【第4回】古関裕而の快心作『暁に祈る』誕生!

『愛国の花』─戦時歌謡に咲いた一輪の花(昭和13年)

昭和9年8月より、内務省警保局によって《レコード検閲》が始まった。
昭和12年7月7日に盧溝橋事件が起こると、《国民精神総動員運動》が呼びかけられ、「八紘一宇」「挙国一致」「堅忍けんにん持久」のスローガンのもと、国民の持てる力すべてを、戦争に向けて注がれる流れが形作られていった。

昭和12年12月13日、南京陥落が伝えられると、国民は狂おしいまでに日本軍の勝利を讃えたが、それは、敵の首都をとした以上、早期に戦争が終わるものとの期待があったからでもあった。
だが、戦争は終わらなかった。

国民政府は首都を重慶に移し、日本軍はさらに支那大陸の奥深く、進撃させられることとなった。そうして時間を稼いでいる間に、日本軍の侵略を国際世論に訴え、欧米諸国が助力してくれるよう国民政府は懇願していた。戦力的には圧倒的に優っている日本軍に勝つには、この方法しか残されてはいなかった。国際宣伝戦と外交戦に賭けたのである。

『さくら進軍』(昭和13年4月)

まだ、戦争は続く。それはレコード会社にとっては、「まだ軍歌が売れる!」ということだった。
古関は、矢継ぎ早に軍歌の作曲をしていた。

『露営の歌』の前奏が美しいので、これに詩をつけようという声が出て、西條八十に作詞を依頼して、『さくら進軍』ができた。いわゆる「曲先きょくせん」で作られたわけだ。こういう芸当ができるところは、さすがにプロの作詞家ならではだ。

     『さくら進軍』【動画】

作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/松平晃、霧島昇

この歌は、陸軍航空隊の前線の兵士たちに愛唱されていたそうだが、国内ではあまり知られることがなかった。

作詞の西條八十は、南京入城を取材して帰ってきてすぐの作詞だったため、支那大陸で占領地域を広げている日本軍を桜に喩え、「意気で咲け 桜花」と、まことに威勢が良い。

ただ、後に一つのミスに気がつき、晩年まで気にしていたそうだ。
「咲いた桜が 男なら/慕う胡蝶は 妻じゃもの」と、桜花を夫に、それを慕う妻を蝶にたとえたのだが、じつは蝶は桜の花にはとまらないということを聞いてしまった。「蝶々」の歌のイメージがあったために、すっかり信じこんでしまっていたのだった。
こういう失敗談の一つや二つは、売れっ子作詞家はみんな持っている。

この年の1月3日、女優岡田おかだ嘉子よしこが共産主義者の演出家杉本すぎもと良吉りょうきちと、樺太からふと国境を越えてソ連へ亡命した。
3月には、石川達三が「生きている兵隊」を中央公論で発表、同誌は発売禁止にされた。南京戦での皇軍兵士の描写を、「虚構の事実をあたかも事実の如くに空想して執筆した」というのがその理由だった。

『愛国の花』(昭和13年4月)

渡辺はま子

『愛国の花』は、大阪中央放送局(JOBK)と東京中央放送局(JOAK)が各週交代で放送した、ラジオ番組「国民歌謡」の中の一曲である。

「国民歌謡」は、昭和11年6月1日から始まった。
巷に氾濫するエロ・グロ・ナンセンス的な歌を快く思わない人々の、家族みんなで歌えるような健全な歌を!という要望に応えるための番組で、新作歌謡曲が発表された。
ちなみに《歌謡曲》というのは放送局独自の呼び方で、レコード会社が《流行歌》と呼んでいるものをそう呼んだのだった。

「国民歌謡」は、昭和16年2月8日から、「われらのうた」と改称された。昭和17年2月8日からは、さらに「国民合唱」と改称され、終戦まで続いた。
戦後、NHKと社名を変え、昭和21年5月1日から番組名を「ラジオ歌謡」と変えて、この傾向は現在の「みんなのうた」にまで続くのである。

「国民歌謡」の第一作は、島崎藤村詩による『椰子の実』だった。その後も、藤村の詩による『朝』『夜明けの唄』『春の唄』等が続いたが、1週間単位で毎日放送したにもかかわらず、ヒット曲は出なかった。

『愛国の花』は、昭和12年10月20日から放送されたが、銃後を守る婦人たち対象の歌をという意向に沿って、女性らしく美しいメロディで、明るくみんなが唱和できるように、三拍子系の八分の六拍子で作曲した。
翌年4月25日に、放送時と同じ渡辺はま子の歌唱でレコード化がされた。

     『愛国の花』【動画】

作詞/福田正夫 作曲/古関裕而 歌/渡辺はま子

発表してすぐには、確たる反響も見られなかった。
しかしこの歌は、やがて太平洋戦争が始まると、日本軍兵士たちの口づてに、あるいは慰問品に入っていたレコードなどから、南方各地の住民の間にまで広がって行った。

インドネシアのスカルノ大統領は、戦争中から『愛国の花』を愛唱し、戦後大統領になると、自らが作詞をしてインドネシア語でも歌えるようにした。
昭和37年2月、当時皇太子だった平成天皇(現上皇)が、美智子妃殿下とともにインドネシアを訪問した時は、宿舎のボゴール宮殿に学生一万人が集まり、二人をお慰めするために『愛国の花』を合唱した。

昭和17年には、同名の映画が、松竹・大船で撮影されている。この頃には、日本国内でも知られるようになっていたのだろう。

『婦人愛国の歌』(昭和13年5月)

当時の三大婦人誌のひとつ『主婦の友』が昭和13年4月号で、『婦人愛国の歌』の作詞を懸賞募集した。南京陥落以降、国民に戦時下意識が薄れ、緊張感を欠いて来ているため、改めて国家の非常時であることを意識させる意図が込められていた。
《国民精神総動員運動》の潮流に乗って、内務省、文部省、陸軍省、海軍省、国民精神総動員中央連盟、国防婦人会、愛国婦人会などが後援しておこなわれた。

