テレビ『姿三四郎』竹脇無我版(1970年)の製作意図とは?

「新番組企画案」から見る『姿三四郎』

『姿三四郎』(日本テレビ、1970年)の「新番組企画案」なるガリ版刷りの小冊子が手元にあります。Yahoo!オークションで手に入れたものです。
普通「企画書」というのは、プロデューサーが番組制作を認めてもらうために書くものだと思いますが、この「新番組企画案」は既に一部の配役も決まっているところを見ると、通常云う「企画書」よりももう一歩進んだ段階の物なのかもしれません。
「44-6現在」とあるので、それ以前にも何らかの企画書が存在したとも考えられます。
『姿三四郎』の放映は昭和45年1月18日からですから、その約半年前の段階のものです。

『姿三四郎』新番組企画案

上の画像がその「企画案」の現物です。今回は、この「新番組企画案」の全貌を紹介しながら、途中、私が感じた感想など記しつつ見ていきたいと思います。
句読点の判別が難しいところがありますが、適宜読みやすい形に整理して掲載することにします。

新番組企画案 44-6 現在

一、題名 「姿三四郎」
一、型式 60分26回完結カラーテレビ映画
一、原作 富田常雄
一、主演 竹脇無我(主演作「三人家族」「夫婦の設計」)
一、脚本 渡辺邦男
一、監督 渡辺邦男
一、制作 松竹、日本テレビ

一、何故、「姿三四郎」をとりあげるか

世をあげてレジャー・ブームだ、国民総生産は自由世界の第二位だ、昭和元禄だと浮かれ騒いでます。戦後は終わった──そう言われ出してから既に何年かたっています。しかし驚異の繁栄と世界中から注目されながら、一方精神的には戦後は終っていないとも言われています。
 我々が戦後営々と築きあげた”奇跡の繁栄”をほんの一握りの人々ですが、ぶちこわそうとする人々がいます。彼等には彼等なりの理想を求める姿があります。ところが我々には彼等に与える新しい理想なり、新しい理想を求める姿勢をまだ確立するに至っておりません。新しい”モラリティ””モラリティを求める姿勢”そういったものがないからこそ、精神的には戦後は終っていないと言われ、混乱がおこり、大学紛争さえ解決出来ないのです。庶民は──老若をとわず、今やそういう姿勢を潜在的に求めている筈です。
 そういう潜在意識があるからこそ理想を追い、なにものかを求めて必死になって一筋の道を求め、不撓ふとうの精神で難関をのりこえ、一歩でも前進しようとする姿勢──ドライといわれる今の世の中で、それが現実に好まれる主人公の人間像でありテレビの世界でも、大衆に好まれる主人公の人間像である筈です。
 純粋に柔道の確立を通じ、人間形成をのみ求める青年像は、その時代設定が明治であるということのためにいかにも古くさいと思われがちで、それは反今日的であるように見えるかも知れません。然し、理想を追い求めた姿三四郎という青年像は時代設定の古さにもかかわらず、老若男女を問わず、今日の日本人に最もかけており、最も求められているものを描くということで、最も今日的であり、それ故に強い感動感銘を与えるドラマの素材となりうると思います。

【私の感想】
赤い下線は、この「企画案」の持ち主だった人がチェックしたものです。
持ち主の方は、どんな役割のひとだったんでしょうね。
『姿三四郎』のテーマに関わる箇所に赤いサインペンで傍線が引かれてあり、最も多く書き込みがしてあるのは、「配役案」の項目です。

実は、この「企画案」と一緒に、『姿三四郎』の第1回~第3回のシナリオも手に入れました。(冒頭のアイキャッチ画像参照)
やはり、出演者の名前が手書きで書き込んであって、筆跡は同一人物のものです。
シナリオには鉛筆で、カット割りと思われる書き込みが第1回分だけに見られ、CMが入る部分の指定などもされています。
また、三四郎と早乙美が下駄の鼻緒が切れたのをきっかけに出会った日の「村井の家(夜)」というシーンの上に、大きく×がしてあって「モンダイ」と書かれています。なにか問題があったと見えます。

原作小説の時代設定の古さを認めながらも、柔道の確立のため、理想を求めて戦い続ける姿三四郎の姿に「最も今日的」であるテーマを見いだしています。それは「日本人らしい理想の青年像」であることが、次の項目の中でチェックされていることからわかります。

