【第2回】古関裕而、最初の大ヒット!『船頭可愛いや』が出るまで

  1. コロムビア専属作曲家・古関裕而誕生! しかし、ヒット曲が出ない・・・
    1. 『大地の反逆』で楽壇デビュー!
    2. 『紺碧の空』古関裕而の応援歌の始まり!
      1. 『紺碧の空』早稲田大学第六応援歌(現第一応援歌)(昭和6年)
  2. 初レコードは『福島行進曲』と『福島夜曲』のカップリング!(昭和6年)
    1. 『福島行進曲』をレコード発売!(昭和6年6月)
      1. 『平右ェ門(平ねも)』(昭和6年7月)
      2. 『日米野球行進曲』(昭和6年)
      3. 『満洲征旅の歌』(昭和6年12月)
  3. 『肉弾三勇士の歌』で競作!その結果は・・・? 古関裕而、いまだ雌伏の時(昭和7年─昭和9年)
    1. 昭和7年(1932)の発表曲
      1. 上海事変、勃発す!
      2. 『室蘭小唄』(昭和7年1月)
      3. 『肉弾三勇士の歌』(昭和7年4月)
    2. 昭和8年(1933)の発表曲
      1. 『日本アルプス行進曲』(昭和8年1月)
      2. 『春のうたげ』(昭和8年5月)
      3. 『スキー行進曲』(昭和8年12月)
    3. 昭和9年(1934)の発表曲
      1. 『哈爾浜小唄』(昭和9年1月)
      2. 『みなと尾道』(昭和9年2月)
      3. 『利根の舟唄』(昭和9年7月)
      4. 『河原すすき』(昭和9年7月)
      5. 『義人村上─日本人は此処にあり─』(昭和9年11月)
  4. 『船頭可愛や』が、初の大ヒット!(昭和10年)
    1. 『船頭可愛いや』 音丸(昭和10年6月)
    2. 『船頭可愛いや』 三浦 環(昭和14年)
      1. 『月のバルカローラ』 三浦 環 (昭和14年)

コロムビア専属作曲家・古関裕而誕生! しかし、ヒット曲が出ない・・・

昭和5年9月、古関裕而こせき ゆうじは妻金子きんことともに上京した。金子の姉富子が阿佐ヶ谷に住んでいたので、当面、姉の家に間借りすることにした。
10月、コロムビアに行くと、コロムビア文芸部長の米山正から専属契約をするように言われたので、その場で契約書にサインした。

契約金は月給200円、印税の前払いとして支払うというものだった。小学校教員の月給が50円前後という時代だったから、金子は「何かの間違いではないか?」と言ったという。

しかも社員と違って毎日出勤する必要はなく、会社から呼び出しがあった時だけ出社すればよかった。社会に出たばっかりの若者にとって、破格な待遇に思えるが、月給がレコードが売れた分の印税の前借であることを知ってから、古関はヒット曲を出さねばならないというプレッシャーに苦しむことになった。

結局、入社した昭和5年には、古関の曲は1曲もレコード化されることなく、新しい年を迎えるにいたったのである。

『大地の反逆』で楽壇デビュー!

コロムビア入社と相前後して、古関は、妻金子が参加した「ヴォーカルフォア合唱団」に付き添っていくうちに、古関もバスを担当して歌うようになった。クラッシック音楽への意欲は、いまだに続いていたわけだ。

古関は、彼ら声楽家と付き合ううちに、クラシック作曲家の小松平五郎と知り合うことになった。
小松平五郎は古関の音楽に惹かれたのだろう、彼が主宰する「国民交響楽団」の第七回公演で、古関が上京前に作曲していた『大地の反逆』が演奏された。
古関は「これが楽壇デビューである」と言っている。

『大地の反逆』が聞けないか探したが、残念ながら動画は見つからない。
クラシック作品なので、歌謡曲と違って需要は限定的なので、演奏を聴く機会はなかなか得られそうにない。
NHKが特番でも組んで、演奏してくれないかと思う。
《三連符に特徴づけられたファンファーレ風の動機が全体をリードする荒々しい出来栄え》ということだ。

『紺碧の空』古関裕而の応援歌の始まり!

昭和6年4月、妻金子は、帝国音楽学校に入学した。金子は声楽家を目指していた。金子の通学の便を考慮して、古関夫妻は阿佐ヶ谷から世田谷代田へ引っ越した。
帝国音楽学校には、同郷の伊藤久男(福島県本宮町出身)がいて、金子とは同級生だった。伊藤の下宿が近所だったことから、古関の家とはよく行き来する仲になって行った。

ある日、古関が伊藤の下宿へ行った時、伊藤の従兄弟いとこの伊藤茂が来ていた。伊藤茂は、早稲田大学応援部の幹部をやっていて、古関は早大の応援歌の作曲を頼まれた。

野球の早慶戦は、当時は人気がとても高かった。まだプロ野球はなかった時代で、選抜高校野球大会も始まってはいたが、現在ほど注目されてはおらず、《野球》と言えば早慶戦だった。激しい応援合戦も、両校の戦いに花を添えていた。

早稲田にはすでに、山田耕筰、中山晋平、近衛秀麿といった当代一流作曲家の手になる応援歌が存在していたが、慶應義塾の昭和2年に作られた応援歌『若き血』による応援の声が球場の空に響くと、早稲田の応援団は勢いに圧倒されて歯噛みをしていた。実際に、試合も負けてしまっていた。そこで、『若き血』に負けない新しい応援歌を作ろうという機運が高まった。

『若き血』慶應義塾大学応援歌(昭和2年)

早大の全学生から歌詞を公募し、高等師範部の学生だった住治男すみ はるおの作品『紺碧の空』が選ばれた。住治男は、古関と同年代だった。

選者のひとり西條さいじょう八十やそは、当時すでに『東京行進曲』(昭和4年)等で、流行歌の作詞家として名を成していたが、早稲田でフランス文学の教鞭も執っていた。
西條は『紺碧の空』について、
「ほとんど訂正するところのない素晴らしい作詞だ。ただ ”覇者、覇者、早稲田” というところは気にかかる。きっと作曲上難しいだろうから、これは相当の謝礼金を積んで、山田耕筰とか中山晋平といった大家たいかに依頼しなくては駄目だ」と言った。

この言葉に、早稲田の応援部の連中はカチンときた。
副団長の高山三夫は、頭に血が上り、
「先生は、早稲田の教授でしょう! 早稲田に生きるものが金銭的にはかるとは何事ですか!」と一喝した。

古関は、そんな話を伊藤茂から聞いて、
「わかりました。早稲田のためにいい曲を作りましょう!」と答えた。
しかし、まだ古関は、応援歌というものを作った経験がなかった。

引き受けはしたものの、歌詞にぴったりした旋律がなかなか浮かんで来ない。応援歌の作曲は遅々として進まなかった。

日一日と、早大応援歌の発表会の日時は迫って来る。応援団幹部も、依頼した責任上、気が気でなく、恐ろしく髭を伸ばした猛者たち7・8名が、連日新婚の古関宅に押しかけていた。

