昭和17年4月3日、
日本の各新聞が「マレーの虎」谷 豊の死を、
いっせいに大々的に報道しました。
享年30歳でした。
日本国民がはじめて「ハリマオ(マレー語で虎)」と呼ばれる日本人青年の存在を知ったのが、まさにこの日でした。
「ハリマオ伝説」の始まりであります。
その概要を記すと…
谷 豊は、両親や兄弟姉妹といっしょに、
英領マレーのクアラ=トレンガヌで暮らしていました。
両親は彼の地で床屋を開いていました。
日本陸軍が起こした満州事変がきっかけとなり、
ここマレーでも華僑の一部が反日暴動を起こし、
日本人の店を襲う事件が起きます。
この時、風邪で2階で寝ていた豊の妹・静子が逃げ遅れ、
華僑暴徒の青竜刀で首を切り落とされ、
華僑に持ち去られるという事件が発生します。
ちょうど豊が日本に一時帰国している時で、
それを知った豊は、これまでに見たことが無いほどの怒りをあらわにしたと言われます。
豊は妹の仇を晴らすことを胸に、ふたたびマレーに渡ります。
豊はマレーを植民地支配していた英国官憲に妹を殺害した犯人の逮捕を要求しましたが、
英国官憲の反応は豊の期待を裏切るものでした。
この事件がきっかけとなり、
豊は華僑と英国官憲への復讐心を抱いたと考えられています。
(実際には、妹・静子の首は家族のもとに帰っているし、
犯人もつかまっているようなので、この「動機」の部分ははっきりしてないようです)
その後、豊は、盗賊団を組織し、
マレー中央山脈を足場にマレーからタイにかけて荒らし回ります。
富裕華僑や銀行を襲っては、
マレーの貧しい人々にお金をばらまくという義賊的な活動をするようになります。
部下は3千人というような噂が立ったこともあるようですが、
実際には多い時でも100人程度かと推定されています。
豊はもともと親分肌のところがあり、
イスラム教に改宗したこともあって、
日本人とは思えないほどすっかり地元マレーの生活に溶け込んでいて、
次第に子分も増えて行きました。
「マレーの虎(ハリマオ)」という別名で豊が呼ばれるようになったのは、
この頃からと思われます。
襲われる側の人間がそう呼んだのか、
或いはマレーの人々がそう呼んだのかは、
はっきりとは分からないようです。
そんな豊の噂を聞きつけ、
何とか連絡を取りたいと考えている日本の軍人がいました。
陸軍情報部の藤原機関(F機関)機関長、藤原岩市です。
日本軍のマレー進攻作戦に先立ち、
現地民の宣撫工作や開戦にそなえての兵站線を確保するために、
ハリマオ・谷 豊の存在が役に立つと考えたのでした。
藤原の部下で軍属の神本利男がハリマオの説得に当たり、
日本人として報国する意義をハリマオ・谷 豊に目覚めさせました。
それ以降、ハリマオ・谷 豊は日本の特務機関の一員として、
第五列活動(ゲリラ活動)にあたりました。
昭和16年4月頃のことでした。
対日戦準備のための英国軍のジットラ陣地の建設妨害工作や、
日本軍がマレー半島に上陸した場合の兵站(食糧・弾薬)の備蓄などがハリマオの役割でした。
こうして、昭和16年12月8日、
日本軍第二十五軍(司令官山下奉文中将)が、
英領マレーの北部コタ=バルへ上陸作戦を開始し、
マレー作戦が始動します。
大東亜戦争の始まりです。
マレー半島を南下し、イギリス軍の本拠地・シンガポール島要塞を北から急襲する作戦です。
ことはスピードを要し、
この時の移動に非常に役に立ったのが「自転車」でした。
「銀輪部隊」と呼ばれた、
鉄兜に銃剣・背嚢を背負って、自転車をこぐ日本軍部隊の姿は、
当時のニュース・フィルムなどで見ることが出来ます。
アニメンタリー『決断』 第4話 マレー突進作戦
2019/9/9 元動画削除のため差し替え。
マレー戦が開始してからのハリマオの役割は、
英軍後方に進出しての機関車の爆破や、電話線の切断、
マレー人義勇軍への宣伝活動、
日本軍が通過するための橋梁の確保などでした。
しかしこの活動において、ハリマオ・谷 豊は、
ジャングルの踏破中にマラリヤを再発してしまい、
無理を押して活動を続けた結果、ついにそれがもとで命を落とすことになります。
ハリマオの遺体はマレー人の部下によって運ばれ、
彼の希望通りイスラム教のやり方で埋葬されました。
この新聞報道は、国民に熱狂的に受け入れられ、
その後も雑誌でとりあげられたり、浪曲や映画化までされます。
『マライの虎』昭和18年
この映画は『シンガポール総攻撃』という映画の撮影中に、
同じロケ先でついでに撮ってしまったものだったそうですが、
かえって本編より『マライの虎』のほうが大ヒットしてしまいました。
時局がらみの「英雄伝説」が題材だったため、
大衆に受け入れられやすかったのだと思います。
この映画から17年後の戦後によみがえったのが、
テレビの少年向けドラマ『快傑ハリマオ』でした。
この作品はわれわれ戦後昭和少年の伝説的な作品となりました。
来年平成24年は、ハリマオ・谷 豊の没後70年に当たります。
マレー・シンガポール戦は遠くなりました。
いまシンガポールは経済的活気に満ちているとも聞きます。
マレーの大地の土となって戦った「ハリマオ」の名は、
谷豊が愛したマレーシアの地に、戦争の歴史とともに眠りつづけています。