一、この企画の狙い

 世に経済的な意味での戦後は終ったが精神的な意味での戦後は終っていないといわれる。経済的に日本は復興したが精神的には戦争ですべてを失った荒廃のままだといわれている。
「姿三四郎」という人物を借りて、そこに描かれている「日本人らしい理想の青年像」は、この荒廃のままにおかれている現代日本の精神的復興の指標であり、待望される現代日本青年の理想像でもある。これを昭和元禄といわれる現在、テレビを通じて大衆に届けることの意義は極めて大きい。
 失われているものへの懐旧と、取りかえさなければならぬものへのあこがれ──これが大衆の共感を期待出来る基盤である。
 このドラマは明治十五年から二十年にかけて、時代はまだ旧殻から抜けきっていないころ、柔道と学問の修業に精進することによって、肉体を錬磨し、向上的な性格の人間性の形成に努力した姿三四郎の青春の苦斗と感激を、大衆娯楽作品として感動をこめて謳い上げるものである。
 「姿三四郎」は、富田常雄の数多い「明治もの」の中で、最も大衆に親しまれている名作であり「三四郎」ほど、その存在を大衆に知られている柔道家はないであろう。
 彼は非凡人ではない、普通の人間である。
 富田常雄は「姿三四郎の手帖」の中で次のように書いている。「好ましい人格というものを、私は三四郎の性格のなかに植えつける努力をした。彼のごとく単純で、純粋な人間は小説の上でのみ真実化することが出来ると信じたからである。私は三四郎のなかに私のヒューマニティを生かし、私の柔道へのロマンティシズムを具現しようとしたのである。三四郎のごとく無私、無欲な柔道家があってもいいものだ、否、彼の如くでなければよき柔道の精神は体現できないと信じたからである」
 作者が時代の青年の理想像として描いた三四郎は時代を越えて今なお生きている。自分と同世代の青年とともに苦しみ、反抗したりして成長していった三四郎の苦悩は現代の若者のそれと一脈相通ずるものがある。
 渡辺邦男監督は「三四郎が柔道にひたむきに没頭している間にも幾つもの政治事件が起り、貴い犠牲が払われ、青年の魂を揺がす世情がある。その中で三四郎は孜々ししとして柔道を励み、書き読み暮らす。ちょうど殻の中にある貝のように──だが時世の鐘は殻をたたくのである。日に月に近く、高く、柔道を極めることによって道を求めてやまなかった三四郎の一つの悩みである。ここに彼が、古い意味での英雄豪傑ではなく、時代にふさわしい英雄であり得た理由がある」という。
 だが、彼にとっては、学問と柔道の修業に精進することはいささかの苦痛でもない。柔道のために、若い門人たちのために、夢と希望と青春がどんな錬磨にも堪えて若い世代と共に成長していくのである。

「人あって、彼等の稽古を見たら、これこそ、術を生む至高の人と時の姿と思ったであろう。彼等にとって世間を越えた悠久の世界とは即ち稽古であった。それは詩であり哲学であり、肉体と心魂が油然として融け合うた禅の世界であったのである」(「姿三四郎の手帖」より)

【私の感想】
ここには書きませんでしたが、原文には「日本人らしい理想の青年像」という赤い下線が引かれた行の頭に、やはり赤文字で「TM」と大きく書かれています。「TM」とは「テーマ」のことかと思います。
このドラマのテーマとは「日本人らしい理想の青年像」を描くことだと、確認し強調しておいたのだと思います。

富田常雄の小説『姿三四郎』は、大東亜戦争(太平洋戦争)開始の翌年に、最初の姿を現しました。
世の中が文明開化で浮かれている時代に、古い柔術にのめりこんで「柔道」などと名乗り、古来からの柔術諸派を敵に回している帝国大学出の青年矢野正五郎に心酔して、他流との戦いの前面に立って戦う姿三四郎。
発売と同時に、小説『姿三四郎』は大ベストセラーとなりました。
しかし、反時代的な生き方をする矢野正五郎と姿三四郎を、当時の大日本帝国軍部はどう見ていたのでしょう?

