太陽とはなんだ~石原慎太郎『太陽の季節』

ども。ミロです。

長門裕之さんが亡くなったと聞いて、
映画『太陽の季節』についてひとことふたこと触れておこうと思ったのですが、
あれ!? 俺、『太陽の季節』って観たことあったっけ?

重大な事実に気づいてしまいました。

西洋しゃくなげ「太陽

あ。これはうちの庭の西洋シャクナゲ「太陽」です。
太陽を想わせる赤みの強い花色が、シャクナゲの中では珍しいです。

シャクナゲってつぼみのうちは赤くても、開くと白っぽくなる種類が多いですから。

それはともかく、『太陽の季節』です。
考えてみると、最後まで通しで映画『太陽の季節』を見た記憶が無いんだよね!

1956年、この年、石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞。
すぐに映画化され、この作品で弟の石原裕次郎が映画デビューします。

この時の裕次郎は湘南の若者の風俗解説者的な役割で映画にかかわったそうですが、
たまたま役者が足りなくなり、エキストラとして出演したのが、
存在感で主演の長門裕之を食ってしまい注目されました。


弟裕次郎と彼の友人たちの放蕩生活に興味を持ち、
小説の題材にして出来たのが『太陽の季節』だったそうです。
裕次郎が役にはまっていた理由もうなずけますね。

次回作『狂った果実』の映画化に当たり、兄慎太郎は、
遊び人の弟を出演させてくれることを条件に日活に売り込んだそうで、
プロデューサーの水の江滝子がOKしたことから、
俳優・石原裕次郎が誕生しました。

まさに兄・慎太郎と弟・裕次郎のタッグが組まれた瞬間、
日本映画界の新しい歴史の幕開けでした。

ある意味、太陽=裕次郎その人のことであるともとれる。
自由といえば自由、放埓といえば放埓な、
裕次郎に象徴される戦後の若い世代へのメタファーだったのかな?

とすると、兄・慎太郎は太陽の弟・裕次郎に対して、
自分は「月」だと感じていたのだろうか?

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が公布され、
ようやく日本は公式に太平洋戦争を終わらせました。
日本が「再独立」したと言われた時代です。

小説『太陽の季節』はその内容の反社会性、反倫理性から、
読後の後味悪さが指摘されますが、それには私も同感です。

「太陽なんて暗いのだ」(ランボー)
こんな詩の一節を思い出させる逆説的な作品です。

太陽の明るい光の中に出現した新しい若者たちの生態を、
性欲・悪意・物質欲を隠さずまざまざと描き出したところに、
『太陽の季節』の新しさがあったのかも知れません。

文学的完成というのは作者の念頭になかったように見える。
書きたいことを書こうとしただけ。
それがそんなスタンスの文学青年がいなかったために、
かえって新しく見えたかも知れない。

選考委員の意見の中に「興行師」と呼んだ人がいたが、
それはある意味当たっているんじゃないか?

大衆に何がうけるか探り当てる力というのは、
商売が成功する重要な条件だと思います。

政治家・石原慎太郎が成功したのも、
彼の中の「興行師」的素質によるとも言えばいえるでしょう。
興行に失敗する菅直人のような政治家もいることを想えば、
それも才能のうちなんじゃないですか?

文学性という既成秩序にさえ穴をあけてしまったところに、
石原慎太郎の男根主義文学の真面目がある。

でも、私が好きな石原文学というのは、いわゆる純文学に入らない方の作品群です!

『おゝい雲』
『青年の樹』
『青春とはなんだ』

これらの小説は、『太陽の季節』の作者が書いたとは思えないような、
絵にかいたような青春小説です。

『青春とはなんだ』を初めて読んだ時のわたしの感想は、
石坂洋二郎の青春小説に夏目漱石の『坊っちゃん』を足したみたいな作品だな、というものでした。

ヤクザが必ず登場するところに、
石原慎太郎らしい「臭み」を残してはいます。

でも『人生劇場』にだって、飛車角や吉良常という侠客が登場しますから、
ヤクザが出て来てもかまわないんだけど、
興行上の都合に見えてしまうところに問題が残るかも知れません。

特に『青年の樹』は、ヤクザの二代目が大学に入学するところから始まりますが、
『セーラー服と機関銃』や『任侠ヘルパー』などの先駆けと思えば、
相反するものを無理やりくっつけてしまうところから物語を始めるのは、
王道の発想法といっていい。


『青年の樹』 作詞:石原慎太郎 作曲:山本直純

カバー版


当時はインテリヤクザが話題になったりしていたので、
実際に山口組の二代目なんかがモデルになってるのかも知れません。

ピカレスク(悪漢小説)の方に行かなかったところに、
石原慎太郎らしさがある。

『太陽の季節』一作は、小説自体としては、
殆どの人が知らないような世界の体験を書くことで芥川賞を受賞するというパターンで、
その後の芥川賞に与えた影響が大きいんじゃないかな。

村上龍や金矢リサの小説が受賞した時も、
『太陽の季節』が選ばれた選ばれ方に似ているなと思いました。

『太陽の季節』が日本にあたえた社会的・文化的な影響は、
小説それ自体よりも映画化によるところが大きかった。

『太陽の季節』『狂った果実』『処刑の部屋』の石原慎太郎原作の三作は「太陽族映画」と呼ばれ、
その暴力描写や強姦描写が問題視され、
日本映画界に「映倫」を設置させる原因を作りました。

そのことを石原慎太郎は、作家として誇りに思っているんではないでしょうか?
反権力・反体制は当時の青年たちにとって勲章でしたから。

その石原慎太郎もいまでは東京都の権力・体制の側にいるわけですが、
日本国に対してはいまでも反体制を貫いているようです。

石原慎太郎の功績を考える時、
弟・石原裕次郎を映画界に登場させたことの意義は決定的だし、
もうひとつ、
『青春とはなんだ』のテレビドラマ化がテレビ界に与えた影響もかなり大きかったと思います。

次回は、そのへんのことを。