『鐘の鳴る丘』とフラナガン神父

今日は前回の続きになりますが、『浮浪児の栄光』の「資料編」その3ということでいきます。
『鐘の鳴る丘』㐧一篇「隆太の巻」(昭和23年11月29日封切)は『浮浪児の栄光』──佐野美津男の不良少年入門で紹介したので、きょうは気になるその続きを紹介します。
㐧二篇「修吉の巻」㐧三篇「クロの巻」です。映画版『鐘の鳴る丘』はこれら全三篇が撮影されました。㐧四篇「カラスの巻」というのが㐧三篇の巻末で次回予告されていますが、ビデオでは「当時の製作状況が困難を極めた為、製作されませんでした」と断り書きが付されています。

戦後の映画界は、フィルムが配給制だったため、制作できる映画に限りが有ったこととか、東宝争議の影響が松竹にも及んでいたということなのでしょうか?

『鐘の鳴る丘』㐧二篇「修吉の巻」昭和24年(1949)

『鐘の鳴る丘』㐧三篇「クロの巻」昭和24年(1949)

「謹んで此の一篇を フラナガン神父の霊に捧ぐ」というオマージュが、映画の冒頭に掲げられています。前回『鐘の鳴る丘』──まぼろしの「蓼科訓練道場」で紹介した動画で触れられているように、『鐘の鳴る丘』は、浮浪児の存在が占領政策上ゆゆしき問題だと感じたGHQが、青少年問題の専門家であるエドワード・J・フラナガン神父を日本に招聘し、彼の来日をきっかけとして、CIE(民間情報教育局)がNHKに製作を命じて生まれたものだったからです。

Wikiによると、フラナガン神父は、ネブラスカ州オニールの聖パトリック・カトリック教会の助祭でしたが、社会事業家としても活動しており、大正元年(1912)、非行少年や問題のある子供の寄宿と教育のための児童自立支援施設「少年の町」Boys Townを、ネブラスカ州のオマハにつくりました。

「少年の町」は、スペンサー・トレイシー主演で同名のハリウッド映画が製作されました。わたしが高校生時代に町の映画館で観た数少ない映画の中の一本なのですが、残念ながらその内容はほとんど記憶にありません。

さて、フラナガン神父は来日して、どういう活動をしていったのでしょうか?

岩永公成「フラナガンの来日と占領期児童福祉対策」(『社会福祉学評論3号』2003年)という論文と、それに対する【論評】とを見つけましたので、それにしたがって見ていこうと思います。

フラナガン神父は、GHQ/PHW(公衆衛生福祉局)によって来日を要請され、昭和22年(1947)4月に来日しています。「世界的に著名で、児童プログラムの指導者と認められる人物が、日本の浮浪児問題のために来日することは不可欠である」というのが、PHWの要請理由でした。

フラナガン神父は来日すると、北は仙台から南は長崎まで、日本各地で講演会や懇談会のために回りました。PHWが要請した「日本政府への助言者」「児童福祉施設関係者の顧問」「日本国民に対する浮浪児問題への関心の喚起」という任務を、かれは忠実に果たしていきました。

日本各地の孤児院・少年院等の施設を視察し、自治体の福祉担当者や施設長との会議に出席し、市民集会などにおける講演を精力的におこないました。
そして、6月11日におこなわれた関係各省懇談会において、日本政府代表へ児童福祉問題についての様々な提案をおこなっていきました。

フラナガン神父はPHW局長サムスに「児童福祉報告(日本)」を提出して日本を去っていますが、そこでは「里親養育制度の確立」とか、児童保護施設の目的を「懲罰ではなく社会復帰とすべき」と提言したり、職業訓練が「児童の搾取」をもたらさないように警告したり、民主主義の精神を学ぶために「自治プログラム」の導入することなど、重要な提案がおこなわれていました。

このフラナガン神父の来日をきっかけに、GHQ/CIE(民間情報教育局)がNHKに製作を命じたのが、「浮浪児救済」をテーマにしたドラマ『鐘の鳴る丘』なのでした。

池田小百合さんの池田小百合「なっとく童謡・唱歌」に、 【菊田一夫が書き残した事】としてGHQに関する重要な情報が書かれているので、孫引きになりますが紹介しておきます。