原作小説が軍部の検閲にひっかかったという話は聞きませんが、これを原作にして制作した黒澤明の映画『姿三四郎』(1943年3月25日封切)は、最初全長97分の作品として公開されましたが、1944年3月に再上映された時には、監督の知らないうちに12分が削除され79分に短縮された形で上映されました。
この消えた12分間のフィルムは、敗戦の混乱の中で逸失されてしまいました。
しかも、戦後になると今度はGHQの検閲にひっかかり、映画『姿三四郎』は上映禁止にされてしまいました。日本が再独立するまで、再上映されることはありませんでした。
小説と映画では、日本の軍部やGHQの対応にあからさまな違いがあったようです。

1945年の日本の敗戦と、戦後のGHQ占領時代から続いている「日本人の精神的荒廃」に目を向け、日本とは? 日本人とは? 復興すべき精神とは?──それを原作『姿三四郎』の世界を借りて「娯楽番組」の範疇内で表現しようとしたのが、新番組『姿三四郎』なのでした。

一、主要登場人物、配役案(交渉済内定)

1○姿三四郎……………………竹脇無我(三人家族)
2○矢野正五郎…………………安井昌二(チャコとケンちゃん) 菅原謙次
3○玄妙和尚……………………進藤英太郎
 ×戸田雄次郎…………………松井 良
4○壇 義麿……………………松井錦治
 ×津崎公平……………………大下哲也

5○檜垣源之助…………………髙城丈二(プロファイター)
6○村井半助……………………菅原謙次(七人の刑事) 戸浦六宏
7○  乙美……………………宇都宮雅代(パンとあこがれ) 新藤恵美 

  門間三郎……………………川合伸旺 諸角啓二郎
8○   澄……………………鮎川いづみ(開化探偵帖)

  南小路光康…………………高野真二
     高子…………………井上清子 新藤恵美(二役)
  真崎東天……………………田崎 潤 佐藤英夫
  伊藤博文……………………山形 勲(忠臣蔵) 竜崎一郎
  谷 干城……………………辰巳柳太郎 武藤英司

  香車の安……………………長門 勇(三匹の侍) 徳大寺 伸
  田川の女将…………………小昌絹子 浦里はるみ
9○ 君  香……………………三浦布美子 朝丘雪路

  津久井譲助…………………伊吹吾郎(無用之介)

  新関虎之助…………………竹尾智晴
  左文字大三郎……………‥佐久間三雄
  飯沼恒民……………………中丸忠雄(37階の男) 高島敏郎
  三島通庸……………………幸田宗丸
  折口大助……………………中山昭二

※赤い数字と○は、赤いサインペンでの書き込みを表します。
※緑色の文字は、あとからの鉛筆書き込みを表します。

【私の感想】
主要登場人物の配役案が決まった時点でこの「企画案」が印刷され、実際に出演交渉をした結果、配役が入れ替わっていたのがよく分かる書き込みが貴重ですね。

主演の姿三四郎が竹脇無我、敵役の檜垣源之助が髙城丈二はそのまま決定していますが、乙美と南小路高子はそれぞれ宇都宮雅代と井上清子を予定していたのになんらかの理由で断られたのでしょうね、その結果として新藤恵美の一人二役に変更されたことが分かります。
新藤恵美の一人二役って、最初から企画していたわけではなかったんですね!
私は最初に見た『姿三四郎』がこの作品だったため、乙美と高子は一人二役するのがお決まりなのかと思い込んでしまっていました。
しかし、その後、そのほかの『姿三四郎』では別々の女優さんが演じているのを知って、乙美と高子の一人二役は、この作品だけの試みであることを知りました。渡辺邦男のようなベテラン監督がこのような冒険をすることにも、70年代らしさを感じます。

()内は当時俳優たちが出演していた番組名です。人気番組に出演していることをアピールすることで、この企画が有望であることをプレゼンする意図があったのだと思います。

菅原謙次の矢野正五郎も、最初は安井昌二を予定していたのがダメになって、急遽村井半助役に予定していた菅原謙次を、矢野正五郎役に持ってきたようです。
菅原謙次は大映映画でたくさん作られた講道館物に出演しており、『薔薇の紘道館』(1956年)で姿三四郎を、『風雪講道館』(1955年)では矢野正五郎を演じていました。
ちなみに『柔道一直線』で鬼車こと車周作を演じた高松英郎も、同じ大映の講道館物に多数出演していました。いわば「柔道映画」のベテランです。
両人が貫禄十分な理由がわかりますね。

