シシキバさんから『ウルトラセブン』第12話 欠番問題に対していただいたコメントに、こちらで答えさせていただこうと思います。
回答を考える過程で、なかなか興味深い論点を含んだご質問の数々だと思いました。
それで、改めて一つの記事として、ちゃんと整理しておこうと思った次第です
質問①への回答
質問① ウルトラセブン スペル星人について。 結果論になりますが、大伴昌司はどうして「ひばく星人」と銘を打ったのでしょうか。 大伴昌司がそんな銘を打たなければ、封印されることはなかったと思います。
どうして当時は大伴昌司が設定を勝手に考えいたのですか?
また、それを突っ込む人もどうかしていたのでは?
先の私の記事では、映画『ひろしま』をテレビで見たのがきっかけとなって、「そういえば原爆と関係のある問題で、『ウルトラセブン』第12話欠番事件があったな」と思い出して書き始めました。
初期円谷特撮(円谷英二が監修した円谷プロ製作のテレビ特撮ドラマ)ファンである私にとって、知らんぷりして通り過ぎるわけにはいかないテーマだったからです。
私の記事では大伴昌司について全く触れていませんでした。
大伴昌司の本は何冊か持っていますが、ほとんどが『少年マガジン』関連のもので、第12話について触れたものはなかったためです。
シシキバさんのご質問を拝見したところ、安藤健二『封印作品の謎 ウルトラセブンからブラック・ジャックまで』に基づいたものが多かったので、この本を読み込んだ上で回答することにしました。
ただし、考えるための資料として活用させていただいたということで、結論は必ずしも著者の安藤さんと同じにはならなかったことをお断りしておきます。
大伴昌司がスペル星人を「被爆星人」と呼んだことが、あたかも悪いことであるという前提で語ることには疑問があります。
それは被爆者支援団体や朝日新聞ほかの新聞各社と、同じ過ちを犯すことになりかねません。
指摘された次のような問題について答えようと思います。
・なぜ大伴昌司は「ひばく星人」と命名したのか?
・大伴昌司が「ひばく星人」と命名しなければ、第12話が封印されることはなかったのか?
正しい答えを得るためには、正しく問うことが必要です。
問い方が間違っていると、たどり着いた答えも間違ってしまいます。
・「ひばくせい人」という言葉は、スペル星人を説明する言葉としてふさわしかったのか?
これが解明された後で初めて、大伴昌司が「被爆星人」と呼んだことが悪かったのかどうかを判断することが可能になると思います。
なぜ大伴昌司は「ひばく星人」と命名したのか?
小学館の学習雑誌『小学二年生』の折り込み付録「かいじゅうけっせんカード」の中の一枚で、「スペル星人」を「ひばくせい人」と呼んでいたことから、第12話欠番事件は始まりました。
スペル星人を「被爆星人」と呼んだ一番古い資料は、大伴昌司著『怪獣ウルトラ図鑑 』(昭和43年(1968)・秋田書店刊)だったと『封印作品の謎』では書かれています。
復刊ドットコムより2013年に復刻版が発売されましたが、その復刻版もすでに絶版となっていて、またまた高値を呼ぶ本の一冊となっています。
▼内容の一部
復刊ドットコムの販売ページより引用
ウルトラセブンの7大ひみつ/ウルトラ警備隊の基地・兵器図解/ウルトラセブン怪人怪兵器大百科/ウルトラマン怪獣内部図解/ウルトラマン怪獣図鑑/ウルトラQ怪獣図鑑/怪獣ジャンプくらべ/怪獣アイディア工作法/ ほか
※1968年発行の旧版をベースに、当時の内容や印刷・造本などを可能な限り再現しておりますが、一部キャラクターなどの掲載内容が異なります。あらかじめご了承下さい。
「一部キャラクターなどの掲載内容が異なります」とあるのが、スペル星人のことなのでしょう。
スペル星人のページは削除され、別な怪獣と差し替えられて復刻されたようです。
完全復刻とは行かなかったんですね。
ちなみに、原著である1968年版の削除されたスペル星人のページは、こんな感じです。
被爆星人 スペル星人
●ふだんは地球人と同じ大きさに化けている。放射能におかされ、四〇メートルに巨大化できる。重さ一万トン。
●地球人が打ち上げた核爆弾のためにケロイド状のすがたになっている。新鮮な地球の子どもの血をとるために、吸血用の”宇宙どけい”を子どもたちにくばる。
●目から強力な溶解熱線スペル光線をだす。この目に、にらまれただけで一万人が死ぬ。
●マッハ二〇で大空をとびまわる。スペル星メモ
地球防衛軍は、凶悪な宇宙人侵略に対抗するひみつ兵器スペリウム爆弾を完成し、宇宙で実験した。この放射能が、たまたま近くにあったスペル星にふりそそいだ。怒ったスペル星人が、地球になぐりこみをかけてきたのだ。
あれ? テレビで放送されたストーリーと全然違っている! どうなってるの?
