『紅三四郎』と『暗闇五段』──「柔道マンガ」の系譜をたどる

『イガグリくん』福井英一(昭和27年・1952年)──元祖・柔道マンガ!

「柔道マンガ」の始まりが福井英一の『イガグリくん』だとすることに、異存のある人はいないと思います。

『イガグリくん』は月刊『冒険王』に昭和27年(1952年)3月号~昭和29年(1954年)8月号まで連載されました。
昭和29年6月26日、連載途中で、作者の福井英一が急逝してしまったため、9月号からは清水春雄、有川ありかわ旭一あさかずとバトンを渡しながら連載が継続されました。

『イガグリくん』は「冒険漫画文庫」として10集まで刊行されました。そのうち第4集の途中までが、福井英一によるものでした。福井の死後も、人気の高さを保っていたことがうかがわれます。

『少年画報』(少年画報社)でも、福井英一作『赤胴鈴之助』の第一回が掲載されたばかりだったので、続きを描ける漫画家を急遽探して、新人の武内つなよしが後を継ぐことになりました。
武内つなよしの『赤胴鈴之助』は、ラジオドラマ化されたことから大ヒットし、のちに映画化されたりもして、長く人気を保ちました。


主人公・伊賀谷いがや栗助くりすけが東中学に転校してきたところから物語ストーリーは始まりますが、一話完結のお話の連続なので、後の「スポ根」劇画のような「大河ドラマ」ではありません。
素形すがた八段が登場してくるあたりから、多少、長い物語になってくるのではありますが。

東中学柔道部に入部したことから、同じ学校の生徒達との軋轢あつれきや、西中学や南中学(このネーミングのイージーさがすごい!)などのライバル達との勝負が描かれました。
イガグリくん自身は、床屋をやっているお父さんや先生の言いつけを守る「いい子」であり、「強く、正しく」生きることに努力する正義漢でした。

佐藤紅緑の熱血調を取り入れた黒澤明の『姿三四郎』のような柔道マンガ、というコンセプトで描かれたのが『イガグリくん』でした。

『イガグリくん』が雑誌『冒険王』で大ヒットを飛ばすや、外の雑誌にも同種の柔道マンガがドッと現れました。
『イナズマくん』(下山長平/作。『少年画報』)、『ダルマくん』(田中正雄/作。『少年』)、『黒帯くん』(高野よしてる/作。『おもしろブック』)、『力道くん』(福田福助/作。『野球少年』)、『タツマキくん』(武内つなよし/作。『ぼくら』)、『豆たんくん』(竹山のぼる/作の相撲漫画。『まんが王』)、『木刀くん』(高野よしてる/作の剣道漫画。『冒険王』)等々。

柔道マンガや武道マンガは、この頃は鉄板ジャンルだったみたいですね!

「イガグリくん事件」勃発、手塚治虫と対立する!

昭和29年、『イガグリくん』の人気が爆発していた頃、手塚治虫は雑誌『漫画少年』(学童社)で連載していた『漫画大学』の中で、福井英一の『イガグリくん』を引用して「マンガ家が手を抜いて早くしあげるために考えたずるい方法」として批判したため、福井英一と馬場のぼるが、少年画報社でカンヅメになっていた手塚治虫のところへタクシーで乗り込んで来るという事件が起きました。

手塚治虫『漫画大学』

手塚を見るや福井は、荒々しい口調で、自分の作品を侮辱したことを謝れ! と迫りました。馬場を含めた三人で近くの居酒屋に場所を移して、さらに福井の抗議が続きました。手塚はあれは君の絵じゃないと言い逃れましたが、福井はそういう逃げ口上は許さねえと容赦しませんでした。

『イガグリくん』の連載が始まった昭和27年(1952年)は、4月にサンフランシスコ講和条約が発効した年です。GHQが廃止され、出版界や映画界は「チャンバラ禁止令」から完全に解放されました。

それまで少年誌は、GHQの検閲を恐れて武道物やナショナリズムの表現に気を遣ってきましたが、『イガグリくん』では、少年柔道家が荒野で悪漢と対決し、颯爽と正義が勝利するという、戦前以来の日本的ヒロイズムが復活していました。
『イガグリくん』の爆発的人気の背景には、そんな時代の変化が後押ししていたと考えられます。

雑誌『少年』昭和27年4月号から、手塚治虫は『鉄腕アトム』の連載を始めました。『イガグリくん』の連載開始が、『冒険王』の3月号からですから、両者はほぼ同じ時期に発表されたわけです。
しかし、最初に大ブレークしたのは福井英一の『イガグリくん』の方でした。それにともなって『冒険王』の販売数は他社の月刊誌を大きく引き離していきます。