一、主要登場人物について

姿三四郎
 四つの時母を失い、十二才で父と死にわかれた。福島の山奥からなんのアテもなく上京したのは十七のとき。一年ほど車ひきをやりながら苦学し、やがてインテリ柔道家矢野正五郎の道場に入門する。
 鹿鳴館時代の浮わついた欧化主義に抵抗し、柔道に象徴される民族精神を回復したいという矢野の理想に三四郎は燃え、共に「柔道」を興してゆく。三四郎は巴投げの戸田雄次郎、大外刈りのだん義麿よしまろ、寝業の津崎公平と並んで矢野道場の四天王の一人となる。心明活殺流の門間三郎を隅返すみがえし、良移心当流の村井半助を山嵐で破り、さらに半助の高弟檜垣源之助と右京ヶ原で対決し、檜垣流唐手の不敗を誇る二人の弟、鉄心、源三郎に狙われる。
 意中の人は哀れさの中から生れたような乙美、しかも彼女は三四郎のライバル村井半助の娘である。そのほか南小路子爵の令嬢高子、大家の娘おぎん、娘義太夫の扇之助など三四郎をめぐる女性も少なくない。
 このように一方では「柔道」という理想のために闘いつづけ、また一方では若い女性から慕われ、哀しい宿命に泣く恋人を思う貧乏書生三四郎の姿は、いつの時代にもある青春の憧れと象徴である。

檜垣源之助
 三四郎の宿敵として右京ヶ原ではその生命を狙った彼でさえ、三四郎の心情と純粋さに触れるや宿怨を忘れ、「姿君自重してくれ、君は僕の生甲斐なのだ」と熱涙を流しながら三四郎の手をしっかり握りしめるのであった。

檜垣源三郎
 兄源之助のいさめをかず三四郎を殺さんとした彼だが……幼時に脳を病み、源之助にも口をけなかった彼が三四郎に初めて「負けた」と一言。力や術に負けたのではない、三四郎の「人間」に負けたのである。

真崎東天
 豪放磊落ごうほうらいらく、天衣無縫、人を人とも思わぬ豪傑だが三四郎には正に一目惚れ、蔭に日向に三四郎を助け、また助けられる。そのけたはずれ、無軌道ぶり、三四郎時にはヘキエキするが……

玄妙和尚
 その存在は宮本武蔵に於ける沢庵の如く、三四郎の人生の師、三四郎その初対面の時から頭ごなしにやっつけられて頭が上らないが、可愛いけりゃこそ叱りもする。怒鳴っておいたそのあとで「ふん、あいつ見所があるわい、ホッ、ホッ」とよろこんでいる。

村井半助
 彼もまた、三四郎に敗れた柔術家だが、「わしは力いっぱいたたかった、姿君のおかげだ」とむしろ感謝し、三四郎を慕う娘乙美の心根を察して三四郎にその将来を引き受けてやってくれと頼みこむ。

香車きょうしゃの安
 江戸っ子の心意気も嬉しい掏摸すりの名人。三四郎への心中立てから乙美の危急を救った事から檜垣源之助にリンチされ、半死半生の目に会い、男の執念一途に源之助の生命を狙うが、三四郎にその無暴をさとされて止む。

左文字さもんじ大三郎だいざぶろう
 三四郎を兄とも師とも慕っている少年。二人の出合いがユカイ、尋ね人(門間三郎)の住居を教えてもらった礼に大三郎の食った大福餅の代金を引き受けた三四郎だが、店の婆さんが心配そうに言ったものだ「いいのかい書生さん、あいつ16も食ったんだよ」三四郎せいぜい5個位かと思っていた。おかげで財布は空っぽ。

たに 干城たてき
 鹿鳴館ろくめいかんからの帰途、暴漢に襲われている三四郎を助けて自分の馬車に引き入れる。欧化万能の軽薄な風潮の中に、ひたむきに柔道一筋に生きる三四郎の生き方をで励ます時の大臣閣下。

一、梗概(ネタバレあり!)

(ミロ注:読みやすいように、原文にはない段落を入れてあります)

(〔註〕原作の乙美、、はテレビ映画化にあたって早乙美、、、に変えてあります。)

 撫でるように降りすぎて行った夕方の驟雨しゅううの後は、春の宵らしいおぼろ月が出た。
 姿三四郎が、門間三郎(心明活殺流)に入門しようと出むいた夜、偶然にも門間らが矢野正五郎を闇討ちするのにぶつかった。紘道館道場主の矢野正五郎は学習院講師の文学士、世間で学士柔術とよばれているが、矢野自身は、柔術でなく”柔道”と称している。
門間らの闇討ちに矢野は動ぜず、得意の背負い投げで卑劣漢どもを追い散らした。姿三四郎はそれを見て感激、矢野の門下となった。三四郎は郷里の会津から上京、俥夫をしながら苦学を続けていたのである。
紘道館に住み込んだ三四郎は、めきめき腕をあげ、戸田雄次郎、壇義麿、津崎公平と並んで、四天王とよばれるほどになる。

