映画『ひろしま』──あらすじと感想[資料映像付]

二冊の本

映画『ひろしま』(17日、NHK Eテレ)を見ました。

広島の被爆者たちが体験した地獄がどういうものであったか、
その片鱗を感じとることができた、といったところでしょうか。

映画は、受け止めきれない不条理への深く静かな思いを秘めた音楽とともに始まります。

ラジオから流れる原爆の物語。

「1945年8月6日朝、3機のB29は、テニヤンの基地を出発した。
 指揮官ティベッツ大佐搭乗のエノラ・ゲイ号の爆弾槽には、人類の頭上に初めて炸裂する原子爆弾が重々しく吊るされ、それには日本の天皇に対するあらゆる種類のののしりの言葉が書き記されてあった。
 基地をあとにして、全員はそれぞれの行動を開始した。ティベッツ大佐は、操縦者としてのいつもの仕事を熱心にやっていた。航空士のヴァンカーク大尉とレーダー操縦者のスチボリック軍曹は、伝声管でたえず話しながら、航空図に位置を入れたり、レーダーを操作したりしていた。
 4時20分、ヴァンカーク大尉から、5時20分硫黄島到着の予定を言って来た。
 やがて東の空が赤く燃え、太陽が昇り始めた。暗い海は、いきいきときらめき、その壮大にしてしかも崇高な光景は、彼の魂を打った。彼は戦争の中にいることさえ忘れて、しばし人間らしい感激にひたった。だが彼はふと、数時間後の広島市民の運命を思い浮かべ、愕然となった。いまの彼の使命は、広島市民の運命につながっていた。飛行機の胴体がしっかりと抱いているものは、世界の人が想像もできない爆弾、原子爆弾なのである。
 この世紀の爆弾の威力は、爆心より1㎞以内では、ひとりの人間の生存も許されないであろう。さらに強力な放射能による生物の損傷は、計り知れないものがある。おそらく広島市街は、一瞬にして屍(しかばね)の街と化すであろう。彼はこう考えた時、極度の虚無感に呑み尽くされてしまった。彼はその中で何者かにすがりつきたいほどの悲哀を覚えた。彼はふと故郷の母の顔を思い浮かべた。
 彼の考えは、まもなく彼の行おうとしている使命に戻った。前方の白雲の向こうに、敵日本がある。いまから約4時間以内に、広島は地図の上から抹殺されるであろう。その広島の誰もが、この運命に気付かないであろう。まさに死のうとしているあわれな奴らに、誰が憐れみと同情を感じようか。いや、真珠湾とバターンの死の行進を考えるならば、なんの同情も起こるはずはない。
 7時40分、我々は最後の高度に昇り始めた。さあ、人々よ、もう長くはない。日本までわずか25マイル、刻々目標に迫っている。人々よ、もう間もない。我々が自分たちの目標にたどり着くのは、ほんの暫くのあいだなのだ。神よ、我々に勇気と力を。」(W・L・ローレンス『0の暁』1950年)

高校の北川先生のクラスでは、生徒たちがこの物語を聞いていましたが、
大庭おおばみち子は、追い詰められたように悲鳴を上げ、鼻血を出して倒れてしまいました。
広島に原爆が投下されて7年がたっていましたが、みち子は白血病を発症していました。
みち子とこのクラスの3分の1の生徒は、被爆者だったのでした。

