「古関裕而の音楽」を始めるにあたって
古関裕而は、《戦時歌謡》において、『露営の歌』『暁に祈る』『若鷲の歌』など数々の傑作を生みだし、当時の日本国民のだれもが歌ったことのある歌を作りました。
また、戦後は、『とんがり帽子』(ラジオ『鐘の鳴る丘』主題歌)、『君の名は』(ラジオ『君の名は』主題歌)、『長崎の鐘』(長崎の原爆犠牲者に捧げた鎮魂歌)、『六甲おろし』(阪神タイガース応援歌)、『栄冠は君に輝く』(全国高校野球大会歌)、『モスラの歌』(東宝映画『モスラ』挿入歌)、『スポーツ・ショー行進曲』(NHKスポーツ番組テーマ)、『オリンピック・マーチ』(1964年東京オリンピック入場行進曲)などなど、誰もが一度は聞いたことのある歌を作った人です。
私の場合は、母校である宮城県築館高等学校校歌の作曲者が古関裕而だったため、「なんでこんな片田舎の高校の校歌を、古関裕而などという日本の有名作曲家が作曲しているのか?」と、由来も何も聞いたことがなかったため、ずっと気になる人であり続けて来たという個人的事情があります。
私のブログでは、あちこちの記事の中で、古関裕而の歌のYouTube動画を貼って来たので、この《古関裕而の音楽》カテゴリーでは、これまでの集大成として、古関裕而の歌について語り尽くそうと思っています。
これから書いていく記事を読んでもらえば、古関の多彩な作品を実際に視聴してもらいながら、同時に、ひととおり古関裕而の伝記的情報が得られるようにしたいと思っています。
『エール』を見ていなくても、ぜんぜん大丈夫です。笑
なぜ、いま古関裕而なのか?
古関裕而はいまや、《忘れられた名作曲家》(刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』)なのだそうです。
私は忘れたことがないので、どういうことなのかすぐにはわかりませんでしたが、古賀政男、服部良一など、古関と同時代に活躍した作曲家の中で、なぜか古関裕而だけが、国民栄誉賞、文化勲章といった栄誉から見放されていることを言っているようです。
また、作曲した曲の多彩さの故、いまだに音楽的評価が定まっていないという指摘(藍川由美『これでいいのか、にっぽんのうた』)もありましたが、いまはどうなのでしょうか?
明治時代以来の《官尊民卑》の叙勲基準が、太平洋戦争敗戦後の新憲法によって表面的には変わったとはいえ、底流としては続いているために、正式な音楽学校を出ていない独学独歩の古関の楽風が、選考委員には受け入れられなかったということなのでしょう。
いいじゃないか、《無冠の大作曲家》で!
私もまた、古関裕而が国民栄誉賞を受賞してないことに、この国の〈闇〉を感じて来ましたが、最近は、いつも日本国民とともにあった作曲家らしく、お上から賞をもらわなくたって、彼が作曲した「歌」が、日本国民とともにあり続ければ、それが古関裕而にとっての「栄誉」なのだと思うようになりました。
NHK朝の連続テレビ小説『エール』も、好調な滑り出しを見せているようですが、そもそも、この番組自体、2020年東京オリンピックが開催されることを当て込んで、1964年東京オリンピックの「オリンピック・マーチ」の作曲者である古関裕而をモデルにしたドラマを企画したのはあきらかだと思います。
第1回の冒頭シーンが、1964年東京オリンピックの入場行進の楽屋裏から始まっているのを見ても、それはわかります。
どうやら2020年東京オリンピックは、1940年東京オリンピック以来二度目の《幻のオリンピック》となりそうにも見えますが、朝ドラに古関裕而がモデルのドラマが放送されたことによって、《忘れられた名作曲家》になっているという古関裕而を、日本国民に思い出してもらい、忘れないよう記憶し続けてもらう絶好の機会とすることで、良しとしたいと思います。
