ゴジラはなぜ、東京を襲うのか?

前回の続きです。

ゴジラが登場して以来、「怪獣映画」というジャンルが確立され、たくさんの映画が作られましたが、
なぜかみな怪獣は「日本」を、それもかなりの確率で「東京」ばかり襲うことに、早くから疑問符が付けられてきました。

そもそもゴジラは、なぜ「東京」に来襲したのでしょうか?

製作者も、監督も、脚本家も、物語上のもっともらしい理由は用意していたと思います。
それらはいわば「表層の理由」と呼んでもいいでしょう。
それらをまったく知らずに『ゴジラ』という映画を見たときに、
当時の観客たちはどのように感じていたのだろうか?

水爆を象徴するような大怪物が、大都市・東京をぶっ潰して暴れまわる!(製作者・田中友幸のことば)
つまり、そういう映画であり、それだけの映画なのですが、
その破壊するものと破壊されるものの姿に「何を見るか」は、その時代特有の経験によって違って見えるはずです。

当時の観客たちは、東京大空襲や広島・長崎への原爆攻撃など、わずか十年足らず前に祖国の大都市が実際に滅びた姿を、重ねて見たのではないでしょうか?
映画の中に、それを思わせる描写はたくさんあります。

とすれば、この東京を破壊しまくるゴジラとはいったい何者なのか?

ゴジラは、作中では、志村喬演じる山根博士という動物学者によって、
ジュラ紀から生き延びている海棲爬虫類から陸棲獣類へと進化過程のものが、
度重なる水爆実験によって棲家から追い出されて来たものだろうと推測されています。

昭和29年3月、アメリカによるビキニ環礁での水爆実験によって、
日本の遠洋まぐろ漁船・第五福竜丸が放射能に被曝し、死者まで出すという事件に、日本中が騒然としました。
広島・長崎に続く放射能による犠牲者が、戦後十年足らずの日本に出たのでした。

グーグル・アースで「ビキニ」を検索すると、こんな映像を見ることが出来ます。

まさに「環礁」ですね!

日本からははるか南方、地図で見ると近くにウェーキ島があったりして、
まさに太平洋戦争で日本人が激戦を繰り広げた海域だということがわかります。
こんなところからゴジラは、日本の東京までやって来たというのです!

民俗学者・赤坂憲雄は、次のようなことを書いています。

  映画『ゴジラ』が誕生したのは、敗戦から九年あまりのちの、一九五四年の秋のことである。その、はじめてのゴジラ映画について、三島由紀夫が好意的な評価を与えていたという話を、年若い友人から聞いたことがあった。とても気になっていた。あの三島由紀夫が、『ゴジラ』などという大衆映画に共感を示すなんてことが、一体あるものだろうか。半信半疑だった。
ところが、最近になって、映画『ゴジラ』と三島の小説『英霊の声』が思いがけず、ある位相にあっては生き別れの双子の兄弟のようによく似ていることに気付いた。(赤坂憲雄「『英霊の声』は天皇制への猛き獣(ゴジラ)の吼声だった。」『STUDIO VOICE 』1991年2月号)


映画『ゴジラ』と三島の小説『英霊の声』がよく似ているとは、どういうことなのでしょう?

いま一度、ゴジラの進撃コースを想い出していただきたい。

 ゴジラは東京に襲来し、廃墟となるまで踏み荒らす。銀座のデパート街を襲い、国会議事堂を破壊し、皇居の周囲をあてどなく巡ったすえに、不意に背を向けて、ゴジラはふたたび南の海へ還ってゆく。

第一作の『ゴジラ』から、通算で第二十九作に当たる『シン・ゴジラ』に至るまで、

「…ゴジラ映画は、たったひとつの例外もなしに、天皇の棲まう皇居を破壊するゴジラを産みだすことができずにきた。ゴジラはどれほど不条理な怪獣にみえようとも、恨めしげに皇居を眺めることしか許されない。」

赤坂は、「『ゴジラ』は第二次大戦で南の海に死んでいった兵士たちへの鎮魂歌ではないのか」という評論家・川本三郎の説を支持しつつ、次のように指摘しています。

 川本は『ゴジラ』のなかに、南太平洋に死んでいった兵士たちと天皇との対峙の構図を見た。たぶん、それは『ゴジラ』という映画の無意識に届いているにちがいない。『ゴジラ』はその全編が、鎮魂と祈りの声に満たされている。やしがたい戦争の傷を負った一人の化学者が、まるで人間魚雷か神風特攻隊のように、みずからの命をあがないにすることで、ゴジラという災厄ははらわれる。『ゴジラ』は鎮魂の映画だった。