選者は、詩人・西條八十、作家・菊池寛、吉屋信子、「軍艦行進曲」の作曲家・瀬戸口藤吉、海軍中佐・松島慶三などだった。

審査の結果、一等に上条操、二等に仁科春子の作品が選ばれ、一等の作品には瀬戸口藤吉が、二等の作品には古関裕而が作曲した。古関は『露営の歌』の作曲者として選ばれて、依頼されたものだった。

A面に瀬戸口作曲の一等作品、B面に古関作曲の二等作品が、カップリングで発売されたが、古関作曲のB面の方が親しみやすく人気が出た。あまり力を入れて宣伝されることもなかったが、ヒットした。

作詞/仁科春子 作曲/古関裕而 歌/コロムビア女性合唱団

『鈴蘭峠』(昭和13年6月)

この年、古関は53曲をレコード発表しているが、大部分が時局歌・軍歌だった。すでに新民謡や地方小唄の依頼はなくなっており、それに代わって、郷土部隊の歌などの依頼が来るようになっていた。

『鈴蘭峠』は、そんな中では珍しい一般歌謡だ。
作詞は、西條八十。
この年は、他に『神苑朝』『戦捷行進曲』『憧れの荒鷲』『愛の聖戦』『街の花売娘』などを、古関と西條は組んで作っている。

「旅ははてなし 我が世はつらし」「泣くな乙女よ 朝霧晴れて/空は薔薇いろ もう夜が明ける」──こんなところが、八十が本当に書きたかったことだろう。長引く戦争に、疲弊する女性たちを励ます歌だ。

ミス・コロムビア(松原 操)

     『鈴蘭峠』【動画】

作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/ミス・コロムビア

『旅の夜風』西條八十作詞(昭和13年9月10日)

松竹映画『愛染かつら』

西條八十は、この年、とても重要な歌を作詞しているので、古関作曲ではないが取り上げたい。それは『旅の夜風』である。

『旅の夜風』は、川口松太郎原作の映画『愛染あいぜんかつら』の主題歌だった。
軽井沢で避暑をしていた八十のところへ、『愛染かつら』が映画化されるので、その主題歌を書いてくれという使者が訪ねて来た。しかも、非常に急いでいるので、レコード両面分を翌朝までに書いてほしいという。また、川口松太郎は八十の『母の愛』という詩をもとに『愛染かつら』を書いたので、その作詞はぜひ八十にと望んでいるとも伝えた。

『愛染かつら』は、ヒロイン高石かつ枝(田中絹代)が看護婦という自立した職業婦人であり、子供をかかえつつも強く生きてゆくという、日華事変の戦時下で求められる女性像が描かれていた。
京都へと旅立つ恋人を追って、かつ枝が新橋駅のプラットホームに駆け付けた時に、失意の津村浩三(上原謙)を乗せた列車がホームを離れていくというクライマックスシーンで、盛り上げられる主題歌を音楽監督の万城目まんじょうめただしは求めていた。
実は、原作が雑誌に連載中から、すでに別な作詞家によって主題歌の作詞は出来ていたのだが、あまりに万城目が求めるイメージから遠かったため、ぜひとももっとも盛り上がる場面の詩を、八十に書いてもらいたかったのだ。

だがその時、八十は、ジンギスカン料理を食べて酔いつぶれていた。
翌朝、映画の台本を読み始め、プロデューサーが汽車に乗る朝八時までの2時間で、八十は求めに応じて、A面の『旅の夜風』とB面の『悲しき子守唄』を書いて渡した。

作詞/西條八十 作曲/万城目正 歌/霧島昇、ミスコロムビア

短時間で書き上げはしたが、決して八十は手を抜いてはいなかった。
非常時下、すでに流行歌の歌詞の検閲は厳しさを増していて、時局にふさわしからぬ軟弱な恋愛を歌った歌詞は発行禁止にされることが増えていた。

病院の御曹司おんぞうしと子持ちの看護婦のすれ違いの恋愛話という、誰がどう見ても軟弱極まりない物語の主題歌を、八十は「花も嵐も 踏み越えて/行くが男の 生きる道──」と書きだした。勇まし気な歌詞で、まずは《偽装》したのである。

「泣く」という言葉も、検閲官に目をつけられやすい言葉だった。だから、「泣いてくれるな ほろほろ鳥よ」「おとこ柳が なに泣くものか」と、泣いているのは人間ではないことにしたのである。
これを読んだ内務省の小川近五郎検閲官は、「柳が泣いているのなら、まあいいでしょう」と、苦笑しながら検閲を通した。

映画『愛染かつら』は当たった! 日本中を席巻した! 主題歌の『旅の夜風』も、大ヒットした。

不良中年の西條八十は、軟弱な歌を書かせたら、天下一品だった。

『旅の夜風』は、女性に人気があったのだろうと思われがちだが、実は、好んで歌う男性も多かった。
歌詞の全体を見れば、確かに軟弱な部分もあったが、部分的に見ると勇ましい部分があり、そこに思いを込めて歌うことができるのだ。
特に一番は、男歌としてもOKだ。男は一番だけ歌えばいい。
『旅の夜風』は、ラブソングとして歌えるだけでなく、「男の歌」としても歌えるのだった。
だからこそ、大ヒットしたのである。

後に八十が『若鷲の歌』を作るために、土浦の海軍航空隊に行った時のこと、宴席で、原田種寿という海軍中佐が『旅の夜風』を歌い出した。
聞けば、予科練生の卒業式の後、彼は料亭での祝宴で『旅の夜風』の第一連を歌い、「この歌の意味するものは勇往邁進ゆうおうまいしんである」と訓示し、その後全員で『旅の夜風』を合唱したということだった。

