【第5回】大東亜戦争、開戦! 決戦時下の青春『若鷲の歌』誕生!

  1. 大戦争の予感、高まる! (昭和16年・1941年)
    1. 昭和16年(1941年)の発表曲
      1. 書籍『日米戦ふ可きか』──高まる「日米戦争」の予感!
      2. 「戦陣訓」発表される(昭和16年1月8日)
      3. 『七生報国』(昭和16年2月20日)
      4. 唱歌『櫻井の訣別』明治32年(1899年)
    2. 『南進男児の歌』(昭和16年2月20日)国民歌謡
      1. 『南進乙女の歌』(昭和16年2月20日)
    3. 『国民恤兵歌』(昭和16年3月1日)
    4. 『「戦陣訓」の歌』(昭和16年3月5日)
    5. 『赤子の歌』(昭和16年3月20日)
    6. 『海の進軍』(昭和16年5月25日)
      1. 古賀政男、軍歌『そうだその意気』を作曲する(昭和16年5月25日)
      2. 『誰か故郷を想わざる』古賀政男作曲(昭和14年11月28日)
    7. 『怒涛万里』(昭和16年7月20日)
  2. アメリカ・イギリス軍と、戦闘状態に入れり!──大東亜戦争、開戦!(昭和16年・1941年)
    1. 昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争開戦す
      1. 大東亜戦争開戦「臨時速報」
      2. 『宣戦布告』(昭和16年12月8日放送)【ニュース歌謡】
      3. 『皇軍の戦果輝く』(昭和16年12月9日放送)【ニュース歌謡】
    2. 『英国東洋艦隊壊滅』(昭和16年12月10日放送)【ニュース歌謡】
      1. 『断じて勝つぞ』(昭和17年2月20日)
    3. 『東洋の舞姫』(昭和16年12月20日)
  3. 戦捷に沸く! 目指すは『アメリカ爆撃』だ!【昭和17年・1942年】
    1. 『感激の合唱』(昭和17年2月20日)
    2. 『大東亜戦争陸軍の歌』(昭和17年3月20日)
      1. 『空の神兵』高木東六作曲(昭和17年4月)
    3. 日本軍、シンガポール入城!(昭和17年2月15日)
      1. 『シンガポール晴れの入城』(昭和17年4月20日)
      2. 『戦友の遺骨を抱いて』B 東海林太郎/歌 テイチク盤(昭和17年5月15日)
      3. 『戦友の遺骨を抱いて』A 石井亀次郎/歌 ポリドール盤(昭和18年3月10日)
    4. 『アメリカ爆撃』(昭和17年5月20日)
    5. 『防空監視の歌』(昭和17年5月20日)
      1. ドーリットル爆撃隊、日本本土を初空襲!(昭和17年4月18日)
      2. 『防空監視の歌』(昭和17年5月20日)
      3. 「ミッドウェー海戦」に大敗!(昭和17年6月5日)
    6. 『日本の母』(昭和17年6月7日)
    7. 『起てよ印度』(昭和17年8月20日)
    8. 『空の軍神』(昭和17年9月20日)
    9. 古関裕而の「南方慰問団旅行記」(昭和17年10月)
      1. 徳川夢声作『くじら、くじら』を歌う
      2. 『大南方軍の歌』(昭和18年4月20日)
      3. 『みなみのつはもの』(昭和18年4月20日)
      4. ジャワは天国、ビルマは地獄
  4. 大東亜戦争下、最大のヒット曲『若鷲の歌』誕生!(昭和18年・1943年)
    1. 『戦う東條首相』(昭和18年4月20日)
    2. 予科練生たちが自ら選んだ『若鷲の歌』!
      1. 『若鷲の歌』(昭和18年9月10日)
      2. 『決戦の大空へ』(昭和18年9月10日)
    3. 『海を征く歌』(昭和18年9月20日)
    4. 『ラバウル海軍航空隊』ビクター盤(昭和19年1月)
    5. 学徒出陣(昭和18年10月21日)
    6. 『四川進撃の歌』(昭和18年11月20日)
    7. 『あの旗を撃て』(昭和18年12月8日)
      1. 東宝映画『あの旗を撃て』(昭和19年2月10日封切)

大戦争の予感、高まる! (昭和16年・1941年)

昭和16年(1941年)の発表曲

昭和16年は、12月に大東亜戦争(太平洋戦争)が始まった年である。
この年の古関裕而の発表曲数は、全34曲。「ニュース歌謡」として作曲した曲でレコード化されなかったものもあるので、実際はもっと多い。
ピークだった昭和12年(1937年)の89曲から、昭和13年は55曲、昭和14年は42曲、昭和15年は27曲と、毎年確実にレコードによる発表曲数が減少してきたが、昭和16年になって少しだけ発表曲数が増えている。
大東亜戦争開戦景気と思われるが、それ以後はまた敗戦にむかって年ごとに発表曲数が減ってゆく。

戦争経済で物資不足の折りからレコード盤の原料も不足し、年間に製造できるレコードは枚数が限られていた。そのため一般歌曲は出しにくく、どうしても軍歌・軍国歌謡が優先されがちだった。

曲名を見ると戦時用語のオンパレードであり、経済も生活も戦時体制でがんじがらめにされ、出口の見えない閉塞感が反映しているようである。
『みんな揃って翼賛だ』『国民総力の歌』『七生しちしょう報国ほうこく』『南進男児の歌』『国民恤兵じゅっぺい歌』『「戦陣訓」の歌』『赤子せきしの歌』等々。

書籍『日米戦ふ可きか』──高まる「日米戦争」の予感!

だいぶ前に、地元の古本屋で入手した古書がある。
書名は『日米戦ふ可きか』(世界知識増刊)、昭和7年4月20日発行となっている。
昭和7年といえば、「満州事変」が起きて満州国が建国された翌年だ。その頃すでに、日米戦争の可能性を検証する一般向け書籍(雑誌ムック)が出回っていたのだ。

『日米戦ふ可きか』昭和7年4月20日発行

日本国および日本人が、日米開戦に至る過程で、どんな考え方をしていたかを知るには絶好の一冊なので、目次をざっと紹介してみよう。

『日米戦ふ可きか』

──目 次──

米国の極東政策・・・・・・・・・・・・関根 群平(海軍大佐)
米国の太平洋侵略史・・・・・・・・・・今井登志喜(東京帝国大学教授)
米国進むか日本退くか・・・・・・・・・稲原 勝治(バチェラー・オブ・アーツ、
                                 マスター・オブ・アーツ

米国の対支政策と日米戦争の可能性・・・町田 梓楼(東京朝日新聞外報部長)
米国の支那進出運動とその将来・・・・・高木 睦郎(中日実業会社副総裁)
前進根拠地としての米国太平洋領土・・・関根 群平(海軍大佐)
 ハワイ群島
 フィリッピン群島
 アラスカとアリューシャン群島
 グアム島とサモア島
米国海軍の現勢・・・・・・・・・・・柴田善治郎(海軍中佐)
米国陸軍の現勢・・・・・・・・・・・井上 一次(陸軍中将)
米国航空の発達の現状・・・・・・・・加藤 尚雄(海軍中佐)
米国の富力とその世界的勢力・・・・・森 田  久(時事新報経済部長)
戦略上より見たる米国の対日政策・・・望洋楼主人
若し戦わば日米何れが勝つか・・・・・匝瑳 胤次(海軍少将)
米国における排日の動き・・・・・・・大山卯次郎(元桑港総領事・法学博士)
在米日本人・・・・・・・・・・・・・赤松 祐之(前ホノルル総領事)
米国における最近の対日輿論・・・・・金子 二郎
日米関係の前途・・・・・・・・・・・大山卯次郎(元桑港総領事・法学博士)
米国軍艦・空軍グラフ

日本がGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に征服されて以降、日本人から洗脳排除されてしまった「考え方」が展開されているのがわかる。

アメリカ合衆国による、アジア・太平洋地域の《侵略史》が語られているのが、目を引く。

アメリカ帝国主義が侵略の結果得た、ハワイ(米国が煽動して王政を廃し併合)・フィリッピン(米西戦争の結果、領有)・アラスカ(ロシアより購入)・アリューシャン・グアム・サモア(英国と分割)を、さらなるアジア・太平洋地域侵略の《前進根拠地》と見ているのも興味深い。
やがて、これらの島々をめぐって、日米が戦うことになる「必然性」が明示されている。

日米開戦の可能性については、いずれの論者も、日本の移民問題や支那での政治的・経済的軋轢あつれきはあるものの、アメリカにただちに国運を賭けてまで争う理由はないとして、現今の段階では否定的である。
ただし、米国が世界通貨・ドルによって世界を支配している以上、支那と日本の戦争というのも米国がドルによる後押しをしているために支那が戦闘的になっているのであって、米国の経済帝国主義の構図が変わらない限り、日米は衝突せざるを得ないという「運命論」に傾いている論者もいる。
ジャ・ジャ・ジャ・ジャーーン! というわけだ。
実際、やがて日本人はその運命の序曲を聞くことになるであろう。

当時の日本の知識階級、読書階級の人々は、アメリカについてこの程度の知識はちゃんと持っていたのだ。
ただわからなかったのは、軍部や議会が「いま、なにをやっているか」だった。
特に、対米開戦について幾度となく繰り返された会議は、当然のことながらすべて秘密会議だった。

支那事変が解決を見ないまま、暗鬱な日常が続く中で、米国が対日経済封鎖を拡大し英蘭仏がそれに追随するのを見て、ある程度の数の日本国民は日米衝突が不可避であることを感じとっていた。
しかし、それが「今、すぐに」起こるなどとは、誰も考えてはいなかった。

「戦陣訓」発表される(昭和16年1月8日)

東条英機陸軍大臣

昭和16年(1941年)当時の日本の動きを見てみると、1月8日、東条英機とうじょうひでき陸軍大臣は戦陣訓せんじんくんを発表した。

昭和12年(1937年)に支那事変が勃発して以来、日清日露の戦争時代には見られなかった皇軍の名をはずかしめるような戦場での「非違犯行」が増えていた。
「非違犯行」とは、上官暴行、戦場離脱、強姦、放火、略奪などの違法行為を言う。ことに南京戦では、国際的な非難を浴びるに至っていた。

陸軍省軍事課長・岩畔いわくろ豪雄ひでお大佐は、中国戦線を視察して軍紀の乱れを痛感したことから、戦場の実情に見合った訓戒の必要を東条陸相に建言した。
陸軍上層部もこれを深刻に受け止め、教育総監部が起案担当となって「戦陣訓」の試案が作られた。
この十か条あまりの原案を、幼年学校、士官学校、陸軍大学教官、前線の部隊長・下士官等に届け、意見を求めたところ、原案の数十倍にのぼる付箋がついて戻って来た。これら意見を土台にして「戦陣訓」は出来上がった。
最終的に下書きを島崎藤村に見てもらい、文章表現のブラッシュアップを依頼することで完成を見たのだった。

既に明治時代に天皇から軍人に与えられた軍人ぐんじん勅諭ちょくゆがあり、これを守っていれば起こるはずのない犯行であったが、陸軍はさらなる具体的な注意事項を喚起することで、兵隊の無法行為をおさえこもうとしたのである。

軍人勅諭(明治15年1月4日)

ひとつ 軍人は忠節をつくすを本分とすべし
ひとつ 軍人は禮儀れいぎただしくすべし
ひとつ 軍人は武勇をとおとぶべし
ひとつ 軍人は信義を重んずべし
ひとつ 軍人は質素をむねとすべし

「戦陣訓」は勅諭ではないし、法律・規則ですらない。
陸相通達であるために、ことに海軍ではほとんど無視していたようだ。
そもそも支那派遣軍からの要望で作られたこともあって、中国戦線に従軍した兵士たちは「戦陣訓」を暗唱させられたりして、余計な苦労を増やされた。

陸軍兵長として上海郊外で終戦を迎えた伊藤桂一は、「戦陣訓」を《愚書》と呼び、昭和18年に中支の戦場でこの小冊子を受け取ったが、一読したあと、腹が立って粉々に破り捨てて足で踏みつけにしたという。

「戦陣訓」は、きわめて内容空疎くうそ、概念的で、しかも悪文である。自分は高みの見物をしていて、戦っている者をより以上戦わせてやろうとする意識だけが根幹にあり、それまでの十年、あるいはそれ以上、辛酸と出血を重ねてきた兵隊への正しい評価も同情も片末もない。同情までは不要として、理解がない。それに同項目における大袈裟おおげさをきわめた表現は、少し心ある者だったら汗顔するほどである。筆者が戦場で「戦陣訓」をなげうったのは、実に激しい羞恥しゅうちえなかったからである。このようなバカげた小冊子を、得々と兵員に配布する、そうした指導者の命令で戦っているのか、という救いのない暗澹あんたんたる心情を覚えたからである。
「戦陣訓」にくらべると、明治十五年発布の「軍人勅諭」は荘重なリズムをもつ文体で、内部に純粋な国家意識が流れているし、軍隊を離れて、一種の叙事詩的な文学性をさえ感じるのである。興隆してゆく民族や軍隊の反映が「軍人勅諭」にはある。「戦陣訓」を「軍人勅諭」と比較することは酷であるにしても「戦陣訓」にはなんら灌漑かんがいしている精神性がなく、いたずらに兵隊に押しつける箇条書が羅列してあるだけである。およそ考えられるかぎりのあらゆる制約条項を、いったい生身の兵隊が守れるとでも思ったのであろうか。ともかく「戦陣訓」には耗弱こうじゃくした軍の組織の反映があり、聡明そうめいなる兵隊はそれを読んだ時点で、すでに兵隊そのものの危機を予感したかもしれない。(中略)すでに「戦陣訓」には、人間的なものは何ものも失われていたのである。愚書というよりほか、批判の下しようはないのである。(伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』)

「生きて虜囚りょしゅうはずかしめを受けず、死して罪過ざいかの汚名を残すことなかれ」の一節が、数々の戦場での「玉砕ぎょくさい」や集団自決の原因になったとする説も、戦後あちこちで言われてきたが、実際のところはわからない。
「白虎隊」だって集団自決をしたのだ。どうして、たかが「戦陣訓」だけで自決する理由があるか? 
日本人の「集団自決」や「玉砕」には、もっと日本文化特有の理由があるように思われてならない。
たぶん皇軍兵士は、「戦陣訓」などなくたって「玉砕」したのではないか? 

「戦陣訓」を発表した東条英機は敗戦後、東京裁判に戦犯容疑で呼び出された時、拳銃で自決するに至っているが、あれは「戦陣訓」の呪いだったろうか?
もっとも、東条の自決は失敗し、米軍に生かされてしまって、東京裁判に引き出されている。
自決もまともにできない者が、皇軍将士や国民に自決や玉砕を説いていたとは、さぞ当時の日本国民はどっちらけたことだろう。

『七生報国』(昭和16年2月20日)

楠木正成像(皇居外苑)

戦時歌謡『七生報国』は、福島県出身トリオによる作品だ。
この歌は《民》の側からの、戦陣におもむく決意を歌った歌となっている。

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

『七生報国』[歌詞]
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

1.七たび生まれ 兄は征く
  これが最後の あの便り
  忘れはせぬぞ この胸に
  血潮で赤く 書きつづ
  あゝ殉国の 文字ふたつ

2.御楯みたてと我等 選ばれて
  誓う祖国の 人柱
  嵐を強く 越えながら
  涙で祈る その栄え
  あゝひとすじの 民の道

3.この日の丸を うち振って
  明日は野の露 草の露
  姿はたとえ 変わるとも
  心は永久とわに 死ぬものか
  あゝ愛国の 血は燃える

4.今こそ開け 一億の
  赤い忠義の 桜花
  七たび生命いのち 大君に
  捧げて創る 大亜細亜
  あゝ滾りたぎゆく この心

※動画の歌詞を基本に、ミロ補作。

七生報国しちしょうほうこく》とは、「何度生まれ変わっても国のためにつくす」という意味の言葉で、これは『太平記』に書かれた楠木正成くすのきまさしげの故事から来ている。

楠木正成は河内の武将で、後醍醐ごだいご天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に立ち上がり、千早城ちはやじょうを要塞化して立てこもり幕府軍と戦う。

やがて同志であった足利尊氏あしかがたかうじ直義ただよし兄弟一派が離反してゆき、新田義貞・楠木正成軍と湊川みなとがわで雌雄を決する合戦を繰り広げることになってゆく。

尊氏軍は海から大船団を組んで明石あかし、須磨の浦に押し寄せ、その弟直義軍は陸から、合わせて五十万の軍勢で新田・楠木軍に挑んだ。
迎え撃つ新田・楠木軍は約六万、多勢に無勢の上、水軍の準備がなく限りなく勝機は薄かったが、正成は七百余騎で会下山えげさんに陣を張り、敵の隙をついてあと一歩というところまで尊氏の首に迫るのだが、武運拙く、生き残った少数の部下や弟・正季まさすえとともに自刃して果てる。

この時に、正成と弟・正季は言葉をかわし、
「九界(十界のうち、仏界以外の世界。 地獄・餓鬼・畜生・阿修羅あしゅら・人間・天上・声聞しょうもん縁覚えんがく菩薩ぼさつの九界。十界は仏教で「世界」を意味する言葉。)の内のどこにそなたは生まれ変わりたいか」と正成が尋ねると、正季は、
「七度生まれ変わっても、尊氏がいる同じ人間界に生まれ変わって、なんとしても朝敵をわが手で討ち滅ぼしとうございます」と答えた。
そして楠木兄弟は、刺し違えて果てるのである。

正成が湊川みなとがわの合戦で、敗北することを知りながら従容しょうようとして戦に赴く姿は、まさに「玉砕」の原型ではないか? 

