大阪タイガース応援歌『六甲颪』誕生!(昭和11年)
昭和11年(1936年)、この年の作曲数は、全75曲。古関への作曲依頼は、うなぎのぼりに増加していた。
この年のことで特筆しておきたいのは、2月に、古関が『大阪タイガースの歌』の作曲をしたことだ。
3月25日、前年設立した「大阪タイガース」の激励会が甲子園ホテルで開催された。そこで球団歌『大阪タイガースの歌』が披露され、出席した関係者に配るため、200枚のレコードが制作された。
『大阪タイガースの歌』(『六甲颪』)
作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而 歌/中野忠晴
『大阪タイガースの歌』
作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而 歌/中野忠晴
1.六甲颪に颯爽と
蒼天翔る日輪の
青春の覇気美しく
輝く我が名ぞ大阪タイガース
オウオウオウオウ大阪タイガース
フレ フレ フレ フレ
2.闘志溌剌起つや今
熱血既に敵を衝く
獣王の意気高らかに
無敵の我等ぞ大阪タイガース
オウオウオウオウ大阪タイガース
フレ フレ フレ フレ
3.鉄腕強打幾千度
鍛えてここに甲子園
勝利に燃ゆる栄冠は
輝く我等ぞ大阪タイガース
オウオウオウオウ大阪タイガース
フレ フレ フレ フレ
《六甲颪に颯爽と/蒼天翔る日輪の》の部分が、古関の自筆ピアノ譜には、《六甲おろし颯爽と/明けゆくホームグラウンドに》と書かれてあった。これがレコード録音までに、何らかの理由で現行の歌詞に変更されたと考えられる。
昭和15年(1940年)9月、野球連盟が英語使用の禁止を通達したため、大阪タイガースはチーム名を「阪神軍」と変えた。だが球団歌の方は『阪神タイガースの歌』と、「タイガース」は残したまま「大阪」だけが変更されて、レコード化がされた。
古関は、《オウオウオウオウ》と《大阪タイガース》が「韻」を踏んでいてよかったのに、《阪神タイガース》と変更したことで、「韻」が壊れてしまったのを残念に思っていたという。
『阪神タイガースの歌』はその歌詞の一節から、しだいに『六甲おろし』とファンから呼ばれるようになって行った。
全国的に注目されるようになったのは、昭和60年に、阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝し、日本シリーズでよく流れたためだった。
この最初のヴァージョンと『大阪タイガースの歌』『阪神タイガースの歌』の3つは、藍川由美によってCD化されているので、藍川由美『「栄冠は君に輝く」古関裕而作品集』で、聞くことができる。
日本最初のプロ野球球団歌・応援歌となった『大阪タイガースの歌』だが、それから3年後に、古関は東京巨人軍の球団歌『巨人軍の歌』も作曲している。戦後も『巨人軍の歌(闘魂込めて)』を作曲している。
依頼されるから作曲しているだけなのだろうが、巨人-阪神戦の球場に、古関の作った応援歌が両軍の応援席から湧き上がる様を、古関はどう聞いていたことだろう?
応援歌といえば、古関は早稲田大学のために『紺碧の空』を昭和6年に作ったが、ライバル校慶応大学からも応援歌の作曲を依頼され、古関は「早稲田の了解を得てほしい」といい、「了解済み」と回答を得たうえで、昭和21年、慶應大学応援歌『我ぞ覇者』の作曲をしている。
クライアントに問題がなければ仕事として引き受けるというのが、プロの作曲家としての古関のスタンスなのだろう。
『大島くづし』音丸(昭和11年6月)
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/音丸
こういう小唄風の文句は、西條八十の十八番だ。ハマる時ははまる。
音丸の歌も、のびやかで、素晴らしい。
この年は、音丸は他にも、『田家の雪』『花祭りばやし』『バナナ娘』『おはら浜歌』『夜船の夢』といった古関作曲のものを多数歌っている。しかし、ヒットとはいかなかったようだ。
一方音丸は、大村能章作曲の『満洲想えば』ほかの「満洲もの」のほうでヒットをとばしており、音丸の全盛期と言っていいかもしれない。
『ミス仙台』二葉あき子(昭和11年7月)
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/二葉あき子
新民謡、地方小唄をたくさん作っていると、こういう傑作も生まれるという作品だ。
詳しい解説は、こちらで書いているので、ご覧いただきたい。
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「仙台七夕 思い出の曲──『七夕おどり』『ミス・仙台』」
『戦友の唄』伊藤久男(昭和11年10月)
作詞/久保田宵二 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
「北満」という具体的な地名が出て来る。 「国境守備」という支那事変の時代にたくさん作られた主題の歌のひとつである。
『米山三里』音丸(昭和11年12月)
作詞/高橋菊太郎 作曲/古関裕而 歌/音丸
『船頭可愛や』コンビが作った曲。相変わらず、民謡調の歌を歌わせたら、音丸の歌は絶品だ。しかし、必ずしもそれが、レコード売り上げに結び付くとは限らない。この曲も、売り上げ的には不振だった。
怒涛の昭和12年(1937)が始まった!