古関裕而《自伝》の謎
古関裕而には『鐘よ 鳴り響け』(1980年5月初出)という自伝があります。
これを読めば、古関の半生のおおよそが分かりそうに思いますが、じつは、この《自伝》には大きな〈謎〉が有ることがわかって来ました。
古関裕而は、昭和4年、福島県川俣銀行の行員時代に、イギリス国際作曲コンクールに応募して、二等に入賞したことが、地元紙の『福島民報』や中央紙の『東京日日新聞』で報じられました。
このコンクールでは、当時、世界的な名声を得ていたイゴール・ストラヴィンスキーが審査員をしていました。ストラヴィンスキーというのは、こんな曲を作曲していた人です。
『春の祭典』(1913年) 作曲/ストラヴィンスキー
指揮/スヴェトラーノフ 演奏/ソヴィエト国立交響楽団
いわゆる《前衛音楽》の走りの人ですね。演奏するのにも難しく、指揮するのにも難しいという、音楽の概念を変えてしまった曲です。当時の世界中の若手音楽家たちがストラヴィンスキーの影響を受けていました。日本でいえば、古関のほかに、伊福部昭とか、芥川也寸志とか、もう少し若い世代になると、武満徹、黛敏郎といった人たちも。
しかし、なぜか、古関はこのことに《自伝》ではひとこともふれていないのです!
いったい、何があったのでしょうか?
じつは、古賀政男の自伝にもあるんですよね! 大きな〈謎〉が!
戦時中の経歴が〈空白〉になっている! もちろん、活動休止していたわけではなく、たくさんの《戦時歌謡》を作曲していたにもかかわらず、です。
これは、いったい何を意味するのか?
古賀政男や西條八十など、古関にかかわって来る作曲家や作詞家などにも、目を配っていきたいと思います。
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では、始めましょう!
古関裕而の生涯と音楽を、その生まれから順に見ていきたいと思います。
幼年時代から福島商業学校卒業まで
最高の音楽環境で育った幼少年時代
明治42年(1909年)8月11日、古関裕而は、福島県福島市大町に、父三郎次、母ひさの長男として生まれた。本名は「勇治」である。
生家は代々「喜多三」という呉服屋を営んでいた。市内でも有数の老舗で、古関はいわば「お坊ちゃま」として育った。
父三郎次は音楽好きで、大正初期に、当時はまだ珍しかった蓄音機を購入し、余暇によくレコードをかけて聞いていたそうだ。
そのそばで、絵を描きながら音楽を聴くのが勇治少年の楽しみだった。かけられるレコードは父の好みなのだろう、浪曲が多かったようだが、勇治少年は民謡や吹奏楽の方を好んだ。
幼年時代から、音楽環境としては、当時としては最高の環境で育ったと言っていいだろう。
そもそも、この時代の日本で、子供の頃からレコードを聞けた人なんて、どれほどいただろう? 8年間ほど開きはあるが、ほぼほぼ『おしん』の時代のことだ。(おしんの生まれは、明治34年。)
生まれ育った山に囲まれた盆地の風景と、両親に愛されて育った幸福な家庭とが、古関の音楽の原風景になっていることは疑えない。
古関が生まれた明治42年という年は、韓国併合の前年であり、10月には伊藤博文が満洲の哈爾浜駅で安重根に暗殺されている。
またアメリカ海軍が、真珠湾に基地を建設し、太平洋への進出を始めた年でもある。
身の回りに不幸の影がなかったとはいえ、古関が「激動の時代」を生きるように宿命づけられていたのは確かなようだ。