また、出撃前夜の特攻基地で、もっともよく歌われた歌が『旅の夜風』だったということも言われている。
「花も嵐も 踏み越えて/行くが男の 生きる道」と自分に言い聞かせながら、飛び立って行ったのだろう。
『旅の夜風』は、もはや究極の《軍歌》となったのである。

歌詞を、どう解釈して歌うかは、歌う者の自由である。
《歌》は戦時下の個人にとって、「最後に残された自由」だったのだ。

西條八十

『愛の聖戦』(昭和13年9月30日)

日本国民にとって、支那との戦争がいかに「ねじれた」想いのままに戦っていたものであったか、それは八十のこの詩を見ればわかる。
曲を紹介したいのだが、残念ながら動画の投稿がないので、詩のみ紹介しておく。

『愛の聖戦』
作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/秋月恵美子

1.となり同志の 国と国
  なんでいくさが したかろう
  やむなくふるう 膺懲ようちょう
  つるぎのかげに 涙あり
  日本桜やまとざくらの このこゝろ
  ひろく世界に 知らせたい

2.目ざすかたきは 軍閥ぞ
  無知の鎖を 解きはなち
  四百余州しひゃくよしゅうの 同胞はらから
  仰ぐ平和の 青い空
  日本桜やまとざくらの このこゝろ
   ひろく世界に 知らせたい

3.おもえばおなじ 人の子と
  った征野せいやの 花すみれ
  摘んで捧げる 敵の墓
  強いばかりが 武士ぢゃない
  日本桜やまとざくらの このこゝろ
   ひろく世界に 知らせたい

この時代の軍歌にしばしば登場する《膺懲ようちょう》だが、こんなことが戦争をする理由になるものだろうか? goo辞書では「征伐してこらしめること」とある。
こんなこと知らせられても、世界が困るのではないかと思うのだが、八十も軍人も大衆も、大真面目に《膺懲ようちょう》を口にしていた。

支那人へのあなどり、一段高いところからの意見の押し付け、領土的野心──そんな背景が透けて見える《膺懲ようちょう》だが、こんな歌を軍部の検閲が通したということは、それが当時の「日本の常識」だったのだろう。まことに恐るべきは「常識」である。

「目ざすかたきは 軍閥ぞ」
支那の軍閥たちは、国家統一などに興味はなく、地方の覇権を自分が握るだけで十分だった。
農民や市民たちは、いったん戦争が始まれば、敵からも味方からも略奪され、家は燃やされ、農地は踏み荒らされるのが、昔からの定めだった。
誰が上に立ってもいいから、さっさと平和になってくれるまで、戦火から逃げ続けるしか道はなかった。
これら農民・市民を味方につけた者こそが、真の支那大陸の覇者となるだろう。大日本帝国は、それが解っていただろうか? 

日本は、本当の敵(戦争の理由)を見定めないままに、国家戦略も持たずに支那大陸の戦線を拡大して、苦手な外交戦・プロパガンダ戦に持ち込まれ、世界的に孤立の道をたどることになった。
《虚妄》の別の名を、「愛の聖戦」と呼ぶ。それを八十は、どこまで自覚していたことだろう?
八十は、庶民の人情に通じてはいたが、どうも政治的センスは、お世辞にもあったとは言えないようだ。

『支那の夜』(昭和13年12月)

八十はこの年、さらに『支那の夜』を書いている。
敵国「支那」を題材にした歌である。そんなもの、誰が売れるものかと、関係者はみんな思ったが、みごとに大ヒットを飛ばしてしまった。
シャンソンと中国風の音楽をミックスした曲調と、異国情緒たっぷりの歌詞が受けたのだろう。

それどころか、八十が作詞した全曲中で、もっとも世界中に知られる歌になったのだった。
戦後、米軍が進駐してくると、米軍に『支那の夜』は《接収》され、以後、昭和36年に返還されるまで、作詞・作曲者の著作権は取り上げられていたのだ。
その間、アメリカ兵によって『チャイナ・ナイト』の名で歌われて、世界中に広まったが、八十のところには1円も入って来なかったと憤っている。
ゼロ号作戦』(昭和27年、日本公開は28年)という朝鮮戦争を扱った映画では、主演のロバート・ミッチャムが日本語で、アン・ブライスが英語で『支那の夜』を歌っている。ロバート・ミッチャムの日本語は、かなり怪しいものだったようだが。

『支那の夜』は、占領軍に接収された、唯一の歌謡曲だった。

    『支那の夜』【動画】

作詞/西條八十 作曲/竹岡信幸 歌/渡辺はま子

『続露営の歌』(昭和13年10月)

『露営の歌』の大ヒットが忘れられず、「夢よ、もう一度!」とばかりに、コロムビアは古関に『続露営の歌』の作曲を依頼した。
『露営の歌』とつかず離れずの曲にしてくれということだったが、古関はなんとも作曲しにくかった。

案の定、たいしたヒットにはならなかった。「柳の下に2匹目のどじょうがいるはずもなく」と、古関は「自伝」に書いている。「軍歌の覇王」古関といえど、歌をヒットさせるのは簡単ではなかった。

伊藤久男

作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而 歌/霧島昇、伊藤久男

古関裕而の「中支従軍記」(昭和13年9月)

中支戦線へ向かう古関裕而と西條八十

音楽部隊、中支を征く!