楠木正成は、南北朝時代という天皇家が二つに分かれて争った時代の武将であることもあって、時代によって毀誉きよ褒貶ほうへんの激しい武将ではあるが、その軍事的天才という評価はゆるぎない。
特に明治時代には、《皇国史観》の立場から、天皇の忠臣として高く評価されることになった。
当時の少国民(学童)たちは、唱歌をはじめとして国史や国語、修身などの教科を通じても楠木正成の故事を習ったのだった。

私は高校生の頃に吉川英治の『私本太平記』で楠木正成を知ったが、そのゲリラ戦や天才的戦術の数々に、胸を熱くして読んだことを思い出す。

唱歌『櫻井の訣別』明治32年(1899年)

正成が湊川合戦におもむく前夜のエピソードとして、幼い我が子・正行まさつらが、父とともに戦って死のうと、父・正成が屯している桜井の宿の陣中に訪ねて来る場面がある。
正行に故郷の母のもとへ帰るよう諄々じゅんじゅんと言い含める正成の姿は、小学唱歌にも歌われて、楠木正成は当時子供から大人まで誰もが知る英雄であった。

その唱歌が、『櫻井の訣別わかれである。『大楠公だいなんこうの歌』、『青葉茂れる桜井の』と呼ばれることもある。

「大楠公」とは楠木正成のことであり、それに対して正行は「小楠公」と呼ばれる。
ちなみに『崑ちゃんのとんま天狗』の主人公の名は、「姓は尾呂内おろない、名は楠公なんこう」である。知らない人は知らなくていい。

『櫻井の訣別』
作詞/落合直文 作曲/奥山朝恭

1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
  の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
  忍ぶよろいの袖のに 散るは涙かはた露か

2.正成まさしげ涙を打ち払い 我が子正行まさつら呼び寄せて
  父は兵庫におもむかん 彼方かなたの浦にて討ち死にせん
  いましはここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
  いかで帰らん帰られん この正行まさつらは年こそは
  未だ若けれもろともに 御供おんともつかえん死出の旅

4.いましをここより帰さんは 我がわたくしの為ならず
  おのれ討死さんには 世は尊氏たかうじままならん
  早く生い立ち大君おおきみに 仕えまつれよ国の為

5.この一刀ひとふりにし年 君の賜いしものなるぞ
  この世の別れの形見にと いましにこれを贈りてん
  行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん

6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
  またも降りくる五月雨さみだれの 空に聞こゆる時鳥ほととぎす
  たれか哀れと聞かざらん あわれ血に泣くその声を

『南進男児の歌』(昭和16年2月20日)国民歌謡

支那事変以降、アメリカ始め西洋列強の日本に対する出方はきびしいものになっていた。
昨年九月、援蒋ルート遮断のために日本軍が仏印ふついん(フランス領インドシナ=現在のベトナム)に進駐すると、アメリカは態度をすっかり硬化させてしまった。
アメリカはすぐに報復として、日本に対する屑鉄と鉄鋼の輸出禁止を発表した。

昭和14年9月1日、ドイツがポーランドに攻め込むと、英、仏、奧、ニュージーランドがドイツに宣戦布告し第二次世界大戦が始まっていたが、アメリカはまだ静観し経済援助をするにとどまっていた。

昭和15年5月、ドイツがデンマーク、ノルウェー占領に続いて英国をダンケルクに下すと、欧州情勢の急転により日本の朝野ではにわかに南方問題が浮上して来た。
すなわち、このまま英国がドイツに敗れることになれば、東南アジアの西欧植民地に変動が起こることが予想されたのである。

北に進んでソ連を討つ《北進論》と、南方の欧米植民地を解放し大東亜共栄圏に組み入れようという《南進論》とが戦わされて来たが、ここに来て急に《南進論》の声が高まって来た。
新聞各紙も、にわかに「南進」を煽動し始めていた。

『南進男児の歌』『南進乙女の歌』は、戦争の歌ではないが、そんな時代のムードの中から生まれた歌である。

『南進男児の歌』動画

     作詞/若杉雄三郎 作曲/古関裕而  歌/霧島昇

『南進男児の歌』[歌詞]
作詞/若杉雄三郎 作曲/古関裕而  歌/霧島昇

1.きみが剣の 戦士なら
  われは南の 開拓士
  共に明るい 日本の
  希望に燃える 若き民
  進め丈夫ますらお われ等こそ
  南進日本にほんの 先駆者さきがけ

2.いまぞ男と 生れ来て
  拓け南の 陸と海
  使命はえある わが行途
  輝く南極 十字星
  進め丈夫ますらお われ等こそ
  南進日本の 先駆者さきがけ

3.赤道越えて 今日も行く
  祖国の歌よ 日の丸よ
  若きかいなに 脈打つは
  世紀に躍る 血の調べ
  進め丈夫ますらお われ等こそ
  南進日本の 先駆者さきがけ

前奏といい歌い出しといい、曲想的に『あゝ栄冠は君にかがやく』と近縁の曲であることがうかがわれる。

『南進乙女の歌』(昭和16年2月20日)

     作詞/高橋掬太郎 作曲/古関裕而  歌/二葉あき子

赤道の下の美しい島々が歌われているが、そこがやがて日本軍と米英蘭仏軍とが血みどろの戦闘を繰り広げる舞台となることを、まだこの頃は誰も知らない。

『国民恤兵歌』(昭和16年3月1日)

支那大陸での戦争は、いまだに続いている。
国民はとっくの昔から、どれも似たり寄ったりの《軍歌》を聞くのに飽き飽きしていた。
レコード会社はそれでも軍歌しか作るものがなかった。なにしろ、世は「戦時下」なのだから。

     作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、霧島昇

『国民恤兵じゅっぺい歌』[歌詞]
作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、霧島昇

1.雨の降る夜も 泥濘ぬかるみ
  進み戦う この胸に
  勝てよ頼むと 一億の
  燃ゆる歓呼が また響く

2.明けて敵陣 占領すりゃ
  すぐに届いた 恤兵じゅっぺい
  慰問袋や この手紙
  抱いておどるぞ この胸に

3.弾丸たまたおれた 戦友に
  読んできかした 慰問文
  故国くに少国民こどもの 真心に
  男泣きした 宵もある

4.強い銃後の 力をば
  鉄のかぶとに 結びつけ
  やるぞ進むぞ 戦うぞ
  弾丸たま生命いのちの 尽きるまで

「恤兵」と書いて、「じゅっぺい」と読む。その意味は、金銭や物品を寄贈して戦地の兵士を慰めること、また、その贈る「物」を指す場合もある。
「慰問袋」などが、まさに「恤兵品」の代表だ。
大企業などの場合は、「戦闘機」を贈るなど大掛かりなものもあった。

「恤兵」は戦時にしか用のない言葉だ。だからいまでは、意味を知らない人の方が多いだろう。

これら恤兵の金品を取りまとめるため、戦争が始まると軍部には「恤兵部」が設けられた。そして戦争が終わるとともに、恤兵部は解散されて来たのである。

「慰問袋」は戦場生活での兵士のたのしみのひとつだった。
慰問袋には恤兵部から来るものと民間から来るものの2種類があり、恤兵部のものは表に日の丸が描かれていて、内容は形式的なもので、兵隊たちはあまり喜ばなかったという。
民間からのものは当たり外れが大きかったが、包みの大小が必ずしも中身の良し悪しを意味せず、粗末な包みの中に泣かせるような思いのこもった手紙が入っていたりした。
とはいえ、若い女性からの手紙や品物が一番人気があったというのも仕方のないことだろう。兵隊の多くは、若者たちだったのだ。

『「戦陣訓」の歌』(昭和16年3月5日)

1月8日に「戦陣訓」が公布されると、レコード各社は『「戦陣訓」の歌』をこぞって発表した。例によって、歌のタイトルは同じだが、作詞者と作曲者はみな違っている。
コロムビアでも、当然のように作られた。

     作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而  歌/伊藤武雄 伊藤久男

『「戦陣訓」の歌』[歌詞]
作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而  歌/伊藤武雄 伊藤久男

1.れ 戦陣の つわものは
  ただ勅諭を 生命いのちとし
  忠にさきがけ 義に勇み
  大日本の 華と咲け

2.神武しんぶの精神 おごそかに
  命令一下 欣然きんぜん
  生死を超ゆる 団結は
  わが皇軍の 誉れなり

3.戦えば攻め これを取り
  防げば敵を おそれしむ
  勝たずばやまぬ わが武威を
  青史にかくと 輝かせ

4.天にも恥じぬ 赤誠は
  忠孝いつに 志し
  強く正しく 欲に克かち
  清節、武人の 名を惜しめ

5.ああげんとして 大いなる
  「戦陣訓」を 胸に
  大国民の ほこりもて
  皇威を外に しめすべし

『赤子の歌』(昭和16年3月20日)

これも福島県出身トリオによる作品。

「赤」の意味するところは、「はだかの」「なにもないむき出しの」。そこから「赤子せきし」とは、天皇に対して赤子あかご(赤ん坊)のような邪念のない心で仕えよと、軍部や学校が国民に対し児童の頃から教え込んだのである。
ただし親が子に教えたというのは、聞いたことがない。

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

赤子せきしの歌』[歌詞]
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

1.今大君の 御姿おすがた
  まぶたに仰ぐ 二重橋
  あゝ感激の 万歳も
  涙で詰まる この心

2.光の国よ 神の国
  召されて勇む たみ我等
  あゝこの命 この身体からだ
  捧げて拝む 天皇旗

3.露営の夢に くわ
  忠義の二字の 血が燃える
  あゝくれないの ひとしずく
  祖国を護まもる 土となれ

4.行け行けいばら 踏み越えて
  御旗みはたは進む おごそかに
  あゝ一輪の 桜こそ
  我等の心 その姿

『海の進軍』(昭和16年5月25日)

昭和16年3月、読売新聞社は《「海国魂」の歌》と《一億総決意の歌》の歌詞を募集した。
当時の二大新聞は『朝日新聞』と『毎日新聞』であり、軍歌募集の企画面でも、読売は両新聞に後れを取っていたために巻き返す意味もあったのだろう。

4月、《「海国魂」の歌》には海老沼正男作詞の『海の進軍』が当選し、古関裕而が作曲をした。
古関は、短調の曲だがグランド・マーチ風の四分の四拍子で、堂々たる艦船を表現した。

     作詞/海老沼正男 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男 藤山一郎 二葉あき子

『海の進軍』[歌詞]
作詞/海老沼正男 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男 藤山一郎 二葉あき子

1.あの日揚った Z旗を
  父が仰いだ 波の上
  今日はその子が その孫が
  強く雄々しい 血を継いで
  八重の潮路を 越えるのだ

2.菊の御紋の かげ映す
  固い護りの 太平洋
  海の男子おのこの 生甲斐いきがい
  沖の夕陽に 撃滅の
  敵のマストを 夢に見る

3.御稜威みいつ輝く 大空に
  意気に羽搏はばたく 海鷲が
  描く制覇の 勇ましさ
  僚友とも七度ななたび 生きかわり
  波に勲を 咲かそうぞ

4.海へ海へと 燃えあがる
  大和魂 しっかりと
  胸に抱いて 波千里
  進む皇国 海軍の
  晴れの姿に 栄光ひかりあれ

《一億総決意の歌》の方は応募作品に当選歌がなく、結局、西條八十が作詞を依頼されることになった。それが『そうだその意気』だった。作曲は古賀政男が担当した。
海の進軍と『そうだその意気』は、カップリングで発売された。『そうだその意気』がA面で、海の進軍はB面である。
はじめはA面がラジオでよく流れていたが、大東亜戦争が始まるとB面もよく聞くようになった。

古賀政男、軍歌『そうだその意気』を作曲する(昭和16年5月25日)

古賀政男

久々に古賀政男が登場したので、かんたんに古賀の経歴に触れておきたい。

昭和6年3月、27歳の時、作曲家としてコロムビアと専属契約。藤山一郎の歌で『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』などが、次々と大ヒットした。
同じころ作曲家生活を始めた古関裕而とは将来の希望を語り合う仲だったが、古賀の方が古関より一足早く人気作曲家となり、逆に古関はスランプに陥ってしまっていた。
古賀は次第にコロムビアの作曲家に対する待遇に不満を抱くようになり、昭和9年5月、コロムビアを退社しテイチクへ移った。

テイチクに移ってからは、
『東京ラプソディー』(昭和11年7月新譜、門田ゆたか作詞)
『男の純情』(昭和11年、佐藤惣之助作詞)
『人生の並木道』(昭和12年1月新譜、)
『青い背広で』(佐藤惣之助作詞)
などのヒット曲が生まれた。
『人生劇場』(昭和13年4月29日、佐藤惣之助作詞)
これが古賀のテイチク最後の曲となった。

明大マンドリンクラブ時代の仲間を引き連れて、鳴り物入りでテイチクに乗り込み、大いにテイチクの社運を盛り立てた古賀であったが、いつの間にか仲間たちや部下たちの心は離れて行って、公然と古賀に反旗を翻すようにさえなっていた。
「義理がすたればこの世は闇さ」という『人生劇場』の歌詞そのままの心情で、古賀はテイチクを後にした。

テイチクを辞めて間もなく、外務省からアメリカに音楽親善使節として行かないか、と声がかかった。
その背景には、支那情勢に絡んで日米間の協調を回復したい日本政府の思惑があった。

古賀は経費的には赤字になるが、渡米に可能性を感じて引き受けた。
ハワイからロスアンジェルスへと回り、そこからニューヨークまで自動車で大平原を突っ切るという冒険旅行をした。
昭和13年、意を決して南米を回ることにした。

昭和14年9月1日、ナチスドイツのポーランド侵攻により欧州大戦が勃発したニュースを聞いて、古賀は急遽帰国することを決めた。
古賀が帰国すると、なんと渡米前に新築したばかりの我が家が、弟によって無断で売り払われてしまっていた。
やむなく古賀は、新しい住居が見つかるまでホテル住まいをすることになった。

以前、コロムビアをやめてテイチクに移る時、もしテイチクを辞めた場合は必ずコロムビアに戻るという契約がされていたために、古賀はコロムビアに復帰することになった。
以前は外資系会社だったコロムビアだが、上海事変が起きたあたりから日本撤退の動きが見え始め、昭和10年10月11日、英国コロムビアは持ち株のほとんどを手放し、経営権は次第に日本人の手に移って行った。
昭和14年7月28日、三保幹太郎が代表取締役に就任すると、完全に日本の会社になった。
日本人が経営するようになってからは、だいぶ居心地の良い会社になっていた。

古賀政男は、最初のコロムビア時代に『肉弾三勇士の歌』(昭和7年)を、テイチク時代にも『軍国の母』(昭和12年8月、島田磐也作詞)という「軍歌」を作曲している。

大東亜戦争が開戦してからも、復帰後のコロムビアで、
『総進軍の鐘は鳴る』(西條八十作詞)
『打倒米英』(西條八十作詞)
『陥したぞシンガポール』(西條八十作詞)
『勝利は翼から』(軍事工業新聞制定)
『敵白旗を揚げるまで』(軍事工業新聞制定)
『一億体当りの歌』(西條八十作詞)
『後に続くを信ず』(昭和20年3月、西條八十作詞)など、
終戦のぎりぎりまで、古賀は軍歌を作り続けたが、残念ながらヒットしたものはなかった。
繊細で情感に溢れた古賀の旋律は、根本的に軍歌の時代には向かなかったのだろう。

