ども。ミロです。生きてます。
ようやくインターネットがつながって、やきもきしていた気持ちを吐き出せます!
私の住む栗原市は震度6~7地帯で、
強い揺れが止むまでに15分はかかりました。
そろそろ揺れが止むかと思うと、
また突き上げるような揺れがやって来て、
いつまでたっても弱まる気配がありませんでした。
家がもつかどうかとても不安でした。
こんな強くてクソ長い地震は初めてです。
宮城県沖地震だってこれほどではなかった。
「もう少しだ、がんばれ!」と、
“家”を応援していました。
地震で倒壊しないように…
たまたま隣町まで母と買い物に行って、帰って来て一休みしているところを、
大地震に襲われたのでした。
地震直後から電気は不通になり、水道も断水。
携帯電話はかろうじて生きてはいたが、
通話が殺到したためかパンク状態でつながらない。
何とか情報を得ようと携帯でテレビを見ると、
三陸沖、宮城県沖、千葉県沖と、
震源地が次々と変わってゆく。
…どうやら、震源地の違う地震が連続して起きたらしいことがわかった。
強い揺れがなかなか終わらなかったわけが理解出来た。
地球物理的に、かなり危ない事態に直面していたことに背筋が凍った。
日本沈没という言葉が脳裏をよぎった。
しかし、本当の衝撃はその後に来た。
家の外観を点検したり、各部屋を回って被害の状況を確認したが、
1階では戦艦大和やゼロ戦などのプラモが、
飾っている棚から落ちたりして大破した程度。
傾いた戦艦「大和」。レーダーが吹っ飛んだが、撃沈はまぬがれた。
2階の部屋は、本棚が倒れたり、大型スピーカーが片方倒れたり、
CDを収納している大きなラックがサイドボードから転げ落ちていた。
天井付近の手造りの棚に並べていたビデオテープが数十本、
階下まで落ちた。
それらを通路が確保できる程度に片づけている時に、
たまたま昔山登りをしていた頃に使っていたマグライトをみつけて、
これがそれからの被災生活でとても役立つことになった。
携帯のテレビは、電波状況が悪く静止画でしか見れなかったが、
驚くべき映像が届けられた。
なんと南三陸町が大津波で壊滅したというのだ!
旧志津川町を襲う津波の映像を見た。
私は30代を通してかなりの「釣りバカ」だったため、
南三陸町の歌津・志津川をはじめとして、
雄勝半島の各漁港、北上町の十三浜の各漁港、牡鹿半島の各漁港から女川港にかけては、
「釣りポイント」を図に描いて残していたほど、通い詰めていた。
その後の報道で、なじみのあるそれらの漁港の、
「壊滅」状況を次々に知ることになった。
わたしのお気に入りの釣り場だった防波堤の数々が、
すべて大津波にさらわれて、消えてしまっていた。
何かとてもすぐには信じがたいことばかりだった。
リアルな出来事として受け止められるまでは、さらに時間が必要だった。
とりあえず、目先のこととして、
夜を迎える準備をしなければならなかった。
電気が来ないため、石油ファンヒーターが使えないので、
夜が来る前に石油ストーブを引っ張り出して来て、暖房を確保した。
これで寒い夜をすごす心配はなくなった。
灯油は、家庭用の灯油タンクにまだ100リットルはあるので安心だった。
米もちょうど10㎏買って来たばかりだったので、
当分は食いつなぐことができると思った。
問題は「水」だった。
しかしとりあえずその日は、ご飯が炊いてあったし、
買って来たばかりのお刺身などがあったので、
一の蔵の辛口でいっぱいやりながら、
被災第一日目にしては豊かすぎる夕食をとってすごした。
その夜は母と、こたつに雑魚寝をして夜を明かした。
強い余震が、なんども止むことなく続いていた。
<つづく>