古関裕而・金子夫妻は、この年の7月、満洲旅行に出かけるのだが、なんとその前に64曲もの作曲を仕上げている! 変われば変わるものである。一年に20曲も作曲できなかったあの古関とは、もう別人になってしまった如くだ。
ラジオドラマ『当世五人男』で、菊田一夫と出会う
この年の出来事として、忘れてはならないのが、古関が菊田一夫と出会ったことだ。
菊田が古川ロッパ一座の座付き作者だった頃で、東京放送局から古関に、ラジオ放送劇『当世五人男』(村上浪六/原作)の音楽を作曲してもらいたいと電話があった。この頃、古関はドラマの音楽というのは未経験だった。
芝の愛宕山放送局での打ち合わせで、はじめて菊田一夫を紹介された。初めて見た菊田は、小柄で、鼻の下に髭をたくわえていて、神経質そうに見えたが、話してみると意外に優しかった。しかも、少々どもる癖があるので、同じ癖を持つ古関は親しみを感じた。
菊田一夫の存在は、特に戦後の古関の音楽活動において重要な位置を占めることになる。三十六年間に渡る長い付き合いをすることになる二人が、最初に出会ったのがこの年だった。
放送は、現在のように録音とかでなく、ぜんぶ生放送だった。
本読みからつき合って、演奏の練習、歌の稽古、リハーサルを繰り返して、休む暇もなく、ハイ、本番!となる。
古関は、イヤホーンを耳につけ、台本とオーケストラのスコアを同時に見ながら、指揮をする。音楽が入るきっかけを間違えないように細心の注意を払い、神経がへとへとに疲れたころに、三十分の放送はようやく終わった。
放送は終わっても、まだ仕事がぜんぶ終わったわけではない。小休憩をはさんで、翌日分のリハーサルが始まるのだ。番組は三日間の連続放送だった。
この間、夜食として大皿に大盛りの稲荷ずしが三皿も出た。これをロッパ一座やオーケストラや擬音担当の音響効果係、技術関係者などで囲むのだが、放送とはこんなに多くの人たちで作るのかと、古関は驚いた。
この放送は大好評だったようで、放送局からの依頼で、その後も「思い出の記」(徳富蘆花/原作)や「八軒長屋」(村上浪六/原作)などを、菊田と二人で担当することになった。
これ以降、菊田は、古関の音楽がよほど自分の好みに合ったのか、つぎからつぎに放送となると古関の音楽を求めるようになった。
さらに菊田との関係は発展し、やがて古関はロッパ一座の劇音楽も依頼されることになった。
太平洋戦争が激しくなってから、菊田は岩手県に二年間ほど疎開していたが、古関と会わなかったのはその時期だけで、昭和四十八年に菊田が亡くなるまで、古関は放送・演劇の菊田作品全部の作曲をしており、二人の交友は三十六年間も続いたのである。
『当世五人男』の楽屋話を、ロッパが『古川ロッパ昭和日記〈戦前篇〉』に書いているので、見てみよう。
二月二十日(日曜)
「当世五人男」の第一夜、八時五十分から三十八分、わりにうまく行ったらしい。終って、プランタンからサンドウィッチをとって食ひ、明日の分のテストにかゝる。これが又、手間どり、三時近くまでかゝり、ヘト/\になって帰宅。
二月二十一日(月曜)
第二夜の「当世五人男」放送。昨夜のが好評なので馬力をかける。終ると又明日のテスト。うんざりしながらやる。一時すぎに終った。
二月二十二日(火曜)
第三夜「当世五人男」の放送、今までにない大熱演、涙を流しつゝやった。ちと泣きすぎたかも知れない。藤山・徳山・渡辺はま子・山野等来る。銀座へ出る。これで一段落やれ/\。
二月二十五日(金曜)
ラジオの謝礼も貰ったが、三日間連続の、あれだけの人間に対し八百幾円しか呉れない。これでは困るから一度放送局へ話さう。
『古川ロッパ昭和日記〈戦前篇〉 新装版』(晶文社 2007[平成19]年2月10日初版)引用は『青空文庫』より
やはり、ロッパも、古関と同じように、放送のあとの翌日分の稽古は、そうとうウンザリだったようだ。
放送局のギャラの安さをこぼしているのは、ご愛嬌だ。NHKは、ラジオの時代から「日本薄謝協会」だったようだ。
もっともNHKと名乗ったのは戦後のことで、この頃は東京放送局である。
『出征の歌』伊藤久男(昭和12年1月)
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
「出征」という戦争にかかわる歌である。とすれば、これも《軍歌》と呼ぶべきものだろう。『古関裕而作品集』(古関裕而/編)では「戦時歌謡」に分類されているが、古関は一般的に《軍歌》とされている自分の作品を「戦時歌謡」と呼んでいる。彼の中で、「戦時歌謡」とは違った分類の中に《軍歌》はあったのだろう。
だが、こういう《戦時歌謡(軍歌)》と一般の《流行歌》に、何の違いがあるのか? ──何の違いもなくていい。
「戦争」という国家がおこなう一大事業にまつわる主題の歌は、それが《流行歌》であれ、《儀式歌》であれ、《部隊歌》であれ、《行進曲》であれ、はたまた《戦争映画主題歌》であれ、戦時下に生まれたそれら全てを一般大衆は《軍歌》と呼んだ。ただ、求められる使用方法・効果に、多少の違いがあるだけだ。
『乙女十九』二葉あき子(昭和12年1月)
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/二葉あき子
コロムビアさん、ここまでやりますか? という作品である。
新民謡『ミス仙台』の評判が、あまりによかったために、歌詞だけ変えてもう一回《流行歌》として発売しちゃいました!