「菊田一夫著「鐘の鳴る丘」前後ー七年間の放送を顧みてー」
 占領軍の統治下にあった七年間、NHKの放送番組を監視し指導していた占領軍民間情報教育局(CIE)ラジオ課のオフィスは、千代田区内幸町放送会館内の四階と六階に分かれて設けられてありました。・・・NHKの放送番組は終戦直後から今までずっと、そのほとんどすべては、日本人の自由にならない・・・私たちの間で使い慣した言葉で云えば・・・アメちゃん番組だったのです。

GHQのコントロールが、NHKのラジオ番組のすみずみにまで及んでいたことがわかります。
敵意を秘めた「アメちゃん番組」という呼び方に、占領下においてラジオ番組製作に携わっていた人たちの抑圧された思いが伝わって来ます。

CIEラジオ課で企画し、それをNHK企画という名目で放送した番組の主だったものを初期の頃から順にいうと、「真相はこうだ(後に真相箱)」「農家におくる夕」「炭鉱におくる夕」「ラジオ実験室(後にラジオ小劇場)」「ラジオ討論会」「話の泉」「鐘の鳴る丘」「向う三軒両隣り」「廿の扉」「街頭録音」「陽気な喫茶店」「光を掲げた人々」「新しい道」「時の動き」「社会の窓」「虹は消えず」その他学校放送番組のすべて、インフォアメーション番組のすべて、それに半和製、または純和製とも云うべき「さくらんぼ大将」「愉快な仲間」「のど自慢」「とんち教室」「西遊記」などの番組にしても、結局はアメリカ側の許可が無くては、放送を実施することができなかったのだ、と、いうのが真相です。

GHQ/CIEラジオ課が番組を「企画」する任務を持っていたことがわかります。「鐘の鳴る丘」もまた、そういうGHQ/CIEラジオ課による番組、「アメちゃん番組」だったことを明確に菊田一夫が証言している点は重要だと思います。CIEの「日本人再教育」のプログラムにそって作られた作品だったことを意識して作品を読み込む必要があると思います。

 NHKのあらゆる番組が十五分間単位の枠に縛られるようになったのは、昭和二十二年の七月からでした。それが番組面にはじめて顔を出したのが十五分間物のテスト・ケースとしての「鐘の鳴る丘」その他学校放送の各番組でした。
  「鐘の鳴る丘」が企画されたのは、CIE内部に、その以前から、浮浪児救済問題を採り上げる企画があったところへ、フラナガン神父が来朝したので、これを機会に・・・と、いうことになったのだそうです。
  私をCIEのスクリプト係のデスクへ招んだのは、H・ハギンス氏でした。
  彼の企画では、或る題名の浮浪児救済物を毎週土、日曜の二日間、十五分間宛半年間の連続放送劇に・・・というのでしたが、私は拒絶しました。半年間の連続放送劇を書く事は苦痛ではないが、十五分間で一回分のドラマを書き、劇として山を盛りこむことは、日本語のテンポから云っても無理であるという理由です。・・・結局、引きうけました。私は日本語会話の十五分間連続ドラマというものが成立するか、どうかのモルモットとなることを承知した訳でした。そして私はストーリーを考え、題名を「鐘の鳴る丘」と「風の口笛」二つ考えてそれを提出し、「鐘の鳴る丘」のほうがパスしたので、いよいよ仕事にとりかかりました。

『鐘の鳴る丘』とフラナガン神父との関係についてはすでに述べました。
番組のタイトルまで、CIEが選んでいたというのは驚きです。

放送は開始されましたが、毎回ともにこれをいざ執筆する段になると、連続物としての山を盛り上げるためには四百字の原稿紙で十八、九枚から多い時には二十四、五枚になってしまう。それをそのまま放送すれば二十分乃至は二十七、八分になるわけです。私はこれをスタジオまでプリントして運び、子供達に演技をやらせて、声をきき、音楽やサウンド・エフェクトをきいて、そこから細かく無駄な音を間引いていって、毎回最後には規程通りの十四分三十秒にはめこんで聴取者の耳に送り出していたわけです。
  放送時間が規定の分秒から一秒喰み出し、或いは一秒減りこんでも、その番組の担当ディレクターは馘首されなければならない、と、強硬な指令がCIEからきていたのは、その頃のことでした。・・・