さて、『そうだその意気』に戻る。

《一億総決意の歌》の方は、応募作品に当選歌がなく西條八十が作詞を依頼された。
そうして『そうだその意気』の作詞が出来上がった。
その作詞を受け取りに、陸軍情報部の大坪中佐が西條邸を訪れた。
大坪中佐はその場で渡された詩稿を一読すると、
「結構であります。しかし、できますなら、もう一度書き直してもらいたいのであります」と懇願した。
八十は苦笑して、
「うたを書くことは、そんなに簡単なものではありませんよ。なんなら貴方あなたが書いてごらんなさい」と言うと、
「はッ。ではそうします」と言って、中佐は帰って行った。
翌朝、ふたたび西條邸に現れた大坪中佐は、目を真っ赤にらして、
「昨晩は眠らずに考えました。先生のおっしゃるとおり、詩を作ることの難しさがわかりました」と言って、八十に昨日の無礼を詫び、詩稿を受け取って帰った。

『そうだその意気』の作曲が出来上がると、古賀政男はコロムビアスタジオでみずからピアノを弾いて関係者に曲を聞かせた。
「軟弱だ。こんな悲壮感あふれる歌では、戦意高揚どころか悲しくなってしまうじゃないか。」と軍関係者は渋い顔をした。
これを聞いた古賀は、
「これは日本の国を守るという不動の決意のもとに作ったものです。気に入らなければ、他の方に頼んでください!」と、大声で言い返した。
人気作曲家・古賀政男にそこまで言われると、軍部もそのまま引き下がるほかなかった。
『そうだその意気』は、なんら変更されることなくレコード吹込みがなされた。

     作詞/西條八十 作曲/古賀政男  歌/霧島昇、松原操、李香蘭

戦後、古賀は復員して来た兵士から、
「戦場で、辛い時、苦しい時、この歌を口ずさむと、胸が熱くなってきましてね、みんな愛唱しましたよ」と言われて、ひそかに満足したのだった。

『誰か故郷を想わざる』古賀政男作曲(昭和14年11月28日)

『誰か故郷を想わざる』は、同じく西條八十作詞、古賀政男作曲の歌で、軍歌ではないが当時戦場で兵士たちによく歌われた歌であった。

第二連の歌詞には、作詞の西條八十の、文学的興味を育ててくれた姉が嫁いでいった、少年時代の悲しい思い出がこめられていた。じつは古賀政男も少年時代、朝鮮の仁川で、最愛の姉が嫁いで別れてゆくのを泣きながら見送った思い出があって、西條に話したらそれを活かして作詞してくれたのだった。

古賀は西條の詩を読んでいるうちに、南米で夕陽を見ながら故郷を偲んだ時の情景が浮かんで来て、南米音楽のリズムを用いて作曲をした。また、小節こぶしもそこかしこに効かせているため、演歌風の味わいのある歌にもなった。

だが、会社はヒットの見込みがないと見て、出来上がったレコードをすぐに慰問袋に入れて、前線に送ってしまっていた。

ところがこれが望郷の念を刺激する歌詞と曲が軍歌に飽き飽きしていた前線の兵士たちに喜ばれ、前線で大ヒットしてしまった。
これを戦地慰問に行った歌手たちが覚えて帰って来て、「今戦地では、こういう歌がヒットしています」と紹介したために、日本国内でも大ヒットすることとなった。

     作詞/西條八十 作曲/古賀政男、歌/霧島 昇

『怒涛万里』(昭和16年7月20日)

この歌も、公募作詞の当選作に古関が作曲したもの。
直接戦争を歌った歌ではないが、海の進軍と同じように、やがて太平洋へ、南支那海へと乗り出していく、時代の息吹が生んだ歌ではあるだろう。

     作詞/放送文芸当選作 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

『怒涛万里』[歌詞]
作詞/放送文芸当選作 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

1.燃える東雲しののめ 揺り上げて
  花とすがしい 波がしら
  船は我が家よ 海原うなばら
  広い庭だと 楽しめば
  あおぐマストの 日の丸も
  晴れて希望の 血がおど

2.われら日本男児にっぽんだんじには
  海ぞ度胸の みがき場所
  勇む船首へさきに 海運の
  明日の王座は 輝くと
  今日も越えゆく 荒波の
  万里果てなき 西東

3.海に鍛えた 民族の
  命脈うつ 底力
  鳴らせ七つの 海駆けて
  ときは今だぞ ひけとるな
  見ろよ興亜の 上潮あげしお
  光きらめく 陽は若い

アメリカ・イギリス軍と、戦闘状態に入れり!──大東亜戦争、開戦!(昭和16年・1941年)

昭和16年(1941年)12月8日、大東亜戦争開戦す

昭和16年(1941年)12月8日、月曜日、東京は寒い朝を迎えていた。
ラジオが7時の時報を告げると、突然『海ゆかば』が流れ、ポポーと臨時ニュースのチャイムが鳴って、
「臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部午前六時発表、帝国陸海軍部隊は本八日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入れり」と二度繰り返した。

この日は一日中臨時ニュースが続き、日本軍の戦果の詳細がだんだん明らかになって来た。

大東亜戦争開戦「臨時速報」

帝国海軍は、ハワイ方面のアメリカ艦隊並びに航空兵力に対し、決死の大空襲を敢行し、シンガポールその他をも大爆撃しました。
大本営海軍部、今日午後一時発表、
一、帝国海軍は本八日未明、ハワイ方面のアメリカ艦隊並びに航空兵力に対し、決死の大空襲を敢行せり。
二、帝国海軍は本八日未明、上海においてイギリス砲艦ペテレル号を撃沈せり。アメリカ砲艦ウェーク号は同時刻、我に降伏せり。
三、帝国海軍は本八日未明、シンガポールを爆撃して、大なる戦果を収めたり。
四、帝国海軍は本八日早朝、ダバオ、ウェーク、グワムの敵軍事施設を爆撃せり。
(軍艦マーチ)

『宣戦布告』(昭和16年12月8日放送)【ニュース歌謡】

この日8日の夜8時24分、「ニュース歌謡」という番組名で、古関、野村がコンビで作ったばかりの歌『宣戦布告』が放送された。
「ニュース歌謡」はJOAK東京放送局の丸山鐡雄てつおが発案した、ニュースの興奮が冷めやらぬうちにニュースに題材をとった歌を作って即日放送するというものだった。
大東亜戦争の開始とともに始まり、この日が放送第一回目となった。

対米英戦開戦のニュースが飛び込むや、丸山はすぐに古関裕而、野村俊夫、伊藤久男、霧島昇らに電話をかけ、放送局に呼び集めたのだった。どういう偶然か、全員、福島県出身者である。
古関裕而の曲の早書きに頼るところ大だったに違いない。この日、古関は指揮も担当するという大活躍ぶりだった。

『皇軍の戦果輝く』(昭和16年12月9日放送)【ニュース歌謡】

ハワイ・オアフ島真珠湾にて、日本機の攻撃を受け炎上する戦艦ウエストヴァージニア

翌日も、古関、野村は放送局に呼び出され、『宣戦布告』に続いて『皇軍の戦果輝く』を作って放送することになった。
「ニュース歌謡」で放送されてもレコード化されない曲もあったが、『皇軍の戦果輝く』は、昭和17年4月20日発売でレコードが出されている。

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/霧島昇

『皇軍の戦果輝く』[歌詞]
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/霧島昇

1.握る拳が 感激に
  燃えてふるえた 大号令
  臨時ニュースを 聞いた時
  胸が血潮が たぎったぞ

2.グアムでペンギン 爆沈し
  初陣飾る ときの声
  競い立ったる 爆弾に
  焼けるホノルル 空がす

3.むくろあわれな オクラホマ
  続くウエストヴァージニア
  ハワイ艦隊 撃滅の
  世界ゆるがす 大戦果

4.翼無敵の 陸鷲と
  やったやったと 海の猛者もさ
  みごと百機を 叩き伏せ
  凱歌がいかとどろく フィリッピン群島

5.戦友ともがマレーを 進むとき
  香港めざして 大空襲
  生命いのち捧げた つわものに
  もろくもウエーキ島 はやちた

6.胸がおどるぞ 高鳴るぞ
  捕えた船舶 二百せき
  大本営の 発表に
  父も妻子つまこも 万歳だ   

2番の歌詞で「グアムでペンギン 爆沈し」とあるのは、もちろんヨチヨチ歩きのペンギンを爆沈したわけではない。
12月8日、第四艦隊指揮下の南洋部隊は、アメリカの西太平洋の軍事根拠地であるグアム島、ウェーキ島を空襲した。
グアム島は海軍航空部隊と水上攻撃機隊とが攻撃したが、このとき米軍の掃海艇「ペンギン」を撃沈したことを歌っているのである。主要軍事施設も破壊した。
10日午前中に、海軍陸戦隊が上陸し、グアム島を完全に占領した。

10日には、ギルバート諸島のマキン島、タラワ島をも占領している。

だが、5番の歌詞「もろくもウエーキ島 はやちた」は、大嘘である。
ウェーキ島はV字型のサンゴ礁で、攻略作戦は8日の第二十四航空戦隊による空襲から始まった。
米軍飛行隊は大打撃を受け、12機あった戦闘機のうち8機が地上で破壊された。搭乗員23名が戦死、11人が負傷した。

上陸のため夜襲をかけたが風浪に阻まれて上陸することができず、3か所からの砲撃とグラマン4機による反撃を受けて、駆逐艦「疾風はやて」と「如月きさらぎ」が轟沈され、哨戒艇2隻が廃艦となった。
日本軍に敵基地を制圧するだけの戦力はなく、攻撃を一時中止して、マーシャル群島ルオット島まで避退した。
日本軍の損害は、撃沈された「疾風」「如月」の乗員335人は全員戦死、他に戦死6、負傷65、行方不明2を数えた。
これに対してウェーキ島の米軍の損害は、軽傷3人のみだった。
完敗である。

翌日から二十四航戦が連日連夜にわたり爆撃を加え、21日からは真珠湾攻撃帰途中の機動部隊の一部も攻撃に参加、ウェーキ島の残存敵機を掃滅した。
12月22日、第二次攻撃隊は、敵基地からの大砲による猛攻を受けつつ敵前上陸を敢行し、多数の戦死傷者を出しながら、12月23日、ようやく完全占領したのだった。

開戦早々、国民をぬか喜びさせているとは、大本営も罪深い。

『英国東洋艦隊壊滅』(昭和16年12月10日放送)【ニュース歌謡】

英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズ

12月10日、大本営は、マレー沖海戦で海軍航空部隊がイギリス軍が誇る新鋭不沈戦艦プリンス・オブ・ウェールズと戦艦レパルスを撃沈したことを発表した。

午後4時のラジオ放送が大戦果を伝えると、古関のところにJOAK東京放送局の丸山鐡雄から電話がかかって来た。
「いまニュース聞いたか?」
「いま聞いた」と古関は答えた。
「どうだ凄いだろう?」
「凄い凄い!」
丸山は、午後七時に臨時ニュースで大戦果を取り上げるから、間に合うように歌を作ってくれと古関に頼んだ。
同じように作詞の高橋掬太郎や歌手の藤山一郎のところにも、丸山から依頼の電話がかかって来た。

藤山一郎は、内幸町のJOAK放送会館に行ってみてびっくりした。詞も曲も出来上がっているとばかり思っていたら、高橋掬太郎が作詞の真っ最中ではないか!
「こう急がされると、いい文句が浮かんでこなくてねえ」と高橋が言う。

1時間ほどたって、やっと一番の歌詞ができると、古関がすぐに曲を付けていく。
古関はオーケストラのパート譜も書かなくてはならないので、大変な作業だった。
藤山はそれを見ながら、歌唱用の譜を書き写し、言葉を割り付けて行った。

以上は丸山と藤山の記憶によるものだが、古関の記憶はだいぶ違っているようだ。
丸山から電話がかかって来たのは、古関と高橋掬太郎がコロムビアにいた時だったという。
歌手は藤山一郎と東京放送合唱団、オーケストラは放送管弦楽団なので、曲ができ次第スタジオに持って来てくれと言って、電話はガチャンと切れた。
古関はそれから急いで作曲にかかり、メロディができては高橋に渡し、高橋はそれに歌詞を当てはめて行ったという。
古関は編曲にかかり、オーケストラのパート譜を次々に書いていったが、間奏には作曲時間を節約して軍艦マーチを二分して挿入した。

いずれにしても、現場がバタバタした状態だったことだけは確かなようだ。

藤山一郎は、ちょっと打ち合わせをしただけで、ほとんどぶっつけ本番で歌った。
作詞も、作曲も、歌唱も、有り得ないような離れ業で完成させたが、この歌はその後よく人々に歌われて行った。
しかし、レコード化はされなかった。高橋掬太郎がキング専属で、古関と藤山がコロムビア専属だったためだという。
ただ、ラジオ放送においてのみ、この組み合わせが実現したのだった。軍事優先の時代ならではの産物であった。

     作詞/高橋掬太郎 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

放送が終わると、丸山がやって来て、
「よかった、よかった、どうもありがとう!」と言って、古関と握手した。

その夜、古関は放送会館を出ると、灯火管制で真っ暗な街を、『英国東洋艦隊壊滅』のメロディを口ずさみながら新橋駅まで歩いた。

大戦果、大勝利に浮かれながら、昭和16年は暮れて行った。
古関裕而、32歳。ひと時ではあるが、幸福な時間を持てたことは誠に喜ばしい。

12月12日、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」と、閣議決定した。

『断じて勝つぞ』(昭和17年2月20日)

『英国東洋艦隊壊滅』がレコード化されなかったのはすでに書いた通りであるが、だがコロムビアは諦めていなかった。
『英国東洋艦隊壊滅』のメロディにサトウハチローに詞を付けさせて昭和17年2月に発売したのが、『断じて勝つぞ』である。
『英国東洋艦隊壊滅』の放送は好評でのちのちまで人々の記憶に残ったが、『断じて勝つぞ』の方はヒットしなかった。

作曲家・武満徹は、著書『音、沈黙と測りあえるほどに』の年譜で、『英国東洋艦隊壊滅』について書いている。

1941=(昭和十六年)十一歳
 大東亜戦争勃発。小学五年生。この頃の印象としては、藤山一郎の歌う「プリンス・オブ・ウェルス撃沈の歌」が、明るく、きれいな旋律で、ほかの軍歌や愛国歌謡とはちがった親しみをもった。プリンス・オブ・ウェルスという語感も、なにか未知のイメージをかきたてるものだった。

たぶん、この頃、武満はこの曲が古関裕而作曲とは知らなかったと思うが、曲の本質を聞き分けているのはさすがである。

     作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

『東洋の舞姫』(昭和16年12月20日)

大戦争勃発の時に、こんな美しいメロディの曲が発表されているのは興味深い。
だが、日本人とアラビアの舞姫とが袖すり合うというのも、戦争がもたらした出逢いであるには違いない。

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/渡辺はま子

『東洋の舞姫』[歌詞]
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/渡辺はま子

1.トーチのあかり 窓にゆれる
  なつかし アラビアの夜よ
  あの街あの夢 わずかにうるみ
  はるけき想い出 心にえる
  うるわし この宵
  しのびて 踊るよ

2.青き海を ひとり越えて
  あい見る 桜咲く国よ
  緑の山河 そよ風薫り
  月さえ別れて やさしのみ空
  さびしき この身を
  忘れて 踊るよ

3.歌に乗せて 君に贈る
  ふるさと アラビアの夢よ
  泉のほとりに ●●●で書いて
  あこがれ●●● 砂漠の乙女
  楽しき あの街
  偲びて 踊るよ

※歌詞が入手できなかったため、ミロ採詞。一部不明の歌詞あり。

戦捷に沸く! 目指すは『アメリカ爆撃』だ!【昭和17年・1942年】

昭和17年は、大戦勝の興奮のうちに明けた。

1月1日の新聞には、各紙とも真珠湾攻撃の写真が一面を華々しく飾っていた。

マレー半島では、昨年から引き続き、イギリス軍の極東の根拠地であるシンガポール島要塞攻略のため、日本軍の進撃が続いていた。

『感激の合唱』(昭和17年2月20日)