結果は、…そこそこヒットしたようだ。レコード会社の嗅覚は、あなどれない。
こういうのを「一粒で二度美味しい」というのだろうか。
『馬賊の唄』伊藤久男(昭和12年4月)
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男
作詞、作曲、歌手ともに、「福島コンビ」の作品だ。
実は古関は、戦後も同名の『馬賊の唄』を作曲している。映画主題歌で、作詞は佐藤春夫だが、歌い手は同様に伊藤久男である。後で紹介する予定なので、聞き比べてもらうために、全歌詞を載せた。
『慰問袋を』(昭和12年7月29日)
作詞/高橋菊太郎 作曲/古関裕而 歌/コロムビア合唱団
盧溝橋事件が勃発すると、さっそくこんな「愛国歌」を発売している。「愛国歌」とは、レコードラベルに表示されたレコード会社が命名したものだが、コロムビア社内の歌の分類なのだろう。
盧溝橋事件(昭和12年7月7日)
昭和12年7月7日、北京の西南方にある盧溝橋付近で夜間演習をしていた日本軍は、どこからか銃撃される音を聞いた。最初は、自分たちが狙われたかどうかさえ分からなかったのだが、この一発の銃声から、日中両軍がぶつかる事態に発展して行った。
盧溝橋事件である。
7月11日、日本政府はもはや支那との一戦は必至とみて、華北出兵を発表したが、その際に、盧溝橋事件に伴う事態を「北支事変」と呼ぶことを決めた。日中両国とも、戦意は満々ながら《戦争》になることを望まなかったため、《事変》と呼ぶことにしたのである。
7月25日、通州事件と呼ばれる、中国正規軍が日本軍の不在を狙って、非戦闘員の日本人男女を虐殺する事件が起きた。通州に住む在留邦人三百八十五人のうち、幼児十二人を含む二百二十三人が惨殺された。
多くの死体は裸にされて、そのうち三十四人は、性別も判定できないほどの惨殺ぶりだった。壁に逆さに打ち付けられたり、頭蓋骨を粉砕された者もいた。路上には、点々とカラスの群れが黒山を作っており、日本人の惨殺死体を貪っていた。
「恨みは深し!」「世紀の残虐、あゝ呪いの通州」などと、新聞は書きたてた。
この事件により支那派遣兵や日本国民の深奥に沈潜したどす黒い怨念は、やがて南京戦において兵士たちによって噴出されるのであろう。
この日支衝突事件は、上海に飛び火した。ほとんど満州事変の時と同じ経過をたどるのである。
9月2日、日本政府は、これまでの「北支事変」という呼称を、「支那事変」に変更した。この変更は、戦いが支那全土に広がる予感を抱かせるものだったが、相変わらず「事変」にとどめたい政府の思惑も見えていた。
古関裕而・金子夫妻の「満洲旅行記」(昭和12年)
昭和12年春、古関夫妻は、満洲旅行の計画を立てていた。
満洲には、妻金子の兄や妹が暮らしていた。
古関は今を盛りの満洲を、その「王道楽土」を、ひと目見たいと思っていた。
すっかり旅行の準備が終わったころ、支那大陸で盧溝橋事件が勃発した。
満洲にも戦火が及ぶかもしれないので、危険だから旅行を中止するよう、義弟から電報が届いた。しかし、もうすっかり準備ができてしまっていたので、古関夫妻は予定より少しおくれて、7月下旬、神戸から大連に向けて吉林丸で出発した。
古関にとって初めての船旅だった。金子は、女学校卒業と同時に満洲の兄のもとを訪ねたことがあったので、船の旅は2度目だった。
二人が乗船した吉林丸(6783トン)は、大阪商船の日満定期航路に昭和10年より就航したばかりの大型客船だった。
吉林丸、大連港に入港
はじめての船旅は、きわめて快適だった。食事は望めるかぎりに贅沢なものだったし、何もすることのない時間には、ふたりして輪投げをして遊んだりした。
神戸から門司には翌朝早く着き、そこから大連に向かうのだが、つぎの翌朝にはもう大連が見えて来た。
朝もやにかすむ大連港の埠頭に、船が横づけにされると、埠頭で働くたくさんの苦力たちが見えた。
大連港の広い玄関口の階段を降りると、タクシーとともに馬車や人力車(洋車)も見えて、大陸らしいエキゾチックなものを感じた。
古関は、来てよかったと思った。
写真中央あたりに見える、半円形の屋根を持つのが、大連港の表口玄関だ。
当時の大連は自由貿易港だったので、無税の商品を並べている店も多く、古関夫妻は興味深く見て回った。
大連では、コロムビア支店の人々が歓迎座談会を開いてくれた。
また義兄の家族と会い、初対面の子供たちを紹介された。
物珍しく市内見物したりしているうちに、あっというまに数日が過ぎていた。
満洲国・奉天へ
大連から満州国の奉天まで、特急「あじあ号」に乗って行った。大連は関東省であり、まだ満洲ではない。
これからいよいよ満洲の地に踏み入ることになる。
特急「あじあ号」は、内地とは規格違いの「広軌」であるため、高速走行を可能とし、最高速度130km/hを実現して、大連─新京間を8時間30分で結んでいた。奉天は、その間にある。
国内最高速度の列車「燕」が95km/hだった頃のことである。
あじあ号の車内も、広軌のゆえに幅広くゆったりとしていた。