その時の早稲田の応援団というのは、こんな感じでもあっただろうか。

NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』より

古関の留守中に押しかけることもあり、そんな時は金子が、お茶やらお菓子やらせっせと運んで接待した。ただ、家が安普請やすぶしんだったため、彼らが重い体重をかまわず家中歩き回るので、家の床が抜けやしないか、それだけが心配だった。

作曲が出来上がったのは、発表会の三日前だった。応援団幹部の中には「少し難しすぎる」という者もあったが、古関は自信があったので、そのまま押し通した。

早稲田が新応援歌を作っていることに感づいたのか、慶應も新応援歌『ブルー レッド アンド ブルー』(橋本国彦/作曲)をぶつけて来た。
その年の早慶戦は、期せずして応援歌合戦にもなった。

そして、勝利の女神は、早稲田に微笑んだのである。早稲田の学生は、この勝利が『紺碧の空』によるものだと確信した。
それ以降、『紺碧の空』は歌い継がれ、最初は第六応援歌として作曲されたものだったが、いまでは第一応援歌の地位にまで上りつめている。

『紺碧の空』早稲田大学第六応援歌(現第一応援歌)(昭和6年)

『紺碧の空』
作詞/住治男 作曲/古関裕而

1.紺碧の空 仰ぐ日輪
  光輝あまねき 伝統のもと
  すぐりし精鋭 闘志は燃えて
  理想の王座を 占むる者われ等
  早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田

2.青春の時 望む栄光 
  威力敵無き 精華の誇り 
  見よこの陣頭 歓喜あふれて 
  理想の王座を 占むる者われ等
  早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田

早稲田大学(Wikipediaより)

現在では、こんな勇ましい編曲がなされているようだ。

『紺碧の空』は早稲田の応援歌として世上に知られ、古関も作曲者として名前は売れたが、9月になって発売されたレコードはそれほど売れたわけではなかった。

初レコードは『福島行進曲』と『福島夜曲』のカップリング!(昭和6年)

『福島行進曲』をレコード発売!(昭和6年6月)

『紺碧の空』より前の同年6月20日、古関にとって初めてのレコード『福島行進曲』が発売された。
B面は『福島夜曲セレナーデで、故郷・福島へ捧げる1枚となった。
両曲とも上京前に作曲したものだったが、当時は、地方小唄や新民謡がブームだったので、流行にあやかろうとしての選曲だったと思われる。この1枚に、ヒットを賭けたと言っていいだろう。
『自伝』では、《記念すべきデビュー曲なので、故郷にささげるつもりでこの曲を選んだ》とあるが、それだけではすまなかっただろう。前年、1枚もレコードを出すことができなかった古関は、本年5月から、月給を200円から90円にまで引き下げられてしまっていたからだ。

『福島行進曲』は前回紹介したので、今回は『福島夜曲』の方を紹介しよう。

福島夜曲』 

『福島夜曲セレナーデ
作詞/竹久夢二 作曲/古関裕而

遠い山河たづねて来たに
吾妻しぐれて見えもせず

奥の細道とぼとぼゆきゃる
芭蕉様かよ日の暮れに

会津磐梯山がほのぼの見ゆる
心細さに立つけむ


こういう短詩に曲を付けるのは、古関の独擅場と言えるほどうまい。
民謡を思わせる心揺すられる旋律と、西洋歌曲風にすっきりと延びる音階と! 聞いていて、とても心地よい。

古関が福島で銀行員をしていた昭和4年のこと、福島で竹久夢二展が開催された。
夢二が即興で作ったものらしい「福島夜曲セレナーデ」と題した12の民謡調の短詩が、奉書の巻紙に水墨彩色の絵を添えて描かれていた。
この詩画に感動した古関は、詩をすべてノートに書きとり、自宅に帰るとすぐに部屋に閉じこもって作曲した。
快心の作ができたと思い夢二に捧げようと、翌日、福島ホテルに宿をとっていた夢二のもとへ押しかけると、夢二は快く古関と会ってくれた。
楽譜を献上し、みずから歌って聞かせると、夢二はたいへん喜び、何もお礼するものがないからと言って、スケッチブックに鉛筆で即興で吾妻山を描いてくれた。
『福島夜曲』は、古関にとってそんな思い出深い作品だった。

にもかかわらず、レコードの売上は期待を裏切るものだった。
失意の古関は、次の作品に賭けるしかなかった。

『平右ェ門(平ねも)』(昭和6年7月)

『平右ェ門(平ねも)』は、北原白秋の『白秋民謡集』の中から選んだ詩に曲を付けたものだ。

「これは面白いから吹き込みしよう」とディレクターが乗って来たので、レコード化された。
歌は、コロムビア専属になったばかりの藤山一郎。古関と組むのはこれが初めてだったが、すでに古賀政男の『酒は涙かため息か』を出して、ヒットしていた。

『平右ェ門(平ねも)』 藤山一郎

『平右ェ門(平ねも)』
作詞/北原白秋 作曲/古関裕而 歌/藤山一郎

へへのへのへの へいねもさまは
へへのへのへで 稲いねこいた  
(1番のみあげておく)

曲を聞いた白秋が、「これは僕の詩の気分にぴったりした大変面白い曲だ」といい、作曲した青年に会いたいというので、古関は白秋の自宅を訪問した。
応接間で、支那服姿の白秋と話していると、二階から「へへのへのへの……」という大声がして、白秋の子供が歌いながら駆け下りて来た。
「この歌が好きでね」と白秋は嬉しそうに言った。

北原白秋

山田耕筰とコロムビア文芸部で会った時に、
「今度の『平右ェ門(平ねも)』は民謡風で大変面白いし、意表をついた曲だね。今後もしっかりやりたまえ」と激励された。

曲は売れなかったが、山田耕筰からの激励には感慨深いものがあったし、北原白秋とも良い関係を続けるきっかけとなり、古関にとっては意味のある1曲となった。

たしかに鼻歌で歌うにはちょうどよい曲だ。
私だったら、《へへのへのへで こいた》と歌うところだ。
私の辞書に「格調」という言葉はない。

『日米野球行進曲』(昭和6年)

この年の11月、読売新聞がアメリカのプロ野球選抜チームを招聘していた。グローブ、カクレン、ゲーリッグ、シモンズ、オドールなどの名選手が揃っていた。それに対し日本側は、プロ野球発足前のことで、東京六大学チームとその選抜混合チームが対戦した。

コロムビアでは、読売新聞とタイアップして、歓迎の意味を込めて歌を作ることになり、久米正雄が作詞し、古関が作曲を受け持った。

『日米野球行進曲』(昭和6年10月)

『日米野球行進曲』
作詞/久米正雄 作曲/古関裕而

すいと投げ込む速球の
目にもとまらぬ物凄さ
野末を走る稲妻の
まこと草葉を薙ぐと言う
来たれ!迎えん大リーグ
いざや迎えん大リーグ
      (以下略)

