子規逝くや~『坂の上の雲』第2部

ども。ミロです。
『坂の上の雲』の第2部の2回目を見ました。

子規逝くや十七日の月明に

高浜虚子がこの句を口ずさむ場面はかならずあるだろうと思っていたけど、
やっぱりありましたね!

でも同時に、十分効果的に映像化するのはムリだろうな、とも思っていました。

これもほぼ当たってたんじゃないかな?

なぜかと言えば、
テレビ『坂の上の雲』では、子規と弟子たちの触れ合いが、
十分な時間をとって描かれては来なかったので、
子規の死に当たって突然高浜虚子がからんで来ても、
虚子の複雑な心境まで描き込むことは、短い時間では無理な気がしてたんです。

まして虚子が感じた「気配」を描くことは!

原作ではこのように描かれています。

その板塀のあかるさのなかを、何物かが動いて流れてゆくような気が、一瞬した。子規居士の霊だと、虚子はおもった。霊がいま空中へあがりつつあるのであろう。

子規逝くや十七日の月明に

と、虚子が口ずさんだのは、このときであった。即興だが、こしらえごとでなく、子規がその文学的生命をかけてやかましくいった写生を虚子はいまおこなったつもりだった。

テレビでは大きなホタルのような光の玉が、
板塀の上をただようように月明かりの夜空へあがって行きました。
あれが子規の霊だということでしょう。

原作では幻想的な、かつ緊張感で張り詰めたいいシーンなんだけど、
映像化してしまうと説明的すぎて、
なんとも陳腐な感じばかり残った気がします。

映像化で効果的なのは、
やはりアクション・シーンとスペクタル・シーンに限りますね。
微妙な心象風景を描き出すのは難しいな。

正岡子規

これとは対照的に、
子規庵の庭を含めた光景には、子規の「宇宙」が感じられてよかったです!

日の照り陰りの一瞬一瞬までが、
子規やそこで暮らす家族たちの心の微妙な変化として感じられて、
映像的に納得できる描き方でした。

「家」と「庭」が持つ、
宇宙論的な本質まで届いていたと思います。

それはまさに主人公が、「病牀六尺」を自己の宇宙とした「子規」なればこそ出来たことでしょう。

原寸大に再現した子規の家と庭は、番組スタッフにとっても自慢の作品だったようです。
たしかに見ごたえのある映像でした。

糸瓜へちま咲て たんのつまりし ほとけかな
痰一斗 糸瓜の水も 間にあはず
をととひの へちまの水も 取らざりき

子規の絶筆三句です。

特に第一句は、
世界と自己を、客観的に突き放して同時にクリア・フォーカスできる、
研ぎ澄まされた子規の心の眼を感じさせ、
子規がたどり着いた「写生」というものの高所を示す傑作だと思います。

子規は子規庵の庭を「小楽地(リトルパラダイス)」と呼んでいたそうです。
まさに我が意を得たり!です。 →ガーデニングは「楽園創造」である!参照

子規の庭のガーデナーは、妹の律でした。
病床の子規が身体を動かさずに花が見えるように、
季節に応じていろいろな花を植え替えていたということです。

鶏頭の十四五本もありぬべし

こんな子規の代表句も、
ガーデナーの律が居たればこそ生まれた作品だったわけですね。

子規の創作活動において、
妹の律が果たした役割がいかに大きなものだったか、
『坂の上の雲』の映像化によってはじめて気づかされました。