【第7回】占領下日本に『長崎の鐘』鳴り響く! 古関裕而のレクイエム

  1. 敗戦そして占領の日々(昭和20年)
    1. マッカーサーの時代、始まる
      1. GHQ、東京占領
      2. 古関裕而、『山から来た男』で始動する
      3. 菊田一夫の終戦前後
      4. 『里の秋』川田正子 海沼実作曲
  2. 昭和21年(1946年)の発表作品
    1. 平川唯一「カムカム英会話」が大流行!(昭和21年2月1日~昭和26年3月)
    2. 作り変えられる歌たち
      1. 『お山の杉の子』(昭和19年12月)
      2. 『兵隊さんの汽車』(『汽車ポッポ』)(昭和15年)
      3. 『土人のお祭り』(『森の小人』)昭和16年7月
      4. 『われは海の子』
      5. 『軍艦マーチ』の復活
    3. 『いとしき唄』霧島昇 栗本尊子(昭和21年6月)
    4. 『立ち上り音頭』霧島昇、松原操(昭和21年7月)
    5. 『歌謡ひろしま』(昭和21年8月9日)
    6. 『1947年への序曲』霧島昇、藤山一郎(昭和21年11月)
  3. 昭和22年(1947年)[占領2年目]の発表作品
    1. 映画『地獄の顔』
      1. 『雨のオランダ坂』渡辺はま子(昭和22年1月)
      2. 『夜更けの街』伊藤久男(昭和22年1月)【映画主題歌】
    2. 『三日月娘』藤山一郎(昭和22年2月)
    3. NHK『音楽五人男』(昭和22年3月)
      1. 『白鳥の歌』(昭和22年5月)【ラジオ主題歌・映画挿入歌】
      2. 『夢淡き東京』藤山一郎(昭和22年5月)【映画主題歌】
      3. 『バラ咲く小径』(昭和22年5月)【映画挿入歌】
    4. 『ちよいといけます』(昭和22年9月上旬)【映画主題歌】
    5. NHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(昭和22年)
      1. 『とんがり帽子』川田正子・音羽ゆりかご会【『鐘の鳴る丘』主題歌】
  4. 昭和23年(1948年)[占領3年目]の発表作品
    1. 全国高等学校野球大会の歌『栄冠は君に輝く』伊藤久男(昭和24年7月1日)
    2. 『フランチェスカの鐘』二葉あき子(昭和23年6月20日)
    3. 映画『風の子』(昭和23年11月)
      1. 『風の子』(昭和23年11月)【映画主題歌】
      2. 『雨の日も風の日も』(昭和23年11月)【映画挿入歌】
    4. 帰らざる捕虜たちの歌
      1. 『異国の丘』竹山逸郎、中村耕造 吉田 正作曲(昭和23年9月)
      2. 『シベリア・エレジー 』伊藤久男 古賀政男作曲(昭和23年)
      3. 『ハバロフスク小唄』近江俊郎、中村耕造(昭和24年4月)【兵隊節】
  5. 昭和24年(1949年)[占領4年目]の発表作品
    1. 『スポーツショー行進曲』(昭和24年4月)【NHKスポーツ放送テーマ曲】
      1. 『コバルトの空』レイモンド服部/作曲(昭和26年)【TBSテレビスポーツ番組テーマ曲】
      2. 『スポーツ行進曲』黛敏郎/作曲 (昭和28年)【日本テレビスポーツ番組テーマ】
    2. 『長崎の鐘』藤山一郎(昭和24年7月1日)
    3. 『流れる星は生きている』(昭和24年8月18日)【映画主題歌】
  6. 昭和25年(1950年)[占領5年目]の発表作品
    1. NHKラジオ『今週の明星』のテーマ(昭和25年~昭和39年)
    2. 『イヨマンテの夜』伊藤久男(昭和25年1月20日)
      1. 昭和57年(1982年)日本レコード大賞
    3. 『佐々木小次郎旅姿』(昭和25年12月10日)【映画主題歌】
    4. 『東京の雨』(昭和26年1月15日)
    5. 『長崎の雨』藤山一郎(昭和26年6月10日)
    6. 『別れのワルツ』ユージン・コスマン楽団(昭和26年)
    7. 『さくらんぼ大将』(昭和26年8月)
      1. 『さくらんぼ大将』(昭和26年8月)
    8. 《乗り物シリーズ》の始まり(昭和26年)
      1. 『憧れの郵便馬車』岡本敦郎(昭和26年12月10日)
  7. 昭和27年(1952年)、日本再独立!
    1. ラジオ・ドラマ『君の名は』始まる(昭和27年4月10日)
    2. 『昼のいこい』のテーマ(昭和27年11月17日)
    3. 『あゝモンテンルパの夜は更けて』戦犯たちの叫び(昭和27年)
    4. 『ニコライの鐘』藤山一郎(昭和27年12月10日)
  8. 昭和28年(1953年)の発表作品
    1. 三越ホーム・ソング(昭和28年1月~昭和35年10月)
      1. 『トンコ節』西條八十作詞、古賀政男作曲(昭和24年1月)
      2. 『秋草の歌』奈良光枝(昭和29年2月10日)【三越ホーム・ソング】
    2. 『ひめゆりの塔』伊藤久男(昭和28年7月15日)【映画主題歌】
      1. 『ひめゆりの塔』サウンドトラック
    3. 映画『君の名は』公開される(昭和28年9月15日封切)
      1. 『君の名は』織井茂子(昭和28年9月1日)【映画主題歌】
      2. 『君いとしき人よ』伊藤久男(昭和28年9月1日)【映画主題歌】
    4. 映画『君の名は』第二部(昭和28年12月1日封切)
      1. 『花のいのちは』岡本敦郎、岸恵子(昭和28年12月)【映画主題歌】
      2. 『黒百合の歌』織井茂子(昭和28年12月)【映画主題歌】
  9. 昭和29年(1954年)の発表作品
    1. 『高原列車は行く』岡本敦郎(昭和29年2月15日)
    2. 『月の朝鮮海峡』西條八十作詞 古賀政男作曲(昭和29年3月27日)
      1. 『対馬の娘』永田とよ子 西條八十作詞 古賀政男作曲(昭和29年3月27日)
    3. 映画『君の名は』第三部完結編(昭和29年4月27日)
      1. 『君は遥かな』佐多啓二、織井茂子(昭和29年4月10日)【映画挿入歌】
      2. 『忘れ得ぬ人』伊藤久男(昭和29年4月10日)【映画挿入歌】
      3. 『数寄屋橋エレジー』伊藤久男(昭和29年4月)【映画挿入歌】
      4. 『綾の歌』淡路千景(昭和29年4月)【映画挿入歌】
    4. 『サロマ湖の歌』伊藤久男(昭和29年9月15日)
    5. 『スッチョン節』美空ひばり(昭和29年12月10日)