この本では、スペル星人は地球防衛軍の打ち上げた核爆弾によって被爆したことになっています。
スペル星人はやはり、「被爆星人」だったのです!
「四〇メートルに巨大化できる」「重さ一万トン」「この目に、にらまれただけで一万人が死ぬ」「マッハ二〇で大空をとびまわる」等は、大伴昌司が彼の解釈で自由に設定したものであり、テレビ放送されたフィルム作品とは基本的には関係ありません。
当時はこういうことがまかり通っていたんですね!
当時、大伴昌司は「怪獣博士」の異名を授かっていて、『少年マガジン』などで、怪獣やウルトラマンや円谷プロについての情報を、盛んに発信していました。
大伴はフリーライターでしたが、怪獣ブームの火付け人と言われ、円谷プロに取材で出入りするうちに円谷英二からも可愛がられ、嘱託社員になっていた時期もありました。
でも、大伴昌司はどこからこんなテレビと異なるストーリーを持ってきたのでしょう?
テレビでは、誰によって核爆発が起こされたか、直接は語られていません。
スペル星人が百窓ビルを突き破って巨大化した後、自ら発した言葉から推し量るしかありません。
「はははははは。実験は成功した。われわれスペル星人は地球人の血で生きていけるのだ。わがスペル星は、スペリウム爆弾の実験のため、その放射能で血液は著しく侵された。我等の血に替わるもの、それは地球人の血だ。はははは。まもなく我等スペル星人は、大挙して地球に押し寄せてくるぞ」
「スペリウム爆弾の実験」をしたのが地球人なのかスペル星人なのか、はっきりと語られてはいませんが、地球人によるものだったら、もう少し怒りをぶつけてきても良さそうに思われます。
それに女性たちが付けていた腕時計は、地球には存在しない金属スペリウムで出来ていたわけですから、「スペリウム爆弾の実験」が出来るのは、どう考えてもスペル星人の方だったと思います。
地球防衛軍側(ウルトラ警備隊)も、「スペリウム爆弾の実験」については一言も触れていません。
もし地球防衛軍側が爆発させたのなら、冒頭のアマギ隊員が宇宙パトロールをしているシーンで、その話題に触れていないと不自然です。
大伴昌司は、これを地球防衛軍側による核実験だと受け取ったということでしょうか?
なぜ大伴昌司はスペル星人を「被爆星人」と呼んだのかを追究する時、この点は重要なはずですが、残念ながら『封印作品の謎』では、ほとんど問題にされていません。
『封印作品の謎』で安藤(敬称略)は、第12話事件当時の大伴について、事情を知る特撮ライターの竹内博からいろいろ聞き出しています。大伴昌司は若くして物故しているため、直接インタビューすることは不可能です。
「大伴さんにとってみたら、差別を助長する意味はまったくなくて、普通に流れの中でやったんだけど、たまたま引っかかっちゃった、と……。大伴さんにとっては災難だったと思います。悪いとか良いとかとは別の次元の問題ですよね」
安藤健二『封印作品の謎』
安藤も自身の取材結果から、大伴が「被爆星人」とネーミングしたのは、「爆弾で被爆した宇宙人」だから、素直にそう呼んだだけとする関係者が多かったと言っています。
竹内博によると、大伴にとって被爆者団体からの抗議などは心外な出来事だったらしく、封印後、大伴からスペル星人の話を聞いたことは一度もないということでした。
「当時、大伴さんは円谷プロから『被爆星人の設定や特徴は大伴が作ったんじゃないか、けしからん』と叱られたらしいです。それで一時、大伴さんがノイローゼになったと、出版社の人間から聞いたことがあります」
安藤健二『封印作品の謎』
この竹内博の証言がすべてです。
実はこの後、さらに驚くべき証言を、安藤は竹内から聞き出しています。
当時の加熱した「怪獣ブーム」の渦中で、雑誌出版社では怪獣特集を組むときに参考となる資料を、円谷プロに求めてきました。そこで円谷プロは「公式設定集」を用意して、一冊二千円で出版社に販売していたそうです。
じつはこの「設定集」を作ったのが、当時中学三年生だった竹内博でした。
竹内は、子どもの頃から怪獣図鑑を作ることに熱中しており、雑誌や新聞などの写真をスクラップして、大学ノート四〇冊ほどの怪獣図鑑を作っていました。
怪獣の設定は、大伴昌司の図鑑や『少年マガジン』の記事からまとめたそうで、とても詳しく書かれていました。