《野末を走る稲妻の/まこと草葉を薙ぐと言う》という比喩で、《速球の目にもとまらぬ物凄さ》が伝わるだろうか?
この歌詞に曲を付けるのは、さぞかし難行苦行だったと思われる。

《このような歌詞なので作曲には速さも出さなければならないが「まこと草葉を──」というのんびりした形容もあり苦労した。》と、古関も正直に《自伝》に書いている。

米国チーム歓迎会が開催されることになり、『日米野球行進曲』は、東京市内随一の「音楽の殿堂」と言われた日比谷公会堂に於いて、古関裕而指揮、日本唯一の新交響楽団の伴奏で、大合唱団による合唱が披露された。

発表会の期日がせまってから、コロムビアから燕尾服で指揮するように言われたが、これから注文しても間に合わない。
その時思い付いたのが、古関と体形が似ている宇都宮の叔父であった。
叔父が白河の裁判所長時代、摂政の宮であった頃の昭和天皇が妃殿下と一緒に、猪苗代湖畔の高松宮別邸に避暑で訪れたことがあり、白河駅を通過する列車を見送りに、燕尾服姿で叔母とともにに出かけて行ったのを見た記憶があった。
叔母は喜んで、叔父の燕尾服とエナメルのシューズまで貸してくれた。

レコードの売上とは別に、古関にとっては晴れの舞台をみごとに勤め上げたことで、思い出に残る曲となった。

『満洲征旅の歌』(昭和6年12月)

『大阪朝日新聞』号外(昭和6年9月19日)

昭和6年9月18日夜、奉天北郊の東北辺防軍第七旅団(中国正規軍)が駐屯する北大営に近い柳条湖付近で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆砕された。
爆破担当者は、関東軍独立守備隊第二大隊第二中隊長・川島正大尉だった。

川島中隊は「支那正規兵が爆破して攻撃して来た」とウソの報告をし、そのまま北大営攻撃にかかった。
すべては、関東軍作戦参謀・石原いしはら莞爾かんじ中佐が策案した計画通りに事が運ばれた。

これが満州事変と呼ばれるものの真相だった。

関東軍が仕組んだ自作自演の事件だったのだが、その真相が明らかになったのは戦後である。
日本では、中国軍の無法な攻撃に、支那憎しの世論で溢れかえり、多くの国民は関東軍の行動を支持した。

関東軍としては、「日本の生命線」である満蒙を完全に日本の勢力下に置き、北の脅威であるソ連軍の南下を防ぐとともに、国内に蔓延まんえんしている不況をも、国民の満洲進出で解決する目論見もくろみであった。

関東軍の行動は続いて、奉天を占領した後、一部は吉林へ北進した。さらに朝鮮軍一個旅団が越境進出し、関東軍支援のために満洲へ向かった。
9月下旬、満洲では遼寧(奉天)省、吉林省、黒竜江省、コロンバイルなどが独立宣言を発し、日本軍の指導の下、満洲は中国から切り離されようとしていた。

ラジオ、出版、映画界、レコード業界など、メディアは満州事変に沸騰した。大衆の願望を実現した事件だったからだ。それについては、後ほど述べる。

古関は『紺碧の空』を作曲したことから、勢いの上がる歌を作るのは得意だろうと思われており、こういう軍歌や時局歌の作曲がよく回って来た。ただ仕事と思って取り組んでいた。

そんな時局から生まれた歌のひとつが『満洲征旅の歌』だ。古関にとって、《軍歌》と銘打って発表された最初の曲だった。
3:06 あたりから始まる。前半の歌は、古関のものではない。

『満洲征旅の歌』(昭和6年12月25日)

『満洲征旅の歌』
作詞/櫻井忠温 作曲/古関裕而 歌/内田栄一

1.嗚呼、満洲の土の上
  砲火轟き つるぎ飛ぶ
  暴虐支那を うちこらす
  いくさは立てり 北南
  征旗堂々 てんふる

2.嗚呼、満洲の土の上
  身以てまもれる 十萬の
  御霊みたまは此処に 眠れるぞ
  忍び難きを 忍びたる
  永き恨みぞ 今むく

3.嗚呼、満洲の土の上
  奉天城は たちまちに
  ちて長春 吉林チーリン
  察哈爾チチハルまでも 追い落とし
  刃向かう敵を うち散らす

4.嗚呼、満洲の土の上
  凍れる野辺よ 強兵つわもの
  鉄の兜に 雪積る
  寒さは骨に 槍の如ごと
  口唇くちびる凍り 骨は折る

5.嗚呼、満洲の土の上
  先駆け進み 死を誓い
  つるぎの砦 血の飛沫しぶき
  かばね乗り越え 突き進む
  我が勇ましの 強兵つわもの

6.嗚呼、満洲の土の上
  我等の血をば あだにすな
  正義の前に おそるるな
  戦い挑む 者あらば
  忠義をくして ほこ執れよ

(歌詞が入手できなかったため、ミロ採詞。基本的には動画の詞を参考にして、若干の補正を試みた。1番の詞は、辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』より引用。聞き取り間違いがあったら許されよ)

日活映画『戦はこれからだ』で使用されたものだが、主題歌なのか、挿入歌なのかは不明。
作詞は、《暴虐支那を うちこらす》とか《征旗堂々 てんふる》とか《忍び難きを 忍びたる/永き恨みぞ 今むくゆ》とか、観念的な正義感に満ちていて、当時の国民の気分を代弁していたとは言えるかも知れない。しかし、戦争のリアリティは感じられない。事変の進行中とはいえ、まだまだ日本国民にとっては「海の向こうの出来事」でしかなかったのではないだろうか?

古関の作曲も、どことなくぎこちなく、盛り上がりに欠けたまま終わっている。
ヒットする《軍歌》というのは、こういう曲ではないだろう。むろん、こういう歌詞でもない。
まだ、古関の軍歌がヒットするには、「ファクターエックス」が欠けている。

このレコードも、まったく売れなかった。

それにしても歌詞には「激越」な文句が並べられている。
なぜ、これほど日本国民は、支那を憎むにいたっていたのだろうか?
そこには《満蒙問題》と呼ばれる、長きにわたる政治課題があった。

《身以てまもれる 十萬の/御霊みたまは此処に 眠れるぞ》とは、明治37・38年の日露戦争における日本人の戦死者のことを指している。
日露の陸の戦いは、満州と朝鮮の遼東半島を舞台にして繰り広げられた。
戦争に勝利した日本は、朝鮮半島と満洲の権益を認めさせ、ロシアを支那から撤退させた。

その後日本は満州建設に乗り出し、朝鮮は併合した。そこに至るには、膨大な日本人の血のあがないがあったのである。

支那は1911年に起きた辛亥しんがい革命かくめい以降、蒋介石の国民党、ソ連共産党の指導を受ける中国共産軍、地方に蟠踞ばんきょする軍閥たちが入り乱れて、日本軍を巻き込みながら内乱に明け暮れていた。