みち子が入院した病室では、クラスメートがみち子の枕元に集まり、河野少年が一冊の本を読み聞かせていました。

「だいいちトルーマン自身が、サンフランシスコの講和会議の席上で、はっきりと、アメリカ国民は真珠湾とバターンのことは忘れていないと言っているではありませんか。そこで、僕は、ドイツ人として直言するのですが、僕は、そして大多数のドイツの知識人たちは、こう思っているのです。
 ヒロシマ、ナガサキでは、結局のところ、二十何万かの非武装の、しかも何らの罪もない日本人が、あっさりと新兵器の「モルモット実験」に使われてしまったのだと。そしてつまりそれは、日本人が有色人種だからということにほかならないのです。白色人種に属する僕がこんなことを言うと、君が不快な感情を抱くかもしれませんが、むしろ僕自身が白色人種に属しているからこそ、この問題のこういう点が君たちよりも、もっと本能的、直感的にはっきりと理解できるのです。
 いずれにしても、この問題は、とても真珠湾やバターンなどのような、簡単なものではないはずです。
 おまけに、終戦近くのころ、ナチスが連合軍に対して毒ガスを使おうとしたとかしなかったとかで、やれハーグの国際条約違反だとか、やれ神と人道への反逆だとか言って、ヒステリックに騒ぎ立てたその国が、毒ガスどころかその何倍も、何十倍も残虐な新兵器を、しかも、なんらの防衛力を持たない非戦闘員に対して使ったのですから、この問題に対しては、日本のみならず世界の良識と良心も、簡単に沈黙してしまうべきではないと思います。
 世界と人類から、神と正義とが抹殺されてしまう時が来ない限り。」
篠原正瑛『僕らはごめんだ──東西ドイツの青年からの手紙』1952年)

ラジオから流れていたゼロあかつき──原子爆弾の発明・製造・決戦の記録』は、ロス・アラモスでの原爆実験から、広島・長崎の原爆投下まで立ち会うことを許された、ただひとりの科学ジャーナリストによる、アメリカ側の原爆開発から実際の投下までの歩みを、誇らしげにレポートしたものです。

私が持っている創元社文庫版と読みくらべてみましたが、映画の方は原文そのままではなく、かなり簡潔にまとめられており、ある意味「挑発的」ともとれる編集がなされています。
これを被爆した生徒が聞かされたんではたまらないだろうな、という感じの仕上りです。

伊福部昭の音楽がまた、「君が代」を編曲したようなものになっています。原爆の災厄は、広島という一地方の不幸なのではなく、日本国の国家的事件であることを象徴させたかったのかもしれません。

河野が読んでいた『僕らはごめんだ──東西ドイツの青年からの手紙』は、編者がやり取りした東西ドイツの青年たちの手紙を集成したものですが、まさに『0の暁』に対する反論となるような部分をピンポイントで取り上げて、被爆者の原爆への思いを際立たせているところは見事です。
松竹が、この部分をカットしないと上映させないと迫っただけのことはあります。たしかに「反米的」とは言えますね。
反米の何が悪いの? と言いたいところですが、つい1年前までは、GHQから厳しく検閲を受けていたので、松竹側もいまだにクセが抜けず相当びびっていたんでしょう。日本は再独立したんだという気概が、まるで感じられません。

生徒たちがラジオを聞いている教室の黒板に、シェークスピアに関係する内容と思われる英語の文章がチョークで書かれています。「人間復興」という日本語が目に付きます。
北川先生はいったいどんな意図で、英語の時間に『0の暁』のラジオ放送を生徒たちに聞かせていたのでしょうか? 少々、不可解な感じが残ります。

河野は、被爆者たちの多くがみじめな境遇に置かれていることを訴えます。
じつはこのクラスにも、みじめな生活をしている奴がいると、河野は言います。彼は山の方に妹と疎開している間に、父と母をピカでやられ浮浪児になったが、復員してきたおじさんに引き取られ、いまはキャバレーで働いていると。
彼とは後半でメインキャラクターになる遠藤幸夫です。

広島の街は、教会が新しく建ったり、平和大橋が開通したり、平和記念館が建ったりと復興しているように見えるが、一方で、町には軍艦マーチが流れ、警察予備隊の募集ポスターが貼られたりして、みち子たち被爆者は、また戦争が近づいているような不安を感じるのでした。

大庭みち子が病床で、原爆が投下された当日のことを回想し始めるところから、大庭みち子一家と遠藤幸夫一家の被爆の物語が、からみ合いながら展開していきます。

大庭みち子一家の物語

8月6日の朝、みち子の姉の町子は、弟の明男を保育園まで連れて、女学校に出かけていきます。
みち子はそれを見送りますが、これが最後になるとは思ってもいなかったでしょう。