水原茂(プロ野球選手)、山野愛子(美容研究家)、佐分利信(俳優)、大岡昇平(小説家)、花田清輝(文芸評論家)、淀川長治(映画評論家)、中島敦(小説家)、横山隆一(漫画家)、太宰治(小説家)、土門拳(写真家)、田中絹代(女優)、松本清張(小説家)、ベニー・グッドマン(ジャズ演奏家)といった人たちが、この年に生まれている。
遠藤喜美治先生との出会い
大正5年、古関は福島県師範附属小学校に入学した。7歳の時である。
大正3年(1914年)、日本はドイツに宣戦布告し、すでに第一次世界大戦が始まっていた。しかし田舎町ということもあり、古関の周囲に特別変わったこともなく、好きなレコードをかけ、傍らで絵を描くのに夢中になるといった生活をして、この時代を過ごしていた。
小学3年生からの担任である遠藤喜美治先生のことを、古関は印象深く自伝に記している。遠藤先生は唱歌と綴り方の担当であり、卒業まで唱歌と綴り方は遠藤先生が教えていた。
遠藤先生は、自身が《大変な音楽好き》だったそうで、みずから作曲した曲を生徒たちに歌って聞かせたり、生徒たちにも童謡の作曲をさせたりしていた。この授業のために、古関はすっかり童謡の作曲に夢中になってしまい、唱歌は古関にとって最も楽しみな時間になっていった。
次第に、クラスメートが詩を書いて来て古関に作曲を頼むようになり、それを繰り返すうちに、ますます作曲にのめりこむという、沼にはまった状態になっていった。
遠藤先生の方も、大正7年に児童文学雑誌『赤い鳥』が創刊され、全国的に童謡運動が盛り上がりを見せていた時流に影響されていたようで、《指導に益々熱がこもってきた》と古関は言っている。
こういう〈熱気〉を持った人物と出会うということは、人生において大きな影響をもたらすものだろう。
作曲をするといっても、まだ五線譜は知らなかったため、古関は数字譜で記譜していた。数字譜というのは、ドレミファソラシを1234567で表したものだ。
唱歌の授業だけでは物足りなくなった古関は、市販のセノオ楽譜を買うようになっていた。竹久夢二の絵が表紙に描かれたセノオ楽譜は、20銭から30銭程度の値段だったが、古関は《決して安いものではない》と言っている。
やはり生家の経済的な豊かさが、古関の音楽的才能を開花させたり、伸長させる力になっていたと思われる。
作曲に夢中になっている古関を見て、ある日、母が卓上ピアノを買って来てくれた。3オクターブくらいの黒鍵付きのものだったが、オモチャのピアノだったのだろう。それでも当時としてはかなり高価なものだった。
このピアノがさらに古関の音楽熱を刺激し、楽譜を買って来ては熱中して弾くようになっていった。
大正9年、小学5年生の時、紀元節(初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日。現在の「建国記念日」。)式典後の合同音楽祭では、5年生が歌う『漁業船』のピアノ伴奏をまかされたり、6年生の時は、級友たちが羽織袴姿で歌う『白虎隊』のピアノ伴奏をしている。
5年生の頃、ハーモニカが流行すると、ハーモニカ独習書を買って勉強し、セノオ楽譜をハーモニカ譜に直して吹いたりしていた。
この頃、田谷力三らの浅草オペラが福島市にやって来て、古関は初めてオペラを観劇している。すっかり歌や踊りに魅せられた古関は、さっそくオペラの楽譜を買い込んで、ピアノやハーモニカで演奏するようになった。
そうこうするうちに、音符や記号の意味がわかるようになって、小学校を卒業する頃には楽譜が自由に読め、作曲も五線紙を使ってするようになり、いよいよ本格的に音楽に取り組むようになっていた。
若くしてここまで音楽に夢中になれた古関裕而は、やはり《天才》というしかないと思う。
