- 昭和30年(1955年)~昭和39年(1964年)の発表作品
- 映画『赤いカンナの花咲けば』(昭和30年8月7日封切)
- 『我が家の灯』美空ひばり(昭和30年8月10日)【三越ホーム・ソング】
- 『ノサップ岬に立ちて』伊藤久男(昭和30年11月20日)
- 東宝ミュージカル(昭和31年2月~昭和43年)
- 『メコンの舟唄』伊藤久男(昭和31年3月15日)
- 「もはや戦後ではない」(昭和31年7月)
- 『馬賊の歌』(昭和31年)【映画『夕日と拳銃』主題歌】
- 『ゴビの砂漠』 伊藤久男(昭和31年8月15日)
- 『ガンヂス河は流れる』伊藤久男(昭和31年12月10日)
- 『大学の侍たち』宝田明(昭和32年9月5日)【映画主題歌】
- 『二本松少年隊』伊藤久男(昭和32年9月12日)
- 火野葦平の自殺(昭和35年1月)
- 古関裕而、自衛隊歌を作曲する(昭和36年5月)
- 『モスラの歌』ザ・ピーナッツ(昭和36年7月)【映画挿入歌】
- 交通安全こどもの歌『赤青黄いろ』(昭和36年)
- 『明るい農村』(昭和38年)
- 『あの橋の畔で』島倉千代子(昭和38年1月20日)【映画主題歌】
- 読売巨人軍球団歌『巨人軍の歌(闘魂こめて)』(昭和38年3月20日)
- 『大菩薩峠』村田英雄(昭和38年5月20日)
- 東京オリンピック開催!(昭和39年10月10日)
- 昭和40年代の発表作品
- 「オールスター家族対抗歌合戦」審査員を勤める(昭和47年~昭和59年)
- 《昭和》が終わった日
昭和30年(1955年)~昭和39年(1964年)の発表作品
昭和30年(1955年)は「神武景気」が始まった年であり、日本が高度経済成長へ向かい始める時代であった。
皇室の三種の神器にちなんで、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビが「三種の神器」と言われたが、庶民にはまだまだ高嶺の花であった。
当時、絶大な人気のあったプロレスの力道山を見るために、人々が街頭テレビに群がっていた。
昭和30年代になると、いよいよ古関裕而の「音楽のよろず屋」ぶりが本格化して来る。
映画音楽の数々を担当し、舞台音楽の方も相変わらず手掛けており、菊田一夫の『放浪記』が始まる。
故郷の福島の歴史にかかわる『二本松少年隊』などの歌も作るし、全国の校歌や社歌の制作もたくさん舞い込んで来てそれに応えている。
自衛隊歌を作る一方で、特撮怪獣映画『モスラ』の音楽担当をやるといった八面六臂ぶりである。
そして古関裕而の音楽人生の頂点となる、1964年東京オリンピックの入場行進曲『オリンピック・マーチ』を作曲することになるのである。
映画『赤いカンナの花咲けば』(昭和30年8月7日封切)
東京映画『赤いカンナの花咲けば』(東宝系配給、小田基義監督)は、五歳で映画界にデビューした松島トモ子が主演の映画である。
古関は音楽監督をしており、主題歌『赤いカンナの花咲けば』と『トモ子の花売娘』を、西條八十の作詞で作曲している。
子役で活躍するタレントは現代でも芦田愛菜や安達祐実などいるが、松島トモ子の場合、そんなレベルではなかった。
「松島トモ子の時代」と呼べるものが、確かにあったように思う。
雑誌『少女』の表紙を十年間にわたって飾り続けた。
「母物映画」の子役として、映画に出まくった。母親役は三益愛子というのが定番だった。『母子船』『呼子星』『母山彦』『母の瞳』『母恋人形』などなど。
「母物映画」のストーリーというのは、父親が交通事故で死んだり(このパターン、かなり多い!)、娘はけなげな盲目の少女だったり、みなし子だったり、誰かが大病を患ったりと、とにかく観客の涙を振りしぼるために、あの手この手を使って泣かせるのが母物映画である。
この後『鞍馬天狗 御用盗異変』で杉作役、東宝の『サザエさん』シリーズ初期四作品で磯野ワカメ役を演じている。この時のサザエさん役は江利チエミである。
さらに、テレビ時代が本格化してくるとテレビにも進出し、いろいろな広告にもたくさん登場していた。
昭和三十年代の古関裕而は、戦後新しく登場して来た若手の歌手たちに、次々に楽曲を提供して行っている。
《映画のあらすじ》
健太とトモ子(松島トモ子)は、兄妹だった。
ある日トモ子は、母房子の口から、じつはトモ子は本当の子供ではないことを聞かされる。房子夫婦が満州から引き揚げて来る時、見知らぬ若い女性から赤ん坊のトモ子を託されたのだった。
子供心に傷を負ったトモ子は、或日ちょっとしたことが原因で、家をとび出してしまう。
房子はトモ子を探し廻っているうちに汽車にはねられ、トモ子と生みの母とを結ぶたった一つの証である母の上着のボタンのことを言い残して死んだ。
孤児になった健太とトモ子の二人は、健太は房子の姉のところへ、トモ子は東京の伯父直助の家へと別々に引きとられていった。
トモ子は、直助の一人娘弓子が英語を勉強するために貯金しているのを知って、弓子のために夜ごと銀座に花売りに出る。その胸には母の形見のボタンがあった。