 当時、警視庁は”武術の殿堂”と目されていた。良移心当流の村井半助は、その警視庁の武術世話係を勤めていたが病身だったので、娘の乙美おとみが生活のために田川牛肉店の女中に通っていた。村井の直弟子檜垣源之助が、その乙美に恋慕しているが、乙美は檜垣が嫌いである。
ある雨の日、乙美が下駄の鼻緒を切らして困っているところへ、姿三四郎が通りかかりすげかえてやった。三四郎は、それが村井半助の娘とは知らなかったが、乙美にとっては男性的な三四郎の面顔が、忘れがたいものとなる。
またある日のこと、三四郎は、馬車の暴走するのを取り押さえてやったが、その馬車に乗っていたのは南小路子爵の娘、高子であった。命の恩人の三四郎は、子爵邸で歓待されるが、西洋かぶれの高子が三四郎は気にくわない。紘道館柔道の本旨は、軽薄な欧化主義に抵抗するもので、「忠孝一本の真理から、死の安心を得る武道」なのである。
高子が雨の日に下駄の鼻緒をすげてやった娘と瓜二つなのが三四郎には不思議であった。

 警視庁武術世話係と、矢野紘道館が対決試合をすることになり、矢野は三四郎に出場を命じた。いっぽう警視庁側では檜垣源之助が、病身の村井に代って自分の出場をと主張したが、村井は許さなかった。
試合を明日にひかえた夜、三四郎は高子に誘われて鹿鳴館へ行き、そこで、高子とスペイン公使館の書記官の嬌態を見、衝動的に書記官を投げとばした。騒動の中から、抜け出した三四郎は、折りよく通りかかった谷干城(農商務大臣)の馬車にかくまわれて、逃亡、谷は反政府の硬骨漢である。
警視庁の試合は、小兵の三四郎が大兵の村井半助を山嵐の大業で投げ、三四郎の勝ちとなった。三四郎は、敗者の村井を見舞って、そこで娘の乙美を見ておどろくが、乙美にとって、忘れ得ぬ人が父の仇だったわけである。この時しかし、三四郎は、乙美を愛していた自分に気が付いた。
村井半助は虚脱から死病となるが、三四郎の人柄に惚れこんで、乙美のことを頼むと遺言、その村井の告白によれば、乙美は南小路子爵の落胤らくいんで、高子とは異母姉妹なのであった。
その後まもなく檜垣源之助が、失恋の意趣はらしに、三四郎のもとへ決斗状を届けてきた。右京ヶ原の決斗に檜垣を倒した三四郎は、ここでも柔道の”礼”を忘れず、ために檜垣は悔悟して、以後、三四郎を畏敬する仲となる。
やがて三四郎は旅に出た。心機一転を期してのことである。新橋から横浜への車中、慕って来た乙美をふり切った三四郎は、その長旅を広島まで続けて行く。三四郎を可愛がるさいづち・・・・和尚に云わせると”煩悩菩提”だが、いまの彼には「女性は修業の敵」なのである。高子にくらべて、おとなしい乙美がいとしいのも事実だが……。
旅からもどって横浜滞留中の三四郎は、大陸浪人真崎まざき東天とうてんと知り合った。東天は「日本に足りないのは侍だぞ」といって三四郎の武道を激励する。
乙美が寄食している田川牛肉店が左前になり店主のお仙が、思案にくれていた。乙美は芸妓に出る決心をし、前借りの千円で田川を立て直そうと、紘道館にもどってきた三四郎に相談した。三四郎とて名案もないが、ちょうど、その夜、ドイツのリスター(拳斗選手)と柔道の試合が企画され、賞金が千円であった。

 三四郎は、破門を覚悟で出場し、得意の山嵐で、リスターを打ちのめした。もっとも彼とすれば、意地と拳斗への憎しみからの出場だったので、賞金は惜しげもなく倒れたリスターに投げ与えてやった。
田川は、東天の橋渡しで、南小路子爵の融資で再建できた。