赤坂は、ゴジラの姿に「戦争末期に南の海に散っていった若き兵士たちの、ゆき場もなく彷徨する数も知れぬ霊魂の群れ」を見ます。今も皇居に棲まう彼らを死におもむかせた神である御方だけが、かれらの魂鎮たましずめをすることができる。
つまり、ゴジラが東京に襲来する理由は、そこに皇居があり、昭和天皇がいるからだというわけです。

しかし、すでに天皇はいわゆる「人間宣言」をしてしまっており、もはや、皇居におわするのは、魂鎮めの霊力さえも失ってしまったひとりの「人間」であるにすぎません。

それゆえに、ゴジラの、つまり南の海に散った若き兵士たちの霊を慰め、鎮めるのは、もはや天皇ではありえないということになります。
ゴジラは、ふたたび南海に去るよりほかになかったのです。

ちなみに、「癒やしがたい戦争の傷を負った一人の化学者」とは、芹沢せりざわ博士のことです。
芹沢博士は山根博士の弟子なので、もともとは生物学者だったと思うのですが、なぜかオキシジェン・デストロイヤー(水中酸素破壊剤)なる水爆に匹敵するような破壊兵器を作り出してしまっています。
彼は先の戦争で顔面に傷を負い、右目に黒い眼帯をし、右頬にはケロイドが見えます。水爆を浴びたとされるゴジラと、ついをなす存在として設定されています。

芹沢は、オキシジェン・デストロイヤーをゴジラ退治に使ってしまうと、核と同じように世界中に広まることを恐れ、いっさいの開発記録を燃やした上で、みずからオキシジェン・デストロイヤーを持ってゴジラが潜む東京湾にもぐり、ゴジラごと海中に溶解する運命を選びます。

戦争の傷をかかえて隠棲いんせいみちをえらんだ化学者が、みずからの命をあがないとしてささげることで、かろうじて一九五四年の浮遊せる死者たちはしずめられた。しかし、まったく鎮魂が果たされたわけでは、むろんない。

さらに、赤坂の次の指摘は、現在に至るゴジラ映画を取り巻く状況をも射抜いているという点で、特に重要だと思います。

 ゴジラは何度でも、繰り返し列島に襲来するだろう。そうして、いつしかゴジラが何のために襲来するのかなど、跡形もなく忘却されて、映画の『ゴジラ』だけがいたずらに反復される時代がやって来る。
三島由紀夫の『英霊の声』は、だからこそ書かれねばならなかった。その、昭和天皇に突きつけられた刃はしかし、玉体には届かなかっただろう。三島は結局、みずからの肉体を
にえとして供犠くぎの庭にささげるほかなかった。

赤坂は、三島由紀夫の自決の深層に、みずからの死とともにゴジラを葬ることを決意した芹沢博士に通底する心的構造を認めています。

さて、それでは、三島由紀夫の『英霊の声』(1966年初出)とは、どんな小説なのでしょう?

ある嵐の夜に、帰神かむがかりの会が開かれます。
審神者さにわをつとめる木村先生、霊媒の神主である盲目の川崎青年、そこに「私」とN氏が出席しています。
この小説は「私」による、この日に起きたことの「あたうかぎり忠実な記録」という形をとっています。

木村先生の吹く石笛いわぶえの音とともに、川崎青年に霊が降りて来て、

われらは裏切られた者たちの霊だ。

と川崎青年の口を借りて、神語り始めます。
降りて来たのは、二・二六事件で義軍を起こしながら、反乱軍という汚名を着せられて自決に追い込まれた青年将校の霊でした。

神集うのはわれらの同志のみではない。時には幾千幾万、何十万のつはものの霊が相見あいまみえ、今の世の汚れをそしる戯れの歌に声を合はせる。しかしその声さへ、人々の耳にもはや届かぬことをわれらは知ってゐる。この日本をめぐる海には、なほ血がめぐってゐる。かつて無数の若者の流した血が海の潮の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらはありありと見る。あだに流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮はうなり、おらび、たけき獣のごとくこの小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげにえる姿を。

赤坂は、二・二六事件で自決した青年将校の霊や南太平洋で戦陣に散っていった数も知れぬ若者たちの霊が「幽」の世界(目に見えない霊的世界)に属するとすれば、ゴジラは神語りのいう「猛き獣」を「顕」の世界(目に見える現実の世界)に表出したものではないか、と指摘します。
こういうパースペクティブで眺めたときに、『ゴジラ』と三島の『英霊の声』は、驚くほど似ているように見えるわけです。

二・二六の青年将校の霊は、天皇への至純の恋を神語りしたあと、呪詛の言葉を残して去っていきます。

 などてすめろぎは人間ひととなりたまひし。

天皇はどうして人間になってしまわれたのか!