これを円谷プロに見せに行ったら、営業の者が感心して、以後、円谷プロに出入りするようになったということです。
1970年、竹内は中学三年生の夏休みに、円谷プロから詳しい設定資料の作成を依頼されました。
当時円谷プロでは、メモ程度のものしか持っていなかったそうです。
この「設定集」には、当然「スペル星人」も入っていて、大伴の設定を元に「被爆星人」という別名も入れてありました。
この設定集を小学館の編集部が買い、例の「かいじゅうけっせんカード」を作ったというのが真相でした。
「カード」の「ひばくせい人」という言葉は、設定集の「被爆星人」という言葉を、学習雑誌『小学二年生』の読者の年齢に合わせて、ひらがなを多用して書き変えただけだと思われます。
それまでは、雑誌での怪獣広報活動をほとんど大伴昌司に任せきりにしておいて、しかも、設定集の編集・執筆を中学三年生だった竹内博に丸投げして、出版社からは上がりをいただいていたくせに、「被爆星人」問題が勃発するや、大伴に批難の矛先を向ける……円谷プロって、植木等ばりの無責任体制だよな。
誰もチェックするヤツがいなかったのかよ! と、突っ込みたくなります。
しかも、その挙句の「欠番」決定とは…。
調べれば調べるほど、円谷プロには正直がっかりしてしまいます。
「ひばくせい人」の意味するもの
「ひばく」と音読みをする漢字には、「被曝」と「被爆」のふたつがあります。
「被曝」は、この場合は、放射能ないし放射線に「さらされること」を意味します。
「被爆」は、「爆撃されて被害を受けること」です。
どちらも原爆や核実験がテーマとなる場合に、よく見聞きする言葉ではあります。
例えば「被曝」は、「第五福竜丸は、米国が水爆実験をしたビキニ環礁の近くで漁をしていたため、水爆で(放射能に)被曝した。」といった使われ方をします。
第五福竜丸は水爆攻撃を受けたわけではなく、水爆実験により放出された放射能に被曝した(さらされた)わけです。
スペル星人の立場は、第五福竜丸の立場に似ていますね。
放射能以外でも、毒性のある化学物質や病原体に接触した場合に、「被曝」という言葉が使われることがあります。
また「被爆」の方は、通常爆弾で攻撃された場合に使われた例はほとんど見たことがなく、広島・長崎に投下された原爆など原水爆に関連して使用されるのが一般的だと思います。
だからこそ、スペル星人について「ひばくせい人」という言葉が使われたとき、多くの原爆関連団体が過剰な反応を示したのでしょう。
ところが、私が知っている唯一の例外で、昭和46年に朝日新聞社が出した『東京被爆記』という本があります。
これは原爆とは無関係で東京大空襲の記録なんですが、なぜか朝日新聞社はわざわざ「被爆」という言葉を使用しています。
東京大空襲を指して原爆に対して使用される「被爆」なんて言葉を使う人は誰もいません。
一見すると、「えっ!?東京も原爆攻撃されたのか?」と思うようなタイトルじゃないですか。
朝日新聞社、ここでも煽ってますねえ!
スペル星人は、スぺリウム爆弾という核兵器実験の失敗によって体にケロイドを負ったわけですから、「かいじゅうカード」の「ひばく」は、テレビのストーリーから推測すると「被曝」の方がふさわしいように思われます。
スペル星人は誰かに爆撃されたわけではありませんから。
ただ、原爆で被爆したという時、同時に放射能に被曝しているのも確実なので、「ひばく」という言葉の多義性が、解釈をややこしくしていますね。
こんな風に、あえて「被爆」と「被曝」という言葉の違いにこだわってみたのは、ネットで第12話関連の記事を読んでいると、両者の使われ方がかなり乱れているのを感じたためです。一度、注意して読んでいただけると、よく分かると思います。
また、大伴昌司の『怪獣ウルトラ図鑑 』で解説されたスペル星人の場合も、厳密に言えば直接攻撃されたわけではないので、「被曝」という言葉を使った方が正確なようにも思います。
しかし、「被曝」でケロイドができるか? ……難しいところですね。
このような「言葉」に焦点を当てた解釈とは別に、糾弾側の原爆被害者支援団体も朝日新聞も、また責任を追及された小学館や円谷プロも、最初から「ひばくせい人」は「被爆星人」として捉えていました。
大伴昌司が「ひばく星人」と命名しなければ、第12話が封印されることはなかったのか?