 矢野正五郎が、熊本の五高校長に赴任のとき三四郎は、かげながら、新橋駅で見送っていた。みずから、”破門”となった彼は、町の俥夫となって身を隠し、東天と乙美が探したが、見つからない。三四郎のいない紘道館は、穴の開いた感じである。
南小路家では、伊藤博文の仲人で高子を南条外交官に嫁がせたいのだが、三四郎を慕っている高子は承知しない。
乙美と高子から慕われている三四郎は、俥夫に姿をかりて東京じゅうを逃げ廻るかのようである。だが東天が、ついに三四郎を見つけ谷干城のところへ連れて行く。
谷も三四郎を憶えていて、二人を星ヶ丘茶寮へ案内したが、そこには刺客が谷を待ち伏せていた。政治ゴロの刺客は、三四郎にとり押さえられ、舌をかみ切って自害した。
東天は、また、三四郎を横浜へ連れていった。日清開戦が迫っていて横浜には清国の艦隊をはじめ、各国軍艦が碇泊している。東天は、横浜の空気から、三四郎に日本の現状を認識させたいのである。
清国海軍士官に見せかけている張は、実はスパイで、曲芸師にも早変わりをする。三四郎は、張の鋭い眼つきに見憶えがあって、東天を誘い両国の曲芸見物に入った。

 張はそこで日本の官憲に正体を見破られて脱走を図るが、三四郎がそれを追って格斗となり三四郎も重傷を負った。
東天から、三四郎重傷の報らせが田川牛肉店に届いたとき、ちょうど、高子が田川へ来合わせていた。高子は、お仙と乙美には知らせず、俥を廻して重体の三四郎を南小路家へ運びこみ徹夜で看護したが、うわごとに「乙美さん」とよぶ、三四郎に、さすがの高子も絶望して、南条外交官との結婚にふみきった。
高子は恢復した三四郎と、乙美、東天らに見送られて、ロンドンへ船出した。

 矢野正五郎が、高等師範学校長となって帰京し、三四郎は紘道館に復帰した。彼は、年一万本の稽古をめざしていて、娘義太夫の扇之助、以前の下宿のおばさんなどが云ってもてんで受付けない。檜垣源之助は、長崎に帰って、”生々塾”を開いていて、そこの逸材、津久井譲助と、姿三四郎の対決が噂にのぼりだしていた。東西対抗、矢野紘道館と良移心当流の宿命の対決か、津久井の実力を知っている檜垣は、三四郎を負けさせたくないのである。

 津久井譲助が上京して、三四郎の動静をさぐっている頃、南条外交官が、ロンドンで客死した。高子は、若き未亡人となって帰国するが、東天に云わすれば「火を抱いて」の帰国であり果して、高子は津久井譲助と肉体関係を結んだ。そして津久井の嫉妬心をかきたてることによって、姿三四郎、ひいてはライバルの乙美に仕返しをしようとする高子は津久井を利用するだけで、愛情はない。
肋膜炎で逗子に静養中の高子を、三四郎は乙美にせがまれて見舞いに出むいた。高子に付き添っている津久井との対決は、必然である。両者は互いに顔だけは見知っていた。
雨の海岸での決斗の果て、三四郎は津久井を倒した。三四郎の身を案じる檜垣源之助がそれとなく見張っていて、津久井に活を入れるが、三四郎は勝ちながらも、相手の実力を見直していた。

 京都の、武徳殿開き”東西対抗試合”が目前に迫ってきた。出場の直前、田川の使いが、三四郎を呼びにきて、乙美が肺炎で重態だと告げる。駆けつけた三四郎に、乙美は試合の成功を祈りながら息をひきとった。わずか、三日前、共に将来を語り合いながら村井半助の墓前にぬかずいた乙美だったのに……

 出場をしぶる三四郎は、「紘道館らしく戦って、敗れるならばよい、柔道は政治ではない」との矢野正五郎の激励で、ようやく決意が固まった。だが、津久井が急に辞退して、三四郎の不戦勝となった。津久井は、三四郎の人格と実力にふれて、自分が嫌になったのである。
 九州柔道界への責任から、津久井はその場で自決した。
 武徳殿から京都駅まで来た三四郎は、しかし東京へ帰らぬという。東京へ帰っても乙美はいないのだ。これからどうする、と、訊いた僚友の戸田雄次郎に、「もう一度、俥屋だ」と三四郎は答えた。新しい人生へ出直すつもりである。