ここではCIEの「強硬な指令」が暴露されています。実際に「馘首」された人とかいるんでしょうか? 占領下のNHKについてはもっと研究する必要がありますね。

  さて半年間の約束通り、「鐘の鳴る丘」は、それは骨身を削る努力であったとは云え、どうにか持ちこたえて終結に近づいてゆきました。ところが、その終結間際になって、私はまたもやハギンス氏の許に招ばれ、「鐘の鳴る丘」を毎週五日間五回にし、あと数年間或は無限に継続することを懇談的に申し渡されました。私はもちろん拒否しました。・・・結局私は引受けました。君はポツダム宣言を知っているかと言われたからです。
 しかし、それにしても「鐘の鳴る丘」に、もしも浮浪児救済問題というテーマがなかったならば、そしてまた、その娯楽性を通じて、日本の子供たちに民主主義教育を施すという、インフォアメーションとしての使命がなかったならば、私はこの番組の継続を引き受けはしなかったと思います。ところが、その使命に勇み立って、これを引き受けたばかりに、二十三年四月頃からの、全国の子供達の親達からいっせいに寄せられた「言葉」の問題に対する批難攻撃の矢を浴びなくてはなりませんでした。が、じつは、これは単なる言葉の問題ではなく、その底に横たわっているものは、子供の民主主義教育と旧来からの家族制度というもののギャップに対しての親達の反撥なのです。

それまで土・日の週2回の放送だった『鐘の鳴る丘』が、毎週五日間五回の放送へ!
最初は「懇談的」に申し渡されたが、いったん拒否すると、「君はポツダム宣言を知っているか」と、こんどは強圧的に迫るGHQの素顔が明らかにされています。「ポツダム宣言」は、日本人が占領政策に協力することを求めており、日本国はそれを受け入れているので、ことわれば「ポツダム宣言」違反として軍事裁判にかけられることになります。

さらに、菊田一夫の『鐘の鳴る丘』にこめられた「使命感」についても触れられています。
「その娯楽性を通じて、日本の子供たちに民主主義教育を施すという、インフォアメーションとしての使命」というのは、言い換えれば「GHQ/CIEの日本人に対する再教育目的」です。やはり、『鐘の鳴る丘』もまた、日本人大衆の心理操作が目的の番組だった証明になります。
ただ菊田一夫自身は、「浮浪児救済問題」というテーマにも、「日本の子供たちに民主主義教育を施す」というCIEの意図にも、こころから共感して熱意を持って番組製作をしていたことがうかがわれます。
GHQ/CIEが「民主主義」と一体で、「反軍国主義」「反国家主義」を刷り込み、さらに「日本の歴史と文化の否定」を洗脳していくプログラムの一環であることには、菊田だけではなくたいていの日本人は気づいていなかったでしょう。

「全国の子供達の親達」から「言葉の問題」で非難攻撃をうけたことが述べられていますが、具体的にどういう「批判の言葉」が寄せられたのか、ここには書いてありませんが、Wikiによると、

一方で、作品には「ぶっ殺してやる」 「ばかやろう」といったセリフが多くあったために、一部の保護者や教育者からは「言葉づかいがひどすぎる」 「教育上許せない番組だ」と評され、教育論争も起こった。しかし、幼少時に肉親に捨てられた過去を持つ菊田は、自分もそのような過去を持つからこそ「人生のすみっこで、だれからも話しかけてもらえないような子どもたち」に語りかけられるのだと、批判にも動じることはなかった。(出典:朝日新聞学芸部編 『戦後芸能史物語』 朝日新聞社〈朝日選書〉、1987年)

表現方法としてのリアリズム、ドキュメンタリズムの問題がそこにはあったようです。「一部の保護者や教育者」は自分たちの子供を意識しての批判だったのに対し、菊田がドラマをとおして語りかけていたのは、「人生のすみっこで、だれからも話しかけてもらえないような子どもたち」に対してだったという、この認識のギャップがこの論争の原因になっていると思われます。
ただ、実際には、前回の『鐘の鳴る丘』──まぼろしの「蓼科訓練道場」でもとりあげたように、浮浪児たちはテーマソングぐらいは聞いたことがあっても、ドラマまで聞ける環境にはなかったわけです。聞いているのは家のある子や親のある子たちであって、家なき子たちのほとんどには届かなかったと見ていいと思います。
この「二重のギャップ」が、菊田の孤立感を深めていくことになります。