トモ子の生みの母矢代早苗は、津川英語会の教師をしながら、トモ子の行方を探していた。放送記者をやっている早苗の弟和夫も、姉と一緒にトモ子を探すのを手伝っていた。
トモ子は、日曜日ののど自慢コンクールに出ることになり、弟へ手紙で知らせた。
日曜日、早苗と和夫はトモ子を探し疲れて、喫茶店で坐りこんでいた。するとラジオから、トモ子が歌う『赤いカンナの花咲けば』が聞こえて来た。その歌は、昔満洲で流行った歌だった。
二人はすぐに放送局へかけつけるのだった。
『赤いカンナの花咲けば』松島トモ子(昭和30年5月1日)【映画主題歌】
この映画のストーリーは、昭和20年に満州国・奉天に生まれて、終戦後、母親と苦労して引き揚げて来た松島トモ子の実話がヒントになっている。本名の松島奉子は、その出生地から名付けられたものだ。
じつは作詞の西條八十も、長女一家が北京から引き揚げて来ていて、引揚者の辛い体験談を聞いていたので、この作詞にはそんな引揚者への思いがこめられている。
八十はこの詞について、
「歌詞の中に、もっと引き揚げた人々のつらい体験を盛り込みたいと思ったけれど、あの頃はまだ敗戦国民として、言いたいことも言えない時代だった。だからあの程度にとどめるより仕方なかった。」と言っていたという。
『トモ子の花売娘』松島トモ子(昭和30年5月1日)【映画主題歌】
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/松島トモ子
『我が家の灯』美空ひばり(昭和30年8月10日)【三越ホーム・ソング】
全十三曲作られた古関裕而と西條八十コンビの「三越ホーム・ソング」の一曲。
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/美空ひばり
『ノサップ岬に立ちて』伊藤久男(昭和30年11月20日)
B面の美空ひばり『花売馬車』とともに、文部省芸術祭レコード部門参加作品として制作されたが、この年は歌謡作品の受賞は無かった。
昭和26年、作詞の西條八十は、雑誌『家の光』の特集「北辺の国境・歯舞を行く」の取材で納沙布岬を訪れたが、吹雪と流氷の岬に立った感動を誌上で発表すると、読者の絶賛を浴びた。
その時に覚えた日本人としての痛憤を込めたのが『ノサップ岬に立ちて』であった。
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
『花売馬車』美空ひばり(昭和30年11月20日)
美空ひばりが『花売馬車』を歌ったのは十八歳の時であった。
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/美空ひばり
東宝ミュージカル(昭和31年2月~昭和43年)
『恋すれど恋すれど物語』(昭和31年2月9日)【第一回】
『パンと真珠と泥棒』(昭和31年12月公演)【第四回】
『盗棒大将』『メナムの王妃』(昭和32年9月公演)【第七回】
『アイヌ恋歌』『金色夜叉』(昭和33年2月公演)【第十四回】
東宝グランド・ロマンス『敦煌』(昭和35年11月公演)
東宝グランド・ロマンス『蒼き狼』(昭和35年2月公演)
『メコンの舟唄』伊藤久男(昭和31年3月15日)
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
「もはや戦後ではない」(昭和31年7月)
『馬賊の歌』(昭和31年)【映画『夕日と拳銃』主題歌】
『馬賊の歌』は、東映映画『夕日と拳銃 日本篇 大陸篇』(昭和31年9月18日封切)の主題歌である。古関裕而は、主題歌作曲だけでなく、映画音楽の作曲もしている。
映画『夕日と拳銃 日本篇 大陸篇』は、檀一雄の小説『夕日と拳銃』が原作である。
「夕日」とは《満洲》を、「拳銃」とは主人公《伊達麟之介》を象徴している。
『夕日と拳銃』は、昭和30年5月20日から昭和31年3月20日まで『読売新聞』夕刊で、向井潤吉の挿絵とともに三百回にわたって連載された。
《伊達麟之介》は、実在の「満洲大馬賊」伊達順之助がモデルになっている。
伊達順之助は、仙台藩藩祖の独眼竜伊達政宗の直系で、政宗から数えて十五代目に当たる。
ただ、伊達家には複雑な事情があり、大阪冬の陣の戦いのあと、政宗の長男秀宗が宇和島藩主として伊達別家を興すことを徳川方に許され、本家の方は次男の忠宗が継いだ。
これは政宗父子の働きに対する論功行賞なのだが、これ以上仙台藩を強大にしたくなかった徳川方の窮余の一策でもあった。
さらに仙台藩は、明治の御一新において、会津藩などとともに朝敵の立場に追いやられた。そのため、仙台藩を継ぐため宇和島藩から本家の養子に入った順之助の父宗敦は、藩を継ぐこともならず、明治朝廷から伊達家存続を許されたものの、当主の地位を伊達宗基に譲ることになる。