古関と金子は、シートを窓に向けて、並んで満洲の大平原を見つづけた。お茶とおしぼりのサービスもあった。
満鉄が、世界最高水準の旅客サービスを目指した列車ならではであった。
奉天市は、満州人はムクデンと呼んでおり、英名も Mukdenなので、そう呼ばれることも多い。
奉天に着くと、コロムビア支店長の案内で、北稜や清朝の遺跡などを見て回った。奉天は、清朝発祥の地なので、太祖太宗皇帝の宮殿などが残っていた。
「北稜」は、昭陵ともいい、清の初代皇帝太宗とその妻孝端文皇后の陵墓である。鬱蒼とした老松におおわれていた。
巨大な城壁に囲まれた奉天城内に入り、満人街へも行った。
中国では、方形の城壁に囲まれて街がある。外部からの襲撃を防ぐために造られたもので、城壁の上は野砲を並べられるほど広い。
満人街のデパートに立ち寄ったが、日本人客は少なく、店員も表面上は好意的だがどことなくよそよそしさを感じた。
古関は、満人の間に排日気分が流れているせいだろうと考えた。
満人街の店舗はどこも、真赤な布に金文字が書かれていたり、まばゆいばかりの漆塗りの金看板など、極彩色の店飾りであふれていた。
奉天から新京へ
奉天を後にして、二人は、満洲の首都・新京へと急行列車で向かった。この時は、義弟が警乗兵を付けてくれた。最近、レールが知らないうちに河の中に引き込まれていたという事件があったばかりだったからだ。幸い、未然に防ぐことができ、事故には至らなかった。
途中の停車駅で、白系ロシア人の子供が遊んでいたのでフィルムにおさめた。
ムービーカメラは、9.5mmフィルムを使うフランス・パティ社のもので、当時パティ・ベビーと呼ばれ人気のあった古関自慢のものだった。
新京駅には、京濱線(新京 – 哈爾濱間)、京図線(新京 – 図們間)、京白線(新京 – 白城子間)などの各路線がここに会していた。
広大なプラットフォームは、帝都満洲の玄関口にふさわしいものだった。
新京では、義弟夫婦と首都建設の槌音が聞こえる市内を見て回った。
駅前の新京ヤマトホテルに宿をとると、夜半に非常警報が鳴り、地下へと案内されてびっくりしたが、避難訓練だとわかってひと安心だった。
新京からハルピンへ
ハルピンに着いた。
古関は『哈爾濱小唄』などというものを、まだ満洲を見たこともない時に作曲している。どんな思いで、ハルピンの街を見たことだろうか?
ハルピンでは、コロムビアのディレクター・山内義富氏の兄である、秋林洋行の支配人をしている人が、あちこち案内してくれた。
松花江の中洲にある太陽島の別荘にも招待してくれた。
白系ロシア人が、岸辺の砂の上で、水着で日光浴をしていた。古関は、パティ・ベビーを回すのに忙しかった。
松花江、また、スンガリとも呼ばれるこの大河は、黒竜江(アムール河)の一大支流で、最上流部の長白山では水源地帯を大森林がおおい、下流部では穀倉地帯を潤していた。
しかし、十月中旬より四月中旬に至る半年間は、河は凍結する。解氷後は、小汽船が盛んに行き交い、ここの水運は諸物資の搬入に貢献していた。
ことに夏の江上は、まるで眠りから覚めたように、汽船、帆船、ライター(艀)等が入り乱れて、帆柱を林立させる様は壮観であった。
古関が作曲した『義人村上─日本人は此処にあり─』の舞台となった河川でもあった。
江上にかかる鉄橋のやや下流の岸に、満州国江防艦隊司令部があり、黒竜江という国境河川の警備に従事しており、先の匪賊による満鉄襲撃人質事件では、日本海軍と合同で事件の解決にあたっていた。
松花江畔には豪華なヨットクラブがあって、古関は、そこでロシアバンドが演奏していたロシア民謡に惹かれた。
その頃の日本では、『ヴォルガの舟唄』などごく少数のロシア民謡しか知られていなかったので、ロシア料理の手を止めて、もっぱらロシア民謡の採譜にかかった。
それを見ていたバンドマスターが古関に寄って来て、
「楽譜を欲しいなら書いてあげます」と言ってくれた。
そうして数曲の楽譜を、古関は手に入れた。
古関は、少年時代からロシア民謡が大好きだった。
だから秋林洋行では、たくさんの「野性的な民謡」のレコードを買い集めていた。
松花江に浮かぶヨットの白帆を見ながら、ロシアバンドの演奏を生で聞けたことは、この上ない収穫であった。
ハルピンではまた、ロシア正教の中央寺院やロシア人墓地を見た。
ハルピン市街地の中央にそびえたつ黄色の尖塔は、サポールと呼ばれ、ロシアによって建てられたハルピンのシンボルとなっていた。時折この前を通るエミグラント(移民)の老若男女の中には、敬虔に十字を切ってゆく姿も見える。
松花江に突き当たるように伸びる、キタイスカヤ通りの商店街ではショッピングを楽しんだ。
キタイスカヤ通りは、古来、ハルピンの中心街として商店が軒を連ね、殷賑を極めていた。道路は美しくアスファルト舗装がなされ、ベンチでは青い目の人々が談笑しており、異国情緒あふれる街だった。
帰路は、湯崗子温泉で一泊した。
湯崗子温泉は、平らな地形のところに湧出した温泉で、満洲三温泉の中で最大の規模を誇っていた。泉質は、無色透明のアルカリ泉で、リウマチ、ヒステリー、婦人病などに効能ありとのこと。