満洲では、張学良が奉天城に入って以来、激しい「侮日ぶにち政策」をとり始めた。南満州鉄道に並行する鉄道を敷設して安い料金で妨害するなど、条約で認められた日本の満鉄経営権を侵害し、日本に甚大な経済的損害を与えていた。

関東軍は在満の居留民保護に当たっていたが、日本政府の「温和政策」なる無気力な平和主義は、抗日勢力に力を与える結果となっていた。
日露戦争以来、父子二代に渡る在満の日本居留民にとっては死活問題であったが、海の向こうの政治家たちは、まるで現地の状況を知ろうとはしなかった。

進むことも、退くことも決定できない、日本の政治。

《永き恨み》とは、支那ばかりでなく、煮え切らない日本政府に向けられたものでもあった。

昭和6年6月、中村震太郎大尉殺害事件が起きた。
中村大尉らは、満洲北部に兵要地誌調査のため旅行中、中国側の屯墾団将兵にとらえられ銃殺された。
国民政府は事実無根と声明したため、日本側世論は対中反発を高め、陸軍の姿勢硬化を招いた。
陸軍主要部と関東軍が連携し、奉天城攻撃の準備がなされることになるのを、国民政府が知ることはなかった。

7月2日、長春の北西に位置する万宝山部落で、入植朝鮮人を中国人が襲撃する万宝山事件まんぽうざんじけんが起きた。
朝鮮人農民が灌漑のため、松花江支流の伊通河をせきとめたところ、中国人農民が反対し、中国公安局が朝鮮人を取り締まった。
日本側警察も出動し、中国人農民と小競り合いが生じたが、双方とも人命の被害はなかった。
だが『朝鮮日報』が、衝突の結果多数の朝鮮人が亡くなったと誤報を流したため、事件は朝鮮半島各地に飛び火し、仁川、京城、平壌、元山などで、朝鮮人が中国人市民を襲撃する事件が起きた。
日本国内でも、在日朝鮮人が在日中国人を襲撃する事件が続発し、多数の中国人市民が殺傷された。
朝鮮人は日本の保護下にあったので、中国人の対日感情は急速に悪化した。

このままでは済むまい、と誰もが思っていた。
そんな時に起きたのが、満州事変であった。
日本国民が大いにいきり立った理由がわかるだろう。

この年のことで、もう一つ語っておかねばならないのは、古賀政男が『酒は涙か溜息か』で大ヒットを飛ばしたことだ。
古賀は古関より若干早く、昭和5年5月にコロムビアに入社していた。
作曲家としてやっていく自信がなかったため、最初はコロムビアの社員として入社させてもらおうとしたが、コロムビアから届いた採用通知書には、作曲家となっていた。
月給は文芸部長の米山正に決めてもらったが、月に1-2曲作曲する条件で、月給120円と書いてあった。当時の一流会社の課長クラスの月給だった。
最初のノルマとして作曲したのは『キャンプ小唄』で、まだ上野音楽学校在学中の藤山一郎が歌うことになった。好評を得ていい成績を収め、上々の滑り出しとなった。
その後、少しずつ地歩を築いていったが、『酒は涙か溜息か』の悲哀に満ちたメロディが、慢性的な不況下の暗い世相に生きる人々の琴線に触れたのだろう、ここに来て大ヒットとなった。
古関とは、薄暗い地下の食堂で、お茶を飲みながら将来を夢みて励まし合った仲だったが、古賀の方が一足先に頭角を現したわけである。

昭和6年にレコード化された古関作曲の曲数は、全部で19曲だった。(刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』巻末作品リストによる。以下同様)

古関裕而二十二歳、いまだヒット曲なし。昭和6年は、こうして暮れていった。

『肉弾三勇士の歌』で競作!その結果は・・・? 古関裕而、いまだ雌伏の時(昭和7年─昭和9年)

昭和7年(1932)の発表曲

上海事変、勃発す!

この年の初めから、上海シャンハイがきな臭くなっていた。日中衝突が、現実化しそうな勢いであった。

上海には、英米日三国の《共同租界》と《フランス租界》とがあり、ほぼ治外法権地帯であった。

《租界》には、自国の居留民の警護を目的とする各国軍が駐留していた。日本も海軍陸戦隊1000人を駐留させて、日本人居留民を警護していた。

繁栄している上海の中で、《上海租界》の繁栄ぶりは飛びぬけていた。中国民衆の眼に、それはどう映っていただろうか?
中国の過去の対外関係の結果生まれた《租界》だったが、中国人は条約とか歴史的経過を無視して、この租界の存在を《侵略》と見なしていた。
しかも、なぜか英米仏に対しての抗議は形ばかりで、日本に対してだけは暴力的・攻撃的に対抗して来た。

中国人の民族意識の高まりと、日本軍の軍事行動に触発されての反応であったことは確かだろうが、果たしてそれだけだったろうか?

同じアジアの人種で、西洋人よりも貧しく、中国人より一段格下の日本人が《侵略者》であることが、中国人には許せなかったようだ。
彼らのいわゆる「中華思想」がもたらした結果とも考えられる。
上海在住の外国人のうち、その八割を日本人が占めていたため、目につきやすかったことも、反発を強めた原因かもしれない。

そんな《下地》があったところに、満州事変の勃発は、さらに上海の中国人を激高させた。
日本人の商社や商店、個人が、3か月で二百件を超える掠奪や暴行の被害を受けていた。
ことに、日本人通学児童への投石などが相次いで、登校妨害や悪戯が七百件を超えたのも、日本側居留民の怒りを買っていた。

1月18日、上海「日本山妙法寺」の日本人僧侶三名が、中国人暴徒に襲撃される事件が起きた。僧のひとりは全治6か月、一人は全治1か年の重傷、一人は24日に死亡した。

村井総領事は上海市長呉鉄城に、排日団体の解散と僧侶殺傷事件にたいする救済措置を要求した。

排日団体を取り締まれば、日本側との関係修復ができることは分かっていたが、「排日運動」は「愛国運動」の一面もあったので、上海市長といえども容易には手の出しようがなかった。

上海市民の反日感情はますます高まり、上海防備を担当する広東派第十九路軍長さい廷鍇ていかいは、極秘に戦闘準備を下令していた。

1月22日、日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、陸戦隊員925名を上海に派遣して、村井総領事と呉市長の交渉を有利にすすめようとした。
このことが、かえって中国人の民族意識に火をつけ、多数の秘密組織と公然組織が、対日蜂起の準備にはいった。

海軍戦力の逐次投入が行われ、上海に終結した日本軍艦の数は24隻、陸戦隊の兵力は1833人にまで増強された。

村井総領事が1月28日午後6時を期限として回答を求め、これが最後通牒だった。
28日午後、最初の軍事衝突が発生し、戦闘は夜間を撤しておこなわれた。
上海事変の勃発である。