作詞家・野村俊夫は幼なじみ
古関の生家の大通りを挟んだ向かいに、一軒の魚屋があって、そこの息子というのが、のちに古関と組んで名曲を生み出すことになる作詞家・野村俊夫だった。
本名は「鈴木喜八」といい、古関より5才年上だった。
近所の子供たちのガキ大将で、古関はおとなしめの子供だったが、野村とは仲よく遊んだと言っている。
しかし、古関が福島県師範附属小学校に入学した大正5年ころ、野村一家は引越して行ってしまう。
古関が再び野村と顔を合わせたのは、川俣銀行に勤務していた昭和3年の頃で、野村は地元の民友新聞社の記者になっていた。
昭和4年には、野村が作詞し、古関が曲を付けた『福島行進曲』が作られている。
作詞家・野村俊夫には、『福島行進曲』『暁に祈る』『皇軍の戦果輝く』などのほか、たくさん古関と組んで作った曲がある。
古関以外が作曲した曲では、『索敵行』『あゝ紅の血は燃ゆる』『湯の町エレジー』『ハバロフスク小唄』『東京だョおっ母さん』などがある。
古関も自伝で言っているように、将来、共に第一線で活躍することになる作詞家と作曲家が、同郷の幼馴染という例は、まことに珍しい。どちらもまだ海のものとも山のものともつかない、少年時代のことだ。
こういう思いもよらない《偶然》があるからこそ、人生は面白いとも言えるだろう。
県立福島商業学校時代
大正11年(1922年)、古関は県立福島商業学校に入学した。父の呉服屋「喜多三」を継ぐための商業学校進学だったが、まもなく喜多三は、父三郎次が友人の借金の保証人になったのが原因で、莫大な負債を負って大町の店を閉店してしまった。十数人いた従業員も整理して、新町で新たに喜多三商店を開店し、三郎次が一人で営業するようになっていた。この店も、昭和2年には廃業してしまう。
大正12年、商業学校2年の時、いつも楽譜を買っていた本屋で楽譜を探していた昼前のこと、突然、本棚が大きく揺れ出した。
「地震だ!」という友の声につられて、古関は外に飛び出した。
関東大震災を引き起こした関東大地震である。
まもなく大騒ぎになり、「東京の火事が見える」などという噂が聞こえ、家の2階に上がって南の空を見たのだが、何も見えなかったということだ。いくら何でも、福島と東京では、遠すぎる。
商業学校では、外国商社への通信という授業があって、古関はこの授業が国語と並んで好きだった。この勉強が、のちに国際作曲コンクールに応募するのに役立ったのである。
しかし、商業学校時代の古関は、総じて《ソロバンの玉よりも音符のタマの方が好き》という状態で、山田耕筰の曲に夢中になったり、自分の作曲に熱中することが多かった。
古関の親友羽田善一によると、古関はレコードを聴いて、即座に採譜することができたという。
家庭で大きな変化が起きていたにもかかわらず、音楽以外の勉強はあまり熱心ではなかったのか、2年生の時に留年しており、皆より1年遅れで卒業している。
年2回行われていた学校の弁論大会で、「音がないと淋しいから音を入れよう」ということになって、古関はじめハーモニカを吹ける者数名が立候補し、ハーモニカバンドが作られることになった。
古関はそれまで書き溜めていた曲を、ハーモニカ合奏用に編曲して、弁論の幕間に大勢の前で披露した。
この初めての体験は、古関に強い印象を残したようで、《この体験は非常にうれしかったと同時に、その後に及んで大変勉強になった。》と言っている。
この頃から古関は、《作曲法》の理論的勉強を始めている。山田耕筰の『音楽理論』『近世和声楽講話』、伊庭 孝の『管弦楽法』、瀬戸口藤吉の『管弦楽器の取扱法』などで、音楽理論の知識を仕入れたようだ。