真珠湾攻撃と米英の根拠地である香港、シンガポール、フィリピンなどの都市爆撃の大戦果をかみしめるように、『感激の合唱』が作られた。

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、二葉あき子

『感激の合唱』[歌詞]
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、二葉あき子

1.良くこそやった 海の鷲
  有難かった あのニュース
  陸と海との 勝鬨かちどき
  聞いて驚く 大戦果
  さすが日本の つわものだ

2.一億皆 平伏ひれふして
  涙で拝す 大詔おおみこと
  そうだあの時 宮城の
  空に向かって 声も無く
  揃って両手を 合わしたぞ

3.開いた地図を 西南
  指差す父が また母が
  ここだここまで 日の丸が
  空を怒涛を 越えたぞと
  老いたその目も 嬉し泣き

4.この胸ぐっと 撫で下ろし
  百年忍苦にんくの この歯噛はが
  男が泣いた 悔しさを
  今こそ晴らす 突撃の
  歓呼に勇む 一億だ

5.いくさは何年 続くとも
  がっちり組んだ 腕と腕
  水も漏もらさぬ 鉄の陣
  持場職場の 白襷しろだすき
  そうだ決死の 進軍だ

『大東亜戦争陸軍の歌』(昭和17年3月20日)

『大東亜戦争陸軍の歌』は、朝日新聞社が制作して、陸軍に献納した歌である。
第七連の最終行に「朝日かがやく」とあるのは、そのためだったのだな。

     作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、黒田進、酒井弘

『大東亜戦争陸軍の歌』[歌詞]
作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、黒田進、酒井弘

1.今こそ撃てと 宣戦の
  大詔みことに勇む つわものが
  火蓋を切って 押し渡る
  時十二月 その八日

2.マレーに続く ルソン島
  快速部隊の 進撃に
  鉄より固き 香港も
  わが肉弾に 砕けたり

3.春真先に 大マニラ
  陥して更に ボルネオも
  迅風はやての如き 勢いに
  なびくジャングル 椰子の浜

4.黒いスコール 火の嵐
  戦車もうなる 赤道下
  路なき路を ひた押しに
  ほのおと進む 鉄かぶと

5.六十余日の 追撃に
  白梅かおる 紀元節
  シンガポールを うちとし
  大建設の 日のみ旗

6.南十字の 空高く
  桜とまごう 落下傘
  若木の花の 精鋭が
  手柄はかおれ パレンバン

7.ビルマも何ぞ 濠洲も
  わが皇軍の 征くところ
  電波は躍る 勝鬨かちどき
  朝日かがやく 大東亜   

『空の神兵』高木東六作曲(昭和17年4月)

オランダ領東インドのセレベス島メナドに降下する海軍落下傘部隊

2月15日午後5時10分、大本営は、陸軍落下傘部隊がパレンバン奇襲降下作戦に成功したことを発表した。

大本営発表、二月十五日午後五時十分。強力なる帝国陸軍落下傘部隊は、二月十四日午前十一時二十六分、蘭印最大の油田地たる、スマトラ島パレンバンに対する奇襲降下に成功し、敵を撃破して、飛行場その他の要地を占領確保するとともに、更に戦果を拡張中なり。陸軍航空部隊は本作戦に密接に協力するとともに、すでにその一部は本十五日午前同地飛行場に躍進せり。終わり。(大本営発表昭和17年2月15日)

シンガポールがちそうになると、イギリス軍が日本軍の手に渡さないようパレンバン油田を爆破してしまう恐れがあったので、日本軍はシンガポール占領より先にパレンバンの大油田地帯の確保を急ぐことになった。
大東亜戦争の第一の目的は、自存自衛の戦いの根幹となる石油・ゴム・すずなどの天然資源の確保にあったので、当然の帰結だったと言える。

国民は陸軍落下傘部隊を「空の神兵」と呼んで讃えた。

高木東六作曲の軍歌『空の神兵』は、この年の4月にビクターから発売されたが、もともと高木はクラシックやシャンソン畑の人だったので、軍歌はいやいやながら作ったのだった。

しかし色彩感覚あふれる作詞と軍歌らしからぬ曲調と、前奏・間奏にフィーチャーしたチューブラーベルのキンコンカンコンという音色が珍しく、大ヒットした。

     作詞/梅木三郎 作曲/高木東六  歌/四谷文子 鳴海信輔

じつはパレンバンの陸軍落下傘部隊より前に、海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに降下作戦を成功させていた。これが日本軍最初の空挺降下作戦だった。
しかしこの情報は、敵に警戒させないように、パレンバン作戦が終わるまで伏せられていた。
その後、陸軍の空挺部隊がパレンバン降下作戦を成功させると華々しく新聞紙面を飾ったが、同時に公表された海軍のメナド降下作戦の記事はいかにも小さいものだった。
扱いの不当さに海軍が腹を立て、後々まで海軍と陸軍の間にしこりを残す結果となった。

日本軍、シンガポール入城!(昭和17年2月15日)

銀輪部隊

昭和16年12月8日午前零時45分、侘美たくみ浩少将の第二十三旅団が輸送船三隻に分乗して、マレー半島北部のコタバルに上陸した。
インド第八旅団ドグラス大隊の防御陣地正面だったため、激戦となった。
海軍機動部隊が真珠湾攻撃を開始するよりも、1時間20分早かった。
大東亜戦争の開戦は、まさにこの時であった。

午前1時40分、山下奉文ともゆき中将の第二十五軍司令部と第五師団主力が輸送船十四隻でシンゴラに、午前2時、安藤忠雄大佐の第五師団歩兵第四十二連隊他が三隻の輸送船でバタニーに無血上陸した。

これら三部隊はマレー半島を北から南へ突進し最南端ジョホール・バルへ向かうと、ジョホール水道を挟んで目前に英国の牙城シンガポール島要塞はあった。

「銀輪部隊」と呼ばれる自転車に乗った歩兵が、ジャングルの中に切り開かれた舗装道路を進撃するため、驚くべきスピードで突進作戦が可能となった。
歩兵まで機械化された部隊というのは、世界の軍事史上、この時の日本軍だけであった。

シンガポールは当時「東洋のジブラルタル」「英国の牙城」と呼ばれ、東洋における英国植民地のシンボルであった。
シンガポールを攻略することは、すなわち、東洋における英国勢力の打倒を意味していた。

シンガポールへ、シンガポールへ!
突進! また、突進!

コタバルからジョホール・バルへ、第二十五軍は行程1100キロをわずか五日で踏破した。

しかし到着してみると、ジョホール水道にかかる唯一の鉄橋は英国軍の手で途中70メートルが破壊されていた。
向かいのシンガポール島では、友軍の空爆により石油タンクが黒煙を上げていた。

2月7日夜、近衛師団の一部四百人は、折畳おりたたみ舟艇しゅうてい20せきに乗って、3回に分けてシンガポール北東のウビン島に上陸し、8日朝から対岸のチャンギ要塞めがけて、野砲、連隊砲、重砲52門がいっせいに砲火を浴びせた。
これは、日本軍が北東部から上陸すると思わせるための陽動作戦だった。

2月8日午後10時30分、シンガポール島の対岸北部高台から、第二十五軍の全砲門四百四十がいっせいに火ぶたを切った。
対岸の敵陣地では、トーチカは吹き飛ばされ、鉄条網はちぎれ飛んだ。
砲弾が赤や青の流星のように飛ぶ下を、第五、第十八師団の第一陣約四千人が、三〇〇隻の舟艇に乗ってジョホール水道を渡河した。

三〇〇隻の舟艇で約三万人の戦闘部隊を渡すには約8往復しなければならず、すべて渡し終えたころには夜が明けていた。

第一陣の渡河は奇襲的に成功したが、第二陣以降は体勢を立て直したオーストラリア部隊の機銃弾の雨の中を進むことになった。

横山工兵連隊の山本喜代一兵長は、第五師団の輸送を担当したが、機銃弾で胸を撃ち抜かれ肺臓が肋骨からはみ出た状態で、なおも舟艇の操舵を続けていた。船が接岸すると同時に「お世話になりました」と戦友に言って息絶えた。

第十八師団の輸送をした小池工兵連隊の福井久光軍曹は、第2陣の渡河部隊を迎えに行った帰りに、胸部貫通銃創を負いながらも手旗信号で舟艇を誘導し、岸に着いたところで絶命した。

シンガポール島へ渡河を完了した日本軍は、オーストラリア軍が守備するブキテマ高地の攻略にかかり、終日、肉弾戦を展開した。
11日夜、ブキテマ高地を完全に占領すると、日本軍は三方向からシンガポール市を目指した。

15日には英軍の歩兵の抵抗はほとんど終わりを告げ、残るは砲兵による砲撃だけだったが、その砲弾もすでに尽き果てていた。
ところが日本軍もまた、まさに砲弾が尽きようとしていたのである。
辻参謀は、ここはいったん戦線を整理し、砲弾の補給を待って再攻撃にかかろうかと考えている時、15日の4時すぎ、ブキテマ街道を大きな白旗が近づいて来るのが見えた。

『シンガポール晴れの入城』(昭和17年4月20日)

2月15日夜7時、ブキテマ南側のフォード自動車工場の一室で、山下奉文中将とパーシバル将軍、両軍司令官の会見が行われた。
日英双方の通訳が拙劣なうえ、パーシバル将軍の受け答えがぬらりくらりとはっきりしないため、山下将軍は机をどんと叩いて、
「降伏するのかしないのか、イエスかノーかで返事せよ」と迫った。
会見している間も日本軍のありったけの砲弾が発射されて、会見場の上空を飛び越えていく音が聞こえていた。
パーシバル将軍は「イエス」と答えた。
「それはよろしい」
こうして午後十時に停戦し、英国軍の降伏が決まった。

1786年、イギリス東インド会社のペナン島領有より始まったイギリスのマレー・シンガポール支配は、この日、終わりを告げた。
マレーシアは戦後独立し、シンガポールは共和国となって、マレーシアから分離独立して現在に至っている。

JOAK東京放送局は、2月15日午後10時27分、臨時ニュースで「シンガポール陥落」を伝えた。

『シンガポール晴れの入城』は、シンガポール陥落を見越してすでに1月27日にレコーディング済みだったが、陥落報道を受けて2月20日に臨時発売された。

『シンガポール晴れの入城』【動画】

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

『シンガポール晴れの入城』[歌詞]
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

1.暁ぐる 雲くれないに
  砲火も絶えたる シンガポールよ
  ささぐる軍旗 おごそかに
  胸うつ歓喜の 万歳高し

2.亜細亜を毒す ユニオンジャック
  ほふるこの日の 夢いくたび
  日に夜に続く 進撃に
  難攻不落の 牙城はおちぬ

3.忠義の血潮 山河さんがを染めて
  攻めておとせし シンガポールよ
  感激あつく たぎり来て
  歩調もとどろく 晴れの入城

4.紅もゆる 東の空を
  仰ぐまぶたに なびく日の丸
  祖国の父に また母に
  届けや涙の 今日の凱歌

昭和16年12月8日の『宣戦布告』以降、古関はほとんど毎日のようにJOAKに呼び出されて、戦局の進展に合わせた歌にその場で作曲し、できるとすぐに放送するという繰り返しだった。
12月9日『皇軍の戦果輝く』、10日『英国東洋艦隊壊滅』、11日『世紀の決戦』、25日『香港の挽歌』、昭和17年2月15日『マレー半島制圧』、3月11日『蘭印降伏』などが、「ニュース歌謡」で放送された。

シンガポール陥落のニュースがラジオで流れ、新聞各社も号外で報じると、レコード各社は遅れまいと「シンガポールもの」を次々に発売した。
古関の『シンガポール晴れの入城』もその中の一曲ということになるが、同じくコロムビアから、西條八十作詞、古賀政男作曲で『陥したぞシンガポール』が4月に発売されている。

だが東海林太郎が歌う『戦友の遺骨を抱いて』(5月15日発売、6月新譜)がテイチクから発売されると、状況が一変してしまった。
シンガポール入城式の時に現地で作られた軍歌だということが新聞記事になり、たちまち人気を独占してしまい、それ以外の「シンガポールもの」がかすんでしまったのだ。
コロムビアも 酒井弘の歌で、同じ『戦友の遺骨を抱いて』(6月20日発売、7月新譜)を出すほどだった。

『戦友の遺骨を抱いて』B 東海林太郎/歌 テイチク盤(昭和17年5月15日)

     作詞/逵原実 作曲/鈴木三郎  歌/東海林太郎

井伏鱒二

作家の井伏いぶせ鱒二ますじは陸軍徴用でマレー軍宣伝班に入隊させられて、マレー攻略軍とともにシンガポール目指して進軍して行った。
シンガポール入城後は、『建設戦』という陣中新聞を出すのが仕事だった。

井伏は、『戦友の遺骨を抱いて』という歌はかれら宣伝班と不思議な縁があったという。

2月15日、フォード工場の一室で山下・パーシバル会見があった時、翌朝、井伏ら宣伝班は取材が済んだのでジョホール・バルからシンガポールへ向かって出発しようとしていた。
一人の見知らぬ下士官が近づいて来て、
「こういうものを作ったんですが、物になったら何とかしてもらえんでしょうか」と言って、手帳を差し出した。
手帳は軍属のはら嘉章よしあきが受け取った。
原嘉章は、古関版『麦と兵隊』の作詞者である。徴用前は、筆名を月原橙一郎といって、詩の同人雑誌などをやっていた。
その下士官は名前を辻原つじはらみのる逵原つじはら実)といい、伊勢松坂出身の軍曹だということだった。

原はその翌々日、宣伝班演芸部の声楽家・長屋ながやみさおに手帳を見せた。
「暗い歌詞だが、言うことだけは、いやに本当のことを言っていて迫力がある。七五調だから、曲付けは易しいだろう」
長屋はそう思って、陣中新聞『建設戦』に作曲募集の広告を載せてもらうため、編輯のつくだ軍曹のところへ持って行った。

応募曲は集まったが使えそうなものがなく、ちょうどセネタ軍港に海軍軍楽隊が来ていたので、作曲を頼むことにした。
作曲は、AとBの二つが出来てきた。
宣伝班ではAの方を採用し、『建設戦』誌上に歌詞と曲を発表したため、たちまち全軍にひろまった。

このが、のちにポリドールから発売されることになる石井亀次郎版『戦友の遺骨を抱いて』であった。
井伏によると、すぐに内地でも歌われるようになったとあるので、レコード発売前に歌っている兵隊たちや関係者がけっこういたと思われる。
この直後に毎日新聞主催の慰問団がやって来たが、そのときは『戦友の遺骨を抱いて』の舞踊を江口舞踊団が踊り、石井亀次郎と斉田愛子がかわるがわるを歌った。
石井亀次郎版のレコードが出るのは翌年の4月新譜なので、それよりだいぶ前からが歌われていたことがわかる。

『戦友の遺骨を抱いて』Bの方は海軍軍楽隊に返したが、どういう経緯でか、テイチクからレコードとなって世に出たという。
それが東海林太郎版戦友の遺骨を抱いて』である。内地では、こちらの方が先にヒットしていた。

森一也によると、内地の新聞には『戦友の遺骨を抱いて』の短音階のもの、つまりの曲が掲載されていたという。
3月ころ、シンガポールから帰った従軍記者の講演会があって、講演のあと森が短調のの歌を指導したところ、楽屋でそれを聞いていた記者があとから森に言った。
「今の歌は、私たちがシンガポールで歌ったものと歌詞は同じだが、曲が違います。変ですねえ。」
この記者はシンガポールで(変ロ長調、ヨナ抜き)の歌の方を聞いたようだ。は、井伏ら宣伝班が選んで『建設戦』に掲載し、最初にシンガポールで広がったものだから、当然と言えば当然のことだ。

『戦友の遺骨を抱いて』A 石井亀次郎/歌 ポリドール盤(昭和18年3月10日)

翌昭和18年、ようやく石井亀次郎版『戦友の遺骨を抱いて』(3月10日、臨時発売)がポリドールから出た。
少し遅れて、 鳴海信輔、斉田愛子版(3月20日発売、4月新譜)がビクターから出た。
どちらもの曲である。
するとたちまち、こちらの作品の方が大ヒットし、以後今日まで『戦友の遺骨を抱いて』といえば、逵原つじはらみのる作詞、松井孝造作曲の本作品ということになったのであった。