中国市民は難民となって、徒歩、人力車、荷車などで、道路に充満しながら租界に逃げ込んだ。フランス租界の南部に接する中国人区域に逃げ込む避難民も多かった。

海軍陸戦隊は、戦場予定地の北四川路に向けて、日本人居留民に見送られて出動した。居留民は歓呼の声を上げ、手を合わせて感謝を示す姿の者もあった。
実戦の経験はなく、地理にも地形にも不案内であった。それはそのまま、中国側第十九路軍にとって有利になる。
陸戦隊が進む前方の闇の中では、街路の要衝に鉄条網を張り巡らし、土嚢どのう陣地を構築して、第十九路軍の機銃の銃口が日本軍を待ち構えていた。

上海を北停車場から北へと延びる鉄路の西側に中国第十九路軍が布陣し、そこを東側の北四川路から、鉄道にぶつかる七本の道路を通って、日本陸戦隊が敵陣地攻略をめざして襲いかかる構図である。鉄道線路を挟んで日中両軍が向き合う形となっていた。

進撃路となったのは、両側にぎっしり民家が立ち並ぶ狭い通りだったため、民家に潜んでいた中国側便衣兵から奇襲的な銃撃を受けて戦闘は始まった。

夜を撤して機銃と砲音が響き、民家が燃える炎は天を焦がしていた。
上海市民にとって初めての戦火の経験であり、恐怖の一夜をすごした。

陸戦隊は、戦死20人、戦傷100人という予想外の苦戦だった。

さらに海軍戦力の逐次投入がなされ、2月3日から5日まで、日本軍は一進一退の戦闘を繰り返したが、この3日間の日本側の損害は、戦死29人、戦傷77人に上った。

海軍陸戦隊の土嚢陣地と装甲車

2月7日午前11時、日本陸軍第十二師団第二十四旅団の主力が、巡洋艦5隻、駆逐艦6隻に分乗して、上海に到着した。午後1時55分から、呉淞鉄道桟橋に上陸した。
さらに2月13日には、第九師団長上田謙吉中将が上陸、その部隊も15・16日に上陸した。

さすが陸軍一個師団以上の進駐はめざましく、中国便衣隊の活動は止み、中国市民の反日デモや宣伝活動は、日本租界から消えた。

これを機会に、米英仏三国の公使による停戦調停が再び動き出した。
18日、第十九路軍を率いるさい廷鍇ていかいが「一戦を交えぬ限り撤退はせぬ」と要求を拒否した。
19日、国民政府は日本軍の最後通告に対して、「中国の主権と国家人格を無視されることは認められず、上海のわが軍は自衛のため徹底的に戦うだろう」と声明を出した。
午後8時過ぎより中国軍は北四川路方面で、砲撃を開始した。

2月20日、日本軍は上海租界の北方地域に配備された中国軍に向けて、総攻撃を開始した。

攻撃は第二十四旅団と第六旅団を中核として、第1日目に廟行鎮、江湾鎮、新公園北側の線まで、2日目には大場鎮、真如鎮まで進出して大勢を決する作戦計画だった。

江湾鎮攻撃は、複雑な水濠の地形のため、敵情は不明、さらに暗夜が重なって、現在地を見失い、連絡が途絶え、空閑くが大隊は敵中に孤立した。
壕を掘って身を隠したが、糧食は尽き、壕に溜まった泥水をすすって任務を続行した。
すぐ近くに友軍がいたのだが、当時は無線機もない時代で、互いに敵と誤認して、友軍に射撃を浴びせる始末だった。

結局、江湾鎮攻撃は、大隊長空閑くがのぼる少佐が重傷を負い、中国軍の捕虜となる結果を招いて、失敗に終わった。空閑少佐は停戦後に日本側に送還されたが、みずから捕虜となった壕まで戻り、拳銃で自決した。

2月22日、混成第二十四旅団は、廟行鎮びょうこうちん攻撃にかかった。
中国軍は鉄条網を張り巡らした奥に、二重三重の陣地を構築していた。
攻撃は、いかり大隊第一、第二中隊の歩兵による、鉄条網のはさみによる切断作業から始まった。
第一中隊の伊藤少尉が発煙筒を持って、敵陣前を横に走って煙幕を張ると、その下を匍匐ほふく前進でくぐって鉄条網にたどり着き、二か所に通路を開いて、全員無事に帰った。

第二中隊は、午前四時半ごろ、五人編成の二組の破壊班が鉄条網に向かったが、敵の機関銃弾が弾幕を張って前進をはばんだ。
右班は一条の突撃路を切り開いて帰ったが、左班は5人のうち1人が戦死し4人が負傷、しかし三条の通路を切り開くことに成功した。

突撃路を開いた第一、第二中隊は、すぐに突撃に移り、敵陣地を占領した。

この間に工兵第二小隊を従えた第三中隊は、三名一組の工兵が4メートルの破壊筒をかかえて突進し、鉄条網の下に押し入れ点火して爆発させ、突撃路を開く作戦に出た。

《破壊筒》は、長さ4メートルの筒に二十キロの爆薬を詰めたもので、1メートルごとに雷管が装着してあった。筒全体を竹で包み、さらに藁で外装して、前部に木製の尖頭を付けていた。尾部には、長さ三十センチの緩燃導火索二本が装着され、これにマッチで点火することになっていた。マッチは防湿を考慮して、ゴム綿帯で包んで筒の端末につけてあった。

三人編成で5組の破壊班が、それぞれ破壊筒を抱えて前進した。松山宗右衛門中隊長が発煙筒を投げ煙幕を張ったが、第一班3組が走り出したとたんに風が煙幕を吹き払ってしまい、敵前にさらされた破壊班の周りに敵の機関銃弾が跳ね回り、全員が死傷してしまった。

これを見た第二班長内田徳次郎伍長は、鉄条網に達してからマッチで点火する余裕はないと考え、あらかじめ点火して破壊筒を運ぶよう命じた。
第一組の作江伊之助、北川すすむ、江下武二三名の一等兵は、すばやく点火して破壊筒を抱えて走り出した。が、先頭の北川一等兵が敵弾を受け倒れると、後ろの二人も転倒してしまった。
これを見守っていた第三中隊がどよめきの声をあげる中、三人は破壊筒を抱えて立ち上がり、突進して、倒れこむように鉄条網に破壊筒を突き出した。
轟音がとどろき、三人の体ごと鉄条網は吹き飛んだ。
この三人が、のちに「爆弾三勇士」あるいは「肉弾三勇士」としてたたえられることになる。

切り開いた突撃路を突進して、第三中隊と大隊主力は敵陣地を占領した。
しかし、この作戦はこれ以上進展することなく、初期の目的を完遂できないまま終了した。

『室蘭小唄』(昭和7年1月)