1970年代狂騒曲

竹脇無我主演の『姿三四郎』が放映された1970年、──私にとっての「1970年」を短い言葉で言い表すとすれば、「スポ根」「藤圭子」「三島自決」となります。

「スポ根」とは、少年マンガ誌で流行した「スポーツ根性物」の略称で、梶原一騎原作の『巨人の星』(1966年)をどこかの雑誌がそう呼んだのが始まりで、『柔道一直線』(1967年)、『あしたのジョー』(1968年)、『タイガーマスク』(1968年)、『キックの鬼』(1969年)、『虹をよぶ拳』(1969年)、『赤き血のイレブン』(1970年)、『空手バカ一代』(1971年)、『柔道讃歌』(1972年)と、「スポ根」の系譜は続きます。
梶原一騎の原作以外にも『アニマル1ワン』(1968年)、『ガッツ・ジュン』(1971年)、三浦友和デビュー作『剣道一本!』(1972年、TVオリジナル)、『ミュンヘンへの道』(1972年、TVオリジナル)なんてのもあったな。

『巨人の星』の爆発的人気は少女マンガの世界にも飛び火して、『アタックNo.1』(1968年)、『サインはV』(1968年)、『スマッシュをきめろ!』(1969年)、『金メダルへのターン』(1969年)、『エースをねらえ!』(1978年)、『燃えろ!アタック』(1979年、TVオリジナル)などが、次々と発表されました。

1970年2月、一つの事件が起きます。
力石りきいしとおる」が死んだのです。

『力石のテーマ』 歌/秀 夕樹

     作詞/寺山修司 作曲/八木正生

何かの週刊誌を立ち読みしてそれを知った私は、あわてて『週刊少年マガジン』を探しましたが、もう手に入りませんでした。
『あしたのジョー』はそのスタートからずっと読み続けていましたが、しばらく手に取らない時期があって、その間に起きた想像を絶する出来事でした。

じつはちょうどその頃、私はまだ中学生でしたが、あることがきっかけで自分の将来への希望を見失ってしまっていたのです。そのため、それまで興味を持っていたすべてのことから、ことさらに離れようとしていました。
それはその後も、長く尾を引く結果となりました。

1970年3月24日、寺山修司率いる劇団天井てんじょう桟敷さじきが力石徹の葬儀(東由多加・演出)を行ったことを、その雑誌記事を読んで知りました。
寺山修司の名前だけは知っていましたが、劇団天井桟敷というのは初めて聞く名前でした。
尾藤イサオがリングの上で『あしたのジョー』のテーマソングを歌う姿も写真で見ました。
テレビアニメが始まる直前のことでした。

力石徹の葬儀

1969年の夏頃、三島由紀夫が『少年マガジン』編集部に突然訪ねて来たそうです。
『少年マガジン』発売日の真夜中、三島は編集部に入ってきて、『あしたのジョー』を読むために毎週『マガジン』を買っているのだが、今日は映画の撮影で遅い時間になってしまって買えないので、編集部で売ってもらおうと思って来たと言い、ポケットからお金を取り出しました。
編集長の宮原照夫が一冊渡して、お金はいいと言うと、三島はそれは困ると置いていこうとするので、編集部では販売できないこと、もしお金を頂戴すると社内処理が面倒になることを説明すると、「わかった。ありがとう」と丁寧にお辞儀をして去って行ったということです。
三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で決起し、自衛隊を否定する憲法改正を訴えて自決したのは、翌年1970年11月25日のことでした。
そのとき『あしたのジョー』は、作者であるちばてつやが病気療養中のため、休載中でした。三島は、力石徹が死んだところまでは読んでいたはずです。

力石徹が死んだ当時、寺山修司は「誰が力石を殺したか」というタイトルで、次のように書いています。

『あしたのジョー』の最新号には、二つの死がえがかれている。一つは矢吹丈のリングの上でのKO負けと、そのことによる「あした」の死である。

「あした」の死とは、少年院に入った矢吹丈に、丹下段平がボクシングを指導するハガキを届けるのですが、そこには「あしたのために」と書かれてあり、力石徹と出会った丈は、あしたのために今日を犠牲にして、力石打倒を目標に丹下の通信教育に従ってボクシングの自己トレーニングに励んできました。
力石とプロのリングで試合をすることになり丈は敗れましたが、それはこれまで追い求めてきた丈の「あした」も同時に死んだことを意味するということです。

では、「二つ目の死」である力石徹の死とはなんだったのでしょう?