みち子の一家は母みねを加えた4人で、一家の父親は出征しているようです。

この朝、町子たち女学校の生徒は、米原先生(月岡夢路)に引率されて、日の丸の鉢巻姿もりりしく建物疎開に動員されていきます。
建物疎開というのは、空襲を受けた際に建物が延焼するのを防ぐために、建物を取り壊して空き地を作ることをいいます。

運命の8時15分、建物疎開の作業中の米原先生と女学生、そして二中の男子学生たちの頭上から、地球上にかつて存在したことのない巨大な閃光が襲いかかります。

町子たちは爆風で吹き飛ばされ、粉々に破壊された木材や瓦礫の下敷きになっていましたが、抜け出して、米原先生に率いられて、炎の街を逃げまどいます。みんな髪の毛は逆立ち、衣服はボロボロになって、顔は火傷を負っていました。

大きな石の階段を降りた先は大きな川で、被災者たちがあとからあとから入っていきます。女学生たちは川の中で、米原先生を囲んでみんなで「君が代」を歌って耐えていましたが、次第に流されていき、町子も米原先生も歌声とともに水中に消えていくのでした。

大庭みち子の母みね(山田五十鈴)は、つぶれた家の屋根を突き破って這い出し、みち子と明男を探しに歩き出します。明男は黒く焼かれて倒れていました。みち子は瓦礫の下からはい出して無事でした。

みねは明男を背負いみち子を連れて、比治山ひじやまの上の救護所になっている洞窟にたどり着きますが、頬に大きな水ぶくれのある男から、
「おばさん。そんなんなった子供、抱いていたってしょうがないよ。早く焼いてもらうんだ」と言われます。
明男はすでにいのち尽きていたのでした。

みねとみち子は、似島にのしまの救護所に向かう船の上にいました。
すると、目が見えなくなった女の子が、みねに話しかけてきました。
「おばさんの子ども、ここにいるの?」
「おりますよ」
「これあげる。学校へ行くとき、持って出たの」
それはお弁当でした。女の子の母が、女の子が昼に食べるようにと持たせてくれたものでした。
「あなた、自分で食べないの?」
 とみねが聞くと、
「私、もうだめ。おばさんの子どもにあげて…。おばさん、私の名前をいうから、お母さんにあったら言ってね」と言いながら、女の子は死んでいきました。
みねは女の子に「しっかりしなさい!」と何度も呼びかけますが、女の子が答えることはありませんでした。みち子はみねといっしょに号泣していました。

いかん! これを書いているだけで、涙がこみあげてしまう。
このシーンは、被爆当時小学三年生だった田中清子さんの手記に出てくる実話がもとになっています。
ほとんどそのままだな。

比治山の洞窟から似島の検疫所への被爆者の輸送は、洞窟が満杯でやけどの治療に限界がきてしまったため、被爆3日後に行われたそうなので、この時点ではそれだけの時間が経過していたことになります。
火傷の治療といっても、当時は白い軟膏のようなものを、べっとりと塗るだけだったそうです。

この時の似島への被爆者輸送を担ったのは、陸軍船舶司令部のあかつき部隊でした。大発だいはつ(大型上陸用舟艇)や小発
しょうはつ
を使って、川や宇品埠頭から、被爆者を乗せて運びました。

遠藤幸夫一家の物語

幸夫の父である遠藤秀雄(加藤嘉)は、広島市警防団東白鳥分団の一員でした。

警防団というのは、いまの我々には耳慣れない言葉ですが、当時の行政組織のひとつだったようで、「その任務は、防毒、監視、海事、配給、救護、医療、防火などであり、救護部を設けることになっていた」(1)そうです。

原爆で壊滅した広島の街で、秀雄は家の下敷きになった妻よし子を助け出そうと、太く長いはりと格闘していました。
「私はもうだめですから、あなたは逃げて! 子供たちをお願いします」
すでに火の手が迫り、もはや妻のもとへは近づけない状態になっていました。燃え盛る炎の中から、「逃げてーっ」と叫ぶよし子の声が聞こえます。
秀雄は「許してくれ!」と、炎の中に呼びかけていました。

加藤嘉、名演です!