あいつが原因で「欠番」問題が起こった、みんなあいつが悪い! としてしまえば、とても問題はわかりやすくなります。
が、残念ながら、現実社会で起る問題というものはどれも、複雑な要因がからみあっていて、「悪者探し」で決着がつくことはほとんどありません。
関係者の証言を集めたとしても、みんながすべてを包み隠さず話しているとは限らず、むしろ、みんな少しずつ、自分に都合の悪い部分は隠して、自分の言いたいことだけを話すことが多いのではないでしょうか?
さらに『封印作品の謎』という本の構成上の問題があります。
「被爆星人」という名前を最初に考えた人が悪い、という安藤自身の仮説から始まって、シナリオを書いた佐々木守に取材することで、その仮説を補強する証言を引き出し、最初に名付けた人は誰なのか探し始めると、大伴昌司に突き当たる。
ここまで読んだだけで、悪いのは大伴昌司だという結論が、読者に印象づけられてしまいます。
わかりやすいけど、「被爆星人」という名前を最初に付けた人が悪いという「仮説」そのものは本当に正しいのか、一度も検証されることなく、著者の直感だけで最後まで押し通してしまいます。
また、実相寺昭雄に直接取材した部分は、今となってはとても貴重ですが、やはり取材の仕方が「誘導尋問」のようになっているのが残念です。
いま我々は、スペル星人の白い体に付いている赤黒いものを、「ケロイド」と呼んで誰も疑いませんが、それも一番はじめは大伴昌司がそう呼んだところから来ています。
しかし、放送された作品でも、佐々木守の書いた脚本にも、「ケロイド」という言葉はどこにも出てこないそうです。
では、実相寺監督は、スペル星人のデザインを注文するとき、どのような言葉で依頼したのでしょうか?
そこが聞きたいのですが、安藤は初めから「ケロイド」であることが自明のような聞き方をしています。
それでは、実相寺監督が肯定したとしても、ただ安藤に話を合わせただけで、実際に「ケロイド」を付けてくれと言ったかどうかは不明のままです。
さらに、安藤が取材した時代と第12話が封印された時代とは、三十年以上の時を隔てており、同じ人物の証言でも、年とともに内容が変容している可能性があります。記憶というものは、人間が日々作り上げているものだからです。
また、第12話問題がクローズアップされるようになった時代には、証言者の証言は、自己防衛に傾いたものになっている可能性があります。
なので、いろいろな証言を読むときは、その日付に注意する必要があります。
「大伴昌司が命名しなければ、第12話が封印されることはなかったのか?」という問いに対する私の答えは、
「そうとも言えるが、中学生の少女が誤解しなければ封印されることはなかっただろうし、その父親が原爆被害者支援活動をしていなければ少女が誤解することもなかったかも知れない。あるいは、少女が『ウルトラセブン』を見ていれば、誤解しなかったかも知れない。さらに、小学館からの返事が来る前に朝日新聞がデタラメを報じて煽らなければ封印されなかっただろうし、いろいろな原爆関係団体が朝日の虚偽記事に踊らされて大騒ぎしなければ、封印には至らなかったかも知れない。また、そもそも円谷プロが、”欠番”以外の解決方法をとっていれば、封印されることはなかったはずである。」
と答えるしかないです。
大伴昌司の「被爆星人」命名と円谷プロの「第12話欠番決定」までの間には、様々な要因が絡み合っており、とても直線的に両者を結びつけられるような問題ではない、と言っておきます。
質問②への回答
質問② スペル星人と大伴昌司について
スペル星人の「ひばく星人」の命名は大伴昌司だそうで・・・でその大伴昌司は1967年に出版した怪獣解剖図鑑が原因で、円谷プロの怒りを買って出入り禁止になった、との事ですけども・・・ その出入り禁止になっていた間の1970年秋にひばく星人事件が起きて、社会問題化するほど叩かれたらしいですが・・・騒動が終わった1973年正月に大伴昌司が亡くなる直前、円谷プロとの和解を希望して円谷英二の本を出版したとの事・・・ これってつまり「ひばく星人」の元凶が大伴昌司である事を本人は無論の事、円谷プロでさえ把握してはいなかったし、結果的に円谷プロに迷惑を掛けた大伴昌司も自覚していなかった、って言う事なのでしょうか? あと仮に大伴昌司が急死していなかった場合、件の事実が発覚したら、一時和解出来たとしても結局は絶縁されてしまっていたのでしょうか?