「しまった、やられた!」と手塚は思いましたが、ストーリーマンガ開拓者としての面目を守るべく、『イガグリくん』と勝負する気で作品を発表するものの、ついに叶いませんでした。

手塚治虫は、当時から「嫉妬しっとする大家たいか」でした。
「福井氏の筆勢をうらやんでいた」と、後年、手塚は正直に告白しています。
福井英一に謝罪を要求されると、言い訳しようがなく、自己嫌悪に陥り、手塚は福井に「すまなかった」と頭を下げました。

『イガグリくん』こそ、後の「スポ根」マンガへと続くストーリー漫画の一方の流れを形作った作品であることを想えば、手塚治虫はすでにこの時期、やがて「スポ根」や「劇画」という現象になって現われる将来の大敵との「前哨戦」を戦っていたとも言えるかも知れません。

この「イガグリくん事件」からおよそ半年後の6月26日、福井英一は過労による狭心症で急逝しました。33歳のまだこれからという若さでした。
福井は『イガグリくん』のヒットによって、各雑誌社からマンガの依頼が殺到し、連日の徹夜仕事でこなしていました。
その日は前夜までのカンヅメ仕事の後、朝まで飲み明かして自宅に一時帰宅し、ふたたびカンヅメに戻り、頭痛を訴えて医者を呼んで診てもらいましたが、医者が帰った後に急死してしまいました。
手塚治虫は、ライバルの死を悼むと同時に、「ああ、ホッとした」と思っている自分に気付いて、ふたたび自己嫌悪に陥っていました。

『暗闇五段』寺田ヒロオ(昭和38年・1963年)

寺田ヒロオの『暗闇五段』は、『少年サンデー』1963年46号~1964年31号まで連載されました。

数ある寺田ヒロオ作品の中でも、『暗闇五段』は好きな物の一つです!
かなり単純化した線で、登場人物の性格をよく描き分けていて、物語に入り込み安いです。

もーれつ道場の倉見くらみ四段は、これから五段への昇段試験を受けようとしているところでしたが、兄弟子の熊手くまで五段に命じられて、地利塚ちりづか二段、鳥居とりい二段と共に、道場破りをして歩いていました。

そんな倉見の前に、顔いっぱいに髭を生やした自称「黒ひげ無段」が現れます。黒ひげ無段は、くらま山の鬼天流を学んだ柔道家でしたが、倉見に「ひとつ、相手につかまるな。ふたつ、つかんだ瞬間に投げよ」と、鬼天流のこつを教え込みました。

もーれつ道場の道場主は広道館の五船十段でしたが、広道館の仕事が忙しく、また妻と息子を失ってから気力が衰えていたため、通ってくる道場生には、娘の通称「オニ姫」や倉見が稽古をつけていました。

オニ姫というのは、稽古が厳しいところから付いた仇名らしいのですが、本名はなんというのか一度も明かされていないのでわかりません。最初から最後まで「オニ姫」で通していて、最初は違和感がありましたが、だんだんその違和感がオニ姫さんの魅力の一部になっていくのを感じました。

地利塚二段と鳥居二段は、いつも熊手五段の使い走りをしていて、「チリトリ・コンビ」などと呼ばれています。「チリトリ」の親分が「クマデ」だというシャレのようなんですが、面白い?

五船十段は、倉見が五段をとったら、もーれつ道場を譲り、娘のオニ姫と倉見を結婚させようと考えていました。それを嫉妬した熊手五段は、倉見の昇段を阻止しようとするものの、着実に実力をつけていた倉見は昇段試験に合格し、無事五段になりました。

日本の柔道がオリンピック種目になったことを記念して「日本柔道王者戦」が開催されることになり、全国の道場から代表が一名ずつ選ばれることになりました。
熊手とチリトリ・コンビは、倉見五段に選手権への出場を思いとどまらせようとして、崖の上に呼び出しますが、倉見五段は足をすべらせて谷川に落ちてしまいます。

倉見は源さんとマツゲちゃん親子に救われて、気を失ったままでしたが、気が付いたときには目が見えず、記憶も失われてしまっていました。ただ、柔道の技だけは体が覚えていて、自分の名前は思い出せなくても「五段」であることだけを覚えていました。

記憶と視力を失った倉見は「暗闇五段」と名乗り、柔道場を見つけては稽古をさせてもらって回っていましたが、やがてめくらの道場破りとして名をはせてゆきます。

十七歳のマツゲちゃん。生れたときから長いマツゲをしていたために、付けられた名前が「マツゲ」でした。
マツゲちゃんは、暗闇五段の面倒を見ているうちに、恋心を抱くようになりますが、思い切って暗闇五段に打ち明けた言葉は「お兄さんになって欲しい」でした。ううっ、可愛い!