被爆者たちは、爆心地から約2㎞東南方にある標高70メートルの比治山ひじやまに、焼け焦がした身体を引きずり、よろめきながら、続々と登っていきました。
そこには、約50mほどくり抜いて広い洞窟が掘られてあり、救護所になっていました。その洞窟もたちまち人でいっぱいになり、入り口まで被爆者があふれていたそうです。

洞窟には、子供を連れて避難してきた大庭みねの姿があり、明男がすでに死亡していたことは、先に触れました。そこに遠藤秀雄がやって来て、「一中の遠藤一郎はいないか!」と叫びながら洞窟を見回し、いないと見るとすぐに出ていきました。

秀雄は、すれ違う汚れた姿の子供のひとりひとりを確認しながら、息子の一郎を探して街を歩き回ります。
カメラは秀雄を追いかけながら、その途上で出会う様々な被爆者の姿を映し出し、破壊され尽くして炎を上げ続ける「ひろしま」の街の内臓をこれでもかと描き出します。

「万歳! 大日本帝国、万歳!」と叫ぶボロボロの旗を持った男に、秀雄は「こらあ! 敬礼せんか!」とどなられ、敬礼しながら男を見送ると、男は瓦礫の向こう側へ走り去り、そのままばったりと倒れていました。

防火水槽には、4,5人の子供たちが頭を突っ込んだまま死んでいました。

被爆者は原爆の熱線を浴びて、顔や露出している体の部分を焼かれ、生き残った者は水を欲しがったそうですが、水を与えるとなぜか、みんなすぐに死んでいったということです。

その時、黒い雨が降り始め、街中のすべてを黒く塗りつぶしていきました。

黒い雨は、最近の研究では、午前9時ころから爆心地近くで降り始め、次第に県の西北部へと降雨範囲を広げていき、午後3時ころにやんだことがわかっています。
黒い雨の成分は、原爆の爆発でまき散らされたウランを含む、その後の火災により空高く巻き上げられた地上物の燃えカスでできていて、やや粘着性のものだったと言われています。

秀雄が黒い雨の中を歩いていくと、「おとうちゃん!」と叫びながらしがみついてきた、小さい子供がありました。でも父ではないと悟った子供は、どこかへ走り去って行ってしまいました。

これらの印象的なエピソードの数々は、原爆体験者でなければ知り得ないものだと思います。

広島県庁のビルの残骸に、「県庁本部移転先 市内下柳町 東警察署内」という張り紙が貼ってありました。
炊き出しに被爆者が行列を作っている近くで、広島県知事の「告諭」を読み上げている男がいました。

「広島県知事告諭」
今次の災害は残虐極まる空襲により、吾が国民戦意の破壊を図らんとする、敵の謀略に基くものなり。
広島県市民諸君よ、被害は大なりといえどもこれ戦争の常なり。断じてひるむことなく、救護復旧の措置は既に着々と講ぜられつつあり、軍もまた絶大の援助を提供せられつつあり、速やかに各職場に復帰せよ。戦争は一日も休止することなし。
一般県民諸君もまた暖かき戦友愛を以て罹災諸君をいたわり、これを鼓舞激励し其の速かなる戦列復帰を図られたし。
今次災害に際し、不幸にして相当数の戦災死者を出せり。衷心より哀悼の意を表し、その冥福を祈ると共に、其の仇敵に酬ゆるの道、断乎驕敵を撃破するにあるを銘記せよ。
吾等はあくまでも最後の勝利を信じ、あらゆる難苦を克服して大皇戦に挺身せむ。
八月七日 知事 高野源進