「質問② スペル星人と大伴昌司についてについて」への回答は、すでに「質問①への回答」でほとんど書いてしまいました。それ以上のことは、今となっては知りようがありません。
ここでは指摘された「円谷プロ出入り禁止」について書こうと思います。
円谷プロ出入り禁止の真相とは?
大伴昌司は一時期、円谷プロから出入り禁止にされていました。
その原因を作ったのが、『怪獣解剖図鑑』(昭和42年(1967)4月発行、朝日ソノラマ)という本だということが、『封印作品の謎』に書かれています。この本で大伴昌司は、構成・解説をしています。
これが、その本です。
こんな感じで、空想の存在である怪獣のリアルな解剖図を描いて見せました。
これが円谷プロの円谷一(円谷英二の長男。英二の死後、二代目社長に就任することになる。)の逆鱗に触れたのだと、竹内博は証言しました。
「怪獣の内部図解を見て『はらわたまで見せることはない。夢がなくなるじゃないか』と怒ったんですよ。子どもたちに夢を与える存在だから、グロテスクな部分を見せちゃいけないという考えだったんじゃないですか」
安藤健二『封印作品の謎』
でも、どうしてこの時期だったんだろう? と、私なんかは思います。
1966年から、大伴は『少年マガジン』誌上で怪獣内部図解を発表しています。
その頃から円谷一は不快感を感じていたのが、『怪獣解剖図鑑』発刊に至って、ついに怒りが爆発した、ということなのでしょうか?
この本の見返しに、「協力」として、大映、東京放送、東宝、日活、二十世紀フォックス(極東)、東映と並んで、円谷プロの名前があります。
なんだ、協力してるじゃん! どうして、この出版に反対しなかったのか!
結局、大伴昌司の円谷プロ出入り禁止というのは、会社として円谷プロが申し渡したと言うよりも、円谷一が個人的感情をぶつけただけだったのではないでしょうか?
実際、出入り禁止にされた時期も、大伴は時々こっそりと円谷プロの文芸企画室にやってきて、金城哲夫と語り合っていたことを、上原正三が書いています。
「出入り禁止」の拘束力は、円谷一に対して平伏する以上のものではなかったように見えます。
なにしろ相手は、円谷プロの御曹司ですからね!
怪獣内部図解(怪獣解剖図)とは?
怪獣解剖図というコンテンツは、まさに大伴昌司による発案であり、『怪獣解剖図鑑』発売以前に、すでに『少年マガジン』などで発表されていました。
上の絵は、『少年マガジン』1966年7月10日号に発表された「ウルトラマン決戦画報」という特集記事の中の1ページです。
大伴昌司が初めて署名入りで『少年マガジン』に登場した記念すべき特集でした。
『ヴィジュアルの魔術師・大伴昌司の世界 復刻「少年マガジンカラー大図解」』(講談社、1989年7月1日発行)には、「ウルトラマン」の怪獣バルタン星人とネロンガ。空想の、架空の怪獣を内部図解したのは世界初である。と解説されています。右側に、バルタン星人の内部図解も描かれていました。
じつは私も、当時『少年マガジン』で「怪獣解剖図」を見ましたが、ただ不気味なだけで、「こんな内臓を持っているって誰か見たのかよ!」と内心でツッコミを入れ、全然楽しめなかった想い出があります。
私にとっては、テレビで見たものが唯一の「正解」であり、雑誌の図解で説明されたものは、話半分以下に受け止めていました。
「勝手なことを書いてくれちゃってるなあ!」という感じでした。
でも、時間が経って振り返ってみると、こういう怪獣に対する斬新なアプローチ法を提示したことは、子供文化に新しい風を吹き込んだと評価してもいいような気もします。
荒俣宏によると、『鉄腕アトム』で手塚治虫がすでにアトムの内部構造を描いて見せており、大伴昌司はこれを怪獣にも当てはめてみたのだということです。
そこは大伴昌司のアイデアマンとしての才能が、遺憾なく発揮された一例と言えそうです。
上の絵は、『鉄腕アトム』「地上最大のロボットの巻」より引用しました。これより前にも、アトムが内部図解されている例があるのかどうかわかりませんが、実は『8マン』においても、同じような内部図解を見たことがあります。
上の絵は『8マン』「サタンの兄弟」に出てきたもので、こちらの方がアトムより先だったような気がします。
怪獣と違ってロボットの内部図解はけっこう私も気に入っていて、当時よくノートに落書きしていた記憶があります。
質問③への回答
質問③もしもウルトラセブンの第12話が欠番にではなかったらスペル星人はガッツ星人やエレキングやキングジョーやメトロン星人やパンドン等並ぶ代表怪獣になったと思いますか?