大陸で日中の抗争が激化している時に、平和な日本の地で古関が作曲していたのは、相変わらず地方小唄だった。

『室蘭小唄』

     作詞:岡正二  作曲:古関祐而

地方小唄の作曲依頼はそこそこあったので、ノーヒットの古関としては、こういう曲を作ることで糊口をしのいでいたのだろう。

動画を見てわかったのだが、古関が作った地方小唄で、今でも地元で使われている曲が結構あるという事だ。
レコードの販売数にはつながらなかったが、古関が年月に耐えうる作曲をしていたことに、すがすがしい驚きを感じている。

『肉弾三勇士の歌』(昭和7年4月)

廟行鎮びょうこうちんの戦闘における三人の工兵の戦死を、国内の新聞は「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」などと呼んで、特攻隊的な軍国美談に仕立て上げて大々的に報じた。

東京日日新聞社と朝日新聞社は、それぞれビクター、コロムビアなどのレコード会社とタイアップして、三勇士の顕彰歌の歌詞を募集した。

東京日日新聞社の『爆弾三勇士の歌』は、与謝野寛(鉄幹)が一等に当選し、陸軍戸山学校軍楽隊が作曲し、ビクターからレコードが発売された。
朝日新聞社の『肉弾三勇士の歌』は、一等の詩に山田耕筰が作曲し、二等の詩には古賀政男が作曲して、コロムビアからそれぞれA面・B面のカップリングでレコード化された。
実は、三等の詩に古関も作曲したのだが、古関の曲だけは別レーベルのレコードから出され、ほとんど注目すらされなかった。
YouTubeで検索してみればわかるが、出て来るのは与謝野寛作詞のものと、山田耕筰作曲のものばかりである。

よって、動画を掲載することも、音源の案内をすることも不可能だ。誰か、YouTubeにあげてくれ。

山田耕筰と古賀政男作曲のものをアップしていた方がいたので、紹介しておく。

『肉弾三勇士の歌』コロムビア盤 A面・B面(昭和7年)

A面:山田耕筰作曲 B面:古賀政男作曲

3月1日、満州国が建国を内外に宣言した。日本が後見して、清朝の正統である溥儀ふぎを満州国皇帝とし、「五族協和」「王道楽土」を建国の理念に掲げた。五族とは、満・蒙・漢・鮮・日を言い、おおよそ三千万人であった。「大満洲帝国」の誕生である。

5月15日、5・1・5事件が起きる。総理大臣・犬養いぬかいつよしが、三上みかみたく海軍中尉ら海軍の青年将校たちによって襲撃され、拳銃で射殺された。2月に起きただん琢磨たくまらが暗殺された血盟団事件に続く、「昭和維新」第二弾であった。

10月1日、隣接5郡82町村を編入して、「大東京市」が誕生。

日本の社会状況も、激しく流動化し始めていた。

昭和7年、古関裕而二十三歳、全25曲がレコード化され発売された。
この年の暮れ、長女雅子が誕生した。
家庭的には喜びもあっただろうが、しかし、相変わらずヒット曲には恵まれず、仕事の面では前途多難であった。

昭和8年(1933)の発表曲

古関にとって試練の年がやって来た。

この年、江口えぐち夜詩よしがコロムビア専属作曲家として加わった。江口はすでにポリドールで『忘られぬ花』というヒット曲を出していた。
古関は契約更改の時期を迎えていたが、コロムビアは、江口の入社とともに、古関を切る心づもりでいた。

古賀政男は、この噂を耳にして、大いに憤慨した。
「芸術家にスランプはつきものだ。それを理由に、契約を左右されたのでは、作曲家は立つ瀬ない」と、文芸部長の和田竜雄に猛抗議した。

古関夫妻は米山正の自宅を訪れ、長女が生まれたばかりで、再契約してもらえないと路頭に迷う、と訴えた。
金子は「ヒットを必ず出して、コロムビアに恩返しします」と強く懇願した。

かろうじて再契約してもらえることになったが、給料は百円に減らされた。
前にも一度、九十円に下げられていたが、この時期いくら貰っていたかはわからないが、その後引き上げられていたのかもしれない。

ヒット曲を出さねばならないというプレッシャーが、さらに重く古関にのしかかることになった。

『日本アルプス行進曲』(昭和8年1月)

     作詞/本山 卓 作曲/古関裕而 歌/中野忠晴

これは、観光地としての日本アルプスを宣伝するための歌なのだろうか?
レコードのラベルに「国立公園」とあるので、戦前に日本アルプスが国立公園に指定されたのを記念したレコードなのかもしれない。
ただし、あまりヒットするような内容には思えないが。

『春のうたげ』(昭和8年5月)

     作詞/野村俊夫、作曲/古関裕而 歌/淡谷のり子

悪くない。テンポの速いワルツ? 淡谷のり子の声が若い。私は、年取った淡谷のり子しかテレビで見ていないので、なんとも新鮮だ。

『スキー行進曲』(昭和8年12月)

スポーツ・ソングだ。古関の得意ジャンルのようにも思われるが、どうだろう?
「鈴音」をフィーチャーしているが、理由がわからない。馬鈴? 馬車でスキーに行くのか?

3月17日、日本、国際連盟脱退。国際的孤立の道を、歩き始める。
5月31日、満州事変終結。
7月14日、ナチス一党独裁、成立。
12月23日、皇太子明仁(現・上皇)誕生。
この年も、歴史は目まぐるしく移り変わっている。

巷では《エロ・グロ・ナンセンス》という言葉が流行し、退廃的な流行歌でにぎわっていた。だが古関は、風俗や夜の世界には疎く、興味が持てなかった。
「もっと社会見学をしなさい」とディレクターに言われても、聞き流していた。

その一方で、ミヤタハーモニカバンドに参加したりして、クラシック方面への意欲は衰えていなかった。

昭和8年、古関裕而二十四歳。まだヒット曲が出ない。この年レコード化されたのは、15曲のみ。厳しい。

昭和9年(1934)の発表曲

昭和9年にレコード化された曲は全28曲だが、その中から5曲紹介しておく。

『哈爾浜小唄』(昭和9年1月)

哈爾濱日日新聞当選歌
『哈爾濱ハルピン小唄』
作詞/鈴木勇作 作曲/古関裕而 歌/中野忠晴

前衛ハルピン 男の舞台
日・満・蒙の 花が咲く
きぬ曠野こうやは 無限の宝庫
拓け青空 は昇る

凍る松花江スンガリ 流れて解けて
つなぐ欧亜の 西東
舞ふてなびくは 油房ゆぼうけむ
恋の旅客機フォッカー 今日も飛ぶ 

馬車マーチョで行こうよ 傳家甸フーチャテン
可愛い姑娘クーニャンは 猫やなぎ
春は駆け足 復活祭バスハの頃は 
バックミラーの 片えくぼ

街のハルピン 何処まで開く
実る大豆の 黄金きんの山
興安颪こうあんおろしも 吹雪もまま
前衛日本の 活舞台

「哈爾浜」は「ハルン」と読む。満州国にある街である。これは、戦前から戦中、戦後すぐの頃の読み方で、現代では「ハルン」と濁音表記されることが多いようだ。

鈴音が聞こえるが、馬車マーチャの鈴か? 『スキー行進曲』の鈴とは違って、こちらの鈴音は、地理的になじんで聞こえる。鈴音を通して、生活世界が見える。

《油房》というのは、満洲の主力生産物であった大豆から、豆油や大豆粕を生産する伝統的な製油工場をいう。
日露戦争後、近代的な化学工場へと変貌して、二次製品として石鹸や塗料などを生産するようにもなったが、巨大な煙突から煙がたなびく様子は、満洲独特の景観だったのだろう。