昭和13年8月、古関一家は、軽井沢の貸別荘でひと夏を過ごした。軽井沢は、当時のセレブたちの避暑地として、定番の場所だった。

夏の終わりごろ、コロムビアから連絡があって、中支派遣軍報道部から従軍と実戦を体験して来てもらいたいという要請があったことを知らされた。
詩人として西條八十、佐伯孝夫、作曲家は飯田信夫、深井史郎が同行者だった。当時の文壇・画壇からはすでに、多くの作家たちが従軍しており、音楽部隊の派遣は初めてのことだった。

当時の日本男子として、古関にとって断ることなど思いもしなかった。自分の職を通じて、日本の国運の勝利や栄を祈る事こそが、自分の果たすべきことだと信じていた。
五人は博多で合流し、そこから旅客機に乗って上海まで飛んだ。

上海を汽車で出発し、水郷の蘇州を通過して、南京に着いた。南京では、南京戦の激戦の跡地である紫金山に登ったり、孫文の中山廟、脇坂部隊が一番乗りした光華門などを見て回った。

林芙美子

南京には、先発していた文壇部隊が滞在しており、その中の一人、林芙美子の宿舎を古関らは訪ねた。
町はずれの小さな家で、入り口のドアの内側には、椅子やテーブルが山と積まれて防御壁が築かれていて、林は豪胆にも、その危険な場所に独居していた。古関や西條らは、すっかり驚かされた。
「夜中に必ず中国人が襲って殺しに来るの。こうしておけば防げるのよ。スリルがあって面白いのでここに住んでいるの。」
古関が林と会ったのは、これが最初で最後だった。
林は昭和26年6月28日に病没しており、古関は昭和36年から林の半生を描いた『放浪記』の舞台音楽を担当することになるが、舞台稽古中の森光子を見ながら、南京で会った時の林の飾らない姿を思い出したという。

いよいよ揚子江を遡行して、九江まで行くことになった。
停泊場司令部に挨拶に行くと、司令官に、船は大型貨物船がいいか、瀬戸内海沿岸を走っていた小型船がいいか聞かれた。
小型船は「大衆丸」という名の、ちっぽけなものだった。
古関と西條らは相談の上、「私たちは、大衆の歌曲を作っているから大衆丸にしよう」と決めた。
大衆丸は、赤褐色をした海のような揚子江をさかのぼりはじめた。

夜間は、沿岸から砲撃される恐れがあったので、日中だけ航行し、夜間は停泊しながら遡行するのであった。最初の夜が明けて、少し行くと、赤い船腹に大きな穴の開いた貨物船が、河の中で傾いているのに出会った。よく見るとその船は、昨日選ばなかった方の大型貨物船だった。敵の砲撃を受けて、沈められたのである。古関たちは、幸運に胸をなでおろした。

何度か沿岸から砲撃されては、古関たちはあわてふためいたが、途中の村落や町に停泊した時は、上陸してその地の警備隊の兵士たちと語り合った。
話題になるのは、異口同音に故国のことばかりで、兵士たちは故郷に残してきた肉親への思いを語り、望郷の念を打ち明けるのだった。

両岸が丘陵地帯の中を遡行中のこと、古関は、丘陵の上にただ一人で監視兵が歩哨に立っている姿を見た。
毎日、上下する船を見ながら、彼はどんな思いで立っていることだろう。
そう思うと、古関は辛い思いにかられた。

『露営の歌』を兵士たちと大合唱!

数日後、大衆丸は鄱陽湖はようこの入り口にある九江に着いた。

九江の街はずれで、西條八十は、三人の兵士が粗莚あらむしろに座って、なにやら黙々と手を動かしている姿を見た。
立ち止まって見ていると、彼らの周りには古背嚢ふるはいのうが山のように積まれており、ひとつずつ中から軍用手帳、垢じみたシャツ、日用袋、手紙の束などを取り出していた。
彼らは、廬山ろざんの戦闘で死んだ仲間の遺品を整理しているのだった。
首途かどでに贈られたのであろう、黒々と署名された日章旗もあった。
言おうとした哀悼あいとうの言葉も、のどに詰まってしまって、何も言えない。八十は、ただ黙って合掌するので精一杯だった。
その横を、軍用トラックが砂塵を浴びせながら、走り去って行った。

宿舎には、久米正雄、石川達三ら文士部隊が先着していた。
彼らと一緒に、音楽部隊も陸軍病院へ慰問に行った。
野天に粗末な仮説ステージが設けられ、兵士たちは原っぱに腰を下ろして演奏を聞いていた。
古関たちも、ステージの傍らの椅子に腰かけて聞いた。

軍楽隊の演奏が終わると、今度は『露営の歌』の大合唱が始まった。それで、演奏会の第一節は終わりだった。
軍楽隊の山口常光隊長は、マイクに近づいて、
「みなさん。この『露営の歌』はまことに良い歌です。みなさんの力強い歌声に我々軍楽隊もほんとうに感激して一生懸命に伴奏しました。ところで、このスバラシイ歌を作曲した人はどんな方だと思いますか。この哀調を帯びた、しかも力強く勇壮なメロディを作曲した人が、みなさんと一緒にこの場所で合唱したら、と考えませんか」
いっせいに「ウォーッ」という歓声が拍手とともに上がった。
「実は、この歌の作曲者である古関裕而先生が、いまここにいらっしゃるのです。みなさんの慰問のために、はるばる来られたのです。では、古関先生を紹介いたします」
割れんばかりの拍手と歓声が、湧き上がった。

古関は席を立って、ツカツカと舞台の中央にあるマイクのところまで歩くと、深々と頭を下げた。
一瞬、拍手も歓声も鳴りやんだ。
「みなさん。ご苦労さまです。私、ただ今、ご紹介の古関です」
なんとか聞こえたのは、そこまでだった。
古関は頭を下げたまま、数秒間の沈黙が続き、兵たちは息をのんで見守っていたが、古関はハンケチを取り出そうと従軍服のポケットをまさぐりながら、嗚咽しているのがわかった。

古関はなにか挨拶しようとしたが、酷暑の炎天下に座って聞いている兵隊たちの顔を見た時、彼ら一人一人に無事を祈りながら待っている肉親がおり、しかしこの中の何人かを戦争は無惨に奪ってしまうだろう運命を感じると、ひとこともしゃべれなくなり、涙だけがあふれて仕方がなかった。
古関の思いが伝わったのか、将兵たちは、体裁をつくろって咳払せきばらいをする者や、手の甲で涙をぬぐう者、うつ向いたまま涙が落ちるに任せている者と、さまざまだった。
それを見た山口隊長や軍楽隊のメンバーも、演奏することを忘れて、共に泣いていた。

死を覚悟した廬山の敵襲!