  これに対して、CIEが私を支持し、「無智蒙昩な親達を気にするな」と、はげましてくれたのは、二十三年の秋頃までのこと・・・そのあたりから占領軍そのものの方針がかわってきたのが、しばしばハギンス氏の許へ打ち合せにゆく私にも、ひしひしと感じられるようになってきました。
  「もう少し聴取者の意見を尊重するようにしなくてはいけない」 「聴取者というものは、その意見を取り入れたような顔をしていれば機嫌のいいものなんだよ」
  これは占領軍のラジオ指導者達が日本人多数の意見を尊重した言葉のようで、まことに嬉しく、そしてまた子供達に対する啓蒙に就いて、熱意を失ってきたようで、まことに悲しく・・・遂に民主主義教育の孤児となってしまった「鐘の鳴る丘」の作者は、途方にくれるより仕方がなかったのでした。
  熱意を失った作者の書く「鐘の鳴る丘」は、そのあたりから、唯の娯楽番組として方針を変え、しかも身に就いた浮浪児臭をどうすることもできないままに、それから一年おいた二十五年の末まで続き、そこで野垂死をして「さくらんぼ大将」となったのでした。
    その原因は、それまでの担当者H・ハギンス氏が帰米し新任の企画係メレデス氏が着任されたから・・・であるようです。メレデス氏は温厚な紳士でしたがその人が「鐘の鳴る丘」終結を承認するに際して、私に云われた言葉は
  「ハギンス君がアメリカへ帰り僕が着任したために、この番組が替ったように思われては、僕は辛い。その内に新着想を以って鐘の鳴る丘をふたたび継続するであろうと、作者から聴取者に約束してくれたまえ」
  私は聴取者にその約束はしませんでした。ふたたび放送番組としての孤児になるのは困るからです。(「文藝春秋・臨時増刊号」1952年6月掲載から抜粋。別冊人生読本『戦後体験』河出書房新社に再録)

保護者や教育者が菊田を批判した一方で、CIEは菊田を支持したというのは、おもしろい構図です。「保護者や教育者」にみられる日本の伝統的価値観の破壊をこそ、GHQ/CIEは目論んでいたわけです。

昭和23年の秋ごろから、「占領軍そのものの方針がかわってきた」ことを菊田は感じ始めています。まさに、「日本国の弱体化」から、「反ソ・反共」の尖兵化にGHQの占領方針が切り替えられた時期にあたります。それと、CIEの担当者が替わったことになにか関係があるのかどうかはわかりません。
GHQの占領方針の転換とともに、菊田の番組に対する熱意も失われ、ドラマの本質も変貌し「野垂死」していったというのは、『鐘の鳴る丘』裏面史ということになるでしょう。

『鐘の鳴る丘』㐧二篇「修吉の巻」(1949年)の最後の場面で、「クリスマス・パーティー」と「十字架」が出てきたのに、わたしはびっくりしました。当時の食うや食わずの日本人に、クリスマス・パーティーをやる余裕もなければ、それ以前にクリスマス・パーティーなんて日本の文化にはないものでした。
ここまであからさまにやったか! と、わたしは驚愕したのでした。
マッカーサーもフラナガン神父も、日本人にキリスト教を布教することを民主化の要件として本気で考えていましたから、こういう場面設定をCIEが要求したのかもしれません。
そして、日本が経済的に復興していくとともに、いつの間にか日本人は、キリスト教徒でもないのに家庭でクリスマスを祝うようになり、教会で結婚式をあげるように変貌してきました。
GHQの洗脳とこれらの事例が、どのように関連しているのか、或いは関連していないのか、はっきりしたことはわかりませんが、疑うに足る現象であるとは言えると思います。

《参考文献》
岩永公成「フラナガンの来日と占領期児童福祉対策」(『社会福祉学評論3号』2003年)
菅沼隆「【論評】岩永公成:フラナガンの来日と占領期児童福祉政策~政策立案過程と地方自治体の対応を中心に~」( 『社会福祉学評論3号』2003年)
池田小百合「なっとく童謡・唱歌」とんがり帽子

少年の町/感激の町(2枚組) [DVD]

孤児院を設立し、少年たちの更正に人生を捧げたフラナガン神父を描く伝記映画「少年の町」と、その続編にあたる「感激の町」の2作品を収録。