     作詞/逵原実 作曲/松井孝造  歌/石井亀次郎

これには、まだ後日談がある。
私が『戦友の遺骨を抱いて』を作詞・作曲したという人物が現われたのだ。辻原軍曹ではない。
長崎の人で、長崎の病院に入院中、この歌を上手に口ずさむので、いつの間にか作詞作曲した本人だということになってしまった。
否定することもできず、
「手帳の端に歌と曲を書いておいたのを、どこかに落としてしまった。誰かが拾って、みんなに歌われるようになったのだ」と、苦しい告白をした。
それが後に日本テレビでも取り上げられた。

これを知った長屋操は、宣伝班に深い縁のある思い出の歌を私物化されて汚されたように思い、以後十年の年月をかけて、本当の作詞者と作曲者を執念で探し当てたのだった。

戦後、長屋は専売局勤めで忙しくしていたが、夏休みを利用して伊勢松坂に行き、辻原実元軍曹を訪ね当てた。
辻原元軍曹は伊勢松坂の町で結婚式場の経営をやっており、『戦友の遺骨を抱いて』の作詞者本人であることが確認できた。

次は作曲者を探す番だが、長屋は『戦友の遺骨を抱いて』の曲の暗さから、作曲者は東北出身ではないか?と当たりを付けた。
確かに当時は、東北と言えば貧しく暗い人々の国というイメージであったろう。
長屋は、今年は福島から須賀川、翌年は石巻から盛岡、さらに次の年は柏崎、三条、新潟と、夏休みを利用して東北方面を片っ端から探し続けた。

探し始めてから八年か九年がたった頃、ついに長屋はセネタ軍港に来ていた海軍軍楽隊長だった中村力という人から、「あの歌の作曲者は、松井孝造一等兵曹に間違いないです」という証言を得ることができたのだった。
松井孝造元一等兵曹は長屋が予想した通り、秋田県横手町在住の人だった。

こうして『戦友の遺骨を抱いて』は、辻原実軍曹作詞、松井孝造一等兵曹作曲であることが確定した。長崎の人は、まったく無関係だった。

最後に、井伏鱒二が当時長屋操が『戦友の遺骨を抱いて』について語っていたことを書き留めているので、それを紹介しておこう。
当時シンガポールで『戦友の遺骨を抱いて』という歌が、どのように兵隊たちに受け入れられていたかがわかって、興味深い。

病院の兵隊に一番うけるのは、「暁に祈る」と「遺骨を抱いて」の二つである。マレー人やユーラシアンの歌手が「ああ堂々の輸送船、はるかに拝む宮城の……」というところを歌って行くと兵隊は涙ぐんで来る。「ああ大君のおんために……」のところに来ると、日本軍隊では歌う兵隊が直立不動の姿勢をとるから、マレー人やユーラシアンの女の歌手もその通りにして歌う。すると凄い拍手が湧き起る。シンガポール攻略戦で負傷した兵隊は、「遺骨を抱いて」の歌のとき、「まだ進撃はこれからだ……」というところに来ると、わっと泣き伏してしまうのがある。一番よく泣かせる歌と云った方がいいかもしれぬ。日本軍がシンガポールを陥落させさえすれば、戦争は終ると思いこんでいた兵が多かったからだろう。罪なことをしたものだ。「まだ進撃はこれからだ」と云うところに、恨めしさが籠もっている。(井伏鱒二『徴用中のこと』より)

昭和17年3月17日、「ハリマオ」谷豊が、シンガポールの陸軍病院で戦病死した。30歳だった。
日本の新聞各紙が大々的に報じるのは、4月3日のことである。

   『マライの虎』と谷 豊~ハリマオ伝説の始まり

『アメリカ爆撃』(昭和17年5月20日)

昭和17年初頭から秋にかけて、日本軍は、米国、豪州、カナダ、インド本土への空襲を敢行した。
特に米国とカナダ本土への攻撃は、敵国民の戦意喪失を図るとともに、自国民の戦意高揚を狙っての作戦行動だった。

2月24日、日本軍潜水艦が米国カリフォルニアの石油貯蔵タンクを狙って砲撃を加えた。しかし、砲弾は施設内の木製桟橋に穴をあけただけで、火災や死者もなく被害は軽微だった。
だが「騒動」はこれだけで終わらなかった。
翌25日払暁ふつぎょう、カリフォルニア州沿岸のロスアンゼルスでは、敵飛行機と思われるもの1機もしくは数機が目撃され、空襲警報が発令され、灯火管制が敷かれて真っ暗な中、高射砲が立て続けに発射された。
高射砲弾は敵飛行機の間近で炸裂したが、一弾も命中しなかった。

ロスに敵飛行機が飛来したという報道は全米国民に衝撃を与えたが、実際には「正体不明」だったため、米官民を困惑させることになった。
26日午前1時31分、今度は首都ワシントンに空襲警報が鳴り響いた。13分後に解除されたが、実はバージニア州ハンプトンロードでも、同時刻ごろ空襲警報が発令され住民を動揺させていた。

アメリカ陸軍長官スチムソンは、国籍不明の怪飛行機十五機がアメリカ西海岸に現れたが、同地区の高射砲隊が迎撃発砲したことを新聞記者会見で発表した。
怪飛行機は一発の爆弾も投下しなかったが、アメリカ空軍が出動することもなかった。敵国の狙いは、アメリカ国民に恐怖心を抱かせるとともに、高射砲陣地の探索が目的だったと思われるとスチムソンは語った。

この事案についての大本営発表はなかったが、外電発として日本の新聞でも報道された。
『アメリカ爆撃』という歌は、この報道からインスパイアされて作られたと思われる。

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/コロムビア男声合唱団

『アメリカ爆撃』[歌詞]
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而  歌/コロムビア男声合唱団

1.アメリカ 本土爆撃
  この日を 待ちたる我等
  祈りを 上げながら聴け
  鳴り出す 警報サイレン
  あれはアメリカ とむらう歌だ
  わめき立つな 最早遅い
  我等は荒鷲

2.亜細亜アジアの 敵のアメリカ
  悲鳴を 吐くまでやるぞ
  この日の 来る時を待ち
  鍛えた この腕だ
  笑って行こうぞ 翼の戦友
  叩きのめせ 叩きつけろ
  我等は荒鷲

この1942年2月の潜水艦と飛行機によるアメリカ本土攻撃は、スティーブン・スピルバーグ監督によって映画化もされている。
1941』がそれだ。
アメリカ国民にとっては触れられたくない歴史のようで、当時スピルバーグは猛烈な批判にさらされた。
反アメリカ的な映画だとして、出演交渉したジョン・ウェインにも断られた。
いま見ると、ジョン・ベルーシ、三船敏郎などが出演しており、大笑いの楽しすぎる映画だ。映画史上最大の「真面目な」コメディ・スペクタクル映画である。

日本機によるアメリカ本土攻撃というのは、どこまで本当だったかはっきりしない。アメリカ人が勝手に見た「妄想の敵機」に、高射砲やら対空機銃やらをぶっ放しまくったというのが真相らしい。

その後、6月21日、潜水艦伊26がカナダ沿岸に浮上し、バンクーバー島に砲撃を加えた。これは史実である。
翌22日、伊26号は、アメリカ本土西岸から48キロ沖に浮上、オレゴン州アストリアの重要軍事施設を砲撃するとともに、潜水艦搭載の複葉小型水上機を発進して森林地帯に焼夷弾を投下した。

これが日本軍による、米本土初空襲になる。──風船爆弾によるものを除けば、「最後の空襲」でもあったが。

『防空監視の歌』(昭和17年5月20日)

ドーリットル爆撃隊、日本本土を初空襲!(昭和17年4月18日)

日本空襲に向かうノースアメリカンB25

昭和17年4月18日、土曜日。
太平洋上の空母ホーネットより発艦したノースアメリカンB25爆撃機16機のうち13機が京浜地区に侵入し、正午過ぎに東京の町に五〇〇ポンド爆弾の第一弾が投下された。
東京では午前中、防空演習があったため、高射砲が撃たれたり黒煙が上がっても、本当の空襲と思った者はわずかだった。

首都防空部隊は奇襲にあわてふためき、B25に向けて高射砲を撃ちまくったが、B25はうまく旋回してかわした。それを撃墜と報告したため、その日の夕刊に九機撃墜と戦果が発表されたが、実際は1機も撃墜できていなかった。

アメリカのB25爆撃部隊は、東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸などに21発の爆弾と1465発の焼夷弾で爆撃し、通り魔のように南支那海に去った。

日本側の損害、死者45、重症153、家屋全焼160、半焼129、全壊21。横須賀のドッグでは、改装中の潜水母艦「大鯨」が艦首付近に損傷を負った。
しかし発表は「被害は軽微なり」だった。
唯一大々的に報道されたのは、葛飾区水元小学校の校庭が「鬼畜の敵」によって機銃掃射され、学童一名、石出巳之助君(13歳)が死亡したことだけだった。

東京空襲計画は、この年の1月に米海軍作戦参謀フランシス・L・ロー大佐によって立案され、キング作戦部長とともに練り上げた。
東京から約五〇〇マイルの海上で、空母より空襲部隊を発進させる計画である。
これだけ日本本土から離れていれば、日本軍の空海兵力からの攻撃が避けられると考えた。
発進させた後は、日本軍の反撃を受ける前に空母はすぐさま引き返すことになる。
爆撃隊は空母には戻れないので、日本空襲後は南支那海を越えて、同盟国である中華民国軍の飛行場を目指すしかない。
重い爆弾をかかえて母艦からおよそ二〇〇〇マイル飛ぶとなると海軍機では無理なので、陸軍機を用いることにした。
海軍の空母から陸軍の爆撃機を発艦させるという作戦が、海軍のニミッツ提督と陸軍のマッカーサー大将が対立する中で実現できたのは、「合理性」という点でアメリカ軍の方が日本軍より勝っていたあかしでもあるだろう。

日本本土空襲を担う爆撃機はB25双発軽爆撃機が適当として選ばれ、その要員には第十七爆撃連隊のジェームス・H・ドーリットル中佐以下、二百人の志願将兵が指名された。
東京空襲という計画は秘密のまま、空母発着艦訓練が行われた。

4月2日、空母「ホーネット」はドーリットル隊十六機・要員八十名を載せ、重巡二、駆逐艦四、油槽船一から成る第十八機動部隊がサンフランシスコ湾を出港した。
同日午後、目的地は「東京」であることをホーネットのラウドスピーカーが告げると、艦内のいたるところで歓声が上がった。

4月13日、第十八機動部隊は北太平洋上で、真珠湾より出発したハルゼー中将率いる第十六機動部隊と合流し、その指揮下に入って東京を目指した。

ドーリットル隊の空襲計画は、4月18日の夕方にまずドーリットル中佐機だけが到着し、焼夷弾を投下して攻撃目印とし、後続部隊は3時間後、目標に五〇〇ポンド爆弾を投下して夜陰にまぎれて日本上空を通過し、中国大陸の麗水飛行場を目指すというものだった。

日本海軍は米機動部隊の本土空襲を警戒して、2月から徴用した漁船に海軍下士官が艇長として乗り組み、二十隻前後を東経一五五度線上に配置し哨戒にあたっていた。
4月18日午前7時30分、哨戒艇「第二十三日東丸」が緊急無電を発信した。
「敵空母三隻見ユ、ワガ地点犬吠崎ノ東六〇〇マイル」

軍令部と連合艦隊は、第二十六、第二十一航空戦隊に攻撃命令を発令、第一航空艦隊と第三潜水戦隊に現場急行を命じた。
しかし、水上部隊は別作戦からの帰途中だったため間に合わず、航空部隊も敵の攻撃隊が発艦するのは本土より三〇〇マイルに達してからと考え、陸攻29、戦闘機24が発進したのは、東京空襲が終わった後だった。
まさか航続距離の長い陸軍機が空母に載っているとは、誰も思わなかったのである。

ハルゼー中将は、重巡「ナッシュビル」に「第二十三日東丸」を撃沈させ、空母「エンタープライズ」の艦載機に他の哨戒中の漁船を攻撃させた。
哨戒艇全12隻が撃沈され、戦死33、戦傷23の損害を出したが、それが発表されることはなかった。

午前8時、機動部隊が発見されたと判断したハルゼー中将は計画を変更し、ドーリットル隊に発進を命じた。東京まで六六八マイル、中国大陸までたどり着けるかどうか、ぎりぎりの地点だった。
ドーリットル隊八十名は、中佐の「レッツゴー!」の声でB25に飛び乗り、甲板を蹴って飛び立って行った。

日本本土空襲後、1機は燃料不足のためソ連のウラジオストックに向かって不時着、他の15機は中国大陸に向かうも日没と悪天候のため目的飛行場を発見できず、飛行場付近に不時着したり落下傘で飛び降りた。
5名が墜死および溺死、日本軍占領地に降下した8名は捕虜となり、東京に送られて軍事裁判にかけられ、3名が銃殺刑に処せられた。
それ以外の隊員たちは、夜の山中をさまよった末に中華民国軍ゲリラに出会い保護された。

真珠湾攻撃に対する米軍の、これが最初の「お返し」だった。
ドーリットル隊の東京空襲は米国民の士気を高め、一方日本に対しては、首都防空を担当する陸軍部と政府に大きな衝撃を与えた。

山本五十六連合艦隊司令長官は、常に本土空襲を心配しており、それを防ぐためにはアメリカ機動艦隊の撃滅以外はないという開戦以前からの固い信念を持ち続けていた。
そのため新たに「ミッドウェイ・アリューシャン攻略作戦」を提案していたが、陸軍の拒絶によって実現できないでいた。
しかし本土初空襲を経験して、ようやく陸軍も山本長官の作戦の正しさを認識し始めていた。

『防空監視の歌』(昭和17年5月20日)

『防空監視の歌』は、ドーリットル爆撃隊による本土初空襲がきっかけとなって作られたと思われる。

首都防空のための八八式7.5センチ高射砲の生産数は、この頃1ヵ月に46門でしかなかった。
東京初空襲に慌てた軍部は高射砲生産のピッチをあげ、年産550門だったのを一挙に1053門にまで増加した。

相馬御風御大の歌詞を見ると本土初空襲の影はほとんど感じられないが、実際の被害が正しく国民に知らされなかったせいもあるだろう。

     作詞/相馬御風 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎、二葉あき子

『防空監視の歌』[歌詞]
作詞/相馬御風 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎、二葉あき子

1.御国みくにの空を とおとい空を
  ぐっとにらんだ この目だ耳だ
  油断大敵 あぶ一ぴきも
  ただはのがさぬ この目だ耳だ
  無敵皇軍 勝利のしらせ
  聞けば聞くほど 心はしまる
  御国の空は 鉄壁だ

2.御国の空を とおとい空を
  神に誓って まもるぞわれら
  忠義一徹 鉄石心だ
  千里万里の 第一線と
  同じ覚悟だ みな戦友だ
  安心してくれ 兵隊さんよ
  故郷の空は 鉄壁だ

3.御国の空を とおとい空を
  護る必死の 防空監視
  寒さ暑さも 雨・雪・あらし
  高嶺たかね荒磯あらいそ 日も夜もあろうか
  にらむ日本中の この目だ耳だ
  一億防空 長期の構え
  御国の空は 鉄壁だ

「ミッドウェー海戦」に大敗!(昭和17年6月5日)

アメリカ海軍は日本海軍の暗号の解読に成功し、さらにウェーキ島その他の沈没軍艦から暗号書を引き揚げていた。
だから、日本側のツラギ、ポートモレスピー攻略、日本輸送船団のラバウル出発日時等を正確に把握していたが、ここに来てニミッツ提督は山本長官が大作戦を立てていることを探知した。

山本長官が太平洋のどこにあらわれるか、それを正確に捕捉しないと太平洋は日本軍の支配下に置かれることになる。

ニミッツ提督は偽の暗号電文を打たせ、それに対する日本側の反応を見て、山本長官が現われる秘密ポイントが「ミッドウェイ」であることを突きとめた。

このアメリカ側の暗号解読が、ミッドウェイの勝敗を大きく左右することになる。

『日本の母』(昭和17年6月7日)

『日本の母』は、同名の映画の主題歌。
まことに多くの軍歌が、兵隊が敵弾に倒れた時に「天皇陛下、万歳!」と言って死んでいく姿を描いているが、これを否定する「反戦的」な風潮があったため、それを封じる目的で作られた映画だったとのこと。

兵隊が死ぬ間際の言葉としては「お母さん!」というのが最も多かったという説は聞いたことがある。統計があるはずもないので、誰かの経験にもとずく話以上のものではないだろう。

しかし、この歌を聞いたら「お母さん!」と言って死んでいく兵隊が増えそうな気がするが、それが西條八十の密かな狙いだったかもしれない。
古関は、立派な「共犯者」である。

兵隊たちが「お母さん!」と言って死んでいったという伝説さえも、戦後、ある意図を持った者たちによって言いふらされたフィクションだったとも思われる。
戦闘で傷つきながらもなお余命を保った者たちが、故郷や家族のことを思ったとしても不思議はない。
しかし、死の間際に、しっかりした意味を持った言葉をどれだけの人間が発語できることか? 
意識が混濁した状態で発せられる言葉は、当人以外の者にわかる種類のものでないことの方が多かったのではないか?