このあと、黒ひげさんが倉見を探して全国を歩くのですが、鬼天流の兄弟弟子である源さんによって救われたことを突き止めます。
倉見が生きていることを知った熊手五段は、チリトリコンビに、もういちど倉見を殺すように命じますが、それによってかえって倉見の記憶を回復させ、目も見えるようになってしまいます。

さて、もーれつ道場を乗っ取ろうとしている熊手五段と暗闇五段の対決はいかに? オニ姫さんと結ばれることは出来るのか? マツゲちゃんの想いはどうなる? 

『くらやみ五段』(昭和40年・1965年)NET(現テレビ朝日)放映

『くらやみ五段』は1965年9月7日 ~ 1966年3月1日、 NETテレビ(現テレビ朝日)系列で放送されました。寺田ヒロオ『暗闇五段』が原作の、テレビ映画でした。

主演は千葉真一で、千葉は子ども向けのテレビ映画『新 七色仮面』(1960年)で主演デビューしました。
マツゲちゃん役で、子役時代の小林幸子も出演しています。(冒頭のキャッチ画像参照)

テレビ化のためにストーリーは大幅に変えられていて、くらやみ五段が視力を失った理由も、崖から谷川に落ちたためでなく、火事で家の中に取り残された少年を救うために飛び込んだところ崩れてきた柱に当たったためと言うことにされています。

『くらやみ五段の唄』

作詞/岩井よしはる 作曲/金子三雄 歌/千葉真一 原少年合唱団

『ハリス無段』梶原一騎/原作・吉田竜夫/作画(昭和38年・1963年)

『ハリス無段』は、梶原一騎/原作、吉田竜夫/漫画で、『週刊少年マガジン』1963年51号~1965年15号まで連載されました。

「ハリス」というのは、ハリス製菓という会社がスポンサーについていたことから付けられた名前で、その会社の主力商品だった「ふうせんガム」をいつも噛んでいて、怒るとふくらます講道館の団八五郎三段が登場したりします。
原作者の梶原一騎によると、通常の原稿料とは別に、ハリス製菓からスポンサー料が入っていたそうです。
ちばてつや作の『ハリスの旋風かぜ』も、同様の裏事情があったようです。

主人公・風巻竜は黒い柔道着を身につけていて、これが後年の『紅三四郎』の赤い柔道着のルーツになっています。

『柔道一直線』梶原一騎/原作・永島慎二/作画(昭和42年・1967年)

柔道一直線は梶原一騎原作、永島慎二作画で、『週刊少年キング』に1967年~1971年まで連載されました。

テレビ化されたものが「特撮柔道映画」といった感じだったため、強烈な印象が残っており、原作マンガの方はあまり熱心に読んでいなかったな。

赤月旭、大豪寺虎雄、鬼丸勇介などのライバルたちが登場しますが、テレビと比べると、みんなおとなしい印象です。テレビの方が派手過ぎたんだと思います。

『紅三四郎』久里一平・吉田竜夫(昭和43年・1968年)

『紅三四郎』は、久里一平版が『週刊少年サンデー』1968年31号~47号まで連載されました。「熱血柔道まんが」と銘打たれています。
昭和44年(1969年)にテレビアニメ化されて、内容がアクション中心のアニメ向きにガラリと変えられてしまいますが、今度はテレビ版をコミカライズして、吉田竜夫版『紅三四郎』が『週刊少年ジャンプ』1969年10号~13号まで連載されました。マンガの方でも、紅三四郎はバイクに乗って現れます。
久里一平版では、三四郎はバイクに乗っておらず、徒歩で父を倒した片目の柔術家を探し歩いていました。

『紅三四郎』は「柔道まんが」なのですが、物語は「紅流柔術」と他流柔術の戦いが描かれており、「柔術まんが」と呼んだ方が正確な気もします。
作者が、あまり柔道と柔術の違いを意識していないようなので、こういう結果になったのでしょう。