音楽部隊は、徳安戦線に向かうことになり、鄱陽湖はようこ岸の星子という小さな町に着いた。星子は、廬山の中でも名峰といわれる五老峰のふもとにあった。
住民は少なく、ここに駐屯する兵士もわずかだったが、音楽部隊の到着を非常に喜んでくれて、心づくしの祝宴を設けてくれた。

翌日の夜のことだった。
廬山にいる敵約四万が来襲するという情報が入ったので、兵舎の隅に待避するよう言われた。
深夜一時頃、遠くで大きな爆発音がした。
隊長の西條八十は、拳銃を取り出すと飯田信夫に言った。
捕虜にされて拷問されるのは嫌なので、
「敵がこの橋を渡ってきたら、これでドンと一発ぼくをやってくれないか」
古関は、名山・廬山の麓で死ぬのも天命か、とあきらめた。妻や娘の顔、父母の顔が浮かんでは消えて、涙で霞んで来た。
遠くで二発目の爆発音がした。大勢の人声も聞こえてくるように思われた。
「西條さん。ほんとうにやりますよ。いいんですね」
飯田信夫は、八十のこめかみに冷たい銃口を当てた。
「まさか、西條八十の介錯かいしゃくをしようとはおもわなかったなあ」
作曲家・飯田信夫は、吐き捨てるように言った。
だが、敵はなかなかやって来なかった。飯田は弾倉を開き、弾丸の数を確認した。
弾丸の数は、隊員の数より一つ足りなかった。八十を先頭に、次々に殺していくと、最後に残るのは、『有楽町で逢いましょう』の作詞家・佐伯さえき孝夫になることがわかった。
「おれはどうして死ねばいいんだ」
佐伯は、悲しそうに駄々をこねた。

敵は、山から下りて町まで来たが、二つの橋梁を爆破しただけで、そのまま山へ戻ったらしかった。
夜が明けて、古関は、何事もなかったように岩肌を朝日に輝かせている五老峰を見た。

五老峰

九江に着く頃から、古関は腹痛を感じていたが、どうやらアミーバ赤痢らしいことがわかった。

西條八十は、昨夜の敵襲ですっかり考え込んでしまっていた。
いくら文人の自分たちが、長い従軍生活を送り、将兵と同じ苦労を積み重ねたとしても、彼らの気持ちと完全に合致することはできない。なぜなら、自分たちは、嫌になったらいつでも我が家に帰ることができるからだ。ところが将兵たちは、絶対にそれができないのだ。
この拘束の有無が、無限に彼らと自分たちを隔てているのだ。
八十は、洗面所で古関に会うと、
「ぼくはもう従軍を打ち切って帰る。ゆうべのような目に会うのはもういやだから」といった。
「じゃあ、ぼくもいっしょに帰りましょう」と、古関も賛成した。

二人は、星子から九江まで、徴発された鰹漁船に乗せてもらって帰った。
浮遊魚雷が多くて危険なので、見張ってくれるよう頼まれたため、生きた心地がしなかった。
古関のアミーバ赤痢は、帰京後も、一か月以上治らなかった。

『麦と兵隊』(昭和13年12月)

昭和13年8月、火野ひの葦平あしへいが総合雑誌『改造』に『麦と兵隊』を発表した。火野が中支派遣軍の報道部員として、徐州会戦に従軍した時の日記をまとめた記録文学だったが、翌月単行本になると、120万部の大ベストセラーとなった。 これを見捨てておかないのが、軍部とレコード会社である。

陸軍報道部は、『麦と兵隊』を歌にして陸軍の宣伝に活用することを考え、藤田まさとに作詞を依頼した。
藤田は原作を読んで、孫圩そんう城外の激戦を火野が生き延びた場面に感動して、「ああ、生きていた、生きていた、生きていましたお母さん」と書いたら、軍当局に叱られたので、「徐州徐州と 人馬は進む」と書き直した。

原作を読んでわかったが、藤田まさとの歌詞は、原作にはない詩的ドラマを新たに作り上げている。
もっとも印象的な「徐州居よいか 住みよいか」というおけさ節も、原作では行軍中に歌われたものではなく、飯盒はんごう炊爨すいさんのための小休止中に「冗談口を叩いている」と書かれているだけだ。
歌が出て来るのは、徐州へ向かう無蓋むがい列車の中で、膝を打ったり、足を踏み鳴らしたりして、兵隊たちが合唱する場面だけだ。
《兵隊たちの歌は「露営の歌」から「上海だより」になり、「愛国行進曲」になり、「戦友」の歌になった。》とある。

『麦と兵隊』東海林太郎/歌 ポリドール版(昭和13年12月)

東海林太郎

作詞/藤田まさと 作曲/大村能章 歌/東海林太郎

山と山の間の広い大地が一面の麦畑になっており、時々遠くのほうに支那の土民が姿を見せることもある。彼らがこの広大な麦畑を耕作しているのだろう。

原作に見られる、麦畑の中を兵たちが何処までも隊列を作って行軍する様子は、
むしろコロムビアの原嘉章の作詞の方が原作に近いかもしれない。
行軍は、何事も淡々と進んでゆく。
原作通りに展開するのはいいが、作詞家がそこにどんなポエジーを感じたか、そこを表現してほしいのだが、
藤田の詩にくらべるとちょっと弱いように思う。