スペル星人は「宇宙人」「異星人」なのであって、「怪獣」ではありません。
怪獣=地球の平和を乱す存在=悪、という分かりやすい構図が、相手が宇宙人の場合には必ずしも簡単に描けない場合があります。
つまり、意図しない結果だったとしても、地球人側が先制攻撃してしまった場合は、いかに宇宙人側が地球人に反撃しようとも、侵略者は地球人の方になってしまいます。
『ウルトラセブン』には、「海底人ノンマルト」のように「原地球人」のような存在も登場します。
この作品では、ウルトラ警備隊に代表される地球人(地上人)は、侵略者の立場になっています。
それ故にこそ、この作品は印象深い作品として、われわれの心に残るのだと思います。
もしもスペル星人が、地球人に核攻撃されて逆襲したのだとすれば、「遊星より愛をこめて」という作品は、もう少し複雑な陰影を持った作品になっていたと思います。
それだったらスペル星人は、悲劇の宇宙人として記憶される存在になり得ていたかも知れません。
それは、もしかしたら、大伴昌司が『怪獣ウルトラ図鑑 』に書いたストーリーの方が、「遊星より愛をこめて」という作品にはふさわしかったことにもなります。
しかし、この作品がテレビ放映されたストーリーでは、スペル星人は自らの生存のために地球人の血液を狙って攻めて来た侵略者であり、「吸血宇宙人」という設定に工夫は感じるものの、侵略宇宙人を迎撃するという、ある意味『ウルトラセブン』ではよくあるパターンのお話のひとつになってしまっています。
早苗とスペル星人との関係も、スペル星人はただ地球人の血を狙って地球人の女に近づいているだけなのに、早苗の方は一方的に恋愛感情を抱いているという、宇宙的結婚詐欺のストーリーになってしまっています。
そこから、地球人と宇宙人との間の友情や愛情(早苗は「信じ合う」という控えめな言葉を使っていますが)に話が飛んでしまうラストシーンは、ストーリー展開が噛み合っていないように思えます。
それまでスペル星人と地球人の間に、友情や愛情の問題などなかったですよね?
早苗と佐竹(スペル星人)の関係は、愛情でもなければ友情でもありません。
宇宙人と地球人との友情・愛情が描かれていたのは、本当はM78星雲の宇宙人であるモロボシ・ダンと地球人のアンヌとの関係だけです。
この作品の実相寺監督の演出には光る部分もあるとは思いますが、ストーリー的には今ひとつ陳腐で、テーマが表現し切れていないと感じざるを得ません。
ストーリーを離れて、宇宙人や怪獣だけが記憶に残るということは、あまりないように思います。
注目され記憶に残る宇宙人や怪獣は、個性的なキャラクターを持っており、そのキャラクターを支えるものは魅力あるストーリーです。
記憶に残る宇宙人や怪獣になるためには、それにふさわしい優れたストーリーが必要なのだと思います。
実相寺昭雄『夜ごとの円盤 怪獣夢幻館』1988年2月29日発行、大和書房
「遊星より愛をこめて」について実相寺監督が書いている文章を見つけたので、紹介しておきましょう。
『ウルトラセブン 遊星より愛をこめて』
実相寺昭雄『夜ごとの円盤 怪獣夢幻館』1988年2月29日発行、大和書房
脚本、佐々木守。撮影福沢康道。
人間の血を吸う宇宙人が登場した。と言ってもドラキュラ風のドラマではなく、放射能汚染で血液の濁った惑星から、綺麗な地球人の血を求めて宇宙人が来るというお話だった。この宇宙人は手口が巧妙で、女と恋愛をしその心を溶かし、時計をプレゼントする。その時計に血液採取の仕掛けがあるというものだ。福沢氏が凝りに凝って、綺麗な画面の連続だった。途中はある種の青春ドラマのようなパステルカラーの色彩だった。超望遠で夕陽と人物を狙うラストカットなど福沢氏がねばったが、とうとう幾日過っても夕陽に恵まれず、夜間オープンに大容量のライトを使って撮影した。
円谷プロの制作部では見せしめの為に、フィルム使用量と撮影日数のグラフを作り、以後各監督の能力を一目瞭然で比較出来るようにした。早くも、テレビ映画の世界も厳しくなって来たのだ。この回の宇宙人の名前も覚えていない。全身に毛細血管の浮き出たイメエジを打合せしたが、出来上った縫いぐるみはまるで繃帯まきのミイラ、恰もミシュランのゴム人形のような感じだった。
スペル星人の造形イメージについて打合せをしたことが書かれていますが、出来上ってきたものは、実相寺監督のまるで期待を裏切るものだったようです。
「全身に毛細血管の浮き出たイメエジを打合せした」とあり、どこにも「ケロイド」という言葉はでてきません。
この文章は「私のテレビジョン年譜」というタイトルで、『闇への憧れ』(1977年12月発行、創世記)という本に掲載されたものを再録したものの一部です。
すでに第12話欠番が決定した後に発表されたものですが、俳優陣、監督、脚本家にも欠番決定の事は知らされていなかったそうなので、「事故的に」刊行されてしまったのでしょうか?