福島商業学校3年の時には、オーケストラ曲の作曲をおこなっている。
古関は、以前から憧れていた市内のアマチュア・ハーモニカバンド《福島ハーモニカ・ソサイティ》に、高校2年の14歳の時から参加するようになった。商業学校の先輩 橘 登が主宰で、彼は蕎麦屋「広瀬庵」の長男であったため、週に2~3回、蕎麦屋の奥座敷で練習していた。
そのころ、古関は、県庁の役人で年上の友人 三浦通庸が主宰していた《火の鳥の会》が開催する、近代音楽家のレコードコンサートにも出かけていた。
ここで初めて、ドビュッシー、ラベル、ストラビンスキー、ムソルグスキーなどの曲と出会うことになる。
『ボレロ』や『火の鳥』を聞いた時は、「これが音楽か」と驚き、以来、近代フランスやロシアの音楽に夢中になっていった。
《福島ハーモニカ・ソサイティ》で古関は、指揮をはじめ、作曲や編曲をまかされるようになった。
メンデルスゾーンの『バイオリン協奏曲』、ロッシーニの『ウイリアム・テル序曲』などを、ハーモニカで演奏しやすく編曲して演奏することもあった。
ことにストラビンスキーの『火の鳥』をハーモニカ・バンドが演奏したときは、客席から歓声が上がり、大変な反響だったということだ。
この時期(昭和2年)のことで、もう一つ特筆しておくべきことは、「裕而」というペンネームを使い始めたことが挙げられる。
本名は「古関勇治」だったが、「勇治」というのは少々勇ましすぎると感じていて、もっと音楽家らしい名前にしようと思ったのだった。同じ発音で、字が気に入っていた「裕」と「而」を組み合わせて「裕而」とした。
昭和3年3月、福島実業学校は5年制だったので、1年遅れではあるが、古関は卒業することになった。
卒業の寄せ書きには「末は音楽家だよ」と書かれてあり、この頃にはすでに音楽の道に進むことを決意していた古関裕而だった。
福島実業学校に入学してから卒業までの5年間、多くの新しい物・事・人と出会い、古関の音楽的才能が飛躍的に伸びていったのがわかるだろう。
この頃からコロムビア入社までが、古関裕而の《疾風怒涛時代》だったのだと思う。
川俣銀行勤務時代
川俣銀行に就職する
さて、卒業してからの古関は、はた目にはぶらぶらしているように思われていたが、内心では音楽学校に進学したい思いをかかえたまま、決心もつかず、相変わらずの音楽中心の生活を続けていた。父の喜多三商店は、昭和2年3月に起きた昭和金融恐慌の影響を受けて、すでに廃業に追い込まれていた。
そんな古関を見かねた川俣銀行を経営していた伯父の武藤茂平が、「家でブラブラしているのなら、銀行に勤めないか」と声をかけてきた。
川俣銀行がある川俣町は、福島から20kmほど離れたところにある、羽二重の産地で有名な町で、取引に来る外人の姿もよく見かけたそうだ。古関にとっては、ここから福島まで嫁いで来た母の町でもあった。古関は、伯父の誘いを承諾した。
川俣銀行に就職はしたものの、週に一度、〈絹〉と〈生糸〉の市が立つ日以外は、仕事はいたってのんびりしたもので、古関は大きな帳簿のあいだに五線紙をはさんでおいて、愛唱していた北原白秋や三木露風の詩に曲を付けたりして日を送っていた。
休日には、伯父の家の向かいにある小高い丘に登っては作曲していた。
この昭和3年、古関は5年前に起きた関東大地震をモチーフにした交響楽短詩『大地の反逆』41ページを作曲している。
山田耕筰に手紙を出す
銀行に勤めてからも、古関の音楽熱は高まる一方で、音楽活動に費やす時間も増える一方だった。
そしてある日、学生時代から傾倒していた山田耕筰に、手紙を書く決心をするのである。