原作の戦闘シーンは、淡々と描きつつももっと悲壮である。
その点、直接に戦闘シーンは描いていないが、藤田まさとの作詞の方は、言外に戦いの悲壮さを感じさせるものがある。

そこに悲壮な短調のメロディがつけば、もうこの勝負はついてしまったも同然だ。
ポリドールの『麦と兵隊』は120万枚の大ヒット曲になったのに対し、コロムビアの同名の曲はヒットすることはなかった。

コロムビアが『麦と兵隊』を作るに至った経緯は、よくわからない。単に、原作の流行を追っただけなのか、それともポリドールと同じように陸軍報道局からの要請があったのかどうか。
いずれにしろ、この時代の戦時歌謡・軍国歌謡には、同じタイトルで作られた歌が多数存在する。レコード会社間で競作する場合が多かったように思われる。

『麦と兵隊』松平晃/歌 コロムビア版(昭和13年12月)

作詞/原嘉章 作曲/古関裕而 歌/松平晃

昭和14年の発表曲

『軍神西住大尉』(昭和14年2月)

これもまた、レコード各社競作の軍歌である。

戦車長西住にしずみ小次郎こじろう大尉は、徐州会戦で、八九式中戦車がクリークを渡るための渡河可能地点を探る斥候に出て、敵弾にたおれた。昭和13年5月17日、二十四歳だった。戦死後、公式に「軍神」とされたが、戦車部隊を宣伝したい陸軍の意向が大きく働いたともいわれている。

菊池寛『西住戦車長伝』が、昭和14年になって、東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載され好評を博した。
昭和15年には松竹により映画化もされている。監督は吉村公三郎、上原謙が西住役として主演した。
主題歌の『西住戦車隊長の歌』は、北原白秋作詞、飯田信夫作曲で、こちらのビクター盤が《本命》のはずだったが、それにもかかわらず、キングレコード、ポリドールレコードなど他社もがんがん参入して来て、販売合戦を繰り広げた。

当然、コロムビアも、古関や江口夜詩を擁して、販売戦争に参戦した。それが『軍神西住大尉』である。

 昭和の軍神として武名を謳われた故西住小次郎大尉坐乗の戦車である。千百余発の敵弾を浴びて尚敵陣に突入された西住大尉の武勲をとどめる生々しい弾痕を見よ!!
 西住大尉は上海戦より南京攻略に至る間赫赫かくかくの武勲を建てたが、徐州攻略江北戦線に於て壮烈なる戦死を遂げられた。(左)が在りし日の西住大尉。(雑誌記事書き起こし)

作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而 歌/松平晃、ミス・コロムビア

『歌と兵隊』(昭和14年4月)

火野葦平の『麦と兵隊』から生まれた同名の歌については先に触れたが、火野は『麦と兵隊』(徐州作戦)と『土と兵隊』(杭州湾上陸作戦)、『花と兵隊』(杭州城駐屯・警備)の「兵隊三部作」と呼ばれる戦場ルポルタージュで有名になった。

歌の方でも、東海林太郎は『麦と兵隊』が大ヒットしたため、さらに「兵隊シリーズ」として『土と兵隊』『花と兵隊』『芋と兵隊』『煙草と兵隊』『部隊長と兵隊』『馬と兵隊』『雪と兵隊』などを出した。
他社でも「兵隊シリーズ」に続けとばかり、火野葦平の原作とは無関係に、『母と兵隊』『梅と兵隊』『石と兵隊』『浪花節と兵隊』『ジャングルと兵隊』などが作られている。

じつは、古関裕而も、もうひとつ『歌と兵隊』という作品を作っている。
前奏や間奏に、他の軍歌のメロディを挟んだ、面白い作りになっている。
でも、売れなかった。

作詞/佐藤惣之助 作曲/古関裕而 歌/松平晃

『満洲鉄道唱歌』(昭和14年11月)

満洲鉄道が路線長一万キロを突破したことを記念して、満洲鉄道旅客課は、満洲新聞社、コロムビアとタイアップして、『満洲鉄道唱歌』を作ることになり、歌詞を広く一般から公募した。
古関と西條八十、久保田宵二が選者として満洲に招かれたが、西條は都合がつかず渡満を見送った。

『満洲鉄道唱歌』は、松平晃、松原操、霧島昇の三名の歌手が歌い、発表会もこの三名が満洲に渡って、各地で開催された。

作詞/藤晃太郎 作曲/古関裕而 歌/霧島昇、松原操

この年5月11日、ソ満国境でノモンハン事件が勃発し、関東軍とソ連軍とが戦闘を繰り広げていた。
そんな時期ではあったが、古関と久保田は、満洲全域を視察する旅に出た。西はチチハル、北はハルピン、東はチャムス、牡丹江ぼたんこう図們ともん、南は大連、新義州まで足を延ばした。
ノモンハン事件のため、各地とも灯火管制をしており、暗闇の中の満洲旅行だったが、最後の大連に着いた頃、ようやく停戦協定が結ばれ、灯火管制は解除になった。

古関裕而、三十歳の年である。

『出征兵士を送る歌』(昭和14年11月13日)

これは古関の作曲ではないが、出征する兵士を送り出すときにどんな歌が歌われたかは、その歌の「浸透度」を測る上で役に立つので取り上げてみた。

出征する兵士や志願で入隊する軍人を送り出す時、これまでは「天に代わりて不義を討つ」の『日本陸軍』や、「ここは御国を何百里」の『戦友』が歌われることが多かったが、これらは明治時代に作られた歌で、感覚的にあまりに古い。
最近作られた古関の『露営の歌』もよく歌われていたが、《死》を強調しすぎていて軍部はあまり気に入っていなかった。そこで陸軍省が後援という形で、まさに「出征兵士を送るための歌」を募集することになったのである。