原爆は、広島の中心部で炸裂したため、県庁、市役所、病院、軍隊、警察署は全滅し、被爆者を救いに来るべき組織ごと、地上から消し去っていました。
たまたま広島県知事は出張中で難を逃れましたが、広島に戻るとすぐに、軍部に連絡して救援体制を整えるとともに、聖戦遂行の使命を市民に訴える「告諭」のビラを各所に掲示しました。
高野知事の奥さんは被災して、行方不明になったままお骨も帰ってこなかったそうです。

救護所となっている学校に秀雄が現れ、身動きできないほど被災者がひしめく中で一郎を見つけます。
「一郎。間に合わなかったな」
一郎と一緒にいた一中の生徒に、秀雄は丁重に礼を言い、「じゃ、さよなら。元気でいなさいよ」と言って、一郎の亡骸なきがらをおぶって立ち去ります。「これを、負ぶったのは、久しぶりだな」

地獄のような情景の中で交わされる二人の会話の、静かで落ち着いていて互いに思いやりにあふれたやりとりに、人間の品格とは何なのかを考えさせられます。

妹の洋子と疎開していた遠藤幸夫は、広島に帰ってきましたが、自宅は一面の瓦礫の中にコンクリートの門柱が残っているばかり。近所のおばさんに、母と兄一郎は死んで、父秀雄は病院にいることを知らされ、幸夫は病院に父を訪ねますが、変わり果てた父の姿を見てショックを受けた洋子は、「お父ちゃんじゃない!」と叫んで、どこかへ走り去ってしまいます。その後、いくら探しても洋子は見つからず、幸夫は浮浪児の仲間入りをすることになります。

終戦。広島は少しずつ復興していきました。
幸夫たち浮浪児は広島に訪れるハロー(アメリカ兵)に、原爆の記念品だと言って瓦礫を売りつけたり、チョコレートやパンを恵んでもらいながら生活していました。
「ユー ジェントルマン パパ ママ ピカドンで ハングリー!ハングリー!」が、殺し文句でした。

似島の収容所に入れられていた幸夫は、復員してきたおじに引き取られ、おじの工場を手伝うことになりました。幸夫は高校生になり、大庭みち子や河野のクラスメートになります。
やがて工場は砲弾を作るようになり、それがいやで幸夫はおじの家を飛び出してしまいます。

朝鮮戦争による軍需景気が背景になっていますね。
1950年6月25日に北朝鮮軍は38度線を越え、韓国に侵略を開始し朝鮮戦争が勃発して、1953年7月27日に休戦協定を結ぶまで戦いは続きました。

幸夫は浮浪児たちを集めて、似島に船で渡り、防空壕の中から被爆者の骸骨を掘り出して、アメリカ人に広島の訪問記念品として売らせていましたが、警察に捕まってしまいます。
骸骨の額には、幸夫によって次のような英文が書かれた紙が貼ってありました。

The first and greatest honor in the history of human shine on this head.6.Aug.1945
(人類の歴史上、最初にしてかつ最大の栄光、この頭上に輝く。1945年8月6日)


警察から通報を受けた北川先生が、河野たちクラスメートと一緒に幸夫を受け取りに来て、原爆ドームを背景にみんなが揃って歩んでいきます。大通りに群れをなして歩き続ける広島市民、人々は途切れることなく、原爆ドームに向かって進んでいきます。その映像にかぶって、むくむくと起き上がって、米原先生と女学校の生徒たち、大庭みねや川で死んだ一中の生徒たちなど、大勢の原爆で殺された死者たちが、広島市民とともに歩き出すのでした。

 1953年8月

声なき人々の大行進にどんな声を聞くか、それが映画『ひろしま』の究極のテーマだったのだと思います。

参考資料
(1)「1945 年 8 月 6 日広島原爆投下時の救護所」谷整二(広島大学文書館調査員)

遠藤幸夫の現在パートの前に、端折ってしまったんですが、実は軍人や科学者や医者や看護婦たちのエピソードがあります。

軍部はどう動いたのか?