古関は、当時発行される山田の楽譜はほとんど空で覚えており、作曲するときは、自然に山田の旋律が浮かんでくるほどで、意識せず山田を模倣することになっていた。
山田の東京の事務所宛てに、書き溜めて来た詩に曲を付けたものと曲だけのものを数曲選んで送った。
山田耕筰から、「がんばりなさい」と書かれた手紙と送った楽譜が届き、それをきっかけに、何度か手紙のやり取りが古関と山田の間で交わされた。
山田からの手紙は、よほど古関を感激させたようで、《私は本当に励まされた。やがてこれらの手紙が、私の人生に大きな転換をもたらすことになるのであった。》と言っている。
『福島行進曲』を作曲する
作詞家・野村俊夫は、大正15年に福島民友新聞社に入社して新聞記者をしていた。野村の家が魚屋で、古関の呉服屋と通りを挟んで向かいに住んでいた幼馴染だったことにはすでに触れたが、古関が野村と再び顔を合わせたのは、昭和3年、古関が商業学校を卒業する前のことだった。
開局したばかりの仙台の中央放送局(ラジオ局)で、開局記念番組の一つに、古関が所属する《福島ハーモニカ・ソサイティ》が出演することになって、その練習日に突然野村が現れて、演奏に聞き入っていた。
東京放送局が初めてラジオ放送を開始したのは、大正14年7月12日だったが、昭和に入ると続々と地方にも放送局が開局されるようになったのである。
彼は、私が商業学校の生徒の時、地元の民友新聞社の少壮記者として現れた。当時流行のソフト、映画俳優バスター・キートンのかぶっていたソフトの山を平らにつぶした帽子をかぶり、和服に、派手なマフラーを衿元にのぞかせたインバネスを着て、さっそうと市内を闊歩していた。そんな彼の姿がとても印象的であった。(古関裕而『鐘よ鳴り響け』)
昭和3年5月27日の夜、古関は、自分が作曲した『御大典奉祝行進曲』を、福島公会堂で催されたハーモニカ・バンドの演奏会で発表した。同年11月10日に行われる昭和天皇の即位式に合わせて作曲した曲である。
この曲は、同年11月17日・18日の両日、福島商業学校で開催された「御大典奉祝音楽会」でも、福商音楽部によって演奏されている。
古関は、銀行に勤務しながら音楽活動を続けていたが、野村俊夫とのつながりから、福島民友新聞社で、同紙の「コドモのページ」に寄せられる童謡の詩に曲を付けて、紙面で発表するという仕事もやっていた。ほとんど社員のような扱いだったということだ。
そんな中、昭和4年、作詞野村俊夫、作曲古関裕而で、『福島行進曲』が作られた。
作詞、作曲の二人とも、プロになる前の作品だが、当時、『東京行進曲』や『道頓堀行進曲』といった《新民謡》、いまでいうご当地ソングが流行していたことから、福島民友新聞社でも福島の歌を作ろうということに自然となったようだ。
以前紹介した『ミス・仙台』(昭和11年)も、《新民謡》のひとつとして作られたものだが、《新民謡》ブームの息の長さがうかがわれる。
『福島行進曲』昭和4年(1929年)
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而
『福島行進曲』
作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而
1.胸の火燃ゆる宵闇に
恋し福ビル引き眉毛
サラリと投げたトランプに
心にゃ金の灯愛の影
2.月の出潮の宵闇に
そぞろ歩こうよ紅葉山
真赤に咲いた花さえも
明けりゃ冷たい露の下
3.唇燃ゆる宵闇に
いとし福島恋の街
柳並木に灯がともりゃ
泣いて別れる人もある
どこか『君恋し』(1922年)や『東京行進曲』(1929年)を思い出させるような歌詞だが、古関のメロディも懐かしさ、せつなさを感じさせるものとなっている。