通常、歌の公募をする場合は、新聞社がおこなうことが多かったが、今回は大日本雄弁会講談社が、自社が擁する『講談クラブ』『富士』『現代』『雄弁』『婦人倶楽部』などの雑誌を総動員して、一般から募集をかけた。

その結果、歌詞の応募点数は公募史上最大の12万8千592編が集まった。
当選者は、生田大三郎。神戸・大丸の店員だという。
作曲も公募されたが、一等に当選したのは、多紀英二。じつは講談社系のレコード会社、キングレコードの専属歌手の林伊佐緒だった。
この当選曲のレコーディングは、キングの歌手総出動で行われたため、林も歌手の一人として参加することになった。

作詞/生田大三郎 作曲/林伊佐緒 歌/樋口静雄・林伊佐緒・児玉好雄・三門順子・井口小夜子・横山郁子

『出征兵士を送る歌』は、昭和14年10月にキングレコードから発売され、競作にはならなかった。
11月13日からは、ラジオの『国民歌謡』で放送されることになった。

軍部の肝いりで開催された「出征兵士を送る歌」の公募だったが、それではこれ以降、出征兵士を送るときはすべてこの歌で送ったのかというと、そうはならなかった。
相変わらず『露営の歌』も歌われていたし、さらにこれより後に作られる『暁に祈る』も歌われたし、なんと恋愛映画の主題歌である『旅の夜風』で戦地へ旅立つ者さえあった。

大衆の好みというのは、お上が考えるようには、一筋縄では行かないものなのである。

快心作!『暁に祈る』誕生!(昭和15年)

昭和15年は、皇紀二千六百年にあたり、前年から準備計画されて奉祝歌『紀元二千六百年』が発売されて、良く歌われた。
外国からも、ドイツのリヒャルト・シュトラウスを初めイタリアのヴィゼッティなどから奉祝曲が贈られ、歌舞伎座で開催された奉祝大音楽会で披露された。
11月10日には、皇居前広場に於て記念式典が催された。

流行歌の世界では、『誰か故郷を思わざる』『新妻鑑』『湖畔の宿』などが発売され、暗雲が晴れない苛立たしいような日々を慰めるものとして、人々に歌われたのだった。

『暁に祈る』は、松竹映画『征戦愛馬譜 暁に祈る』の主題歌として作曲された。

『暁に祈る』伊藤久男/歌(昭和15年3月25日)

昭和15年春、古関はコロムビアから、「陸軍馬政局が、愛馬思想普及のため、松竹映画で『暁に祈る』を制作することになった。その主題歌を作曲してほしい」との依頼を受けた。

栗林忠道大佐

陸軍省軍務局馬政課の栗林くりばやし忠道ただみち大佐が、愛馬思想普及のための歌の選定を担当していた。
昭和13年に各社競作となった『愛馬進軍歌』(久保井信夫作詞、新城正一作曲)なども、栗林大佐の企画によるものだった。
栗林大佐はのちに「小笠原方面陸海軍最高指揮官」となり、大東亜戦争末期の「硫黄島の戦い」において見事な指揮をとり、怒涛の如く押し寄せる米軍に一矢を報いたのであった。

戦後、西條八十は、
「戦争中は軍人の中にも、本当に血も情もある武士のような立派な人がいた。ことに『愛馬進軍歌』や『暁に祈る』を作った栗林大佐は、文才もあった。そのためにかえって、コチコチの軍人たちからはねたまれて、硫黄島に左遷され、戦死されてしまった。あの人には、生きてもらいたかったよ。」と言っていた。

作詞は幼年時代からの古関の友人野村俊夫、歌手も同じ福島県出身の伊藤久男と、かねてからの念願だった福島出身者三人が揃ってやることになった。

左/伊藤久男 中/野村俊夫 右/古関裕而

野村から第一稿が届き、すぐに古関が曲をつけ、伊藤が軍関係者の前で歌って聞かせた。
どうも歌詞が気に入らないという。
野村は何度も書き直しては、軍関係者に見せたが、なかなかOKが出ない。
古関も、野村が書き直すたびに作曲し直していた。
ほとほと嫌気がさして「ああ」とため息が出たのを、そのまま歌詞にして書き上げたところ、八回目の「あゝ あの顔で──」の歌詞でようやくOKが出たのだった。

古関はこの歌詞を見た瞬間、中支戦線に従軍した時に見た、汗にまみれ日焼けして労苦を刻んだ兵隊の黒い顔、異郷の丘陵に一人歩哨に立つ兵隊の姿、黙々と輜重しちょうを運び続ける馬のうるんだ眼などが、ふつふつと浮かんで来て、曲が自然に湧いてきた。

ただ、最初の歌い出しの「あゝ」をどうするか思い悩んでいると、金子が傍らで詩吟をやり始めた。これだ!と思い、あとはすらすらとメロディが流れ始めた。

軍部、映画関係者、ディレクター等が集まって、試聴が行われると、今度は一発でOKが出た。ただちに吹込みが行われた。

映画の封切りと同時にレコードも発売された。
映画の方の人気はいま一つだったが、レコードの方は大ヒットとなったのであった。
私もこの映画のビデオを購入したことがあるのだが、すぐにヤフオク行きとなって、いまは手元にない。

作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男

古関にとって『暁に祈る』は、まさに快心の作だった。大衆に喜ばれたことも嬉しかった。
ことに、輸送船で出征するシーンを歌ったものは、数ある軍歌や戦時歌謡の中にもなかったので、その意味でも古関は自慢だった。
翌年、太平洋戦争が始まると、兵士を送り出す家族たちは、よくこの歌を合唱するようになった。

レコード発売当初から、吹きこまれたのはこの全4連の歌詞だったようだが、本来は6番まで歌詞があることを、知らない人も多いのではないだろうか? 
楽譜には、6番まで載っているので、当時は6番まで歌われていた。
戦後出版されたレコードや最近のCDでも、『暁に祈る』は4番ヴァージョンで収録されているものがほとんどである。
春日八郎が「6番」ヴァージョンでレコードを出しているのを、最近知った。