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/松原操

『起てよ印度』(昭和17年8月20日)

4月13日、チャンドラ・ボースがドイツから、インド人の独立決起を呼びかける放送をした。
5月15日、バンコクで全極東インド人代表者大会が開催された。
日本の情報組織である岩畔いわくろ機関の指導の下、アジア各地のインド人二千人が参集して、祖国の独立と対英徹底抗争の叫びを上げた。

     作詞/高田天竜 作曲/古関裕而  歌/酒井弘

『起てよ印度』[歌詞]
作詞/高田天竜 作曲/古関裕而  歌/酒井弘

1.天上天下 独尊の
  仏祖の聖地 大印度
  千古の歴史 踏みにじり
  飽くなき暴威 うち奮ふるう
  奸悪かんあく英を 今ぞ討て

2.或いは威嚇いかく 悪政に
  或いは老獪ろうかい 懐柔に
  いつまで耐えて 忍ぶべき
  憤然起てよ 反英の
  独立の旗 ひるがえせ

3.正義はついに 我にあり
  亜細亜の東 神風に
  アングロサクソン 撃追す
  ノルマン族を 壊滅の
  堂々の陣 今ぞ敷け

4.義の国日本 君が盟友とも
  旭日あさひ御旗みはた なびくとき
  ユニオンジャック 露と消え
  印度は印度 人に帰し
  共栄圏は 栄ゆべし

『空の軍神』(昭和17年9月20日)

加藤建夫中佐(1942年初頭の南方戦線にて)

昭和17年5月22日、飛行第六十四戦隊長・加藤建夫たてお中佐が戦死した。39歳だった。
二階級特進して少将となり、「軍神」とされた。

後に作られた映画『加藤隼戦闘隊』(昭和19年3月9日封切)によって、「エンジンの音、轟々ごうごうと──」という戦隊歌が有名になった。

   ミロの「軍歌」入門その3 『加藤隼戦闘隊』

加藤は明治36年(1903年)9月28日、北海道上川郡に生まれた。ちょうどその日に「建て前」があったため、建夫たておと名付けられたという。

父・鉄蔵は明治38年に日露戦争の奉天会戦で戦死しており、遺言によって兄ともども陸軍軍人の道に進んだ。

旭川中学から仙台陸軍幼年学校、陸軍士官学校と進み、卒業して陸軍歩兵少尉に任官したが、志願して陸軍航空兵少尉となり、所沢陸軍飛行学校23期操縦学生になった。
同校卒業に際しては、成績優秀につき、ただひとり「恩賜の銀時計」を拝領した。

その後中尉に進級した加藤は、同校教官、陸士区隊長、明野陸軍飛行学校教官を歴任し、昭和8年に陸軍航空兵大尉に進級、昭和11年に立川の飛行第五連隊第一中隊長を命じられた。

昭和12年、盧溝橋事件勃発により支那事変が始まると、加藤は飛行第二大隊中隊長として九五式戦闘機を操縦して北支戦線を転戦した。
洛陽飛行場攻撃、西安攻撃と幾多の実戦を戦い抜き、寺内寿一北支方面軍長官から部隊感状を受けると、「陸軍戦闘機隊に加藤あり」と言われるようになった。

川崎九五式戦闘機

陸軍大学校入校を命じられ、いったん帰国。陸軍航空少佐に進級して卒業、昭和14年に陸軍航空総監部部員兼陸軍航空本部部員となった。ここでは航空機の新機種の制式採用判定などの業務にあたったが、次期主力戦闘機として「キ43」試作機が採用候補に挙げられると、加藤は猛反対した。「キ43」試作機はのちに、一式戦闘機「はやぶさ」と名付けられることになるのだが。

この年、寺内寿一大将がドイツ、イタリアを訪問することになり、豊富な実戦経験を買われて加藤も同行することになった。
訪問先のドイツではドイツ空軍の新鋭戦闘機を見せてもらったが、計器類を見たら動かせそうな気がしたので、加藤は了解をとって大空に飛び上がると見事に乗りこなしてドイツ人を驚かせた。この件は、のちのちまで加藤の語り草になった。

昭和16年4月10日、加藤少佐は南支広東の天河てんが飛行場に駐留していた飛行第六十四戦隊の戦隊長に任命された。
9月から10月にかけて、加藤部隊は、脚を出しっ放しの九七式戦闘機から引き込み脚の新鋭一式戦闘機へ、機種改編に追われていた。
一式戦闘機は加藤が航空本部員時代に採用を猛反対した戦闘機だが、時局の推移に押されて採用が決定してしまった。いったん採用が決定すると、加藤は一式戦を猛然と乗りこなし、その欠陥・欠点を洗い出して改修に取り組み始めた。主翼の強度不足から空中分解事故が起こったりしたが、あきらめずに改良を重ねて行ったのである。

飛行六十四戦隊・中島九七式戦闘機の列線

12月3日、加藤部隊の一式戦闘機35機は天河飛行場を飛び立ち、1,750キロ南にある仏印フコク島のゾンド飛行場へ移動した。
12月8日、対米英戦開戦とともに、加藤部隊はマレー半島上陸軍を支援して、制空のためイギリス軍戦闘機を求めて出撃した。

マレー攻略戦と同時に、援蒋ルート遮断を目的にしたビルマ攻略戦が始まった。
日本軍の動きに応じてイギリス軍も兵力を増強して来たので、これを叩くため加藤部隊にラングーン攻撃命令が下った。
12月25日、加藤部隊は戦爆連合によるラングーン攻撃に出動、英国戦闘機ホーカーハリケーン10機撃墜の戦果を挙げた。アメリカ義勇軍「フライング・タイガース」とも、激戦を繰り広げた。

昭和17年、加藤部隊はシンガポール作戦の支援のため、バッファロー戦闘機を主力とした英空軍と空中戦を展開しシンガポールの制空権を確保した。

シンガポール陥落前日の2月14日、第一挺身団主力の空挺団が、蘭印のスマトラ島パレンバンに奇襲降下作戦を決行した。大東亜戦争の主目的である油田地帯の確保のために、英国軍に破壊される前にパレンバンを制圧する必要があった。
第一梯団はパレンバン飛行場、第二梯団はパレンバン精油所に降下した。

加藤部隊は第一梯団の輸送機の護衛に就いていたが、飛行場の周囲に配置された高射砲や高射機銃十数門がいっせいに火を噴いた。
軽爆部隊が次々に高射陣地を叩いていき、第一梯団は無事に降下することができた。
パレンバン精油所は無傷で確保することができ、所期の目的は達成されたのであった。

大東亜戦争開戦後、南方戦線で華々しい戦果を挙げる活躍が認められ、航空本部は一式戦闘機を「はやぶさ」と命名し、3月に新聞でその名前と雄姿を発表した。

中島一式戦闘機「隼」

加藤「隼」戦闘隊は西部ジャワ方面へ転進し、オランダ軍のカーチスP36やP43と戦い、これを撃滅した。

さらにタイのチェンマイ飛行場に転進すると、4月8日、ビルマ・中国国境のローウィン飛行場を攻撃、機銃掃射で地上の戦闘機群を破壊したが、上空で待ち伏せていたP40に奇襲され、加藤の片腕・安間克己中隊長が還らぬ人となった。

中部ビルマに雨季が近づいた頃、部隊内でデング熱が流行した。
デング熱というのは蚊が媒介して起こるこの地方特有の感染病で、39度から40度の高熱が2、3日続いた。
最初にデング熱にかかったのは加藤部隊長で、つぎつぎに隊員たちも感染していった。
この病気の療法はただじっと寝ているだけで、それが一番治りが早かった。
加藤部隊長が回復すると、部下たちもひとりまたひとりと回復していった。

5月21日、加藤部隊長は配下の五機を率いて、ベンガル湾に臨むアキャブに進出した。
アキャブはすでに友軍が占領していたが、英豪連合軍はハリケーンやブレニム中型爆撃機を繰り出して、アキャブ一帯に攻撃を繰り返した。

ブリストル・ブレニム軽爆撃機

5月22日、よく晴れた空に爆音が聞こえた。日本機の音ではない。
まず加藤部隊長が走り出し、「回せーッ」と叫ぶと、休んでいた部下たちも一斉に愛機めがけて駆けだした。
五機の「隼」が、砂塵を巻き上げながら次々に離陸した。
一機のブレニム爆撃機が視界に入った。ブレニムは「隼」に気がついて、フルスピードで海上に逃走した。

加藤部隊長がブレニム機の後上方から攻撃を仕掛けると、部下たちも一機また一機と攻撃態勢に入った。
ブレニムは、後部機銃で応射した。
安田曹長機が被弾し、銃弾は安田をそれたが、割れた風防ガラスが安田の顔を切り裂き血が吹き出した。安田は戦場から離脱し、基地へ戻った。

戦場には、いつの間にか近藤兵曹機と加藤部隊長機しか残っていなかった。
加藤部隊長機はブレニムの後方に肉薄し、翼とエンジンに集中弾を浴びせた。ブレニムはエンジンから火を噴いて、傾いたと思うと急速に高度を落とし、海上に突っ込んで爆発した。

近藤曹長が部隊長機に眼をやると、部隊長機はまっすぐに上昇して行き、機の後方に炎を引いているのが見えた。
近藤曹長に何かを告げるように、ゆっくりと翼を右に左に振りながら、なおも部隊長機は上昇していった。
高度三百メートルまで上ると、機体を左に横転させ裏返しになったまま、真っ逆さまにベンガル湾の紺青コバルトの海面めがけて急降下していった。

あとには大きな波紋が残り、その中央で漏れた燃料に着いた火が燃えていた。近藤曹長の「隼」は、いつまでもその上空を旋回し続けていた。

ベンガル湾に散った加藤中佐は、その輝かしい戦功が認められ、二階級特進して少将となり、「軍神」となったのであった。

『空の軍神』[動画]

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

4番の歌詞に出て来る「ブレンハイム機」とは「ブレニム軽爆撃機」のことで、ドイツ語読みするとこうなる。ブレニムは、英語読みである。
当時、どちらの呼び方も軍隊内でなされていた。

古関裕而の「南方慰問団旅行記」(昭和17年10月)

徳川夢声作『くじら、くじら』を歌う

JOAK東京放送局が、南方占領地区に慰問団を派遣することになった。
古関もその一員に選ばれたが、楽団の指揮者としてだけでなく、東南アジアの民謡の採集と研究、現地での作曲など、求められる役目・名目は多彩だった。

団長は演芸部長の小林徳二郎、総合司会と漫談の徳川夢声、歌手は内田栄一、波岡惣一郎、奥山彩子、豊島珠江、藤原千多歌、浪曲の梅中軒鶯童、落語の林家正蔵、曲芸師、舞踊団六名、伴奏の東京放送管弦楽団の選抜十六名という、東京放送ならではの豪華メンバーが揃えられていた。

十月、慰問団は軍用船楽洋丸らくようまるに乗って出発したが、楽洋丸は元南洋航路の一万トンの客船で老朽船だった。
占領地に向かう司令官や将校、兵士などの軍関係者、商事会社社員、女子事務員などが乗り合わせていた。

慰問団はなぜか、甲板下のうす暗い特別三等船室に押し込められた。三等室とは何事かと、これには全員が怒った。しかし事務長に談判してみても、一度決められたことは変えられなかった。

船は十数隻の船団を組んで関門海峡を抜けて、最初の寄港地である台湾に向かった。
その姿はまさに「ああ、堂々の輸送船」だったので、日中みんなで『暁に祈る』を合唱した。

特別三等室の夕食は、毎日毎日「鯨」ばかりだった。
ついには、日没になると、大海原を見ながら慰問団一同は大合唱するようになった。

「さくら、さくら」の替え歌で、

くじら、くじら、今宵の皿は
見わたすかぎり、
かす身か くずか
においぞ 出ずる
いやだ いやだ
身も 食えん

こちらは「宵待草」の替え歌で、

待てど 暮らせど 出ぬ肉の
夕めしどきの やるせなさ
今宵も くじらが 出るそうな

どちらも徳川夢声の作で、みんなで怒鳴って、憂さ晴らしをするのだった。

だが、ついに、「鯨」問題が解決する日がやって来た。
船長からの依頼で、船中で慰問をやってほしいという。その代わりというのもなんだが、一等船客で数名乗船しなかった人がいるので、その分の食事を朝昼晩三食、一等食堂で摂ってくれということだった。
一同異議なし!で、さっそく慰問興行をすることになった。
団員は順番に一等食堂で食事をするようになり、一日おきくらいに三食の内どれかに当たることになって、「くじら、くじら」を歌うこともなくなった。

やがて船は台湾の高雄に入港し、数日停泊した。その間、一同は街に出て、台湾料理を囲んで元気を取り戻した。

高雄を出航すると、いよいよ敵潜水艦が出没する南支那海に入った。危険海域なので、ここを抜けるまでまいにち緊張の連続だった。
ただ夜になると、夜光虫が海面に帯状に光り、ネオンが輝いているようだった。

警戒警報は何度も鳴ったが、さいわいに攻撃されることもなく、11月3日、仏印の南端サン・ジャック岬に到着した。
慰問団にだけ上陸許可が出て、初めて印度支那の地を踏みしめた。住民や風物など、みな珍しいことばかりだった。
小さな喫茶店で飲んだコーヒーが、素晴らしくうまかった。

サン・ジャックを出航して南下すると、数日後にシンガポールに着いた。

『大南方軍の歌』(昭和18年4月20日)

シンガポールは南方軍総司令の所在地だけあって治安もよく、街はにぎわっていた。

着いた翌日から各部隊や軍の病院などを回って、慰問演奏が始まった。
総軍の報道部から呼び出されて古関が行ってみると、『大南方軍の歌』を募集してすでに歌詞も出来ているので、シンガポール滞在中に作曲してほしいとのことだった。

古関は歌詞を受け取り、ただちにホテルに戻って作曲に取り組んだ。
翌日には報道部の担当将校を放送局のスタジオに呼んで、練習かたがた出来上がった歌を聞かせた。いかにも古関らしい、勇壮にして軽快な仕上がりのマーチ風歌曲である。
すぐにOKが出て、その後の慰問プログラムには必ずこの『大南方軍の歌』が加えられることになった。
帰国後の4月20日には、レコードも出た。

     作詞/南方軍制定 作曲/古関裕而  歌/霧島昇

『大南方軍の歌』[歌詞]
作詞/南方軍制定 作曲/古関裕而  歌/霧島昇

1.亜細亜の南 緑なす
  天賦の山河 幾億の
  共栄の民 同胞はらから
  皇道楽土 建設の
  威望にゆる 大使命
  燦たり我等 大南方軍

2.輝く御稜威みいつ 戴きて
  ああ絶大の この戦果
  遠く祖国の 雲の峰
  仰ぎて今ぞ 神兵の
  眉にひらめく 大決意
  厳たり我等 大南方軍

3.勇猛果敢 縦横に
  灼熱しゃくねつ何ぞ 赤道下
  幾多の死線 乗り越えて
  日本男児 必勝の
  鉄より固き 大信念
  雄たり我等 大南方軍

4.昇る旭光 赫々かくかく
  砕くる波濤 轟々と
  見よや明け行く 大東亜
  地殼を割って 新しき
  歴史は起こる 大壮挙
  壮たり我等 大南方軍

5.東亜の民を 導きて
  一宇の中に 共栄の
  固き大同 団結を
  目指して進む 皇軍の
  ああいや高き 大歩調
  はえあり我等 大南方軍

『みなみのつはもの』(昭和18年4月20日)

『みなみのつはもの』についてはほとんど情報がないが、「南方軍報導部撰定歌」ということなので、『大南方軍の歌』と同時期の作曲と見ていいだろう。

     作詞/南方軍報導部撰定歌 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

『みなみのつはもの』[歌詞]
作詞/南方軍報導部撰定歌 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