六男坊だった伊達順之助が上京し、麻布の伊達宗敦の屋敷に住み込みとなると、乗馬と拳銃が大好きな順之助は、毎朝起きるとすぐに庭で拳銃をぶっ放すので、屋敷中が大騒ぎになる。
粗野な性格が災いし、中学は次々に退学になり、居場所のなさを感じていた順之助は、十八歳の時、博徒と決闘するハメになった友人の代理となって、拳銃で相手を殺してしまう。裁判で正当防衛を認められたが、判決は懲役一年、執行猶予二年であった。
その時代、支那大陸では辛亥革命が起こり、あらたに中華民国が誕生するという激動期を迎えていた。
日本人青年の中にも、大陸に雄飛する夢を抱き、日本を飛び出していく者も多かった。
伊達順之助も、いつかそんな青年の一人になっていた。
やがて順之助は大陸に渡り、満蒙独立運動の大陸志士たちと活動するようになり、張作霖暗殺計画を立てるが失敗。
のちに張作霖に取り立てられて日本人顧問となり、奉天軍の少将として張作霖のために働いた。
しかし、その後はふたたび関東軍に協力するようになり、大東亜戦争の終結と共に戦犯として民国に捕らわれ、最後は銃殺刑に処される。昭和23年のことである。
当時の上海の新聞が伝えたところによると、処刑場にひかれた順之助は、高らかな笑い声をあげながら、後頭部から銃殺されたという。
「運命の変転」というにはあまりに目まぐるしい変わり身ぶりだが、伊達順之助の物語は面白すぎるので、あらためて詳しく書きたいと思う。
じつは「馬賊」というものを知らないと、当時の中国社会や民衆の動きが解らないところがある。
日中どちらの「正史」にも現れて来ない部分であり、関東軍が見誤ったものもそこにある。
檀一雄は、そんな伊達の暴れん坊の噂を、あちこちで聞いたそうだ。とにかくエピソードに事欠かない存在だった。中には真実から遠い、面白おかしく脚色された噂話も多かったらしい。
馬賊になった伊達順之助は、当時の日本の青少年にとって、〈夢〉と〈ロマン〉をかき立てる存在になっていた。
檀一雄にとっても伊達順之助の伝説は、自己の若き日の大陸放浪の日々を想い起させ、史実にはこだわらず、夢のまた夢としての伊達順之助を描いた。
それが『夕日と拳銃』だった。
『馬賊の歌』伊藤久男(昭和31年9月)【映画主題歌】
作詞の佐藤春夫は、作家檀一雄の師匠である。
佐藤は門弟三千人と言われ、兄弟弟子には、井伏鱒二、太宰治、吉行淳之介、稲垣足穂、龍胆寺雄、柴田錬三郎、中村真一郎、五味康祐、遠藤周作等々、後に名を成した者も含め錚々たる人物が揃っている。
古関は、同じ伊藤久男の歌で同名の『馬賊の歌』を、昭和12年に出している。この歌の作詞は、野村俊夫である。
『馬賊の歌』
昭和12年の『馬賊の歌』は、伊達順之助とは無関係のようだ。
作詞/佐藤春夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
テレビ版『夕日と拳銃』(昭和39年9月)【TBSテレビ】
映画『夕日と拳銃 日本篇 大陸篇』は、現在DVD等が出ていないので、残念ながら見ることが出来ない。
しかし『夕日と拳銃』は、昭和39年(1964年)9月9日よりTBSテレビで、工藤堅太郎主演でドラマ化されており、その初DVD化されたものが今年発売されたため、こちらは見ることが出来る。
テレビ・ドラマで、よくここまで映像化できたものだ。
テレビ版『夕日と拳銃』で有名なのが、主題歌の最初の部分が、アニメ『巨人の星』(よみうりテレビ、昭和43年)の主題歌『ゆけゆけ飛雄馬』と酷似していることだ。
どちらも作曲が同じ渡辺岳夫なので、「いざゆかん」と「ゆけゆけ」の違いはあるが、この手の言葉に遭遇すると、似たようなメロディが浮んで来るのだろうな。
DVDを見てみたが、主題歌そのものを聞いた時よりも、ドラマの中でメロディだけが流れるのを聞いた時の方が、より『巨人の星』っぽさを感じた。
伊達麟之助が学習院中等科に入って、院長をしていた乃木大将との触れ合いが描かれたシーンはよかった。
乃木は、明治天皇の崩御に伴って夫婦で殉死するのだが、乃木の言葉を胸に、麟之助は大陸へ旅立ってゆく。
『ゴビの砂漠』 伊藤久男(昭和31年8月15日)
作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
『ガンヂス河は流れる』伊藤久男(昭和31年12月10日)
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
『大学の侍たち』宝田明(昭和32年9月5日)【映画主題歌】
作詞/藤浦 洸 作曲/古関裕而 歌/宝田 明
『二本松少年隊』伊藤久男(昭和32年9月12日)
戊辰戦争の大檀口における戦闘で、二本松藩の少年武士たちは、圧倒的な戦力で襲って来た新政府軍を迎え撃ち、玉砕する。
会津白虎隊と並んで二本松藩の少年隊の奮戦は、「日本歴史の花」(三島由紀夫)であるが、大東亜戦争で敗戦の無念さを味わったすべての日本国民は、ようやく会津藩や二本松藩の無念さを理解できる地平に立ったのではないだろうか?
