「戦後70年談話 21世紀構想懇談会報告書」わたしの感想

いったい一国の首相が語る「談話」とはなんであろうか?
国内向けというよりは、「対外国向け」に出すものなのだろう。
だとすれば、そこには必ず「戦略」がなければならない。

第二次世界大戦終了後70年目の年である。
この時にあたって日本の首相に求められている発言とはどんなものか、
そこを押さえた上で、日本に対する共感と支持が得られる内容であることが必須となる。
言いたいことだけを言ってしまったら、
本人は胸のつかえがなくなりいい気分かも知れないが、
その時点で日本の国際的評価は急落する。

だから、言いたくてもあえて言わない、また、言えないこともあるだろうし、
巧みな言い回しであえて言うべきこともあるだろう。

安倍首相が八月十四日にだす「首相談話」の参考とされる報告書が、
首相の私的諮問機関である21世紀構想懇談会から提出された。

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「戦後70年談話 21世紀構想懇談会報告書」全文

この報告書を安倍首相がどのように活用するのかはわからない。
すでに70年談話の原案は出来上がっているようなので、
あるいは文字通り「参考」にとどまる可能性もある。

読んでみて注意をひくのは、
「満州事変」以降の日本の戦争を「侵略」と言い切ったことだ。

たしかに欧米諸国や中国・韓国にとって、「侵略」のひとことは望むところだろう。
なぜならそれが彼等が戦後つくりあげてきた歴史観に沿うものであり、
GHQが占領期をとおして日本人に教え込んだ歴史観だからである。

もし日本が戦勝国の歴史観に挑戦するようであれば、
いったん和解した国家とさえも、ふたたび関係に亀裂が入る可能性がある。

いまある「秩序」を破壊し、世界を混乱に陥れる行為は「悪」なのだ。
それだけは世界が一致している「価値観」である。

しかし、ほんとうに日本は「侵略戦争」をしたのだろうか?

少々皮肉な言い方になるが、
わたしは、「侵略戦争」というのは「他国の戦争」に対する呼称であって、
自国の戦争は「自衛戦争」もしくは「正義の戦争」と呼ぶのが、国際的な慣例だと思う。

自国の戦争が「侵略戦争」だと言って戦争する国などはない。

「先制攻撃」であったかどうか程度しか、「侵略」の定義なるものはいまだに存在しない。

戦争における「侵略」の定義とともに、「残虐」の定義も必要だと思う。
「侵略」と同じで、他国の戦争はとかく「残虐」になりがちなものであるからだ。
「残虐」でない戦争とはどんな戦争だろう?

「アメリカ人の日本人に対する人種差別」が指摘されていない。
これは日本の戦争の根本原因を構成する主要な問題だったはずだ。
西洋人の非西洋人に対する人種差別が、大きな背景になっている。
植民地主義の根源にある問題でもあった。

そしてなにより、原子爆弾を二発も日本に投下することになった、
アメリカ側の心理的動因でもあった。
政治的な目的は、ソ連に対する原爆開発成功の誇示であり、
また、原爆の実際的な効果を測るための「生体実験」でもあった。

フランスの哲学者にして文学者のジャン・ポール=サルトルは、
「ドイツ人には決して原爆を使わなかっただろう。日本人だからアメリカは原爆を使用できた。」と言っている。

「開戦の詔書」では、戦争の目的を「自存自衛ノ為」「東亜永遠ノ平和ヲ確立」するためと国民に説明していた。
西洋列強は、アジア全域に彼等の植民地を温存したまま、「世界秩序の維持」を図ろうとしていた。
その偽りの秩序を、日本軍は破壊したのである。

結果的に、アジア諸国は「独立」に目覚めてしまった。
戦勝国が日本を「悪の権化」にすることは勝手だが、
敗北に打ちのめされながらも日本人は、アジアの独立を喜びを持って受け止めた。
日本が多大な犠牲を払ってでも戦った理由を忘れたわけがない。