日露の戦役当時は、日本陸軍の療養所が置かれていた。
日満人ならびに外人も入浴する人気スポットだった。
感慨無量の旅順の旅
旅行の最後は、ガイド付きの観光バスに乗って、旅順を訪ねた。
金子の父は、日露の役でこの地に出征していた。
乃木将軍とステッセル将軍が会見した「水師営」では、記念撮影をした。
小学校唱歌で歌った「庭に一本なつめの木」のナツメは、大きな木となって残っていた。
『水師営の会見』(尋常小学校唱歌)
『水師営の会見』
作詞/佐々木信綱 作曲/岡野貞一
旅順開城約成りて
敵の将軍ステッセル
乃木大将と会見の
所はいずこ水師営
庭に一本なつめの木
弾丸あともいちじるく
くずれ残れる民屋に
いまぞ相見る二将軍
乃木大将はおごそかに
みめぐみ深き大君の
大みことのり伝うれば
彼かしこみて謝しまつる
昨日の敵は今日の友
語る言葉もうちとけて
われはたたえつ彼の防備
彼はたたえつわが武勇
かたち正して言い出でぬ
「この方面の戦闘に
二子を失い給いつる
閣下の心いかに」とぞ
「二人のわが子それぞれに
死所をえたるを喜べり
これぞ武門の面目」と
大将答える力あり
両将昼食ともにして
なおもつきせぬ物語
「われに愛せる良馬あり
今日の記念に献ずべし」
「厚意謝するに余りあり
軍のおきてにしたがいて
他日わが手に受領せば
長くいたわり養わん」
「さらば」と握手ねんごろに
別れてゆくや右左
砲音たえし砲台に
ひらめき立てり日の御旗
激戦地だった二〇三高地や東鶏冠山の砲塁跡も見た。
旅順の砲台中、最高標高にあり、標高二〇三メートルなので「二〇三高地」と呼ばれた。
日露戦での二〇三高地攻略のための戦闘は、激戦九昼夜に渡り、争奪を繰り返すことじつに六回!
わが軍将卒の戦死者七千五百余名を数え、広大な斜面を敵味方の死者で埋めつくした末に、ようやく占領した。
砲弾型の慰霊碑には「爾霊山」の文字が見えるが、これは乃木将軍の揮毫によるもの。乃木は息子二人をこの戦闘で失い、標高にかけてこの地を「爾霊山」と呼び、詩を賦した。「爾」つまり、英霊たちの霊が眠る山の意である。
「二〇三高地」がロシア側の西の守りであったのに対し、東の守りだったのが「東鶏冠山の砲塁」だった。
山の形が変わるほど砲弾を撃ち込まれたにもかかわらず、なお残る分厚いコンクリートの壁を見れば、この堡塁がいかに寄せ手側の血を吸いとる強固な要塞であったかがわかるだろう。
古関が降りた崩れかけた半地下壕には、生々しく砲弾跡が残っていた。
銃眼から外をのぞくと、熱い日差しの中、乾いたような夏草が揺れ、壕の隅では虫がチチチと鳴いていた。
この大地で、兵士たちの血や肉が飛び散ったのであろうか。
その同じ大地にいま、戦争を知らない二人は立っていた。
子供たちが、掘り出した砲弾のかけらを売っているのも哀れであった。
国同士が力で領土を奪い合うことの無惨さと、悲惨な犠牲者に思いをはせ、その痛ましさに古関は感慨無量であった。
この旅順の旅は、今回の満洲旅行の中で、もっとも印象に残るものとなった。
『露営の歌』奇跡の誕生! (昭和12年)
長い旅が終わって、古関と金子は、大連港から門司経由で神戸港へと帰国の途についた。
金子は、何か虫が知らせるのか、兄との別れのテープを握って泣いていた。
それから十年余のあいだ、金子と兄は会うことができなかったのである。
帰りの船も、来たときと同じ吉林丸だった。
豪華な一等船室で、帰りの旅も楽しく過ごしていたところ、二日目の昼頃、ボーイが一通の電報を持ってきた。預けて来た子供のことが思い出され、なにやら胸騒ぎがしたが、電報はコロムビアの文芸部からのものだった。
「急ぎの作曲があるから神戸で下船しないで、門司から特急で上京されたい」とあった。
そんな急ぎの作曲とは何なのだろうと訝しかったが、古関と金子は門司で下船し、フェリーで下関まで渡り、駅前旅館に宿をとった。
翌朝、朝食を終えて、久しぶりに内地の新聞を開くと、第一面に大きく「進軍の歌」発表と出ているのが目に入った。
懸賞募集結果が、第一席から佳作まで載っていた。近日コロムビアで吹き込みの予定とか、第一席の詩にはすでに陸軍戸山学校軍楽隊が作曲したことなどを報じていた。
第二席の詩について、選者の一人である北原白秋が、
「第二席は、兵士自身の歌として作られており優れている。もし、これに素晴らしい曲がつくならば、日露戦争の時の『戦友の唄』に匹敵する歌が生まれるかも知れない」と語っていた。
作詞者は、薮内喜一郎となっていた。
東京までは山陽本線を使い、特急「富士号」の乗車券を入手し、十数時間かけて東京へ向かった。
停車する駅々では、出征兵士を送り出す人々の姿を見た。武運長久と書かれた幟をなびかせたり、日の丸の旗を振る家族たちが涙で目を赤くしたさまは、古関の胸をうった。
退屈な移動の時間をつぶすために、読書をしたりトランプをしたりしたが、そのうちに持て余してしまった。そこで思い出したのが、東京日々新聞の懸賞募集第二席の歌だった。
古関は新聞を広げ、五線紙を取り出した。