1.宣戦布告 この文字の
  強く身に沁む 感激が
  この勲功いさおしを 立てたのだ
  やっと出せるぞ 故郷ふるさと
  晴れの便りが 書けるのだ

2.勝ったぞ遂に この腕で
  血潮の旗を うち振った
  大要塞の あの丘を
  じっと涙で 眺めたら
  月がおぼろに 見えて来る

3.こうぞ戦友ともよ あの星が
  きらめく大地 ある限り
  平和な世界を 創るため
  南方軍の 意気見せて
  華と咲くのだ 山桜

ジャワは天国、ビルマは地獄

シュエダゴン・パゴダ

シンガポールの日程を終えると、こんどはいよいよ「ジャワ」だった。
「ジャワは天国、ビルマは地獄」と言われていたので、団員は全員期待で盛り上がっていた。
だが南方総軍から慰問団に命じられたのは、ビルマ方面の慰問だった。
やっぱ慰問が必要なのは地獄の方だよな、と、一同気を取り直し、ふたたび船に乗ってビルマの首都ラングーンを目指した。

ラングーンでは、慰問の合間にシュエダゴン・パゴダなど市内見物をした。
ビルマの人々は小柄な体格や風貌が日本人そっくりで、言葉が通じないというのが不思議な感じだった。

ビルマ一の舞踊家ウ・ポー・セインが団員一同を彼の家に招いてくれ、ビルマ音楽と舞踊のいくつかを紹介してくれた。
古関は貴重な資料を目の当たりにして、採譜やら何やら忙しかったが、これだけでもビルマに来た甲斐があったと思った。

ラングーンが終わると、いよいよ奥地へ向けて列車に乗った。奥地ではいくつもの部隊が慰問を待ちわびているはずであった。

翌日、中部ビルマの中心地マンダレーに着き、ここから慰問団は雲南方面とインド方面へ二つに分かれた。古関は雲南班であった。

雲南班は、ビルマ国境を越えて支那の雲南省拉孟らもうを目指すべく、トラックに乗って出発した。
最初の町メイミョウは高原地帯にあり、英領だった頃は英軍が避暑地にしていて、 別荘がたくさんある美しい町だった。
ところが夜になると急激に気温が下がり、みんなガタガタ震え出した。半袖・半パンツのユニフォーム姿で、日本からも夏物しか持って来ていなかった。
軍が鹵獲品ろかくひんの英国兵の厚い冬オーバーを出してきてくれて、内地に帰る頃は冬になるので、そのまま持ち帰ってよいということだった。

翌朝、ふたたびトラックで出発。
途中の小さな町や村を兵隊たちがわずかな人数で警備しているので、慰問しながら進む。
シボーの町では、土侯の王様の邸宅でご馳走してもらったり、山岳民族カチン族の部落で小休止したりしながら、炎暑の日中をトラックはジャングルを縫うように進んだ。

北シヤン州のラシオは大都会で、着くと同時に歌手の豊島珠江が盲腸炎になって軍の病院に入院した。ラシオを少し東北に行った処に露天風呂があって、古関らは入浴して疲れを癒した。

マンダレーからラシオまでは鉄道が通じていて、週2本ぐらい汽車が走っていたが、ラシオから奥地は交通機関が何もない。車のタイヤの間隔分だけが2本、簡易舗装されていた。
古関たちはトラックで慰問旅行を続けた。
センウイという町には土民が居住していて、日本語学校の子供二、三十名が『愛国行進曲』を歌って歓迎してくれて、古関たちを逆に慰めてくれた。


タンロンは支那国境に近いサルウィン河のほとりの町で、路の傍らに白骨が累々と放置されたまま、大激戦のあとをとどめていた。
クットカからワンチンへ。
小川が国境線になっており、橋を渡ると民家が中国風に一変した。

芒市ぼうしで慰問を終えると、英軍からの鹵獲品の新車シボレーのオープンカーがあり、龍陵りゅうりょうまでこれで送ってくれるというので女性陣5名はシボレーで、男性陣はトラックで出発した。
高原地帯の山路を登ったり降ったりを繰り返しながら進むと、路がカーブしている場所に差し掛かった。シボレーが猛スピードで曲がって行ったが、トラックがあとに続いて曲がると、先に行ったはずのシボレーが見えない。いぶかりながら徐行すると、はるか崖下から「たすけてェ」という女の悲鳴が聞こえた。
トラックを飛び降りて、古関たちが崖を降りて救出にむかうと、シボレーのオープンカーは車輪を上にして転倒しており、運転していた下士官は下敷きになって即死していた。
投げ出された女性4名は幸いに軽傷ですんだが、浪曲のおばさんが肩を骨折していた。
龍陵部隊が総出で救出に当たり、女性たちは野戦病院に運ばれた。死亡した下士官は、その夜、龍陵の兵舎の庭で荼毘だびに付し、夜を通して慰霊した。

美しい支那建築の街・龍陵をあとにして、古関たち慰問団は最前線の拉孟らもうに着いた。 
目と鼻の先の支那軍と対峙中なので、こんな所まで来る慰問団はおらず、古関たちが初めてだった。兵隊たちの喜びようは慰問団にも伝わり、怪我をした女子たちも大熱演でこたえた。
この拉孟守備隊は大東亜戦争末期、補給路を断たれて最終的に玉砕することになるのだが、この頃はまだ誰もそんな運命を知らない。

古関たちは拉孟を後に、もと来た路を引き返した。
ラシオで盲腸炎からすっかり回復した豊島珠江を回収し、マンダレーから汽車でサジまで南下し、ふたたびトラックで慰問に回って、サジに戻って来たところで印度班と合流した。  
ラングーンまで戻って再び慰問し、ここでビルマとはお別れ。船でマレー半島からペナン島に渡って慰問し、マレー半島にもどりクアラルンプールで昭和18年の新年を祝った。
そこからシンガポールまでは汽車に乗って、主要な駅ごとに降りて慰問した。

シンガポールへ戻って来て、さあ、今度こそジャワだ! と思っていると、「ジャワは天国なので、慰問に行く必要なし」というお達しだった。

帰国の船は安芸丸という新造の客船だったが、いつでも巡洋艦に改造できるようになっていて、大砲も積んであった。
外洋に出ると猛烈な台風に遭遇して、船橋を越えるほどの大波に木の葉のように船は翻弄された。

この船の船倉に、オランダ将校捕虜の一団が乗っていた。一日中日の当たらない船倉でじっとしている彼らを見ていると可哀相に思えて来て、誰いうともなく慰問してやろうということになった。
船倉のふたを開け、楽譜は無かったので、記憶している曲を演奏した。
歌手が外国民謡やオペラのアリアを歌うと、捕虜の将校の中に一緒に歌い出す者が出て来た。両方から盛大な拍手が起こった。
芸術には国境がないと古関はあらためて思った。少しでも彼ら打ちひしがれた人々を慰め得たのは、音楽の徳というものだろう。

シンガポール出航から1週間ほどで船は関門海峡に入り、広島沖の似島検閲所の桟橋に着いた。外地帰りの兵隊は、皆ここで検疫を受けることになっていた。

帰国したのは二月上旬の寒い時期であったが、古関ら一行は半袖開襟の夏服の上に合服あいふくの上下を着こみ、その上に英国軍のオーバーをはおるという珍妙な格好で、出迎えの家族が待つ東京駅に現れた。

大東亜戦争下、最大のヒット曲『若鷲の歌』誕生!(昭和18年・1943年)

昭和18年は、年明け早々、暗い話題が多い。いよいよアメリカの本格的な反攻が始まった年である。

2月、ガダルカナル島撤退。大本営は「転進」と発表したが、完全な敗退だった。
ガ島戦のアメリカ側損害は、艦艇24隻、12万6240トン、戦死1598人、戦傷4709人。
日本側損害は、艦艇24隻、13万4839トン、航空機893機、搭乗員2362人。
さらに陸軍が投入した兵力3万3600人のうち、戦死者約8200人、戦病死者1万1千人。戦病死者のほとんどは補給不足による栄養失調死であり、下痢や熱帯性マラリアによるものも多かった。
ガダルカナルでは第二師団(仙台)の部隊が全滅したと報じられ、部隊は東北出身の兵隊で占められており、古関の従兄弟いとこもこの戦いで戦死していた。

4月18日、連合艦隊司令長官山本五十六いそろく、戦死。
全軍の士気に影響するため緘口令かんこうれいが敷かれたが、遺骨が東京に到着した5月21日に戦死が公表され、全国民に衝撃を与えた。
山本長官は前線兵士の士気高揚のため、ブイン基地方面へ一式陸攻二機に分乗して飛行中のところを、無電を傍受して暗号解読に成功した米軍がP38十機で待ち伏せ、撃墜したのだった。
左顎と胸に貫通弾を受け、山本長官は機内で59歳の生涯を閉じた。長官の一式陸攻はモイラ岬のジャングルに突っ込んだが、遺体は後に回収された。

5月29日、アッツ島で山崎部隊玉砕。
大本営が初めて公式に発表した日本軍の敗北であり、大東亜戦争で最初の玉砕だった。
29日、山崎保代大佐は残存兵力150名を率いて、米軍に夜襲をかけた。山崎部隊の攻撃は30日午後まで続き、29人の捕虜を除いて全員が戦死した。
十七日間に渡る戦いの米軍の損害は、戦死550人、戦傷1140人、凍傷による戦闘不能者約1500人。
予想外の大損害だった。

『戦う東條首相』(昭和18年4月20日)

めぼしい英雄たちが次々に戦死して、いよいよ東条首相にまでご出馬願うようになったようだ。
作詞の小田俊與は、詩人・作詞家にして政治ゴロで、東条英機の取り巻きだったとのこと。
古関裕而は結構、小田俊與作詞の作曲をしている。

     作詞/小田俊與 作曲/古関裕而  歌/伊藤武雄

『戦う東條首相』[歌詞]
作詞/小田俊與 作曲/古関裕而  歌/伊藤武雄

1.大詔承けて 人類の
  黎明れいめい築く 大使命
  果たさむ日まで 海陸に
  万朶ばんだと散らむ 若桜
  凄絶悲壮 皇兵の
  至誠にこたふ 東條首相

2.米英撃たん 生産の
  銃後も同じ 戦場ぞ
  一死捧げし 同胞の
  打ち振る腕 火と燃えよ
  凄絶悲壮 一億の
  陣頭に立つ 東條首相

3.御稜威みいつの加護は 我にあり
  神風まさに 吹きませり
  醜しこの米英 如何でかは
  日出ずる国に 勝ち得べき
  見よ揺るぎなき 必勝の
  信念完たり 東條首相

予科練生たちが自ら選んだ『若鷲の歌』!

昭和18年6月8日、古関裕而と西條八十は土浦の海軍航空隊を訪れた。東宝映画『決戦の大空へ』の主題歌の制作を依頼されたためである。
古関と西條、ディレクター数人が、土浦航空隊に一日入団し、海軍飛行予科練習生(予科練)の起床から就寝まで生活のすべてをつぶさに見学した。

若い少年たちの真剣で敏捷な動作、体育や学科を勉強中の教官に対する熱心なまなざし、航空計器等に対する慎重な取り扱いや探求心あふれる態度に、古関は打たれた。

映画の撮影隊も航空隊の内部でロケーション中だった。
古関も見学し、渡辺邦夫監督らの話も聞いた。

渡辺邦夫は、土浦を見学する前は、厳格な訓練を受けている予科練生たちには抑圧された暗さがあるのではないかと想像していたが、自分の家にいるような屈託のない明るい顔を見て、力強いものを感じた。

西條八十は、航空隊の隊長から事務所で言われた言葉が、深く印象に残った。
「いくつ作っても、士気を鼓舞するよい歌ができないのです。ひとついいのをぜひ書いてくださらんか」
隊長の背後の壁に、予科練生募集のビラが貼ってあった。七つボタンの軍服を着た美少年が、桜の花に彩られていた。
「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨────」という歌詞が、その時八十の胸に浮かんだ。

しばらくして古関は、八十から『決戦の大空へ』と『若鷲の歌』の作詞を受け取ったが、『決戦の大空へ』の方はスムーズに作曲できたのだが、『若鷲の歌』の方はぴったりしたメロディがなかなか出て来なかった。

そのうち、航空隊や映画の方から矢のような催促が来るようになった。
ようやく長調の曲ができたので担当ディレクターに聞かせると、これで十分ということなので、航空隊へ行って聞かせることになった。

歌手の波平なみひら暁男あきお、アコーディオン伴奏者、西條八十、ディレクターとともに、常磐線で土浦に向かった。
汽車が利根川を渡り、茨城県に入った頃、ふと短調のメロディが浮かんだ。
「これだ。長い間求めていたのはこれだ!」と、古関は思った。

五線紙を取り出し、十六小節のメロディを書き上げると、歌詞を書き入れて波平に渡した。
「いまできたばかりの曲だが、これも歌って」
アコーディオンにできるだけ小さい音で弾いてもらい、波平も小さい声で歌った。
「これはいい。この曲の方が受けるかも知れない」と、それを聞いたディレクターは言った。

航空隊に着いて、古関らは事務室に主だった教官たちを集め、長調と短調の二曲を歌って聞かせた。ほとんどの教官たちは、長調の方がいいといった。
原田少佐が「これは生徒たちの歌なので、生徒に聞かせて、生徒に決めさせてはどうか」と言ったため、そうすることになった。

昼食後の休憩時間に、土浦の全予科練生約七五〇名が校庭に集められ、
「いま二曲を歌っていただくから、いいと思う曲に手を上げろ」と隊長が言った。
波平が、最初に長調を歌い、次に短調を歌った。
「前の歌がいいと思う者」と隊長が言うと、十人ほどの生徒がこぶしを握った手を上げた。
「後の曲がいいと思う者」というと、ほとんどの生徒が拳を突き上げた。
「よし、あとの曲に決める!」
これで決定したのである。

『若鷲の歌』(昭和18年9月10日)

「桜に錨」の金ボタン

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/霧島昇、波平暁男

「若鷲の歌」楽譜(B5判、二つ折り) 昭和18年、新興出版株式会社

『若鷲の歌』と『決戦の大空へ』がカップリングで発売されると、大東亜戦争下最大のヒット曲となった。

東宝映画『決戦の大空へ』(昭和18年9月16日封切)は、土浦航空隊の全面的な協力を得て長期間のロケを敢行し、予科練生の生の姿を描き出した。実際の予科練生たちも大勢出演し、本物の訓練風景が紹介された。
前年に公開された東宝映画『ハワイ・マレー沖海戦』でも、実際の予科練の訓練が詳細に描かれていたが、映画の大ヒットにも関わらず、予科練生への応募状況は芳しくなかった。
訓練の激しさや厳格な精神教育が、かえって応募を躊躇させたのではないか?と考え、予科練生は普通の生徒なら誰でもなることができ、伝統的海軍精神や飛行技術を、先輩や教官たちがやさしく合理的に指導してくれることをアピールするために、映画『決戦の大空へ』が企画されたのだった。
予科練の七つボタンの制服は、昭和17年末に制定されたばかりで、映画に登場したのは『決戦の大空へ』が初めてだった。
西條八十作詞の主題歌の大ヒットに伴って、「七つボタン」は予科練の代名詞ともなった。

『決戦の大空へ』(昭和18年9月10日)

藤山一郎

藤山一郎は当時「藤山慰問団」を結成して、南方各地を慰問して回っていたが、日程をほぼ消化してジャワ島スラバヤにいたところへ、東京にすぐに戻るようにと海軍省から依頼が来た。昭和17年7月1日のことだった。
時局映画の主題歌『決戦の大空へ』を歌って吹き込むために、藤山一郎は呼び戻されたのだった。
藤山は昭和18年7月、神戸の和田岬で上陸し、東京に向かった。

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

『海を征く歌』(昭和18年9月20日)

南十字星

大木惇夫あつおは、ジャワ作戦に文化人部隊の一員として従軍した。その時の体験を、海原うなばらにありて歌へる』という詩集にして発表している。
古関はその中の一篇「戦友別盃べっぱいの歌(南支那海の船上にて)」にいたく感動した。

「戦友別盃べっぱいの歌」(南支那海の船上にて)

言ふなかれ、君よ、わかれを
世の常を、また生き死にを、
海ばらのはるけき果てに
今や、はた、何をか言わん。
熱き血を捧ぐる者の
大いなる胸を叩けよ
満月を盃にくだきて
しばし、ただ酔ひてきおへよ、
わがくはバタビアの街、
君はよくバンドンを突け、
この夕べあいさかるとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん、
言ふなかれ、君よ、わかれを、
見よ、空と水うつるところ
黙々と雲は行き雲はゆけるを。