『竹取物語』国際作曲コンクール入賞の謎
ロンドンのチェスタートン楽譜出版社が発行していた音楽雑誌『チェスターリアン』を、古関は昭和3年1月から購読していたが、管弦楽作品の懸賞募集の記事に目を止め、翌昭和4年に、舞踏組曲『竹取物語』ほか4曲を応募した。
『竹取物語』は、古関が商業学校在学中から作曲を続けていたオーケストラ作品だった。
舞踏組曲『竹取物語』ほか4曲は、この国際音楽コンクールですべて二等に入賞した。
昭和4年12月8日付けで、母校福商の恩師・丹治嘉市にあてた手紙で、古関は次のように書いている。
先生も御承知の通り、私もいよいよ今度、本当に音楽家になる為、明年二月末渡英致します。英、ロンドンの楽譜出版社J.W.CHESTER LTDで発行してゐる音楽雑誌CHESTERIANを、昨年一月より買って読んで居ましたが、本年三月号に全世界より、管弦楽作品の懸賞募集がありましたので私も、作品中より、五曲程で応募致しました。幸に、二等に五曲共入賞致し、その五曲は、右出版社よりMiniature Scoreとして出版さるる事となり、なほ、同出版社の経営になる”INTERNATIONAL MUSICAL COMPOSERS ASSOCIATION”の会員に入る事ができました。右協会のプレジデントは現代音楽の雄IGOR STRAWINSKYです。(中略)ストラヰンスキイから仏語で手紙が来てますが良く読めません。先生に翻訳をお願い致したいのですが?(タイプライターで打ってあります)(藍川由美『これでいいのか、にっぽんのうた』文春新書、1998年)
しかし、結局、古関が英国に向けて旅立つことはなかった。
このことは古関の自伝には全く出て来ない。
いったい、何があったのだろうか?
この手紙と同じものを、齋藤秀隆『古関裕而うた物語』(歴史春秋社、2010年)で引用しているのだが、藍川由美が引用したものとは後半がまるで違っている。著者は明示していないが、途中を省略しているということか?
幸いに、二等に五曲共入賞致しました。
協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£四〇〇の金が送金されて来ました。今は、私は行くばかりです。(齋藤秀隆『古関裕而うた物語』歴史春秋社、2010年)
これらを読むと、古関の応募曲五曲全部が二等に入賞したこと、その五曲が出版(レコード化)されることになったこと、ストラビンスキーからの手紙を受け取ったこと、旅費等の費用として400ポンドが送金されて来たことがわかる。
このことを古関は秘密にしていたが、どこから洩れたのか、翌昭和5年1月23日付け『福島民報』に、《市内一青年の作曲が認められて世界の舞台へ》、また『福島民友』には、《世界的に認められた!、一無名青年の曲、一流音楽家に互して二等当選、福島市の古関裕而君》という記事が出て、大きく報道されることとなった。
さらに中央紙『東京日日新聞』などでも取り上げられ、入賞賞金が4000円であること、シベリア経由でイギリスに渡り、自らの指揮でレコーディングすること、その後は古関憧れのストラビンスキーに弟子入りする予定であることなどが書かれていた。
それにもかかわらず、古関がイギリスへ向けて海を渡ることは、ついになかったのである。
親に音楽家になる事を反対されていたため、国際作曲コンクールに応募したことや入賞したことを、誰にも秘密にしていたらしいことは分かる。
先に挙げた恩師・丹治嘉市にあてた手紙では、反対していた親の了解をとれたらしいこともうかがわれる。
それでは、ほかにイギリスへ行けないどんな理由があったのだろう?