「勝って来るぞと勇ましく」という出征兵士の出発の様子は、駅々で見て来たばかりの光景そのままだった。
「土と草木も火と燃える」「鳴いてくれるな草の虫」という詩は、旅順で見て来た光景そのままであり、あの戦蹟に立つことで胸に呼び覚まされたかつての兵士たちの心そのものであった。
汽車の揺れるリズムに合わせて、古関はごく自然に作曲してしまっていた。
古関は楽譜を金子に見せて、二人で一緒に歌ってみた。
東京に着くと、古関だけその足でコロムビアに急いだ。
担当ディレクターを見つけ、
「急ぎの曲って何ですか」と聞くと、なんとそれは「進軍の歌」第二席の歌だった!
レコードのA面として第一席の「進軍の歌」はすでに吹き込み済みであり、B面として第二席を「露営の歌」として作るということだった。
あまりの偶然に古関は驚いて言った。
「あッ、それならもう車中で作曲しました!」
楽譜を見せると、今度驚いたのはディレクターのほうだった。
「どうして分かりましたか?」
「そこはそれ、作曲家の第六感ですよ」
「ちょうど短調の曲が欲しかったんです!」と、ディレクターは大喜びだった。
すぐに新聞の関係者を呼んで、もう一度演奏して聞かせ、この曲に決定した。
ただ一つ、問題があった。
「勝って来るぞと勇ましく──ちかって」の”く”と”ち”の間を、息継ぎなしで続けることになるが、息が続くかどうかという懸念があった。
その場に居合わせた伊藤久男が、
「これくらい、何でもない。楽に歌えるよ」と言った。
この伊藤のひとことで、このまま行くことにした。伊藤は、しばらく前にコロムビアの専属歌手になっていた。
古関は帰宅すると、その夜のうちに、前奏も後奏も一気に書き上げた。
吹込みは、中野忠晴、松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章という、当時のコロムビア男性歌手総出動の豪華版であった。
レコードは同月二十六日に、超スピードで臨時発売された。時局に合ったタイミングで発売できるかどうかで売れ行きが左右されるため、レコード会社も必死だった。
新聞社もレコード会社もこのレコードを大々的に宣伝して売り込んだが、その割には売れず、出征兵士の見送りに人々が歌うのは、相変わらず「天に代わりて不義を討つ──」という『日本陸軍』の歌だった。
形勢が変わったのは、十月中旬のこと、『東京日日新聞』が「長城に谺する”露営の歌”/一枚の印刷歌詞を写し伝へつゝ合唱」という記事を載せてからだった。
「露営の歌」が前線の負傷兵に愛唱されているという報告だったが、「哀調を帯びながらもまた勇ましく、しかも何とも言へず望郷の念をそゝる音律」という記事の一節は、まさに古関軍歌の本質を射抜いたものだった。
じつは、それまでコロムビアは、A面の『進軍の歌』を押して売り込んでいたのだが、これ以降、B面の『露営の歌』に売り込みの重点を変えた。どうやら大衆は、A面の明るい長調よりも、B面のもの悲しい短調を好むようだと気が付いたのだった。
それから間もなく、
「昨日は何万枚。一昨日も何万枚出荷。これは、レコード界未曽有のヒットになりますよ」
と、文芸部長が古関の手を握りながら喜ぶこととなった。
実際に古関は、東京市内のレコード店や、新橋駅頭で、また新宿駅でも、出征兵士の歓送風景では「勝って来るぞと勇ましく──」と、『露営の歌』が歌われるようになったのを見た。
『露営の歌』は、前線の兵士と、銃後の家族や国民を繋ぐ歌となったのである。
その頃、故郷の母から届いた便りには、
「婦人会で出征兵士の見送りに行くと、皆が小旗を振って、お前の作った歌ばかり歌います。近所の人々も『息子さんの作った歌ですってねえ』と声をかけてくれたりして、何となく晴れがましい気持ちです。
五年前、お前が東京に出た時、親類中が、『歌なんか作って──。せいぜい演歌師が関の山だ』とか悪口を言っていたけれど、この頃は手のひらを返したようにチヤホヤします」
と書かれてあった。
古関は、ようやく一つ親孝行ができたと、喜びをかみしめた。
『露営の歌』(昭和12年8月26日)
作詞/藪内喜一郎 作曲/古関裕而 歌/中野忠晴・松平晃・伊藤久男・霧島昇・佐々木章
『露営の歌』の作詞者、藪内喜一郎は、奈良県の出身で、応募当時は京都市役所土木部の出張所に勤務していた。
『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』が共同で募集した「進軍の歌」の賞金は、第一席千円という高額なものだったので、きわめて多数の応募があったようだ。
第二席の賞金がいくらだったかはわからないが、『露営の歌』の大ヒットにより、藪内喜一郎が作詞者としての名誉を獲得したのは確かだろう。
コロムビアが『露営の歌』を古関に依頼したのは、最初から古関に決めていたわけでなく、作曲家たちが避暑に出かけたりしていて頼む人がいなくて困っていたところへ、古関がちょうど満洲旅行から帰って来たためだった。
ヒット曲というものは、いくつもの偶然と必然とが重なることで、生まれるものなのだろう。
南京陥落! 提灯行列で『露営の歌』が!