『紅三四郎』は、三四郎の父が鬼界が原という荒野で、謎の柔術家と決闘して敗れるところから始まります。父の死に際に駆けつけた三四郎が見たのは、その場に転がっていた1個の義眼でした。父を殺したかたきは、片目に義眼を入れた片目の柔術家なのか?・・・三四郎は、片目の柔術家を求めて、日本中を旅することになります。

まゆみと五郎は、彼女たちが作っていた花畑を三四郎に踏み荒らされるのですが、初めて出会ったばかりの三四郎にどこまでも着いていく、その動機がいいかげんすぎてゲンナリします。
「血に飢えたオオカミのような、あの目・・きっと、私の心で、すんだ目にしてあげる!」
こうしてまゆみは、三四郎の後を追いかけていくのですが、いろいろ納得のいかないことが多すぎるように想います。
花を売って五郎と二人の生活を支えているんだよね? 三四郎に着いていったら、二人の生活が成り立たないんじゃないの?
なにかヤバい宗教でも信じているのかな、と心配になってしまいます。

物語の後半では、キックの鬼・沢村忠が登場し、三四郎は父の仇と思われる片目のタイ式ボクサーを求めて、タイ国に乗り込んでいきます。

梶原一騎/原作・中城健太郎/作画『キックの鬼』とほぼ同じ頃の連載だったので、当時、沢村忠の人気がいかにすごかったかが分かると思います。

三四郎に、沢村忠は問いかけます。
「三四郎くん、君のおとうさんはその義眼の男にだましうちにされたのか。」
「いいえ、決闘して敗れたのです。」
「じゃ、武道家どうしの正々堂々の試合だね。男どうしが決闘して敗れたのをかたき呼ばわりするのはおかしい。」
沢村忠のこの一言で、『紅三四郎』という物語の根本が否定されてしまいます。笑

アニメ『紅三四郎』前期放映Ver.オープニング(昭和44年・1969年) 美樹克彦/歌

アニメ『紅三四郎』は、1969年4月2日から9月24日まで、フジテレビ系で放送されました。
先にも触れたように、アニメ化にあたって内容が大きく変えられています。
父の仇を探して世界中を探し歩くという基本路線は変わりませんが、出て来る片目の男達は原作マンガからすっかり離れて描かれています。沢村忠は出てきません。笑

また、紅三四郎は最初からバイクに乗って登場するし、原作では「五郎」だった子どもの名前が「ケン坊」に、犬の「ベア」は「ボケ」に変わっています。「ケン坊」は声優が雷門ケン坊だったために、それに合わせて変えたと思われます。

でも、美樹克彦の主題歌が最高にカッコいいんだよね!
作詞は、『姿三四郎』や『柔』などの柔道物でヒットを飛ばしている関沢新一です。

『紅三四郎』主題歌 Full Ver.(昭和44年・1969年)美樹克彦/歌

美樹克彦の主題歌は、第1話から第13話まで、前期放送分の主題歌でした。

作詞/関沢新一 作曲/越部信義 歌/美樹克彦

『紅三四郎』エンディングテーマ「男の紅野」(昭和44年・1969年)美樹克彦

このエンディングテーマ「男の紅野」も、しびれます! このテーマソングがあるので、アニメ『紅三四郎』は、忘れがたいものとなっています!

作詞/関沢新一 作曲/越部信義 歌/美樹克彦

『紅三四郎』後期放映Ver.(昭和44年・1969年)堀江美都子

第14話から第26話まで、後期分の主題歌は堀江美都子が歌っています。作詞は丘灯至夫です。
美樹克彦と比べると、対象が低年齢化しているかな、と思います。

堀江美都子は、これから何十年後かには「アニソンの女王」と言われるようになりますが、アニメ主題歌を歌った最初がこの作品でした。

ちなみに彼女は私と同い年です。
よく『中学コース』という学習雑誌のグラビアで見た覚えがあるな。

『紅三四郎』Full Ver.(昭和44年・1969年)堀江美都子

作詞/丘灯至夫 作曲/和田香苗 歌/堀江美都子

『柔侠伝』バロン吉元 (昭和45年・1970年)

バロン吉元『柔侠伝』は、『週刊マンガアクション』1970年~1971年まで連載されました。

古流柔術起倒流の達人であった柳秋水は、日本伝講道館柔道を創始した嘉納治五郎に挑戦して敗れました。
息子の柳勘九郎は、梅干しひとつ麦飯一杯で、打倒講道館のため過酷な修業を課されました。
そして磨き上げた技「巻き込み」で父を投げ殺し、講道館柔道に挑戦するために、十九歳で九州小倉から上京します。