 そのあとには、第二の霊があらわれる。われらは戦の敗れんとするときに、神州最後の神風を起こさんとして、命を君国にささげたものだ、と第二の神語りはいう。神風特攻隊の英霊であった。死はいつもわれらの眼前にあり、人々はわれらを生きながらの神と呼んだ、と霊はいう。われらは神なる天皇のために、身を弾丸となして敵機に命中させた、ところが、そのわずか一年後に、陛下は「実はちんは人間であった」とおおせいだされた、われらは裏切られた……

そして、繰り返される呪詛のことば!

 などてすめろぎは人間ひととなりたまひし。

荒れ狂う神霊たちは、入れ替わり立ち代わり、川崎青年の口を借りて、あるいは怒鳴り、あるいは言葉として聞き取れぬ発声をなし、あるいは歌い、川崎青年の肉体を打ちのめします。ついに川崎君は、仰向けに倒れ、動かなくなってしまいます。

 木村先生が川崎君をゆすり起こそうとされて、その手に触れて、あわてて手を離された。何事かを予感した私どもはいそぎ川崎君の体を取り囲んだ。盲目の青年は死んでいた。
死んでいたことだけが、私どもをおどろかせたのではない。その死に顔が、川崎君の顔ではない、何者とも知れぬと云おうか、何者かのあいまいな顔に変容しているのを見て、慄然としたのである。

こうして『英霊の声』は終わります。
川崎君の死に顔にあらわれた「何者かのあいまいな顔」とは、そう、神であらせられるべきときに「人間」にましました、あの方の顔なのでした。

赤坂は、川崎君を殺した荒ぶる霊魂たちが、目に見える形で解き放たれたのがゴジラなのではないか、というわけです。
昭和29年版『ゴジラ』を見た当時の観客たちの無意識には、それを感じとるだけの歴史的感性があったろうと思います。

三島は、昭和天皇は二・二六事件のときと戦後の「人間宣言」において、この二回だけはもっとも神であらねばならないときに、「人間」となるあやまちを犯してしまったとして、鋭く切り込んでいます。
天皇は二・二六において、義軍を義軍として認めず殺したことによって、日本の軍隊──「皇軍」そのものを殺してしまった。皇国の大義が崩れてしまった。軍の魂が失われてしまった。また戦後、ちんは神ではなく人間だと言うことによって、膨大な数の神のために死んでいった者たちの霊は、神界にありながらまつられるべきやしろもなく、いまも安らうことなく彷徨している。国の魂が失われてしまった。

三島の「道義的歴史観」とでも呼ぶべき歴史観によって語られる、戦前~戦後の「国史」は、西洋のキリスト教の位置に日本の皇道を対置せんとする彼の激しい恋情の発露と、神学と呼びたいような論理の切れを見せて、あらためて読んでみてもきわめてスリリングです。
しかし、きょうは『ゴジラ』を語るときなので、『英霊の声』については他日を期して、これ以上踏み込まないでおきます。

赤坂が「遅れてきた芹沢せりざわ博士」だとする三島は、
昭和45年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地のバルコニーで、下に蝟集いしゅうせる自衛隊員に向かって、自衛隊を否定する憲法改正のために蹶起けっきするよう呼びかけました。
誰も共に立つ者がいないことを見届けると、三島は総監室に引き返し、短刀でみずからの腹をかっさばき、楯の会学生長・森田必勝もりた まさかつ(25歳)に託した日本刀・関の孫六の介錯かいしゃくによって、首を総監室の床に落としました。

この命を手玉に取ったパフォーマンスは、三島由紀夫が愛する日本に残した最後の芸術作品だったのだと思います。

その時いた檄文げきぶんが残されています。


(前略)
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿であるといふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己
欺瞞ぎまんと自己冒涜ぼうとくの道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になってどこへ行かうとするのか。
(中略)
アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵ようへいとして終わるであらう。
 われわれは四年待った。最後の一年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかし、あと三十分。最後の三十分待たう。共に
って義のために共に死ぬのだ。
 日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶっつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として
よみがへることを熱望するあまりこの挙に出たのである。
        昭和四十五年十一月二十五日  楯の会会長 三島由紀夫

青年の心のまま死んだ人なんだな、自決時は45歳だったけれど。

中学生だった私は「ミシマ、ハラキリ」の報道に衝撃を受け、これを報じた日の新聞を切り抜き、スクラップ・ブックに貼り付けて保存しました。

三島がなんで死ななければならなかったのか、当時の私にはまるでわかりませんでした。ただ、これは残しておかねばならない大事なことだ、という直観だけがありました。

私が産まれて初めておこなった「スクラップ」でした。この青い表紙のスクラップ・ブックは、いまも大事に私の本棚に並んでいます。
                                       (つづく)

<参考文献>
『STUDIO VOICE』特集=再考三島由紀夫の檄(1991年2月号、株式会社インファス)
三島由紀夫『英霊の聲』(1990年、河出文庫)

英霊の聲 オリジナル版 (河出文庫)