この年の12月11日、中国国民党の首都・南京が、ついに陥落したと新聞が号外で報じた。(実際は、蒋介石は首都を南京から重慶へ遷都していたので、旧首都になる。)
銀座の街頭には、たちまち大国旗と「祝南京陥落」の大看板が掲揚された。この日を待ちかねて、用意してあったのだ。
「夜の街」のダンスホールでは、ダンサーたちが客と一緒に「バンザイ」を叫ぶと、すぐに客を追い出し、「祝南京陥落 愛国婦人会」と大書した旗を掲げて、陸軍省、海軍省とつぎつぎに訪問した。両省ともに、玄関まで副官と報道部員が出て来て、夜の街の愛国婦人たちに丁重に挨拶した。
「バンザイ」の叫び声は、東京駅でも、浅草でも、また銀座のみならず、新宿、渋谷などの盛り場でも響き渡った。
宮城前の提灯行列はことに盛大で、古関の眼には火の海のように映った。
それぞれの行列が、みな「勝って来るぞと勇ましく──」と『露営の歌』を歌いながら行進していた。
しかし、じつは、この時まだ南京は陥ちてはいなかったのである。
12月10日、南京城南東部の光華門を、日本軍第十軍第三十六連隊は、工兵隊が城壁を爆破して突破口を開くと、伊藤善光少佐指揮する第一大隊が突入した。
伊藤少佐は先陣を切って、軍刀を振りかざしながら城壁を駆け上ると、日章旗を掲げた。南京城一番乗りである。──これを見た従軍記者が、「南京陥落!」の誤報を流してしまったのだ。
この直後、中国守備軍の反撃が始まり、第一大隊は敵の集中砲火にさらされ、伊藤少佐は「城門を死守せよ!」の命令を残したまま、頭部に銃弾を受けて戦死した。残された大隊兵士らは、三十六連隊主力が光華門を占領するまでの三日間、日の丸の旗は目標になってしまうので伏せたまま、命令を守って城壁上で戦い続けた。
翌11日早朝、師団通信隊が日本のラジオ放送を傍受して、日本国内各地で提灯行列が行われていることが戦場にも伝わった。南京城総攻撃が始まるのはそれからなのだが、この提灯行列の情報が作戦に影響を与えた面も多少はあったようだ。
12月13日、光華門、中山門を日本軍が占領し、市街地の掃討作戦が開始され、南京はついに陥落した。
『壮烈空爆少年兵』二葉あき子(昭和12年10月)
西条八十作詞・古関作曲の『壮烈空爆少年兵』は、もっと知られていてもいいような、『若鷲の歌』や『ラバウル海軍航空隊』にも匹敵する名曲だと思うが、どうか?
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/二葉あき子 コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ
若々しさを感じさせるリズムは、戦後の『スポーツショー行進曲』を思わせるところがある。《行進曲》はそもそも、兵の歩調を揃えるためのものだったのだから、《元祖軍歌》と言ってもいいくらいのものだ。
七文字と五文字の組み合わせで作られることの多い流行歌の歌詞を、「凛々しき瞳」(8文字)、「勇まし君は翔ける」(10文字)といった破調の詩句を用いることで、古関の斬新なリズムを可能としたとも考えられる。
『南京陥落』(昭和12年12月)
作詞/久保田宵二 作曲/古関裕而 歌/松平晃、伊藤久男、霧島昇、佐々木章、ミス・コロムビア、二葉あき子
♫ ランララララン ♫
歌い手が、コロムビアのスター歌手勢揃いの豪華版で、いかに南京入城に国民が狂喜乱舞していたかがわかるようだ。なにしろ、
♫ ランララララン ♫
なのだ。
『皇軍入城』(昭和12年12月)
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男、霧島昇
「速歩行進」のラッパが鳴り渡り、兵士たちの「バンザイ」の声がして、南京城への皇軍入城の情景が浮かんで来る。しかし、作詞の方は抽象的・観念的な語句が多く、具体的な情景が見えて来ない。具体的な情景は、新聞や雑誌、ニュース映画等に任せ、勢いだけを表現したということなのだろうか?