円谷プロは『ウルトラファイト』(1971年4月4日)でふたたびスペル星人を出してしまい、問題を再燃させる失敗とかも仕出かしていたので、当時はまだ円谷プロの第12話への「睨み」にも、甘さがあったのかもしれません。
欠番問題が起きた1970年代頃の実相寺昭雄が、『ウルトラセブン』の中の自作品について、どんな認識を持っていたかがうかがわれる点で、この文章は貴重だと思います。
まだ世間的に売れてない頃の文章なので、彼の仕事が世の中に認められるようになってからの発言に比べると、自分の仕事や円谷プロの制作体制などに対しても、バッサリと切り捨てるような表現が目立ちます。
質問④への回答
質問④ ウルトラセブンの12話はクラウドファンディング等で解禁出来ないのですか?
第12話が封印されているのは、「お金」が理由ではないので、クラウドファンディングでは解禁できません。
質問⑤への回答
質問⑤ どうしてウルトラセブンの12話を消すなら消すで13話を12話にして、全48話にしてほしい どうして中途半端に残すですか?
円谷プロ側がはっきりしたコメントを出していないので、真相は分からないというのが本当のところです。
私の推測を述べると、これは主として、出演俳優たちや実相寺昭雄監督への、円谷プロとして最低限の「礼」なのではないかと思っています。
『ウルトラセブン』第12話は、すでに存在してしまっています。
それが出来上るまでには、円谷プロやTBSテレビの「資本」が投下されているだけでなく、実相寺監督をはじめとするたくさんのスタッフや出演俳優たちの「心血」が注がれています。
公開できない上に、存在を抹消してしまうということは、作品を2度殺すことになります。それを回避するための切羽詰まった方策が「欠番」だったのではないでしょうか?
結論──『ウルトラセブン』第12話「欠番」問題は、日本の「社会病理」問題である!
原爆関連団体が指摘してきた問題は2つありました。
①スペル星人に「被爆星人」というニックネームを付けたこと。
②スペル星人の外見が、人間に近い姿で白い肌にケロイドが付いていること。
そのため、原爆被害者を連想させる、というものでした。
この2点を根拠に糾弾側は、「被爆者を怪獣扱いし、差別を助長している」と抗議してきたのでした。
いや、スペル星人は原爆被害宇宙人なのです!
あなたがた、「SF」って知っていますか?
子どもたちは、あなた方より先へ行ってますよ!
「差別を助長している」というなら、その証拠を見せてください。
誰か、被爆者を怪獣扱いした子どもがいましたか?
そんなことをしていたのは、大人のほうじゃなかったですか?
子どもの世界に無知な大人が、カビの生えた自分たちの常識を振りかざして、子ども文化にうるさく口を出す。
そして結局、後世に、子どもの宝物だった作品の一つをこの世から消すという汚点を残す……
私自身は、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』といった〈作品〉が好きなのであって、あまり怪獣そのものに熱中したことはありません。
貧乏だったので、怪獣図鑑とか買ってもらったこともありませんでした。
1970年代当時は、ようやく「映像」の持つ力が認められ始めた時代でした。
その頃は文学や美術や音楽が、新しく生れた映画などより文化的にはずっと上位にいて、テレビ映画などは映画よりさらに下にいて、特撮怪獣映画などは文化ですらなく、マンガなどは掃いて捨てるべき存在ぐらいにしか、一般社会では捉えられていませんでした。
映画評論は出ていましたが、マンガ評論が出るまではまだ時間がかかりました。
映画評論が出たということは、「映画」が論ずべきものを表現していると認められたことを意味しています。
映画の文化的地位向上は始められていたが、テレビ映画は──特に怪獣特撮ものは、業界内でさえ子どもだまし程度の扱いだったようです。
その低劣とされた文化群は「サブカルチャー」と名付けられることによって、自らの存在理由を主張し始めました。
この現代との認識の差が分かる年代の人でないと、『ウルトラセブン』第12話欠番問題の本質は、なかなか分からないのではないか、と私は思っています。
実相寺昭雄、大伴昌司などは、そんな当時の旧態依然とした日本文化に切り込んでいった、開拓者的存在でした。
当時の一般的知性や俗物どもに、理解できるわけがない!
