「戦後70年 安倍首相談話」──罰としての談話

国内外から求められていた4つのキーワードを散りばめた、
「四題噺」としての「戦後70年談話」が出ました。

   「戦後70年 安倍首相談話」全文は、こちらから

「侵略」「植民地支配」「反省」「おわび」をどう入れるか?
そこに国内の反政府勢力やアメリカ、中国、台湾、韓国の注目が集まっていました。

平成7年の村山談話、平成十七年の小泉談話にくらべて、
かなり長文で、「観念的」な語句が多い印象でした。

談話冒頭で「先の大戦への道のり」が語られました。

「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。」

西洋諸国やアメリカに向けて、
「お前らも少しは反省しろよ」ということでしょう。

「アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」

この「独立」という言葉の使い方は、
アヘン戦争で西洋の侵略を許した中国や、日本に植民地化された台湾や韓国にとっては、
心にグサッと刺さるものだったかもしれないな。
「日本なんて文明開化して、独立を守ったんだもんね!」という自慢げな響きを感じます。

そして日露戦争についての「自画自賛」は、
近年、左翼学者によって主張されている、
日本の侵略は「日清・日露戦争」から始まったとされることへの反論でしょうね。

この「侵略」という言葉、じつに「悩ましい」性質を持っている言葉です。

西洋諸国は、大航海時代から世界「侵略」を開始した。…といった流れに続くものとして、
日本も西洋列強への対抗意識から「日清・日露戦争」において「侵略」する側に回った。
…とかだったら、まだしも受け入れられると思うが、
いきなり日本に対してだけ「侵略」といわれるのは、素直に受け入れ難いところがあるな。

だから安倍首相は、さいしょに西洋の植民地を持ち出し、
その流れの中に日本の隣国に対する植民地化がつながっていることを、
言外に匂わせたかったのだろうね。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

「加害者」ではなく「挑戦者」!
安倍首相が苦心した表現だったと思うが、ここが気に入らない人は多そうだ。
正直なところ、当時の日本がそれほど明確な意志を持っていたとは思えない。
関東軍が大陸で独断専行して「事変」へと突き進んでいったのを、
当時の軍部も政府も「後追い」で承認し、しまいにグダグダになってしまったというのが真相だろう。

関東軍は「挑戦者」だったのか?
「何に」対する?
日本の「統帥権」に対する?

「進むべき針路を誤り」は少し前で述べられている、「外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。」に対応する。

現在の中国が進める、南シナ海や東シナ海での「力の行使によって解決しよう」としていることへの、
牽制であることは明らかです。
「これが俺の歴史認識なんだよ。わかったか!」といったところでしょう。

「そして七十年前。日本は、敗戦しました。」

ええっ! もう、そこ?
「真珠湾奇襲攻撃」は? 「マレー電撃戦」は?

ここは安倍首相が「語りたくないところ」だったのかな?
まさか、「ルーズベルトにはめられまして…」という訳にも行かないもんな。

「慰安婦」については、

「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。」

ずいぶんとソフトな言い回しになりましたね。
「慰安婦」の実態は、ここでも「歴史家」にまかせるということでしょうか?

「これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。」

「尊い犠牲」か。戦死した日本兵も、日本兵に殺されたアジアの一般民衆も、いっしょくたでかまわない?
ちょっとこの「犠牲」には違和感を感じる。
非道に殺されたアジアの民衆に対しては、もっと直接な謝罪があっても良かった気がする。

「慰安婦」を連れた日本軍も、民衆を巻き添えにして殺した日本軍も、
わたしには「誇り」には思えない。
「皇軍」としての誇りを守って戦った兵隊だって、たくさんいたのだ。

「戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さん」

「南京大虐殺」についてはあらためて取り上げるつもりでいるが、(いつもこればっかり!ww)
日本軍の兵站無視の戦法が、捕虜の虐待やアジアの人々を苦しめた原因になっていることが大問題だとわたしは思う。
痛烈に反省したいものです。
武力で戦うだけでなく、もっと「国際法」で戦う術も、日本人は身につけたほうがいいと思う。

「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

そんなのは日本人の勝手だろう。
この談話の中で言うべきことだろうか?

問題は、本当に謝罪すべき「歴史的な事実」があったかどうかだ。
あったのなら、それは謝罪し続けなければならない。
なければ当然、謝罪する必要はない。それだけ。

長すぎる談話だなあ。
同じことをこの半分の分量で語れたんじゃないか?
そこまで内容を推敲したほうが、もっとわかりやすい談話になったとも思う。

「侵略」「植民地支配」「反省」「おわび」のキーワードは、
まったく意味を成さない形で使われたに過ぎません。
そこが安倍首相がもっとも心を砕いたことなのかな。

とりあえず、ひととおり問題になっていることには触れたかんね!という談話でした。

十年ごとに「談話」をだすことで、「戦勝国様」に日本の反省の度合いを判定していただく、
というのがこの「談話」の持つ象徴的な意味なのでしょうか?
それは取りも直さず、日本を「敗戦国」で在り続けさせるための「罰」なのかもしれません。

いっそのこともう、談話を出すのはやめちゃったら?