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
火野葦平の自殺(昭和35年1月)
古関裕而とともにインパール作戦に従軍した作家火野葦平が、昭和35年(1960年)1月24日、若松市の自宅で自殺した。誕生日の一日前であり、五十二歳だった。
はじめは病死という発表だったが、
「死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」
と書かれたノートが発見され、睡眠薬自殺だったことが判った。
戦後も火野と戦友だった向井潤吉は、旅行先のバリで火野の訃報を聞いた。
「火野さんが死んだ!」と叫ぶと、それきり一週間、一言も口をきかなかったという。
向井潤吉は戦後、古い民家を描くために、日本中を旅してまわっていた。
萱ぶきの古民家というやがて消え去って行くもの、すでに滅びかけているものに向井が向けた愛着は、戦場で嫌というほど見て来た、砲弾で情け容赦なく破壊された村や無惨に傷つけられ死んでいった兵隊や現地の人々への、鎮魂の思いから生れたものであった。
火野葦平の戦後は、兵隊作家として戦争文学を書いたというだけで戦争犯罪人扱いされ、昭和23年5月15日、文筆家として公職追放指定を受けた。
志賀直哉、豊島与志雄らが嘆願書を出したが、GHQの前にはすべては無効だった。
昭和25年10月13日、公職追放が解除された。
そんな苦しい時期にも、火野は世田谷弦巻の向井画伯の家をたびたび訪れていた。原稿用紙をいっぱい持ってやって来て、何日も泊まって行くことが多かった。
二人でサイダーを飲みながら楽しげに話していたという。
昭和27年(1952年)には、火野は父母の一代記を描いた『花と龍』が人気を博し、筆力の健在ぶりを示して、作家として完全復活した。
『花と龍』は、石原裕次郎主演で日活で映画化されたり、高倉健主演で東映で映画化されている。
その後の火野は、『戦争犯罪人』や自己の戦争犯罪を反省する『革命前夜』の執筆をしていたが、体調を崩して高血圧や眼底出血に悩まされていた。
戦後、火野は古関と校歌を共作しており、十点ほどが確認されている。
古関は『長崎の鐘』などヒットを連発して多忙を極めていたが、戦友たちから持ち掛けられた作曲は、絶対に断らなかった。
古関裕而、自衛隊歌を作曲する(昭和36年5月)
「軍歌の覇王」古関裕而が、戦後に作曲した最初の「軍歌」が、自衛隊歌『この国は』と『君のその手で』である。
じつは、古関作曲の行進歌『海をゆく』が、海上自衛隊の前身である海上警備隊が発足した昭和25年に作られて以来、隊歌に準ずるものとして隊員たちによって歌いつがれて来た。
だが、これは正式に海上自衛隊隊歌として制定されたものではなかった。歌詞の内容も、現状に適さない部分が出てきたため、平成12年、発足50周年を記念して、曲は古関作曲のもののまま作詞を公募によって決め、海上自衛隊隊歌を制定することとなった。そうして生まれたのが、松瀬節夫作詞の海上自衛隊隊歌『海をゆく』である。
さらに昭和45年には、 陸上自衛隊隊歌『栄光の旗の下に』が作られている。
昭和49年には、隊友会歌『ああ この血潮』、陸上自衛隊行進曲『聞け堂々の足音を』が作られた。
いったい古関裕而が作曲した最後の「軍歌」とは、何なのだろう?
自衛隊関連の歌の全貌がつかめてないので、はっきりしたことが言えない。
自衛隊歌『この国は』(昭和36年5月5日)
作詞/大関民雄 補作/西沢 爽 作曲/古関裕而
自衛隊歌『君のその手で』(昭和36年5月5日)
作詞/西沢 爽 作曲/古関裕而 歌/若山 彰
陸上自衛隊隊歌『栄光の旗の下に』(昭和45年)
作詞/赤堀達郎 補作/藤田正人 作曲/古関裕而
海上自衛隊隊歌『海をゆく』(平成12年)
作詞/松瀬節夫 作曲/古関裕而
行進歌『海をゆく』(旧歌詞)(昭和25年)
作詞/佐久間正門 作曲/古関裕而
隊友会歌『ああ この血潮』(昭和49年)
陸上自衛隊行進曲『聞け堂々の足音を』
『モスラの歌』ザ・ピーナッツ(昭和36年7月)【映画挿入歌】
特撮怪獣映画『モスラ』(東宝、昭和36年7月30日封切)は、本多猪四郎監督、円谷英二特技監督の『ゴジラ』のコンビによる作品である。
古関裕而は音楽を担当しているが、映画の中で小美人(ザ・ピーナッツ)によって歌われる『モスラの歌』が、観客に強い印象を与えた。
プロデューサーの田中友幸の依頼により、戦後文学者として名高い中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の三人による共作『発光妖精とモスラ』が、『週間朝日・別冊』(昭和36年1月号)に掲載された。
これを原作としてシナリオが書き起こされ、巨蛾の怪獣モスラと美しい歌声の小妖精が登場する、女性にも楽しんでもらえる怪獣映画が作られた。
映画は大筋で原作に従っているが、原作では四人だった小美人が二人になったり、水爆実験を行う大国の名が「ロシリカ」だったのが、「ロリシカ」に変更されている。
「ロシリカ」では、ロシア+アメリカなのが見え見え過ぎるための変更だったろう。
特撮映画音楽のフロンティア・伊福部昭も、世界中の民族音楽を研究していたので、『モスラの歌』の作曲は伊福部でもよかったはずだが、よくぞ古関裕而を起用したものだ。
ドキュメンタリー・タッチの『ゴジラ』とは少しテイストを変えて、『モスラ』はもっとファンタスティックなものにしたかったのかもしれない。
古関もまた、世界中の民族音楽を研究していたし、古関の《短詩》作曲は筋金入りだ。
