南三陸町に行って来た

ども。ミロです。
きのう大震災後はじめて被災地・南三陸町に行って来ました。

うちから車で1時間ほどのところにありますが、
釣りバカだった頃には、毎週通ったところでした。
十数年ぶりの再訪でした。

南三陸町防災対策庁舎

ここもだいぶきれいに片付けられていました。
被災直後の写真を見ると、
何やらわけのわからないパイプ状のものが垂れ下がっていましたが、
いまは鉄骨だけになっています。

この屋上の高さまで津波が襲いかかり、
若い女性職員が最後まで避難誘導の放送をして犠牲になり、
町長も屋上のアンテナによじ上って九死に一生を得た場所とはとても思えないほど、
いまは穏やかな風景の中に立っていました。

いまだに大津波の爪痕はあちこちに見られましたが、
マスコミがさんざん悲惨な状況の報道をしているので、
わたしが重ねてする必要はないと思うんだよね。

現地に行くと、瓦礫があるのは当たり前、
建物が壊れたり、ひっくり返ったりしているのも当たり前。
ひねり潰されたような自動車が道ばたにあるのも当たり前。
山肌に船が取り残されているのも当たり前。

これが被災地の現実です。

魚市場より防災対策庁舎を望む

ここまで何もなくなっちゃうと、
もう思い出も何もないんじゃないかって気がした。

ちゃっちゃとブルドーザーで平らにならしてしまいたいなあ!
と思わずにいられませんでした。

しかし、それには国が予算を付けて、
災害特別法ですぐに地方が取りかかれるように地ならししてくれないことには、
手がつけられません!

障害は「国」だな。

志津川魚市場

どうする気なんだよ? え? どうする気なんだ!
気仙沼魚市場は再開したようだが、
志津川魚市場はいまだにこの有様です。

国はほんとにどうする気なんだ?

岸壁に近ずくと、懐かしい潮の香りがしました。

こう言っちゃあ失礼かも知れないが、
魚市場前の海は震災前よりもきれいになっている気がしました。

魚市場からの排水や、
牡蠣むき場からの排水などがない分、
不快な臭気がなく、海本来の匂いがもどっていました。

町の中で動いているのは2台のパワーショベルだけ。
すごく長く高い瓦礫の山が築かれていました。

あとから思い出したのですが、
松原公園があったあたりから始まって、ここまで山が張り出して来たようです。

じつは南三陸町で、どうしても見たい場所がありました。
旧・歌津町の泊浜です。

わたしが海釣りを始めた場所なんだよね!

あの白く長い立派な防波堤はどうなってるだろう?
…ずっと気になっていました。

で、30分ほどかけて、
45号線を北上し、歌津崎の方へ車を走らせました。

ようやく車が1台走れる程度の回り道を通って、
歌津・泊浜漁港へつきましたが…

歌津・泊浜漁港


おおおおお、防波堤がしっかり残っている!

それに、漁船もたくさん港に浮かんでいるぞ!

すぐとなりの長須賀海水浴場は壊滅的な被害を受けて、
いまだに立ち入り禁止になっていましたが、
こちらの泊浜漁港はほとんど被害が見られません。

もっとも港湾施設だけの話で、
港に面した一般家屋は、壁が津波で流されて、
部屋の中が丸見え状態になっていましたが。

近くの岩山の木の枝には、
漁具やら無線かなんかの配線などがぶら下がっています。

ここも高いところまで津波に襲われたのは確かですが、
海沿いの家々がけっこう高台に建てられているので、
比較的被害が少なかったように見受けられました。

ただ低い土地にも民家が建っており、
そこではいまだに捜索が続いているらしく、
十数人の青い制服の人たちが活動していました。

最後に、本日も1曲紹介して終わりたいと思います。
これです。


美樹克彦 『海は青かった』1968年