1969年)

ボタ山と遠賀川(飯塚市)

梵坊ぼんぼの子守唄』[民謡・九州]

一つ 昼もする 炭鉱の梵坊ぼんぼ
二つ 舟でする 船頭の梵坊よ
三つ 道でする 乞食こじきの梵坊よ
四つ 呼んでする 芸者の梵坊よ
五つ いつもする 夫婦めおとの梵坊よ
六つ 無理にする 強姦ごうかんの梵坊よ
七つ 泣いてする 別れの梵坊よ
八つ 山でする 木こりの梵坊よ
九つ 今度する 義理ある梵坊よ
とうで とうとう センズリかいて死んだよ

『梵坊の子守唄』は、野坂昭如のデビューシングル『ポー・ボーイ』(昭和44年・1969年)のB面に『松浦の子守唄』として収録されています。
動画は、1971年のライブ録音のようなので、「都内某女子大学における実況録音」というやつで、ここでは『梵坊の子守唄』(ジャケットには『ぼんぼの子守唄』とある)となっていますが、たぶんデビュー盤の『松浦の子守唄』と同じ内容だと思います。

『梵坊の子守唄』は、もとは九州の松浦地方に伝わる民謡らしいのですが、詞の方は九州帝大生によって作られたともいわれています。
「ぼんぼ」とは、動画の中で野坂昭如も言っておりますが、「ポルノ解禁にはなっていない日本では言いにくい、いわく言い難い言葉」ですが、あえて控えめに解説すると、セックス、性交、ファック、まぐあい、交接、情交、エッチ、チョメチョメ、合体、肉体関係等を意味する九州・松浦地方の方言になります。

次の詩は、野坂昭如が『四畳半ふすまの下張り』をめぐるいわゆる猥褻わいせつ裁判の被告となり、最高裁での戦いに臨んで野坂自らが作詞した歌です。

『梵坊の子守唄』[『不浄理の唄』版]
作詞・作曲/不詳 補作詞/野坂昭如

ひとつ
ひっとらえてする刑事の梵坊よ

ふたつ
ふんじばってする特高の梵坊よ

みっつ
みながらする風記の梵坊よ

よっつ
呼んでする検事局の梵坊よ

いつつ
いつもする被告の梵坊よ

むっつ
無理にする無罪の梵坊よ

やっつ
めてする弁護士の梵坊よ

ここのつ
今度する最高裁の梵坊よ

とおで
とおとおセンズリかいて死んだよ死んだよ

映画『青春の門』で織江が歌う『ぼんぼの子守唄』

YouTubeをみると、映画『青春の門』で杉田かおる演じる織江が、『ぼんぼの子守唄』を歌うシーンが投稿されています。
原作の五木寛之『青春の門 筑豊編』にも『ぼんぼの子守唄』が登場しますが、「飯塚地方の抗夫たちが酔ったときによくうたう、子守歌ふうの旋律を持ったさびしい歌」と書かれています。飯塚地方とは、筑豊炭田のある筑豊地域を指します。

『僕の好きな先生』RCサクセション(昭和47年・1972年)

ちょうど私が高校生の時分に流行った歌です。
さり気ない日常語で歌われてはいますが、先生のことを「僕の好きなおじさん」と呼ぶなど、けっこう「無頼」な歌詞が印象的でした。

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