広島 8月6日 原爆投下直後の写真(相生橋付近)

護国神社跡で円陣を組んで軍人たちが会議をするシーン。
まず民心の安定を図り、逐次市民生活の復興をはかる。そのために、流言飛語の取り締まりを厳格にする。
…などが話し合われるのはまだいいとしても、
「新型爆弾に対しては、防空壕の価値の大なることを強調し」たり、「新型爆弾に対しても何らか手があるという信念を抱かしめ、この際いっそうの敵愾心を奮い起こさしめる」って、どうよ?
居並んだ軍人たちはみな、「同感!」「同感!」「賛成!」って、広島の街の惨状も市民の被害も、彼らの眼中には無きがごとくです!

もはや、被害のレベルを客観的に評価する理性を失ってしまっているようです。

大日本帝国臣民の命の値段は、安かったなあ!

でも、本当にこんな状態で会議をしてたのだろうか?
ネットで調べまくりましたが、こういう事実を記したものにはいまだ遭遇していません。
この場面は、フィクション?

たしかに大本営では戦争継続の意見が主流だったし、天皇も国体の護持が連合国に明確に保証されるまでは、戦争継続やむなしという考えでした。でも、原爆の直撃を受けた広島の軍部では実際のところ、どういう意見だったのだろう?
やはり、建前を口にするしかなかったというのが、一番考えられる線ではあるな。

場所を移して、今度は室内で、科学者たちと軍人たちの会議の場面。

この会議は、8月10日に比治山の東南にあった兵器補給しょうで大本営調査団主催で開かれた、陸海軍合同特殊爆弾研究会だと思われます。ここで理化学研究所の仁科芳雄博士は、広島に投下されたのは「原子爆弾」であると、公式に結論を出しました。

じつは仁科博士は、8月8日、大本営の依頼で現地調査団として広島に入ったその日に、鈴木貫太郎内閣の迫水さこみず書記官長に、「残念ながら原子爆弾に間違いありません」と伝えています。

また、放射線の影響についても、仁科博士は回りの人々に注意していますが、国家レベルで放射線対策が取られることはなかったようで、むしろ放射線のことは公にしないよう、きびしく検閲していました。

軍部や内閣には「原爆投下はアメリカの謀略だ」という意見が根強く支配していました。残虐極まりない原子爆弾が投下されたことや放射線に恐怖を抱けば、国民が戦意喪失することを恐れたのです。

科学者と軍部の状況認識のズレを表現している、映画的演出としては見事なシーンだと思います。ただ、これを歴史的事実として受け取られてしまうと、ちょっと待ってと言わざるを得ません。

映画というのはどんな映画でも、往々にして「神話化」がされやすいことは留意しておく必要があります。現実や事実を表現するよりも、英雄の賛美や伝説の強化が優先され、偏見や恣意的な善悪が強調されたりして、映画的な美とは別な部分で評価されがちになります。

こういう表現手法が極端化すれば、プロパガンダ映画と同じになってしまいます。

このほかに、広島では70年間、草も木も生えないと言われたことをめぐるエピソードについて触れておきます。事の真偽をはっきりしてくれと医師に詰め寄る被爆者たちもいて、医師は、それを確かめるために庭に大根の種をまいてみたので、その結果次第だという説明をします。

これはトルーマンの原爆投下を告げる声明がもとになって、広島市民の口から口へと伝わっていたものと思われます。

大根の種をまいた畑に、岡崎看護婦(岸旗江)が毎日水やりをしているのを、被災者たちは病院の窓から見ながら、いまかいまかと待っていましたが、ついに大根が芽を出したのを見てみんなで大喜びをしますが……
次のシーンでは、岡崎看護婦が医師(三島雅夫)に診察を受ける場面になり、彼女もまた、被爆者だったことがわかります。医師が彼女の髪を引っ張るとごそっと抜ける衝撃のシーンのあと、原爆症の症状が進んで血を吐く岡崎看護婦の無残な場面が続きます。