小美人の歌う歌とともに、『ゴジラ』『ラドン』に続くスター怪獣が生まれ、特撮怪獣映画の歴史に残る名曲が生れたことは、まことに喜ばしい。
ザ・ピーナッツの美しいハーモニーを堪能していただきたい。
『モスラの歌』
作詞/田中友幸・関沢新一・本多猪四郎 作曲/古関裕而 歌/ザ・ピーナッツ
モスラヤ モスラ
ドウガンカサクヤン インドウムウ
ルストウイラードア ハンバ ハンバムヤン
ランダ バン ウンラダン
トウンジュカンラー カサクヤーンム
(以下繰り返し)
作詞は、田中友幸(プロデューサー)、関沢新一(作詞家・脚本家)、本多猪四郎(監督)の三人による合作である。
日本語の詞をインドネシア語に翻訳し、さらにインファント島語(?)風にアレンジしてできあがった。
インファント島石碑文
インファント島に古くから伝わる「石碑文」には、以下のように記されている。(日本語訳掲載)
モスラよ
永遠の生命 モスラよ
悲しき下僕の祈りに応えて
今こそ、蘇れ
モスラよ
力強き生命を得て
我等を守れ、平和を守れ
平和こそは
永遠につづく
繁栄への道である
小美人が歌っているのは、石碑に刻まれたこの呪文である。
交通安全こどもの歌『赤青黄いろ』(昭和36年)
古関裕而はこんな曲も作っている。
YouTubeの動画説明文には「日本交通史年表には昭和36年(1961)10月に入選の記述がある。」とある。
例によって、公募による詞に古関が作曲したものらしい。
古関裕而編『古関裕而作曲集』には、「昭和25年」となっているが、どちらが正しいのか確定できるだけの資料を持っていない。
ここでは昭和36年としておく。私自身、「交通戦争」などと呼ばれた時代に小学生だった時分、しきりに聞いた覚えのある曲である。
作詞/関根新太郎 作曲/古関裕而 歌/安西愛子、石垣良彦、久保木幸子
『明るい農村』(昭和38年)
『あの橋の畔で』島倉千代子(昭和38年1月20日)【映画主題歌】
作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/島倉千代子
読売巨人軍球団歌『巨人軍の歌(闘魂こめて)』(昭和38年3月20日)
戦前に『大阪タイガースの歌』を作曲した古関裕而は、戦後には『巨人軍の歌(闘魂こめて)』を作曲している。
作詞/椿 三平 補作/西條八十 作曲/古関裕而
歌/守屋 浩、三鷹 淳、若山 彰
『大菩薩峠』村田英雄(昭和38年5月20日)
中里介山の小説『大菩薩峠』をもとにした作品。
村田英雄が歌うためもあるだろうが、小節が効いた演歌風の歌になっている。
古関裕而らしい堂々とした前奏から始まり、曲想もゆったりと歌い上げるものになっていて、野村俊夫の見事な作詞とともに、名作といっていいだろう。
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/村田英雄
東京オリンピック開催!(昭和39年10月10日)
昭和39年10月10日、絶好の秋日和に恵まれた国立競技場。
午後1時20分、音楽隊の入場行進が始まった。
【北口】陸上自衛隊音楽隊(105名)曲名『大空』
【南口】陸上自衛隊音楽隊(105名)曲名『君が代行進曲』
【北口】航空自衛隊航空音楽隊(70名)曲名『コバルトの空』
【南口】警察音楽隊(115名)曲名『新しき日のわれら』
【北口】消防庁音楽隊(100名)曲名『雷神』
【南口】海上自衛隊音楽隊(70名)曲名『軍艦』
テレビは音楽隊の入場行進のあいだ、東京都内を国立競技場を目指して走っている聖火リレーの中継を流していたので、視聴者には判らなかったが、オリンピック会場では海上自衛隊によって行進曲『軍艦』が演奏されていた。
團伊玖磨作曲『オリンピック序曲』の演奏が始まると、それに合わせて、参加各国の国旗とオリンピック旗、東京都旗が掲揚され、さらに黛敏郎作曲の電子音楽が流された。
『オリンピック序曲』團伊玖磨作曲
『君が代』の演奏が始まるとともに、昭和天皇と香淳皇后がロイヤルボックスに入り、準備はすべて整った。
午後2時、第十八回オリンピック東京大会の開会式が始まった。
「心も浮き立つような古関裕而作曲のオリンピック・マーチが鳴り響きます」
そんな実況アナウンサーの言葉通り、軽快にして格調高い『オリンピック・マーチ』が会場に響き渡るのを、古関裕而は招待された会場の一隅で聞いていた。かれの生涯で最高の感激の瞬間だった。
『オリンピック・マーチ』古関裕而作曲(昭和39年10月5日)
九十四か国、約五千五百名の選手団の入場行進は、ギリシャ選手団から始まってアルファベット順に進み、最後に赤いブレザーに身を包んだ日本選手団が整列するまで、四十五分ほどかかった。
その時演奏された曲目は、次の通りである。
[公式プログラム]
古関裕而作曲『オリンピック・マーチ』
タイケ作曲『旧友』
アルフォード作曲『後甲板にて』
スーザ作曲『海を越える握手』
プランケット作曲『サンプレ・エ・ミーズ連隊』
團伊玖磨作曲『祝典行進曲』
スーザ作曲『エル・キャピタン』
タイケ作曲『ツェッペリン』
ビゲロー作曲『われらの先駆者』
モルネー作曲『連隊行進曲』
ドゥーブル作曲『ブラビューラ(華やかな行進曲)』
古関裕而作曲『オリンピック・マーチ』
『祝典行進曲』團伊玖磨作曲
音楽隊の指揮は、前半を航空自衛隊航空音楽隊長松本秀喜一等空佐が、後半を海上自衛隊東京音楽隊長片山正見一等海佐が受け持った。
最後の『オリンピック・マーチ』は、日本選手団が定位置に着いたところで、切れのいいところでピッタリ終わらせた。