この詩の内容を歌謡曲にしたいと思い、古関は大木惇夫に、大衆が唱和できる詩に書き直してくれるよう頼んだ。
それが『海を征く歌』であった。
古関は、いくつか作った戦時歌謡の中でも、この曲は好きなもののひとつだと言っている。

     作詞/大木惇夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

『ラバウル海軍航空隊』ビクター盤(昭和19年1月)

ラバウル東飛行場で整備中の零戦二一型。後ろに見えるのが、ラバウル名物の活火山・花吹山。

昭和18年10月、JOAKの吉田信音楽部長から古関のもとに作曲依頼が来た。
「ニュー・ブリテン島のラバウルにある航空隊は、最前線基地として華々しく活躍して、戦果をあげています。この部隊を讃え、国民の沈滞する志気を鼓舞するような明るい作曲をしていただきたいのです。」
作詞は佐伯孝夫に依頼してすでに出来上がっており、歌手は灰田勝彦を予定しているという。
二人ともビクター専属なので、コロムビア専属の古関とは本来なら組めないのだが、挙国一致の軍事優先の時代だからこそ可能となった組み合わせであった。これには古関も乗り気になった。
佐伯とは、彼がビクターに移籍するまでは同じコロムビアで二、三作曲したことがあったし、また音楽部隊として一緒に中支に従軍し、死線をくぐり抜けて来た仲でもあった。
一、二番の作詞もいいが、古関は特に三番の詞に独特の詩心を感じ、ぜひ作曲をしてみたいと思った。
また灰田勝彦は声の音質の明るさに合わせた明快な歌を作ってみたいと思っていた歌手であったので、古関にとって願ってもないことであった。

マーチ風な前奏で、すこぶる歯切れのよい、リズムに乗った勇壮な歌が出来上がった。
灰田は、熱のある軽快な歌い方で歌った。
それを聞いたビクターはこのレコードをぜひ自社から出したいと思い、歌手も作詞家もビクター専属なのだから、古関を貸してくれるようコロムビアと交渉した。
それならば交換条件として信時のぶとききよしの曲を使わせてくれというコロムビア側の希望を聞き入れて、『ラバウル海軍航空隊』は昭和19年1月、ビクターからレコードが発売された。

信時潔は『海ゆかば』(昭和12年)の作曲者だが、ビクターが出した古関の『ラバウル海軍航空隊』はヒットしたのに対し、コロムビアが出した信時潔のものはさっぱり売れなかったという落ちがつく。

『ラバウル海軍航空隊』は、ラジオでは昭和18年11月からよく放送されたが、歌手はその都度違う人が歌っている。ビクターとコロムビアとの間で、まだ「交渉中」だったためだろうか?

ソロモン諸島上空を征く第二五一海軍航空隊の零戦二二型(西沢広義搭乗)

     作詞/佐伯孝夫 作曲/古関裕而  歌/灰田勝彦

この曲で歌われた「ラバウル海軍航空隊」は、ニューブリテン島ラバウルに進出している「第二五一海軍飛行隊」である。

ラバウル第二五一飛行隊・戦闘指揮所

ソロモン諸島の要衝ラバウルは、昭和17年1月23日に日本軍によって無血占領され、2月10日に第四連合航空隊の九六式艦上攻撃機隊が進出した。
20日、米空母レキシントンが現われると、魚雷が未到着だったため陸用爆弾をかかえ、戦闘機の護衛なしで17機が出撃したが、敵空母は反転させたものの13機を失った。

4月1日、戦力増強のため、台南航空隊のゼロ戦部隊がラバウルに進出した。台南空は、第二五一海軍飛行隊として再編成された。
台南空は大東亜戦争劈頭へきとうから南方作戦で活躍して来た、西沢広義一飛曹(撃墜数87)、太田敏夫(撃墜数34)、坂井三郎一飛曹(撃墜数28)、笹井醇一中尉(撃墜数27)など、歴戦の撃墜王エースたちを擁する精鋭部隊である。

この中で終戦まで生き残ったのは、坂井三郎ただひとりだ。
坂井は、8月3日、ガダルカナル戦に出撃した時、哨戒爆撃機ドーントレスの機銃弾を浴びて頭部と右目を負傷したため、内地の病院へ入院することになって前線を離れた。
戦場にとどまっていれば、彼もまた護国の鬼となっていたに違いない。

火山灰を巻き上げながら離陸する零戦二一型

ニューブリテン島ラバウルには飛行場が三つあり、海軍飛行隊は東飛行場を使っていた。
シンプソン湾の奥にラバウル港があり、その入り口の小さな半島状の地形の所に東飛行場はあった。小さな入り江を挟んだ向こう側に、活火山・花吹山や姉山、母山、妹山などが見えていた。

活火山・花吹山のために、ラバウルの飛行場にはつねに硫黄と亜硫酸ガスの臭いが立ち込め、火山が降らす火山灰が飛行場全体に厚く積もっていた。
東飛行場を飛び立つときは火山灰を巻き上げながら離陸することになり、毎日出撃を繰り返すうちに火山灰で機体の塗装は削られてズタズタになった。

零式れいしき艦上戦闘機=零戦れいせんの前に、アメリカ軍艦上戦闘機グラマンF4Fワイルドキャットが現われたころは、アメリカ軍パイロットに「逃げてもよいのは、雷雨にあった時とゼロに逢った時だ。ゼロとは絶対に一対一の格闘戦をしてはならぬ」という命令が出ていたという。

ゼロ戦が世界最強だった頃であり、この頃のラバウル海軍航空隊もまた世界最強だったということができるだろう。

だが「戦闘」と「戦争」は違う。
いかに空の侍たちが英雄的に戦い続けたとしても、最終的に「戦争」の勝敗を決定するのは国の総合的な力──軍事力、政治・外交力、経済力、工業力、天然資源、人的資源、社会制度、国民の士気・忠誠度──などである。

内地の新聞で零戦の戦果は華々しく報道されたが、「零戦」の名は一度も出たことはなかった。「海鷲」と呼ばれ、〇〇基地、〇〇機のように、出撃基地や出撃数も伏せられていた。

ガダルカナル島の攻防戦が始まると、第二五一海軍飛行隊は連日のように一千五十キロの距離を、ガダルカナル攻撃隊を援護して出撃するようになった。

昭和17年秋から、アメリカ軍新鋭戦闘機ロッキードPー38ライトニングがソロモン戦線に投入された。ゼロ戦を上回る高高度空戦能力と急降下速度を活かした「一撃離脱」奇襲戦法を編み出してきた。

昭和18年3月になると、アメリカは逆ガル翼の単発戦闘機チャンスボートF4Uコルセアをソロモン戦線に投入して来た。ゼロ戦の二倍近い大馬力で、ゼロ戦をしのぐ最高速、急降下速度、火力を持ち、これまでのようにゼロ戦は戦闘を有利に運べなくなって来た。
搭乗員の消耗率も高くなり、出撃ごとに1機また1機と欠けて行った。

昭和18年2月、9か月に渡ったガダルカナル島をめぐる戦いに日本は敗北し、ついに撤退を決めた。

昭和18年9月1日をもって、ラバウル海軍航空隊は夜間戦闘機「月光」などの夜戦隊に変えられ、ゼロ戦隊としての戦闘歴を閉じた。

古関が『ラバウル海軍航空隊』の作曲を依頼された時、ラバウル海軍航空隊の栄光はすでに過去のものとなっていたのである。

学徒出陣(昭和18年10月21日)

10月21日、雨の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒壮行会が開催された。

昭和18年10月1日、戦局の悪化にともない兵員不足が深刻化した折から、東条内閣は「在学徴集延期臨時特例」を公布した。
学生にはそれまで徴兵猶予の特権が与えられていたが、戦争に役立ちそうな理工系と教員養成系を除いて、文科系学生から特権が剥奪されたのであった。

壮行会は文部省、学校報国団本部の主催で、東京と近県の大学・高等専門学校77校の二十歳以上の出陣学徒が集められたが、参加者数は軍機として発表されなかった。
出陣学徒推定3万5千人、見送りに参列した在校生の数は約3万人と見られている。
東条首相が謁見するため、在籍学校の制服にゲートルを巻いたいで立ちで行進した。まだ入隊前なのに歩兵銃を担いでいるが、ニュース映画撮影のために演出で用意されたものだろうか?

西條八十は、終戦までの約23年間早稲田大学に在籍し、空襲が激化して疎開するまで教壇に立ち続けたが、この日は仏文科長・文学部教務主任として、雨の中を行進する教え子たちを胸をえぐられる思いで見送った。

紅顔の学生たちが大隈会館の前に整列し、可愛い笑顔を見せながら教師とともに記念撮影をした。
そして早稲田から市ヶ谷を通って明治神宮外苑まで、八十が先導者となって学生たちを引率して来たのだった。

この時偶然、八十の娘・嫩子ふたばこは小さい娘の手を引いて買い物に出かけたところで、嫁ぎ先の牛込の路上にいた。
「学徒出陣だわ!」
「早稲田の学生たちよ!」
町の人々が二つに分かれ、重い足音とともに近づいてきた長い行列を見守っていた。
行列の先頭を歩いているのが父であることに気付いて、嫩子は思わず叫んだ。
「まあ、パパ! パパ! 私よ!」
八十は蒼白で緊張した顔つきで、無表情のまま歩き続けて行ってしまった。
その後に「学徒出陣」と書かれた白布のたすきをかけた学生たちが、制帽もりりしく続いて行った。

これら優秀な学生たちの多くは、それきり帰らなかった。ある者は特攻隊となって南海に散った。

出陣学徒の総数は13万とも20万とも言われているが、記録を残している大学は少なく、いまだにはっきりしていない。

『四川進撃の歌』(昭和18年11月20日)

四川しせん進撃の歌』は、高射砲第二十二連隊の連隊歌だった。

高射砲第二十二連隊は、支那事変中の昭和14年12月、湖北省漢口にて編成された。
八八式野戦高射砲(7.5センチ)を主武器に大東亜戦争の最後まで多数の作戦に参加し、中国戦線各地を転戦して活躍した。

     作詞/長江将軍 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

四川しせん進撃の歌』[歌詞]
作詞/長江将軍 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

1.巴蜀はしょくの天地 渺茫びょうぼう
  紫の山 白き雲
  天に連なる 長江の
  流れは遠し 五千年

2.歴史は巡る 興亡の
  三国争覇の 夢いずこ
  亜細亜に狂う 抗戦の
  天日てんじつ為に なおくら

3.往け進撃の めい下り
  撃て滅蒋めっしょうの 旗あがる
  四川を攻むる 強者つわもの
  重慶成都 指呼しこの間

4.巫山ふざんの険も 何かせん
  蜀の桟道さんどう 踏み越えて
  我が皇軍の 征くところ
  旭旗輝き 草なびく

5.世紀の嵐 すさぶとも
  貫き通せ 大和魂
  大東亜戦争 完遂かんすい
  聴け滅蒋の 進軍譜

『あの旗を撃て』(昭和18年12月8日)

この歌は東宝映画『あの旗を撃て』(昭和19年2月10日封切)の主題歌である。・・・ということになっているのだが、映画『あの旗を撃て』のDVDを見直してみたが、この歌は映画の中では使われていない。
そればかりでなく本編クレジットにも解説書にも、どこにも「古関裕而」の名前は出て来ない。
いったいどこが《主題歌》なのだろう? 謎である。

東宝映画『あの旗を撃て』(昭和19年2月10日封切)

東宝映画『あの旗を撃て』は陸軍省後援の、日本とフィリピンの合作映画であった。
日本側監督は阿部豊、フィリピン側は戦後フィリピン映画界の大監督となるヘラルド・デ・レオンが協力した。

大東亜戦争緒戦において本間雅晴中将率いる第十四軍は、南方作戦の一環としてフィリピンのアメリカ軍と戦った。
米比軍司令官マッカーサー大将は、開戦とともにマニラを「オープン・シティ」(無防備都市)宣言をして、米比軍をバターン半島に撤収してしまっていた。
昭和17年4月10日、日本軍は激戦の末にバターン半島の米比軍を降伏させ、5月7日にはコレヒドール島要塞を陥落させた。

マッカーサー大将はこれに先立つ3月11日、家族や幕僚とともに3隻の魚雷艇に分乗し、夕闇にまぎれてコレヒドール島を脱出した。
ミンダナオ島に渡ると、北部にあるデルモンテ・パイナップル工場の秘密飛行場からオーストラリアに向けて飛んだ。
到着後「アイ・シャル・リターン」(私は戻る)という、反攻の決意をこめた声明を出した。
現地軍からは置き去りにして脱出したマッカーサー大将に怒りの声が上がったが、多くのアメリカ国民はこの声明に沸き立った。

このフィリピン攻略戦を、東宝映画は大本営陸軍報道部の企画で比島派遣軍報道部の協力のもと、長期に渡る現地撮影を敢行して製作した。

映画は、前線の日本陸軍部隊が数百名規模で出演したり、大量の米軍捕虜が撮影に動員されたり、作戦が実施されたバターン半島やコレヒドール島でロケが行われたり、マニラ市街地ロケでは鹵獲ろかくした米軍戦車や軍用車両を使用して迫力溢れる米軍撤退シーンが撮影された。
どれをとってもけたはずれの戦争大作映画だった。

日本軍は日本語で、アメリカ軍は英語で、フィリピン人やフィリピン兵はタガログ語で、それぞれかなりの尺を演じているのが興味深い。今日こんにちでも、三か国がからんでドラマが展開するような作品には御目にかかれない。

古関の主題歌が出て来ない理由としてひとつ考えられるのは、映画の脚本が途中で変えられてしまったことである。
八木隆一郎の脚本『あの旗を射て コレヒドールの最後』が遅れに遅れた末、ついに八木は途中で倒れてしまい、ドクターストップがかかって内地へ送還されてしまった。
共同脚本の小国英雄が後を引き継いだが、根本からストーリーを組み立て直したため、テーマが、アメリカの植民地政策によるフィリピン貧農の苦難を描くものから、市街地に住むフィリピンの軍人家族がアメリカと日本のどちらに着くかをめぐって葛藤する物語に変えられたようだ。
映画のタイトルも『あの旗を撃て』に変わっている。

古関作曲の主題歌は、出来上がった映画の内容に比べて悲壮感漂うものになっているが、これは最初の八木の脚本に合わせて作られたためではないだろうか?
書き換えられた脚本と合わなくなって、結局映画の中では使われなかった、というのが、真相のような気がする。

『あの旗を撃て』という映画のタイトルだが、コレヒドール島攻略戦に於て、日本軍の猛烈な砲撃を受けてもなお翻っている星条旗を見て「あの旗を撃て!」という命令が出たため、狙いすまして撃ち砕いた実話に基づいているそうだ。

映画ではそういったやり取りはいっさいなく、ただ撃ち砕かれる星条旗のシーンがあるだけである。
しかし、コレヒドール島上陸戦において、二十四時間で1万6千発の砲弾が撃ち込まれ、島中の施設が根こそぎ破壊されたという戦闘で、星条旗1本にそれほどまでにこだわったというのはいささか違和感が残る。

     作詞/大木惇夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

《参考文献》
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』(文春文庫、2020年3月20日)
『私の履歴書 第17集』「西條八十」(日本経済新聞社、1962年12月20日)
『西條八十全集 第九巻 歌謡・民謡Ⅱ』(国書刊行会、1996年4月30日)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫、2008年12月20日)
古賀政男『自伝わが心の歌』(展望社、2001年4月25日)
菊池清磨『評伝古賀政男』(アテネ書房、2004年7月10日)
井伏鱒二『徴用中のこと』(講談社、1996年7月10日)
伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』(新潮社、2019年4月25日)
藤山一郎『藤山一郎自伝』(光人社NF文庫、1993年11月15日)
児島襄『太平洋戦争(上)』(中公新書、1965年11月25日)
児島襄『太平洋戦争(下)』(中公新書、1966年1月25日)
服部卓四郎『大東亜戦争全史』(原書房、1996年6月5日)
『読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事』(リヨン社、1994年8月17日)
『あの戦争 太平洋戦争全記録上』(ホーム社、2001年8月10日)
『大日本帝国の戦争2・太平洋戦争1937-1945』(毎日新聞社、1999年10月30日)