母が消えた

今日はあの東日本大震災から3年目。

久しぶりにあのころの記事を読み返してみた。

http://fanblogs.jp/midorinokojiki/archive/146/0

そうだ、あの頃はまだ母がいた。

2月22日、朝6時、母が死んだ。82歳だった。
死因は慢性腎臓病。

透析を医師にすすめられたが、ことわって、自ら死を受け入れた。

死の1週間前、食事ができなくなって病院へ連れて行ったが、
すでに腎臓はほとんど機能しておらず、入院を勧められたがそれも断って、
自宅でわたしだけが看取ることになった。

花が大好きだったので、せめて祭壇は花で飾ってやった。
葬式は質素に、という希望だったが。

昨年の10月、胸に水がいっぱいに溜まって、母は入院した。
慢性腎臓病から来た症状だった。
顔も、腕も、足も、ぱんぱんにむくんでいた。

母は三十代の頃から、高血圧と糖尿病で通院を続けていた。
長期間この病気にかかっていると、
さいごは腎臓を傷めて死ぬというのが通常たどる道だと医師に説明された。

ひと月を超えて入院したが、
このときは施した利尿薬が想定外に効いて、
母はすっかりむくみのとれた体になって退院することが出来た。

病院での腎臓病食のまずさに母は辟易していて、人間の食べ物ではないといって譲らなかった。

腎臓病の食事は、塩分とタンパク質が極端に制限され、
水分も1日800mlと制限されていた。

オマケに、母はワーファリンという心臓病薬も飲んでいたため、
「納豆」も厳禁とされた。
食い合わせが悪いのだそうだ。

それにグレープフルーツもダメ。
またビタミンKを多く含む野菜もダメで、
ホウレンソウやシソ、ニラなども食べないように指導されていた。

そもそも糖尿病だったから、甘いものはダメ、
カロリーを気にしながらしか食事が出来なかった。
そのうえに、ということである。

…この母の食事の調理を、だいぶ前から私が引き受けていた。
しかし、これを守らないとまた胸に水が溜まると言われたので、
今度はこれまで以上に気を付けなければならない。

母の退院日である11月27日に合わせて、私はすべての準備をした。

まず、仕事を辞める。
いただいた最後の時間を、母が快適に生きられるためにすべて使おうと思った。

電動式の介護ベッドを設置(介護保険適用。要支援2。)これにショップジャパンから買ったトゥルースリーパー プレミアムという低反発マットレスを敷いた。自分で試してみて、とても体が楽だったためだ。母は脊椎間狭窄症で、ひどい腰痛に悩まされていた。

『腎臓病の人のおいしい食事』という本と、『食品成分表2013』を購入。
1食当り塩分2g、タンパク質13g、熱量600kcalを守りながら、
母がおいしく食べられるために。

TANITAのデジタルはかり。食材を1g単位で測れるやつを購入。

電池式チャイムを購入。ボタン送信機は2個買って、1個はベッドに、1個はトイレに設置した。
声では届かないことがあるので、用事があるときはチャイムで呼んでもらうことにした。(これは正解だった!)

最初の1か月は、食事のたびに塩分とタンパク質の成分計算に追われて、しんどかった。
そのうち、だいたい母の満足するメニューが定まって来て、楽になったが。

朝はご飯140g、梅干し10g(塩分10%のやつ)、生卵M1個、これに缶詰の果物、お茶を付けた。
このメニューは母のお気に入りだった。
病院では絶対出てこないメニューで、ずっと食べたくて仕方がないものだった。

昼はおにぎりや、うどん、肉まんなど、手のかからないもので満足してくれた。

夜だけは、ご飯140g、果物のほかに、なにか1品、母の気に入りそうな料理を付けた。

しかし、2か月目の後半には、少しずつ食事量が減ってきた。
しっかり食べていたご飯も、量が多いと感じるようになり、
だんだん食べなくなった。

3か月目には、ご飯がのどを通らなくなり、
何かごはんに代わるものを食べさせようと工夫をした。
甘酒なら飲めるというので、しばらく缶入りの甘酒をいっぱい買ってきて、
1日1本飲むのが食事代わりになった。

最後の頃は、空腹感は感じるのだが、何も食べられなくなっていた。
お昼に私が自分用に作ったそばを見て食べたそうにしたので、
2口分ぐらいを分けてやったら食べられた。

その夜、アメなら食べられるというので、
ミルクキャラメルを1個食べさせたのが母が最期に口にした食事だった。

それ以降は、お茶をストローで飲むだけになり、
やがてストローで吸い上げる力もなくなってきたので、私が母の口にお茶を垂らしてやったり、
唇が渇かないようにガーゼで拭いてやるだけになった。

母が亡くなって、
食べられなかった果物の缶詰や甘酒の缶が残された。

もう必要のなくなった車椅子や杖、
いつも病院に行くときに持って行ったバッグや、
簡易便器や使い残した大量の介護パンツなど、
どれも母が生きていたころの記憶と深く結びついていて、
とてもすぐには捨てられない。

お母さん。
これから時間をかけて、あなたの使い残した品々を整理していきます。
ひとりになって、とても寂しいよ。
でも、ときおり、ふとあなたの眼差しを感じたり、
息遣いが聞こえて来ることがあります。
最後の3か月間、あなたの世話ができたことは、
僕のこの上ない幸せでした。
あなたの愛した庭を、僕がこれからも育てていきます。
ありがとう。