油房の煙

こういったその地ならではのランドマークを唄い込むことが、地方小唄作詞の常道だった。
この歌は、《松花江スンガリ》(河の名)《油房》《旅客機フォッカー》《馬車マーチョ》《興安颪こうあんおろし》といった満洲の風物を唄うことで、詞の端々に素人ぽさを感じはするが、よくハルピンを表現しているように思う。

古関の曲も、この頃はまだ満洲へ行ったことはないはずだが、《想像上の満洲》をしっかり表現し得ている。なぜか心惹かれる曲なので紹介した。

『みなと尾道』(昭和9年2月)

こちらは、国内の地方小唄。相変わらず、地方小唄を作っている。
少しずつ分かって来た。はっきりした高低差が感じられるメロディラインは心地よいということだ。リズムにひとひねりあれば、なお良し!
『みなと尾道』は、けっこうよくないか?

『利根の舟唄』(昭和9年7月)

古関が、コロムビアの作家室で作詞家・高橋たかはし掬太郎きくたろうと話しているうちに、どこか取材旅行をしてヒット曲を作ろうということになった。
古関は入社以来ヒット曲がないままだったし、高橋も『酒は涙か溜息か』以来大したヒット曲も出せないでいた。

二人は日帰りで、水郷の潮来いたこに行くことに決めた。
土浦から一銭蒸気のような古びた船に乗り、霞ケ浦の湖岸の風景を眺めながら、潮来の町に着いた。
潮来は、ひっそりと静まり返った淋しい町だった。

娘船頭さんの船を雇って、出島、十二橋と、水郷地帯のすみずみまで見て回った。
古関は、米産地として有名な潮来の風物に、惹かれるものを感じていた。
高橋は、潮来から佐原へ向かう途中、黄昏たそがれに近い大利根の流れを、『島の娘』を唄いながら小舟を漕いでいく若い男を見て、詩の着想を得たらしい。

一週間ほどして、古関は高橋から利根の舟唄河原すすきの詩を受け取った。
取材は春だったが、高橋の詩はレコード発売の季節に合わせて秋になっていた。
ひっそりとした潮来の町、木々の影を映す狭い水路を思い浮かべると、古関にはすぐにメロディが浮かんできた。

『利根の舟唄』は松平晃の歌で吹き込み、レコードが発売になると、古関にとって初のヒット曲となった。
古関と高橋は、「取材してよかったね!」と喜び合った。

『利根の舟唄』

『河原すすき』(昭和9年7月)

『利根の舟唄』のB面に、同じく高橋の作詞で、同じく水郷ものの『河原すすき』を、ミス・コロムビア(松原操)の歌で吹き込んだ。
一度の取材で、二曲できたわけだ。
古関は、B面のこちらの曲の方が気に入っているという。

『河原すすき』

『義人村上─日本人は此処にあり─』(昭和9年11月)

昭和9年8月30日、哈爾濱ハルピン民生部事務官・村上むらかみ粂太郎くめたろうは、哈爾濱発新京行きの夜行列車に乗っていた。
列車は突如銃撃を浴び、一等車、二等車に匪族の群れが乗り込んできて、「日本人を殺せ!」と叫びながら銃撃を繰り返し、三等車は脱線転覆し多くの乗客が下敷きとなって死傷した。
匪族たちは、ほしいままに略奪を働き、アメリカ人二人を含む村上ら十名を人質として拉致した。

9月1日、村上らは松花江に浮かぶ小舟ジャンクに乗せられていた。すでに捜索が開始されたらしく、上空を飛ぶ飛行機の爆音に、人質たちは救出への期待をふくらませていた。

9月2日の夜明け頃、村上らは松花江に浮かぶ中洲へと上陸させられた。
匪族たちは大きな穴を掘り、その中に人質たちを座らせて、回りを取り囲んで銃口を突き付けた。
「声を立てたら殺す」と人質を脅した。

遠くに日本の海軍陸戦隊の捜索ボートが見えたが、中洲には気付かないまま通り過ぎようとしていた。
「日本人は此処におるぞ!」
村上は、決然と立ち上がって大声で叫んでいた。
匪族の銃弾が村上の上顎をつらぬき、村上はその場に倒れた。

村上の声に気付いたか、あるいは銃声に教えられたのか、陸戦隊のボートは中洲に向かって近づいてきた。
匪族たちは、人質をそのままにして、川に飛び込んで泳いで逃げようとしたが、陸戦隊の掃射を浴びて絶命した。
匪族56名が逮捕され、人質は全員無事に救出された。村上も、重傷を負ったが命はとりとめた。

この事件によって村上粂太郎は「義人・村上」と勇気ある行動が讃えられ、村上が叫んだ「日本人は此処にあり」は流行語となった。

そんな事件を題材として、佐藤惣之助が作詞し、古関が作曲したのが『義人村上─日本人は此処にあり─』だった。

『義人村上─日本人は此処にあり─』

『義人村上─日本人は此処にあり─』
作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而 歌/中野忠晴

1.何処へ曳かるる人質ぞ
  首や双手もろては縄からげ
  二日二夕夜ふたよも休みなく
  明けりゃジャンクの船の底

2.救援隊の呼ぶ声に
  慌てふためく匪賊共ひぞくども
  口に銃口つきつけて
  撃つぞ叫ぶな声立つな

3.それ 皇軍の短艇ふねが行く
  呼べば撃たれん叫ばずは
  天に口無し すはや今
  歯を噛みならす一刹那いちせつな

4.丈夫 村上久米太郎
  匪賊蹴破り躍りいで
  満腔義烈の声こめて
  「日本人は此処にいる!」

5.叫ぶやいなや弾丸は
  あごを貫き犠牲いけにえ
  君を倒せどその声に
  内外人は救われぬ

6.君傷つきぬされど今
  義烈輝く日本の
  精神ならでたれが呼ぶ
  この一ト声ひとこえたれが呼ぶ

おお!『露営の歌』に酷似のフレーズが、そこかしこに聞こえる!
この時点で、古関の《軍歌》の音楽的鉱脈は、あちこちに露頭を見せ始めている。地中に潜む巨大な鉱床が明らかになる日は、もうそこまで来ているようだ。