『暁に祈る』完全復元版 藍川由美/歌

古関の業績を掘り起こし、古関が最初に作曲した形で自ら歌って、資料化を図って来たのが、藍川由美である。
『暁に祈る』も、全6番ヴァージョンで復元され、CD化されている。

藍川由美

作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/藍川由美

三番、四番が消えたことによって、ドラマが二つ消えてしまっている。
逆に、元通りに戻すことによって、この歌の壮大なドラマが見えて来る。単なる戦場の「点描」ではなかったことがわかる。

一番では、晴れやかな出征の様子が歌われ、二番では、堂々たる輸送船団で戦地へ向かう思いが歌われ、三番になると、すでに軍服は泥まみれで、歴戦を経てきたことがわかる。
四番は、戦帽に開いた穴に戦友の死を象徴させており、悲壮感がみなぎっている。
五番では、三番で「苦労を馬と 分け合って」と歌った馬が傷つき、自分もまた「捧げた生命いのち これまでと」死を覚悟し、遺書を走り書きするに至っている。
六番では、多くの血の犠牲の上に、暁の凱歌を揚げる兵士たちの胸に去来するものは、故国日本であることが歌いあげられている。

『ほんとにほんとに御苦労ね』野村俊夫/作詞(昭和14年)

『暁に祈る』の作詞家である野村俊夫が、この前年に発表した歌で、古関作曲ではないがぜひ紹介しておきたい曲がある。
『ほんとにほんとに御苦労ね』という曲なのだが、まずはお聞きのほどを。

作詞/野村俊夫 作曲/倉若晴生 歌/山中みゆき

わかる人は分かったと思うが、この歌を替え歌して軍隊で歌われたのが、『軍隊小唄』なのである。『陸軍小唄』と呼ばれることもある。
「いやじゃありませんか 軍隊は/かねのお椀に 竹の箸/仏さまでも あるまいに/一膳めしとは なさけなや」というやつだ。

このようにして兵隊たちによって作られ、軍隊内で歌われた歌を総称して兵隊節へいたいぶしという。この『軍隊小唄』や『海軍小唄(ズンドコ節)』、『同期の桜』、『可愛いスーチャン』などが《兵隊節》である。
曲を作ることは出来なくとも、既存の曲を借りて、作詞することは出来る。替え歌ぐらいは、誰でも小学生のころから経験しているはずだ。そうして、自分たちのフィーリングにぴったりする歌を作って、口ずさんだのである。

支那事変の頃は、召集令状(赤紙)で呼び出されて軍隊に入隊しても、まだ「満期除隊」で帰ってくる者が多かった。太平洋戦争期になると、赤紙一枚で呼び出されたきり、誰も帰って来なくなるのだが。
そうして、軍隊帰りの者から、入隊前の若者たちが《兵隊節》を教えられることが多々あった。無論、軍隊に行って知った場合もあっただろうが、入隊前に伝わることも多かったのだ。

『起てよ女性』(昭和15年9月25日)

銃後の女性のための歌を、相変わらず西條八十と作っている。
「いまぞ銃後も 生命がけ」と、歌詞も必死感が滲みだしており、家族の協力、勤労奉仕を訴える歌となっている。

作詞/西條八十 作曲/古関裕而 歌/二葉あき子、菊池章子

『嗚呼北白川宮殿下』(昭和15年12月20日)

北白川宮殿下

戦時に於ては多くの皇族方も、陸軍軍人として国の勤めを果たしていたが、北白川宮きたしらかわのみや永久ながひさ王も、陸軍大学校を卒業後、昭和15年3月より駐蒙軍司令部付きの大尉として赴任していた。
9月4日、特別指導訓練中に訓練機が不時着し、北白川宮の両足に接触する事故が起きた。
北白川宮は右足切断、左足骨折、頭部裂傷という重傷で、その日の夜、薨去こうきょされた。享年31歳だった。
明らかに事故死であったが、皇族という立場に配慮して事故の真相は伏せられ、新聞は「名誉の戦死」と大々的に書き立てた。

『嗚呼北白川宮殿下』は、永久ながひさ王の遺徳を偲ぶ目的で作られ、伯爵二荒ふたら芳徳よしのりによって作詞され、作曲には古関裕而が指名された。古関が愛国歌を得意とすると見られていたからだった。
11月17日に、華族会館で発表会が開催された。
北白川宮の遺族や皇族、華族が詰めかけ、古関は斎戒沐浴さいかいもくよくして身を清めたうえで、指揮に臨んだ。

12月9日から13日まで、ラジオ『国民歌謡』でも放送されて、声楽家の伊藤武雄が歌った。12月20日には、伊藤武雄・二葉あき子の歌で、レコードも発売された。

作詞/二荒芳徳 作曲/古関裕而 歌/伊藤武雄、二葉あき子

古関裕而、この年、三十一歳。

戦火は収まるどころか、ますます拡大する一方で、国民政府の後ろで糸を引く、米英ともぶつかることになって行く。
支那大陸では、毛沢東率いる八路パーロ軍が民衆に浸透し、「持久戦」「遊撃戦」で日本軍を苦しめていた。国民党と中国共産党は、いったんは《国共合作》で日本を共通の敵として戦っていたが、その実力に危機感を抱いた蒋介石は、八路パーロ軍と再び対立するようになっていた。

《参考文献》
藍川由美『レクイエム「ああ此の涙をいかにせむ」』─古関裕而歌曲集2─解説書(日本コロムビア)
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』(文春文庫、2020年3月20日)
火野葦平『土と兵隊 麦と兵隊』(社会批評社、2013年5月16日)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫、2008年12月20日)