一方で、三島由紀夫などは、マンガ『あしたのジョー』に熱中したり、映画『ゴジラ』に入れ込んで文壇人を驚かせたりしていました。
三島は、映像文化の時代到来を受け止めることのできた、新しい感性の持ち主だったのだと思います。
彼の文学作品そのものは、具体的イメージに乏しいですが……。
『ウルトラセブン』第12話「欠番」問題というのは、結局のところ、私には社会心理学的研究課題であるように思えます。あるいは「社会病理学」の対象と言ってもいいです。
どんなに理を尽くして説明しても、説明を受け入れることが出来ない人たちがいるというのは、ひとつの「社会病理」ではないでしょうか?
また、円谷プロの「欠番」扱いという対処法も、日本社会の持つ抑圧構造とともに、究明されるべき課題を残すものです。
今回、安藤健二『封印作品の謎』という本には、資料的にたいへんお世話になりました。この本が、これだけの資料発掘を成し遂げたことは、しっかり評価されるべきだと思います。
ただ、いくつか疑問も持ちました。
子ども番組の枠に収まらない表現を模索していた佐々木・実相寺コンビが、原水爆実験反対の思想をこめて「遊星より愛をこめて」を制作した。そこに登場するスペル星人は、反核のメッセージを持ったストーリーの一部として扱われていた。しかし、ケロイドまみれの被爆した宇宙人という設定は、一歩間違えると被爆者差別と逆に捉えられかねない諸刃の剣だった。
安藤健二『封印作品の謎』
これが取材を終えて最後にたどり着いた安藤氏の結論です。
綺麗にまとめようとする余り、あり合わせの通りの良い言葉に寄りかかりすぎていませんか?
それは「遊星より愛をこめて」の作品分析が足りないからです。
「遊星より愛をこめて」という作品に、果して「原水爆実験反対の思想」がこめられているでしょうか?
ストーリーが「反核のメッセージ」を持っているでしょうか?
脚本家や演出家がそのような思想やメッセージを持っていたとしても、私には、少なくとも〈作品〉としての「遊星より愛をこめて」からは、そのような思想もメッセージも受け取ることはできませんでした。
スペル星人という宇宙人が地球にやってきて、地球人の血を彼等のサバイバルのために利用しようとしたけれども、ウルトラ警備隊に陰謀を暴かれて、最終的にウルトラセブンとウルトラ警備隊にやっつけられ、スペル星人の野望はくじかれました。
なぜ、スペル星人が地球人の血を欲しがったかというと、その理由付けとして「核実験による被爆」という設定をしているだけのことで、少しもこの物語のテーマとは結びついていません。
反核のメッセージなんて、微塵も感じられません。
この作品のテーマとは何か?
それはラストシーンのモロボシ・ダンの独白に表れています。
「夢だったのよ」
アンヌは早苗に慰めの言葉をかけますが、これって少しも慰めになっていませんよね?
「ううん、現実だったわ。あたし忘れない、けっして……。地球人も他の星の人もおんなじように信じ合える日が来るまで」
「来るわ、きっと。いつかそんな日」
アンヌと早苗のやりとりに対するモロボシ・ダンの独白。
「そうだ、そんな日はもう遠くない。だって、M78星雲の人間である僕が、こうして君たちと一緒に闘っているじゃないか」
これって、アンヌに対するダンの愛情告白にも聞こえなくないですか?
この作品のテーマはズバリ!「宇宙人と地球人の愛」です!
スペル星人の結婚詐欺と地球侵略から救ったのは、ウルトラセブンの地球人への愛であった。ちゃん、ちゃん!
「被爆者差別」を安藤氏は糾弾側に同調して最後まで持ち出してきますが、それは糾弾側の妄想に過ぎませんでした。
なぜ糾弾側がそんな妄想に固執するのか、そこを暴くべきだと思うのですが、そのための方法として、私は社会心理学や社会病理学的究明を示唆しておきました。
この問題に踏み込んでしまうと、それでなくとも長くなってしまったこの回答は、いつ終るかわからなくなってしまいます。
今回はこの辺で止めておきたいと思います。
以上、シシキバさんのご質問に対する、作品至上主義者としての私からの回答とさせていただきます。