これは《時局歌》と言った方がよい作品だ。実際に起きた事件を、物語化して作詞している。
海軍陸戦隊が関係してはいるが、これは《軍歌》ではないだろう。時局がらみの社会的事件を題材にした《流行歌》である。
こういう社会的事件を扱った歌は、明治の壮士演歌の時代からあった。決して新しいものではない。ただ《時局がらみ》というところが、いかにも昭和の歌らしい。

昭和9年は、どの曲もだいぶイイ感じ! 今年のレコード発売した曲数は、全41曲。飛躍的と言いたいくらいに増えている。
だが、ヒットしたレコードは一枚きりで、それ以外の作品は相変わらず売れなかった。
古関裕而二十五歳、あと一息だ。
この年、次女紀子が誕生した。

『船頭可愛や』が、初の大ヒット!(昭和10年)

『利根の舟唄』がヒットして、古関と高橋は「また何処かへ旅行して、ヒット曲を出したいね」と話し合っていた。

ある日、高橋が「こんな詩ができたよ」と、一篇の詩を見せた。それが『船頭可愛いや』だった。

『船頭可愛いや』 音丸(昭和10年6月)

古関は、それが瀬戸の民謡からとったものであることが、一見してわかった。メロディを聞いたことはなかったが、「船頭可愛いや」という歌詞は知っていた。

『音戸の舟唄』

『音戸の舟唄』(広島民謡)

(アードッコイドッコイ)
ヤーレー 船頭可愛いや 音戸の瀬戸でヨー (アードッコイドッコイ)
  一丈五尺の ヤーレノエ がしわるヨー (アードッコイドッコイ)
(以下、掛け声同じ)

ヤーレー 泣いてくれるな 出船の時にゃヨー 
  沖で艪櫂ろかいの ヤーレノエ 手が渋るヨー

ヤーレー 浮いた鴎の 夫婦みょうとの仲をヨー
  情け知らずの ヤーレノエ 伝馬船てんませんヨー

ヤーレー 船頭可愛いと 沖行く船にヨー
  瀬戸のあの娘の(女郎衆の) ヤーレノエ 袖濡らすヨー 

ヤーレー あれは一家か 鴎の群れはヨー
  今宵何処の ヤーレノエ 波間やらヨー

ヤーレー ここは音戸の瀬戸 清盛塚のヨー
  岩に渦潮 ドンと ヤーレノエ ぶち当たるヨー

音戸の瀬戸

『音戸の舟唄』は、渦潮うずしお逆巻く音戸の瀬戸を越えて、沖へ漁へと漕ぎ出す海の男を想う歌である。そこからの本歌取りなので、『船頭可愛いや』も当然、瀬戸内海の漁師の男、あるいは遠洋漁業の男を想う歌である。

『利根の舟唄』は水郷の小舟を歌ったものなので短調にしたが、『船頭可愛いや』は大海を行く豪快な漁師を想う歌なので、長調でいわゆる田舎節(陽旋法)で作曲した。古関のイメージに浮かぶ民謡の旋律を活かした。

ディレクターに見せると、すっかり乗り気になり、民謡調の歌にふさわしく、音丸という芸者風の名前の女性を連れて来た。

当時は、小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅といった芸者歌手の全盛時代だった。
しかし本物の芸者を雇うとギャラが莫大になるため、下駄屋のお内儀かみであったが、筑前琵琶の名手で民謡もこなす永井ながい満津子まつこに、コロムビアは白羽の矢を立てたのだった。
「音丸」という芸名は、「音は丸いレコードから」ということで、コロムビアが芸者風な芸名をつけたのである。

音丸は当然、楽譜は読めないので、古関がピアノをひきながら教えた。
音楽的なカンに優れていて、歌詞のわきに独特な記号を書き込みながら、この歌を自分のものにしていった。

昭和10年7月、『船頭可愛いや』は新人・音丸のデビュー盤として、コロムビアが大々的な宣伝をして発売された。
最初はそれほど反響はなかったが、年末から猛烈な勢いで流行し始め、またたくまに全国に広がって行った。

古関は、最初はクラシック風な歌唱でレコード化するつもりでいたが、ディレクターが音丸を連れてきたことで、想定外の効果が得られたのであった。
古関は、入社五年目にして初めて、自分の作った歌がどこへ行っても流れている喜びを知った。

『船頭可愛いや』は、大ヒットしたのである。

音丸

『船頭可愛いや』

『船頭可愛いや』 三浦 環(昭和14年)

昭和10年、『船頭可愛いや』が大ヒットしていた頃、『お蝶夫人』の上演でヨーロッパで活躍していた三浦みうら たまきが、日本に永住帰国した。
三浦はコロムビア専属の声楽家だったので、コロムビア主宰で帰国レセプションが盛大に開催された。

その後、何かの折り、偶然『船頭可愛いや』を聞いた三浦 環は、
「これは素晴らしい。ぜひ私も歌ってレコードに入れたい」と申し入れをしたことから、コロムビアでレコーディングする運びとなった。
古関も立ち会うことになった。
《美声の上に、エキスプレッションの巧妙なことは、さすがに世界的歌手だと思った。》と、古関は《自伝》に書いている。

三浦の吹き込みは「青盤レコード」となった。

青盤レコードというのは、コロムビアでは外国の著名な芸術家だけがレコードに青いラベルが貼られ、《青盤レコード》と呼ばれていた。日本人で青盤に吹き込めるのは、ごくわずかな人だけだった。
無論、古関は流行歌の作曲家だったので、青盤には無縁だった。
古関の《青盤レコード》への熱いまなざしは、学生時代からクラシック音楽に打ち込んできただけに当然とも思えるが、では、流行歌作曲家としての自分をどのように考えていたのだろう?

三浦 環

『船頭可愛いや』 三浦 環

『月のバルカローラ』 三浦 環 (昭和14年)

古関はその後、三浦環に、コロラチュラ・ソプラノで技量を存分に発揮できる『月のバルカローラ』を作曲して贈った。
古関は、三浦環によって、『船頭可愛いや』と月のバルカローラの2曲を青盤で発表することができ、年来の望みを果たすことができたのである。

『月のバルカローラ』 三浦 環

昭和10年、古関裕而二十六歳。この年は、古関初めての大ヒット曲が町に流れるのを聞きながら暮れていった。
今年の作曲数は全41曲。昨年と同数だ。

翌11年6月、古関が文芸部に行くと、文芸部長と補佐のエドワード氏から、
「『船頭可愛や』の大ヒットを社長も非常に喜んでいます。それで今までの入社以来の赤字は全部棒引きにして『船頭可愛や』の印税を、最初の一枚から差し上げます」と言われた。
古関はすっかり感激し、さらに作曲に打ち込んでいった。
さすが外資系ならではの、合理的な判断である。

《参考文献》
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』(文春文庫、2020年3月20日)
児島襄『日中戦争 2』(文春文庫、1988年8月10日)
『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻(文藝春秋、1988年1月10日)