この場面転換も、よく計算されていると思います。

映画『ひろしま』と映画『原爆の子』

映画『ひろしま』(関川秀雄監督、1953年)と映画『原爆の子』(新藤兼人監督、1952年)は、同じ一つの原作から生まれた、二つの作品です。

1951年、広島文理科大学の教育学者、長田新おさだあらた編纂による『原爆の子──広島の少年少女のうったえ』が出版されると、本への反響とあいまって、二つの団体から映画化の企画が持ち上がりました。新藤兼人(広島出身)率いる近代映画協会と日本教職員組合(日教組)です。

一時は共同製作が検討されたものの、新藤の脚本が原作を「ドラマ風に書き換えてしまっていたこと」により、日教組側が「原爆の真実の姿が広く知らされない」と不満を表明して決裂し、別々の作品を撮ることになったとのことです。(2)

そのため映画『原爆の子』と見くらべてみると、映画『ひろしま』が撮られなければならなかった理由が、よくわかります。
映画『ひろしま』では、原爆投下直後の広島と人々の描写が、30分以上にわたり延々と描き出されますが、まさにこれこそ制作者が表現したかった「原爆の真実の姿」だということでしょう。

これに反して、映画『原爆の子』では、原爆投下直後の描写はほんの数分で、なんか女性の乳房の映像だけが印象に残ってしまい、なんのこっちゃ感が強いです。

この映画が描き出すのは、瀬戸内海の小島で小学校教師をやっている石川孝子(乙羽信子)が、原爆から数年後、故郷の広島に帰って、かつて勤めていた幼稚園のもと園児たちを訪ね歩く、という話です。それぞれの園児たちの物語に、原作が使用されています。

ドラマとして秀逸だとは思いますが、たしかに、原爆そのものの描き方が弱いとは言えるかもしれません。『原爆の子』を原作にする必要がどこにあるのか、ただの人情ドラマの一つに終わってしまっている感があります。

映画『原爆の子』の音楽も映画『ひろしま』と同じく伊福部昭が担当しており、『ゴジラ』の音楽とも共通する「伊福部レクイエム」になっています。映画『ひろしま』は、そのまま『ゴジラ』の世界につなげても、あまり違和感がありません。

『原爆の子』新藤兼人/監督(1952年)

『ひろしま』関川秀雄/監督(1953年)前編

『ひろしま』後編

映画『ひろしま』が完成すると、英国の「デイリー・スケッチ」誌(1953年8月25日付け)が、『ひろしま』のスチール写真と一緒に、「8年たっても日本人は憎悪を奮い立たせている」と批判記事を載せました。
一時は文部省選定にも選定されながら、結局、非選定になってしまったということです。(3)

当時のイギリス人が見ると、『ひろしま』は「反連合国」映画に見えたんでしょうね。
現在の時点で私たちが見ると、もう「反米」という感覚すら薄れている気がしますが、
それは戦争の熱が完全に冷めてしまっているために、冷静に見ることができるからだと思います。

映画『ひろしま』では、高山良策が特殊技術で参加しています。原爆で破壊された街のセットの製作担当だったようですが、見ごたえのあるセットになっていたと思います。
『ウルトラセブン』等の怪獣造形で特撮ファンには定評のある方ですが、こういう仕事もしてたんですね。

月岡夢路(米原先生)は、当時映画の出演料が日本映画界トップクラスだったにもかかわらず、所属していた松竹の反対を説き伏せて、故郷広島のためにノーギャラで出演するという男気(?)を見せています。

山田五十鈴(大庭みね)の演技にも凄みを感じました。のちに、必殺仕事人の元締めをするだけの迫力がすでに十分でしたね。
山田五十鈴は、この映画のころは、実生活で加藤嘉かとう よしと結婚していました。夫婦で『ひろしま』に出演していたわけです。その経歴を見ると、俳優や監督と結婚・離婚を繰り返し、まさに「恋多き女」だったようです。

加藤嘉(遠藤秀雄)は、戦前からの社会主義者で、民藝の旗揚げに参加しています。
映画『砂の器』(1974年)での、幼い息子を連れて日本全国を流れ歩く、らい病の父親役は感動的でした。