敗戦そして占領の日々(昭和20年)

マッカーサーの時代、始まる

GHQ、東京占領

昭和20年8月30日、厚木飛行場に到着した「バターン号」からマッカーサー元帥が日本の地に降り立った。この日から軍事占領が始まり、日本の新しい支配者となるのである。
レイバンのサングラスに、コーンパイプをくわえた姿は、スタイリストのマッカーサーらしい演出だったが、部下のアイケルバーガー中将は、マッカーサーが日本進駐を恐れていることに気がついていた。

マッカーサーは、戦闘の終わった戦場に立ち、新聞記者に写真を撮らせることはよくあったが、戦闘の真っただ中に立ったことはなかった。
オフィスでの写真撮影は許可しなかったので、新聞を見たアメリカ国民は、大将がいつも先頭に立って戦場に臨んでいるイメージを抱いていただろう。
しかし実際のマッカーサーは、どこの戦地に在っても、自邸とオフィスの往復に明け暮れるような生活をしていたのである。

生きて戦っている日本兵の姿も、マッカーサーは見たことがなかった。マッカーサーが見たことのある日本人は、捕虜になった日本兵と日本兵の戦死体だけだった。
だが、日本占領となると、得体の知れぬ《日本人》のただ中に、足を踏み入れねばならない。勝つ見込みのない戦闘でも、死体の山を築きながら突撃してくるような国民が、占領に従順に従うとはとても思えなかった。
アイケルバーガー中将は、マッカーサーが抱いている恐怖が、わかるような気がした。

9月2日、戦艦ミズーリ上で、降伏文書に調印。

9月27日、天皇がマッカーサーを訪問した。

10月11日、マッカーサーは、日本民主化のための五大改革を指令した。

12月29日、第一次農地改革。

古関裕而、『山から来た男』で始動する

昭和20年10月初め、疎開先の福島県飯坂の古関のもとに、東京から電報が届いた。東京放送局演芸部の濁活山うどやま萬司まんじから、仕事の依頼だった。

何か月ぶりかで上京し、放送局へ行くと、正面玄関に米兵のМP(米国陸軍憲兵隊)が立っていた。これまでは自由に出入りしていたのに、威圧感を感じて、古関は敗戦の悲哀を感じた。

思い切って放送会館の中に入ると、GHQに占領されてしまって、中はだいぶ変わっていた。

【1階】CIE/アメリカ文化センター、外国放送諜報局(FBIS)
【2階】渉外局、英米通信社等
【3階】JOAK東京放送局
【4階】民間情報教育局(CIE)
【5階】JOAK東京放送局
【6階】民間検閲局(CCD)