この曲の発売日は、12月15日となっている。南京陥落は、実際には12月13日。南京入城式は、12月17日だ。
『皇軍入城』は、実際に南京入城式が行われる前に作られたというわけだ。詞に具体性が乏しい理由も納得できる。
実は、作詞の西條八十は、読売新聞社からの依頼で、この入城式に合わせて南京へ赴いている。
大通りはだいたい浄められてはいたが、横道にはまだ支那兵や軍馬の死体が転がっていた。これらの死体は16日中に、翌日の入城式のために片付けられた。
西條がこの従軍で書いた新聞記事や詩は、非常に具体的である。むろん、軍の検閲が通るように、表現に工夫はされていたが。
満州事変が起きれば、すぐに『満洲征旅の歌』『我等の満洲』といった歌を作り、上海事変が起きれば『肉弾三勇士』『大空軍行進曲』などを作り、盧溝橋事件が起きれば『露営の歌』『壮烈空爆少年兵』を作り、南京が陥落すれば『南京陥落』や『皇軍入城』を作るというように、レコード会社の販売への執念は凄まじい。
レコード発売のこの傾向は、やがて大東亜戦争(太平洋戦争)に突入するとともに、ラジオの《ニュース歌謡》放送という形に変容していく。皇軍の戦果が上がるたびに、即座に作詞・作曲して、電波に乗せるようになって行くのである。レコード発売を待てないほどに、戦局は急激に変わって行った。
「軍歌の覇王」にして「ハゲ博士」?
菊田一夫は、戦後に古関とやった座談会の中で、古関の《おつむ事件》の秘密をバラシてしまっている。
満洲旅行から帰ってから、古関はいつもベレー帽をかぶるようになっていた。それが菊田はどうにも気になっていた。古関はいつも頭を気にして、無意識にベレー帽をおさえたりした。ははあ、とそのうちに菊田は気が付いた。古関の髪の毛が薄くなっている。事情を聞きたかったが、聞けなかった。
しばらくして菊田が古関と会うと、いつのまにか古関の頭には黒髪がふさふさしていて、びっくりした。
こりゃあ、カツラだなと思って、菊田は横から見たり、後ろに回ってみたりしたが、どうもカツラには見えない。不思議だった。
古関は、自分を見る菊田の眼付きの悪さが気にかかっていた。
座談会で、菊田は古関に当時のことを質した。
古関によると、満洲から帰ったとたんに、髪を洗ったらバサッと抜けた。仰天したが、そのうちに、あちこちどんどん抜けて行った。
医者にかかったら、「円型禿頭だ」といわれた。一般には「台湾ハゲ」と呼ばれていたものである。古関の場合は「満洲ハゲ」と呼ぶべきか?
「伝染するんじゃないの?」と、菊田が聞くと、
「いや伝染じゃなくて、一種の栄養障害だって。」
「そうか、僕はその頃うつると思って敬遠していたんだけど、その心配なかったんだね。それじゃもっと仲よくするんだった。(笑)」
「ひどいなあ。(笑)」
(古関裕而自伝『鐘よ鳴り響け』より)
太陽灯や赤外線をかけたりしたがダメで、医者には抜けきるまでほっておくしかないと言われ、古関は悲しかった。
ショーガをすって頭に塗ったりとか、ありとあらゆる方法を試してみた。
「結局何が効いたんだろう。」と菊田。
「注射だよ。ドイツから良い薬がきたのでやってもらったが痛くて、痛くて……。注射を頭にうつんだ。ハゲたところに何本もやるのがすごく痛い。注射を始めたら一週間くらいで生え出した。」
古関が、だから円型禿頭の人を見ると、教えてやりたいが言えないと笑うと、
「ハゲのことなら何でも古関ハゲ博士にきけ。」という一言で、菊田はこの話を締めた。
菊田は、ずっと気にかかっていたことが聞けて、十八年間胸につかえていたシコリがスーっととれたみたいだ、と言って笑った。
コロムビアが古関を「軍歌の覇王」と呼んで、レコード宣伝のための惹句としたのは、このころのことである。
『露営の歌』は、半年で六十万枚を売っていた。
コロムビアはこの人気に乗じて、『露営の歌』の前奏部分に西條八十に詩を付けさせた『さくら進軍』を出し、さらに同じ路線を狙った『続露営の歌』を出していた。
軍歌の覇王古関の名を益々高からしむる「続露営の歌」──一時も早くご試聴の上熱唱して頂きたいと思ひます。(1938年12月新譜案内)
やはり『露営の歌』の圧倒的な実績が、コロムビアに「軍歌の覇王」とまでの呼称を使わせたのだろう。
この年の発表曲数は、全89曲。今年に入ってから、次々に作曲依頼が舞い込んだようで、急激に発表数を伸ばしている。
レコードによる発表曲数では、この年が生涯最多となっている。
のちに映画音楽や舞台音楽もやるようになるので、正確な作曲数は分からないが、古関の活動状況を知るための「一つの目安」と考えたい。
急激に仕事が増えたことによる神経的緊張が、古関の「満洲ハゲ」の原因だったのではないだろうか?
古関裕而、二十八歳である。
《参考文献》
藍川由美『「栄冠は君に輝く」古関裕而作品集』解説書(カメラータ・トウキョウ、2004年3月20日)
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』(文春文庫、2020年3月20日)
『満洲寫眞帖 附 旅順戦跡』(発行所不明、発行年不明)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫、2008年12月20日)
児島襄『日中戦争 3』(文春文庫、1988年9月10日)
児島襄『日中戦争 4』(文春文庫、1988年9月10日)