『あしたのジョー』では丈と力石徹の対決のなかに、さまざまの比喩を投げこみ四角いジャングルの中に六九年から七〇年へかけての闘争的な時代感情を反映してみせるわけだが、丈と片目の丹下と少年院上がりのセコンド西とは、俗に言う雑草ジムに立てこもって権力と対峙するのである。
 このマンガに於ける力石の役割は体制社会の権力の投影によって成立っている。
 力石はアメリカのスーパーマンの戯画のような顔と資本家の後援と、理性的判断と高度な技術によって君臨している。

 力石はスーパーマンでも同時代の英雄でもなく、要するにスラムのゲリラだった矢吹丈のえがいた仮想敵、幻想の体制権力だったのである。

力石徹は矢吹丈の幻想だった! 

 力石は死んだのではなく、見失われたのであり、それは七〇年の時代感情のにくにくしいまでの的確な反映であると言うほかないだろう。

なるほど、1970年は「闘争的な時代感情」が渦巻いていた時代だったんだ。そして、それまで「敵」として戦っていたものが見失われた時代だったというのが、寺山の見立てでした。

そんな時代に『あしたのジョー』では力石徹の死が描かれ、テレビでは反時代的とも思われる『姿三四郎』が放映され、三島由紀夫は「生命以上の価値なくして何の軍隊だ」と叫んで自決していったのでした。

その後の矢吹丈を想像して、寺山は、「あした」を破産させられたあしたのジョーはどうするか? と、問いかけていますが、リングの上で真っ白になって燃え尽きたジョーについては、何の言葉も残してはいません。

青森県の荒涼とした津軽海峡を臨む倒産した映画館に身を寄せていた少年時代の寺山は、こんなことを思い続けていたといいます。

「地位も名もない、貧しい家庭に生れた少年が世に出ようとしたら、歌手になるか、ボクサーになるしかない」

そんな時代に歌手になってヒットを飛ばしていたのが、藤圭子でした。
岩手県一関に生れ、浪曲師の父母と流れ流れの旅回りをして生きてきた少女が、中央の歌謡界に登場するや、そのドスのきいたハスキーな声で人々を魅了していました。

うらぶれた気持ちで青春無宿の日々を送っていた私に、彼女の歌は沁みました。

『女のブルース』(1970年) 歌/藤 圭子

     作詞/石坂まさを 作曲/猪俣公章

命一つを捧げたいと思うほどの何物かを見失ってしまった時代、あれから私も、日本人も、探し続けさまよい続けているのかも知れません。

学生運動やフォークゲリラなど、1970年代を語るときに必ず話題になるような出来事も、東北の片田舎の少年だった私には、テレビや週刊誌を通じて知ってはいても、思い出というほどの何物も残ってはいません。
だから、1970年代が安保闘争に敗北した後の虚脱の時代だとか、当時渦中にあった人たちが語る言葉は傾聴するものの、最終的に信じるのは自分が体験したことだけです。

中学の修学旅行で初めて東京に行ったのが、1971年のことでした。
東北新幹線は開業前なので、宮城から東京まではまだまだ遠かった。
光化学スモッグがニュースになっていた頃で、東京に立って衝撃的だったことは「空気が見える!」ことでした。
守屋浩が『銀座の子守唄』の中で「さびしい時はひとりで歩こう 青い夜霧にけむる街」と歌っていましたが、私は初めて東京の「青い夜霧」を見ました。街灯の光のために、青く見えるのだな。「これが青い夜霧か」と、そこは銀座ではなく本郷でしたが、強く印象に残っています。
宿泊先の旅館のロビーで、はじめて「カラーテレビ」を見ました。新藤恵美主演の『美しきチャレンジャー』が放映されていました。

『銀座の子守唄』 歌/守屋 浩

     作詞・作曲/浜口庫之助

いまこうして振り返ってみると、1970年という年は、何と狂おしい時を刻んでいたことだろう! 『姿三四郎』を見ていた頃は、終わりと始まりとが、混沌とした状態で渦巻いていたんだな。
この後、高校生活、大学生活で私の1970年代は暮れていきます。
なんだかんだ言いながらも、私もまた1970年代という時代に、どっぷり浸っていたんだなあと感慨深いものがあります。

最後にこれからの予告として、「実録・嘉納治五郎伝」「柔道映画について」などを書いてみようかな、と思っています。

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