東京大会組織委員会会長の安川第五郎の挨拶、IOC会長のブランデージの挨拶に続き、2時52分、昭和天皇が開会の宣言をした。
「第十八回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会の宣言をします。」
高鳴るファンファーレに続いて、野上彰訳の『オリンピック讃歌』が合唱された。
この曲はピアノ譜だったスピロ・サマラスの原曲を、古関がオーケストラ曲に編曲したものだった。古関編曲の楽譜は昭和33年に、公式讃歌としてIOCに認定されていた。
『オリンピック讃歌』古関裕而編曲、スピロ・サマラス作曲
五輪旗が入場しポールに掲揚されると、最終聖火ランナーの坂井義則が入場して来て、競技場のトラックを回り始めた。163段の階段を一気にかけのぼり、トーチをかざして聖火台に点火すると、大きな炎が燃え上がった。
『オリンピック東京大会讃歌』(佐藤春夫作詞、清水脩作曲)の合唱が沸き上がった。
日本選手団主将の小野喬が選手宣誓をすると、8000羽の鳩が放たれ会場の空に舞った。
日本国歌『君が代』の合唱とともに、上空に松下治英一等空尉が率いる五機の航空自衛隊ブルーインパルスが、大きく五輪の輪を描いた。
海外から「あのオリンピック・マーチの作曲者は誰か?」という問い合わせが、ひっきりなしに入っていた。
昭和40年代の発表作品
『あゝ鶴ヶ城』舟木一夫(昭和40年8月5日)
『二本松少年隊』に続く福島が舞台の歴史歌謡である。
『あゝ鶴ヶ城』は白虎隊がモチーフになっており、戦前から白虎隊は流行歌の題材になってはいるが、やはり敗戦後により想いが通じるようになったのではないか。
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/舟木一夫
海軍兵学校物語『若いいのち』菊田一夫原作(昭和40年)【テレビドラマ】
海軍兵学校物語『若いいのち』は、昭和40年4月5日より読売テレビ(YTV)で放送された。菊田一夫の『今日を限りの』が原作で、主題歌『若いいのち』と挿入歌『大空にひとり』は、菊田一夫作詞、古関裕而作曲である。主演も勤めている梶光夫が歌っている。
梶光夫は、東京オリンピック開催の前年、昭和38年12月に『黒髪』(西沢爽作詞、狛林正一作曲)でコロムビアからデビューした。作曲家遠藤実門下で、同じ青春歌謡のホープ舟木一夫の弟弟子に当たる。
翌39年に『青春の城下町』が大ヒットし、さらにテレビドラマ『若いいのち』に主演したことで大ブレークした。
40年には、高田美和とのデュエットで『わが愛を星に祈りて』、41年『アキとマキ』と立て続けにヒットを飛ばし、純愛路線の青春歌手として人気を誇った。
『若いいのち』梶光夫(昭和40年10月5日)【テレビ主題歌】
作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/梶光夫
『大空にひとり』梶光夫(昭和40年10月5日)【テレビ挿入歌】
作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/梶光夫
『京の人』青山和子(昭和42年5月15日)【テレビ主題歌】
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/青山和子
『あいつの消えた雲の果』松方弘樹(昭和42年5月25日)
松方弘樹が映画『あゝ同期の桜』出演を機に、軍歌『同期の桜』を吹き込んだ時のB面の曲が、『あいつの消えた雲の果』である。
西條八十作詞、古関裕而作曲の「軍歌」コンビによる作品。
西條邸で担当ディレクターと打ち合わせした時、八十は、
「今度の戦争で、僕の教え子たちがたくさん南の空で散ってしまったのでね、その人たちを弔う歌を書きたいと思っても、どうも胸が苦しくなって今まで書くことが出来なかった。しかし、もう書けそうな気がする」
と語っていたという。
八十がそんな心境になるまで、すでに戦後二十二年がたっていた。
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/松方弘樹
『青春の鐘』舟木一夫(昭和44年1月5日)【映画主題歌】
舟木一夫の『青春の鐘』は、『あゝ鶴ヶ城』以来の古関裕而の曲である。
作詞は、舟木のデビュー曲『高校三年生』や『修学旅行』を書いた丘灯至夫である。
作詞/丘灯至夫 作曲/古関裕而 歌/舟木一夫
札幌国際冬季スポーツ大会讃歌『純白の大地』(昭和46年2月10日)
昭和47年(1972年)、札幌冬季オリンピックが開催された。
古関裕而は、この大会のために行進曲『純白の大地』と『スケーターワルツ』を作曲している。
しかし、あまり話題になった記憶がない。
私が覚えているのは、トワ・エ・モアが歌った大会テーマ曲『虹と雪のバラード』だけだ。
作詞/清水みのる 作曲/古関裕而 合唱/日本合唱協会
『虹と雪のバラード』トワ・エ・モア、村井邦彦作曲
作詞/河邨文一郎 作曲/村井邦彦 歌/トワ・エ・モア
『決断』幹 和之(昭和46年5月10日)【テレビ主題歌】
『決断』は、『アニメンタリー決断』(昭和46年4月3日~9月25日、日本テレビ系)の主題歌である。
「アニメンタリー」とは、「アニメ」+「ドキュメンタリー」の造語で、『アニメンタリー決断』は、戦史研究家・作家の児島襄作・監修、竜の子プロダクション制作の、太平洋戦争の戦いを日米双方の視点から見て、運命の鍵を握る人物の「決断」に焦点を当てた戦記アニメである。
作詞/丘灯至夫 作曲/古関裕而 歌/幹和之・コロムビア男声合唱団