岡田英二(北川先生)はこの映画の8年後、アラン・レネ監督の日仏合作映画『二十四時間の情事』に、日本側俳優として出演します。この映画では、広島の原爆の残酷さを伝えるために、映画『ひろしま』のフィルムが使用されています。

〈参考資料〉
(2)(3)「「無垢なる被害者」の構築──新藤兼人『原爆の子』、関川秀雄『ひろしま』にみる女教師の歌声と白血病の少女の沈黙」片岡佑介

歴史と記録映画

映画『ひろしま』はよくできた映画だと思いますが、しかし、実際の原爆は、映画以上であったろうことは誰でも容易に想像がつくと思います。
映画がどれほど写実的であっても、また、現実を再現したとしても、やはり伝えられることの限界はあります。

平和運動へも反核運動へも結び付けずに、ただ虚心に、人間として核攻撃をするのはどんなものか?と訴えかけるところまでが、もっともこの映画が威力を発揮するフィードだと思います。

映画『ひろしま』をどう活用するか?
まず、核保有国の国民と政権を担う人たち全員に見てもらうプロジェクトというのが必要ではないかと思う。
トランプにも習近平にもプーチンにも金正恩にも、それぞれの国の国民にも見てもらえたら、あるいは、核使用にブレーキをかけることができるかも知れない。戦争自体は防げないとしても。

その点、映画は「世界言語」に成り得ると思います。

映画『ひろしま』を製作した監督以下スタッフと参加した広島市民には、遅ればせながら敬意を表したいと思います。


じつは、原爆投下直後の広島と長崎を撮影した日本の記録映画があります。もちろん、ドラマではなく、日映(日本映画社)のカメラマンが8月8日から広島入りして現場を撮影したものです。最初は、「原爆の非人道性を、ジュネーブの赤十字を通して世界に訴えよう」というのが、撮影に臨んだ目的だったそうです。

しかし、そのうちに終戦になってしまい、国策法人だったため資金に窮して、あらためて陣容を立て直すことになりました。

理研の仁科芳雄博士ほかに協力を依頼して、文部省が「原子爆弾災害調査研究特別委員会」を設置すると、日映は記録映画班として参加が認められました。

「医学班」「生物班」「物理班」「土木建築班」「ニュース及遊撃班」の5班に分かれた撮影班が編成され、それぞれの専門家とともに本格的な撮影が始まりました。

1946年4月21日、映画『The Effect of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki』(英語版)が完成しました。しかし、出来上がったフィルムはすべてGHQに没収され、3万フィートのネガフィルムごとアメリカに持ち去られてしまいました。

大事なフィルムがむざむざと持ち去られるのを黙って見ていたかというと、実は日映の4人の男たちが、重要な部分だけを1万フィートを超えるほど2重に焼き増して、GHQを欺いてこっそりと保管していたのです。

それから21年後の1967年、この「 Effect」は日本に帰ることになりますが、文部省の意向で「人体への影響」の13分をカットして公開されたため、被爆者たちは「原爆の残虐な部分が描かれていない」として全面公開を求めました.
しかし、文部省は首をたてに振りませんでした。

その後、「10フィート映画運動」をやったりして、幻のフィルムをアメリカから買い戻し、長い紆余曲折を経ながら日本語完全版が完成され、ハイビジョン化も実現しました。

現在では『広島・長崎における原子爆弾の影響』(日本語完全版)(164分)として、DVDが市販されています。

被害状況を再現した映画と被害の科学的研究映画、この二つが揃うことで、広島・長崎の原爆被害は、世界の人々に将来に渡って訴え続けることができることでしょう。

いま必要なのは、天皇にも、アメリカにも、中国にも、ロシアにも気を遣うことなく、
冷徹厳正な眼で戦争の歴史を見つめ直すことかも知れないな。
そのためのツールとして、映像作品が占める位置は、これからますます重要になってくると思います。

没収された原爆フィルム (1990年)