内山金子と結婚、上京へ
国際作曲コンクールで二等に入賞したとの新聞報道は、古関に思いがけない出会いをもたらした。
愛知県豊橋市に住む十七歳の内山金子は、古関が『竹取物語』で受賞したことに興味を持ち、『竹取物語』の楽譜を送ってほしいと古関に手紙を出した。
金子は、小学五年生の時に学芸会で《かぐや姫》を演じて以来、友達から「かぐや姫」と呼ばれていたために、『竹取物語』にことさら興味を持ったのだった。
二人は文通するようになった。
金子は、愛知県立豊橋高等女学校を卒業し、声楽家になることを夢みていた。
作曲家を目指す古関と、声楽家を目指す金子。芸術家同士の同志的結合というのは、男女間であればなおさら強いものになるのかもしれない。
二人の心は、急速に接近していった。
やがて当然のように、古関の想いは金子への恋愛感情へと変わって行く。
《昼、シャツの中に貴女の御写真を入れて、あせでよごれたのではないかと心配しつつそつと出して見ました。やさしい貴女のお姿、すこしもよごれては居ません。貴女は、いつまでもいつまでも美しいですね。御心迄美しい。そつと接吻しました。(お許し下さい。)》
二人は写真を交換していたのだ。金子も書いている。
《お写真、私ほんとうに気に入りましたの、離すのは湯に入る時きりです。何時も眺めてます。夜の勉強にも眠くなると貴方のお写真を見なほしては亦やります》
ここまで燃え上がってしまったら、もう誰にもこの相思相愛は止められないな。それが《狂気の愛》(アンドレ・ブルトン)というものだ。オレにも覚えがあるぜ。ふっ。
古関の金子への愛が深まって行く一方、古関には新たな悩みが生まれていた。金子を日本に残して、一人イギリスへ行ってもいいものか? 金子が声楽家を目指しているのなら、金子と一緒に渡英すべきではないのか?しかし、二人分の渡英の費用はどうする?古関の悩みは、果てしない堂々巡りになって行った。
そんな中にも、金子の存在は古関の創作意欲を刺激し、2か月ほどの間に、オーケストラ曲13曲、室内楽3曲を作らせていた。
古関の思いは、金子と別れてイギリス留学に行くか、それとも留学を断念するか、というところまで追い込まれていた。金子に宛てて行李いっぱいになるほど手紙を書きながら、一方ではイギリス留学へ向けて、英語、フランス語、ロシア語を勉強していた。シェーンベルクの『和声楽』も学んでいた。
昭和5年6月1日、古関と金子は結婚した。古関は20歳。金子は18歳だった。ともかく二人は、一緒にいることを選んだわけだ。
古関はイギリス留学のために、昭和5年5月に川俣銀行を辞めていたが、金子と結婚した頃には、イギリス留学はあきらめていたようだ。
古関一人なら、4000円の賞金でなんとか留学も可能だったかもしれないが、金子の分までは費用を工面できなかったと思われる。或いは、賞金の4000円では、古関ひとりでも不足だったか。
刑部芳則氏は、古関がイギリス留学を断念した理由として、国分義司・ギボンズ京子『古関裕而─かぐや姫はどこへ行った─』という本を取り上げて、《五曲とも「二等受賞」ではなく「入選漏れ」であった可能性が高い》、そして《レコード化も世界恐慌の影響で「英コロムビア」から「英ビクター」に権利が移り、結局立ち消えになってしまう》という、同書が検証した結論を紹介している。
しかし、残っている新聞報道や手紙等の状況証拠からは、入賞が間違いだったとは考えにくいと思う。やはり、金銭面での理由の方が、無理なく受け入れられるのではないか。
或いは、入賞はしたが、その後の出版社側の経済的事情の変化で、レコード化がぽしゃったというのは本当かも知れない。
もっとも、私は『古関裕而─かぐや姫はどこへ行った─』は読めていないので、最終的な結論はペンディングとしておこう。
同書は絶版になっており、ネットの古本屋でもヤフオクでもアマゾンでも、手に入らなかった。国会図書館まで行く予定はない。
古関は、配偶者を得て、取り急ぎ就職先を探す必要があった。
譜面をビクターに送ってみたが断られ、次はコロムビアに送った。コロムビア文芸部長の米山正は、コロムビアの顧問をやっていた山田耕筰に相談した。
山田耕筰は、かつて文通したことのある古関裕而を覚えていて、「これは見込みがある」と答えたという。
この山田のひとことが効いて、古関は無事コロムビアに入社することが決まった。山田耕筰が推薦してくれたことは、あとになって知った。
古関裕而は、妻金子とともに、上京することになった。
《参考文献》
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
藍川由美『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書、1998年11月20日)
齋藤秀隆『古関裕而うた物語』(歴史春秋社、2010年9月29日)