『男ぶし』コロムビア男声合唱団(昭和46年5月10日)【テレビ主題歌ED】
作詞/丘 灯至夫 作曲/古関 裕而 歌/コロムビア男声合唱団
横井庄一元陸軍軍曹の帰国(昭和47年2月2日)
昭和47年2月2日、グアム島より残留日本兵である横井庄一元陸軍軍曹が、羽田空港に帰国した。
戦後二十七年を経過して発見された当時の横井の風貌は、疲れ切った敗残兵を思わせるものであり、「恥ずかしながら」という言葉とともに、「敗戦日本」ということを改めて思わずにいられなかった。
グアムでは原始人のように穴居生活をしていたということなので、よく生きて来られたなという感じが強かった。
『幸福という名の駅』織井茂子(昭和47年3月10日)
作詞/中村小次郎 作曲/古関裕而 歌/織井茂子
小野田寛郎元陸軍少尉の帰国(昭和49年3月12日)
昭和49年3月12日、フィリピン・ルバング島から、小野田寛郎元陸軍少尉が羽田空港に帰国した。
小野田さんを初めてテレビの画面で見た時は、「戦争」そのものが突然現れたような気がした。
肘を陸軍式に曲げてする敬礼は、鋭角すぎて触れば切れそうな感じだった。
血と硝煙の臭いが漂っていた。
戦前派の私の母などは、「この敬礼は本物だ。これこそ軍人だ。横井さんなんか・・・」と感動している様子だった。
小野田さんの帰国によって、何かと横井さんと比べられるようになったのは、横井さんには気の毒なことだった。
小野田さんは、陸軍中野学校出の情報将校だったこともあり、ゲリラ戦は専門だったろうから、鋭い眼光といい、切れのある敬礼といい、いまだ戦闘中という気配が濃厚だった。
彼の「三十年戦争」はこの日終わりを告げたが、驚くほど変貌してしまった祖国に、此処は自分が生きる場所ではないと感じたのだろう、新たな天地ブラジルに渡り、牧場経営を始めてしまった。
『日本晴ればれ音頭』(昭和50年4月1日)
昭和50年といえば、日米経済摩擦が顕在化し始めた頃であり、昭和48年には第一次石油危機があった頃だ。なぜ、「スカット晴れやか」なのかを考えると、そこらへんに行き着きそうだ。
晴ればれとしないものが、日本社会に淀んでいたからこそ、こんな曲が作られねばならなかったのだろう。
作詞/石本美由起 作曲/古関裕而
歌/美空ひばり、島倉千代子、都はるみ、舟木一夫、大川栄策
「オールスター家族対抗歌合戦」審査員を勤める(昭和47年~昭和59年)
昭和47年から、古関はフジテレビの『オールスター家族対抗歌合戦』に審査員として出演し始めた。
この頃、すでに古関が作曲することはないではなかったが、以前と比べるとその数はめっきり減っていた。
『オールスター家族対抗歌合戦』は、司会の萩本欽一が面白いので、楽しく参加していた。
番組収録のため、土曜の正午ころ家を出てスタジオに入り、途中で一度帰宅して、収録が終わって家に着くのは十時すぎになった。
テレビはNHKを中心によく見るが、自分が出演したものは見ない。自分の顔を見たり、声を聞いたりするのが、古関は嫌だった。
『オールスター家族対抗歌合戦』への出演は、昭和59年7月に司会の萩本欽一が降板して小川宏に交代する時、古関も一緒に降板することで終了した。
《昭和》が終わった日
昭和三十年代には、戦後に登場した新しい作詞家や作曲家が活躍するようになっていた。遠藤実、船村徹、浜口庫之助、星野哲郎、関沢新一などなど。歌手は、むろんのことである。
時代は、確実に回っていた。
昭和四十年代になると、古関とともに歌を作って来た作詞家や、同時代に競い合っていた作曲家たちがあいついで他界するようになった。
昭和41年(1966年)10月27日、野村俊夫が死んだ。六十一歳だった。
野村の死を悼んで、昭和48年10月、故郷である福島市の信夫山第一展望台に、『暁に祈る』の詩碑が建立された。
昭和45年(1970年)8月12日、西條八十は急性心不全で自宅で死去した。七十八歳だった。
昭和の巨星墜つ、という感じを持ったものだが、しかし、昭和はまだ続いていた。
八十は戦前から流行歌の作詞をして『東京行進曲』ほかで大ヒットを飛ばしており、古関より上の世代に属していた。
早稲田で仏文の教鞭を執りながら、一方では高踏的な純粋詩を発表し、他方では庶民的な流行歌の作詞をするという八十の生き方は、ある意味、古関裕而の音楽の方向性と似ていなくもない。
古関の音楽歴をみると、最初はクラシックを志しながらも、生活の糧を得るために流行歌の作曲の道に入って行った。
しかし、戦場で自分が作った歌を今生の名残りに必死に聞き歌う兵隊たちを見て、庶民のために作曲することを誇りとするようになって行った。だからといってクラシックを捨てたわけではなく、生涯愛し続けた。
八十もまた、庶民のために流行歌を書くことが、決して純粋詩を書くことより低劣だとは考えなかった。むしろ、大衆の心を動かす流行歌の作詞に、男子の一生をかけるに値する価値を見出していた。
その点は、文壇や学界のインテリ層の人々と対立していたのである。
昭和48年(1973年)4月4日、古関裕而の盟友菊田一夫がこの世を去った。六十五歳だった。糖尿病の悪化による脳卒中が死因だった。
菊田の死は、古関に決定的な一撃を加えた。以後、古関の作曲数はめっきり減り、心に空白をもたらすのである。
思えば、菊田と古関は戦前からの付き合いだが、ことに戦後になってからは、いつも菊田は古関の音楽を必要としてくれ、ラジオドラマに、映画音楽に、ミュージカルに、舞台音楽にと、つねに古関を引っ張って来てくれたのである。
その菊田が亡くなったのだ。