『柔侠伝』は、「明治から現代にいたる大河歴史劇画」(夏目房之助)です。

『柔侠伝』(『週刊マンガアクション』連載、1970年から1971年)
『昭和柔侠伝』(『週刊マンガアクション』連載、1971年~1972年)柳勘九郎とその息子の勘太郎の敗戦までの昭和史
『現代柔侠伝』(『週刊マンガアクション』連載、1972年~1976年)勘太郎とその息子勘一の戦後史
『男柔侠伝』(『週刊マンガアクション』連載、1976年)
『日本柔侠伝』(『週刊マンガアクション』連載、1978年)
『新・柔侠伝』(『週刊リイドコミック』連載、2000年)

『昭和柔侠伝の唄』あがた森魚・緑 魔子/歌

『姿三四郎』本宮ひろ志(昭和51年・1976年 )

本宮ひろ志『姿三四郎』は、『週刊少年マガジン』1976年 ~1977年まで連載されました。
直近でテレビで富田常雄原作のドラマをやったのは、昭和47年(1972年)の『黒帯風雲録 柔』で、次に製作された昭和53年(1978年)の勝野洋・竹下景子コンビによる『姿三四郎』が始まるまでの間に、本宮ひろ志版『姿三四郎』は発表されました。

最初のうちは、富田常雄『姿三四郎』の「序編」を忠実に描いているようなので、このまま最後までこの調子でいくのかと思っていると、姿三四郎が登場するや、俄然「本宮版・姿三四郎」に変貌を遂げました。

矢野正五郎は原作小説よりもかなり闘争的だし、講道館四天王もみんな喧嘩っ早くて、『男一匹ガキ大将』の作者が『姿三四郎』を描くとこうなるという、納得の作品です。笑

『YAWARA!』浦沢直樹(昭和61年・1986年)

浦沢直樹の『YAWARA!』は、『ビッグコミックスピリッツ』で1986年30号~1993年38号まで連載されました。

「柔道マンガ」も「現代」にモデルを求めるようになりました。主人公が女子高校生になったり、描き方もかなりファッショナブルです!

「スポ根」が席巻した1970年代が終って1980年代に入ると、マンガ界では「アンチ・スポ根」マンガが次々に登場してきます。当然の流れとも言えるでしょうね。
文化というのは、すべからく前代のものを否定的媒介として進んでいくものだと思います。
『あしたのジョー』のアンチとして『がんばれ!元気』、『巨人の星』のアンチとして『タッチ』『キャプテン』など、そして『六三四の剣』『1・2の三四郎』などが登場してきました。

「魔球」や「必殺技」は影を潜め、もっと日常的世界が舞台になっています。

『風の柔士』真船一雄 (平成14年・2002年)

『風の柔士』は、真船一雄/作画、富田常雄『柔』が原作のマンガ。2002年、『週刊少年マガジン』に連載されました。
2000年代に、富田常雄原作のマンガとは珍しい!と思って、ちょっと注目しましたが、その後はそれほど評判にもならず、終わってしまったようです。
吉川英治『宮本武蔵』を原作にした『バガボンド』(『週刊モーニング』1998年~2015年連載)とかが大ヒットしたので、その路線狙いかな? と思ったのですがね。

『柔道ニッポンの礎 嘉納治五郎 風雲録』橋本一郎/作・ほんま りゅう/作画(平成30年・2018年、ゴマブックス社)

最初に言っておくと、この作品は今なら全3巻が無料で読めます!

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「タチヨミ」-『嘉納治五郎 風雲録』

物語は、富田常雄の作品で言うと、『明治の風雪』から『姿三四郎』の右京ヶ原の決闘までなのですが、この作品では登場人物はすべて実名で登場します。そして、富田常雄作品を原作にしてはいなくて、作者橋本一郎の独自のフィクションとなっています。

嘉納治五郎や西郷四郎、富田常次郎、横山作次郎、山下義韶の講道館四天王の人間性についても、富田常雄とは違った解釈のもとに描かれています。

とはいいながら、乙美に相当する女性を登場させて西郷四郎との恋のさや当てを演じさせたり、実在した流派の柔道家を檜垣源之助の役柄に当てはめて、実際にはなかった「右京ヶ原の決闘」をさせたりと、『姿三四郎』のストーリーを物語の骨格に置いているのがわかります。

富田常雄が創作した『姿三四郎』の物語が、いかに「柔道物」の典型となり得ているかが、よくわかる作品であると思います。そこから外れては、面白い「柔道物」は成立しないのですね。