報告書が指摘している通り、
日本が「アジア解放のために、決断をしたことはほとんどない。」というのは本当だろう。
満州建国から対米英戦開戦まで、日本の念頭にあるのは「自存自衛」のみだった。
軍部も政府も、戦争の最終目標が何なのかさえわかってはいなかった。
だが、日本兵や共に戦った台湾兵、朝鮮兵たちのなかに、
「アジア解放」を信じて戦った者がたくさん居たことも事実だろう。

その戦争目的は、戦争指導者たちが国民に与えたものでありながら、
当の戦争指導者たちは本気で考える者はなく、
国民だけが素直に受け止め、目的遂行のために人生を捧げた。

日本の戦争を「侵略戦争」と言い切ってしまった場合、
この兵たちの意志は、誰がどういう形ですくいとってやればいいのか?
彼らの真摯な思いを歴史上から消してしまうことになり、
大きな悔恨を残してしまうことにならないか、わたしは恐れるのである。

日本が提唱した大東亜共栄圏というのは、
日本が盟主となっての大アジア・ブロック主義といったことだろう。
これは「八紘一宇」という日本古来よりの理念の、時代的展開であった。

さらに、わたしがこの「戦後70年」カテゴリーにおいて追及しているように、
アメリカ政府は日本の占領過程で、日本人の精神改造(洗脳)メカニズムを構築した。
「検閲」と「焚書」により、占領下で起こっているアメリカ兵の暴行や強姦行為は隠され、
先の戦争に触れた記事は削除され、戦前からの日本人の思想を伝える雑誌や書物は書店から回収された。

こうして日本人は、戦後長いあいだ、
日本が戦争を始めた理由を自分で追究することさえできなくなっていた。
歴史史料への自由なアクセスに、高いハードルが設けられたためである。
これほど人間の尊厳と文明に対する侮辱行為はない。

日本は外国人が批判するように、「歴史修正主義」で歴史を見直そうとしているのではない。
近年、アメリカの国立公文書館などから、
かつて奪われた歴史的資料やGHQ文書が続々と見つかったことにより、
「実証主義」によって従来の歴史認識の見直しをせざるを得なくなったのだ。

首相談話を発表するというのは「公(おおやけ)」の行為である。
本当のことをそのまま言えばいいというものではない。
そこが学者と政治家の違うところだ。
どういう表現がどのように受け取られるかを、きびしく計算する必要がある。
しかし、日本人の誇りを賭けて、
言わねばならないことは、最大限に表現を工夫してでも言うべきだろう。

「反省」はするべきである。
反省のないところに進歩はない。
日本の軍部ならびに一般の日本国民にも、
「自国の文明と軍事力に対する奢り」「他のアジア諸国民への軽侮」があったことは否定出来ない。
これを反省して、戦後の日本の歩みは進められて来た。
その点は、アジア諸国との融和のためにも、強調しておく必要がある。

戦後の日本は、「アメリカの核の傘」に入ることで、
また、「アメリカ第7艦隊」の軍事力によるパワー・バランスの上に、
平和状態の維持と経済的発展に専念することができた。

この方向性は、今後も強化しながら継続していくことになるだろう。
しかし最近のアメリカの経済的・政治的地位の低下により,
アジアにおけるアメリカのプレゼンスに重大な懸念が生じており、
隣国・中国の経済的勃興と覇権主義的政策に対応するために、
日本はいま軍事的独立性を高めていく必要に迫られている。

これはあらためて取り上げる予定があるので、ここでは指摘するだけにとどめておくが、
中国はいま、第二次世界大戦において大日本帝国がたどったのと同じ道をたどり始めている。
世界を支配している冷酷なパワー・ポリティクスに、
いまも日本はさらされていることを忘れてはならない。

「露営の歌」 薮内喜一郎作詞 / 古関裕而作曲

アジア解放戦争の真実 (団塊の世代から観た大東亜戦争)[本/雑誌] / 森嶋雄仁/著