古関はまだまだこれからも菊田と一緒に、大衆の喜びとなる作品を作り続けていくつもりであった。
昭和48年〈1973年〉11月13日、サトウハチローが心臓発作により聖路加国際病院にて死去した。七十歳だった。
ハチローは、西條八十が作詞家として出発したての頃の弟子で、すでに『カナリア』で童謡作家として有名だった八十に童謡を習おうとして入門したのだった。
ハチローも作詞家になって、たくさんの童謡と、戦時中には軍歌も書いている。
菊田一夫は、サトウハチローの弟子だった。
昭和52年(1977年)7月19日、大木惇夫が亡くなった。八十二歳だった。
古関が大好きだった大木の詩『戦友別盃の歌』は、戦時中、多くの戦地の兵隊や銃後の人々に愛唱されたが、戦後は一変して、戦争協力者として文壇から排除された。またしても、だ。
昭和53年(1978年)7月25日、古賀政男が代々木上原の自宅で、急性心不全で死去した。七十三歳だった。
福田赳夫内閣総理大臣より、国民栄誉賞を授与された。
昭和58年(1983年)4月25日、歌手伊藤久男が肺水腫で亡くなった。七十二歳だった。
古関とは「軍歌」の時代から『露営の歌』『暁に祈る』など、重要な作品はみな伊藤が歌っていた。作詞家・野村俊夫とともにコロムビアの一時代を築いて来た。
戦後は、伊藤のバリトンを活かした歌曲風の作品を、古関は数多く作っている。
昭和55年(1980年)7月23日、乳がんで闘病中だった妻金子が亡くなった。六十八歳だった。
昭和64年/平成元年(1989年)8月18日、古関裕而は脳梗塞により川崎市の聖マリアンナ病院で死去した。八十歳だった。
古関裕而は昭和の終わりとともに去って行った。
古関の音楽人生は、「昭和」という「時代」とともにあった。
「軍歌」が必要とされた時代には、一生懸命に「軍歌」を作った。
戦後になって、古関裕而の戦争責任を云々する声もあったが、古関は弁明もしなければ転向もしなかった。
そもそも何事も声高に言う人ではなかったし、音楽以外のことに意見を言う人でもなかった。
「軍歌」が必要とされなくなった時代には、古関は「軍歌」以外のあらゆる「歌」を作った。それが「作曲家」としての、彼の生き方だった。
だが、そんな夢のような時代はほんの一瞬だった。
またもやアジアでは、戦争が始まっていた。
お隣の朝鮮半島では、赤い北と南とで朝鮮戦争が始まったし、アメリカとソ連の間では「冷戦」が始まっていた。
アメリカは日本の占領政策を根本から見直し、日本に最小限の防衛力を求めるようになった。
GHQの要請に従って警察予備隊と海上警備隊が発足した。
さっそく古関に、隊歌の作曲依頼が来た。
古関はまた、戦後の自由と民主主義とやらの新たな時代の「軍歌」を作曲することになった。
『穂高よさらば』芳野満彦/作詞 ダークダックス/歌
「軍歌」や「流行歌」を替え歌して兵隊たちが歌った《兵隊ぶし》は、これまでいくつか紹介してきたが、古関裕而の軍歌にも替え歌されたものがあった。
『穂高よさらば』がそれだが、戦後山男たちによって歌われた歌であり、《兵隊ぶし》ではない。
『穂高よさらば』は登山家芳野満彦が、古関裕而作曲の『雷撃隊出動の歌』に詞を付けたもので、昭和30年代には岳人の間で歌われるようになっていた。
同じように、海軍兵学校で歌われた『巡航節』が、やはり戦後替え歌されて『山男の歌』として岳人の間で歌われた。
山男たちの歌で最も古いのは、『いとしのクレメンタイン』を替え歌した『雪山讃歌』だろう。大正15年に、京都帝國大学山岳部の西堀榮三郎が、雪で足止めされた群馬県鹿沢温泉で作ったとされる。
芳野満彦は昭和6年生まれで、戦後の食糧難の時代から登山を始めている。
戦争の時代に学校生活を送ったので、歌う歌は「軍歌」しかなかっただろう。
『雷撃隊出動の歌』が作られたのは昭和19年11月で、戦争もだいぶ終わりに近づいた頃だ。
昭和23年、早稲田中学二年(17歳)の時に、芳野は友人と二人で登った八ヶ岳主峰の赤岳で遭難し、友人は死亡し、彼は凍傷で足の指すべてを失った。
だが芳野は山から離れることが出来ず、不屈の闘志で再び登山を始め、クライミングに挑戦するようになった。
北アルプスの岩壁を次々に制覇し、その視線はやがてヨーロッパアルプスに向かい、昭和40年8月6日、マッターホルン北壁を渡部恒明とともに日本人初登頂をやってのけた。
新田次郎の小説『栄光の岩壁』は、芳野満彦がモデルになっている。
作詞/芳野満彦 作曲/古関裕而 歌/ダークダックス
「古関裕而の音楽」―完―
《参考文献》
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』(文春文庫、2020年3月20日)
『西條八十全集 第十巻 歌謡・民謡Ⅲ/社歌・校歌』(国書刊行会、1996年11月25日)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫、2008年12月20日)
斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝西條八十』(岩波書店、2004年10月28日)
菊池清磨『評伝古賀政男』(アテネ書房、2004年7月10日)
藤山一郎『藤山一郎自伝』(光人社NF文庫、1993年11月15日)
人間の記録111『菊田一夫 芝居つくり四十年』(日本図書センター、1999年12月25日)
小幡欣治『評伝菊田一夫』(岩波書店、2008年1月29日)
谷村政次郎『行進曲「軍艦」百年の航跡』(大村書店、2000年4月10日)