東京放送局が自由に使えるのは、3階と5階のみという有様だった。

古関は濁活山と会い、お互いの無事を喜び合った。
「菊田氏も岩手県の岩谷堂という疎開地から帰京している。ついては、戦後のラジオドラマの第一発としてやりたい。菊田氏とは打ち合わせ済みなので、近々台本の一部が出来上がって来るだろう」と濁活山が言った。
連続放送劇『山から来た男』が、古関と菊田一夫の戦後第一作ということになった。
田舎に疎開していた男が、山から帰って来て会社を再建するという物語だった。

『山から来た男』は、十月から年内いっぱい、2週に1回の連続放送ということに決まり、台本ができ次第、飯坂まで郵送してもらい、放送当日は古関が上京することになった。
当時は、乗車券を購入するのにも制限があったが、古関はCIEの証明書と放送局の出演証明があったので、問題なく飯坂と東京の往復をすることができた。

作曲ができあがるたびに古関が上京するので、
「ほんとに『山から来た男』ですね」とからかわれた。

内幸町の放送会館では、GHQが使っていた階のトイレのガラス扉に、「日本人は使用をご遠慮下さい」と、赤ペンキで書かれてあった。つまり、日本人オフ・リミットである。
華族出身の職員古川が、「よし、では僕が…」と強行突破を試みたことがあったが、あえなくMPに阻まれてしまった。

放送局員の中には、家族が疎開していたり、家を空襲で焼かれたために、毛布を持って放送局に寝泊まりしている者や、闇で買って来た食料を電気コンロで煮炊きしている者もいた。
放送局には食堂もあったのだが、食料不足のために閉鎖されていた。
アメリカ軍は魚を焼く臭いが嫌いだったところに、ある日クサヤの干物を安売りしていたので大量に買い込んで来て、煙をもうもうと立てて焼いていたら、「魚焼くべからず」という禁令が出されてしまった。

昭和20年11月、古関一家は飯坂から世田谷代田の自宅に戻って来た。

菊田一夫の終戦前後

昭和20年、連日連夜の空襲でもはや芝居どころではなくなった東京で、菊田一夫は「日本演芸協会」の常務理事として、銀座七丁目にある協会に毎日のように顔を出していた。
「日本演芸協会」は当時、内閣情報局の外郭団体で、戦争に勝つための協力団体であったが、劇場が閉鎖されて食えなくなった作家や演出家を保護する役割も果たしていた。
情報局から金をとって来て、演芸協会の会員たちに、移動演劇の脚本を書かせて脚本料という形で金をバラまいていた。

そのうち会員たちは、次々に戦災に遭って、毎日のように東京を離れて行った。
協会に顔を出すのは、菊田と会長の久保田万太郎と常務理事の大江良太郎の三人だけになってしまった。

8月8日、菊田は東京新聞の日色恵と出会い、路傍のゴミ箱に腰かけながら、話を聞いた。
「いよいよ降伏だよ」
いま内閣では、誰が降伏使として敵国に飛ぶかで揉めているという。
「いずれ占領軍が進駐してくるだろうが、お前は戦犯として逮捕されるかもしれない」
それは、人から言われるまでもなく、菊田はわかっていた。
日本放送協会対敵放送委員会理事であり、日本演劇協会常任理事であり、数々の情報局委嘱の敵愾心高揚劇の脚本を書いて来た。
しかも開戦直前に、北支派遣軍参謀部からの委嘱で、共産八路軍俘虜を使った宣伝劇も書いたが、これは国際法違反であることを後で知った。
「戦犯は厳重な処罰を受けるらしいからな。身の振り方を考えておけよ」

8月14日、情報局より電話があり、午後3時に、情報局へ出向いた。
「終戦が決定しました。今夜七時のニュースに詔勅が出るはずです。出れば帝都には戒厳令が布かれるので、それまでにあなたは東京から出た方がいい。どこまで戦犯に指定されるか判らないが、いずれにしても家族に会いたいでしょう。七時を過ぎると、東京を出られなくなります」
そう言って担当官は、菊田の家族が疎開している岩手県水沢までの二等乗車券と急行券を菊田に手渡した。
「御無事で」

『里の秋』川田正子 海沼実作曲

『里の秋』は海沼実の作曲で、昭和20年12月24日、『外地引揚げ同胞激励の午後』というラジオ番組の中で、川田正子によって初めて歌われた。
歌詞の内容からもわかる通り、戦地から帰還してくる兵隊たちを迎えるための歌である。
帰って来るのは、もはや皇軍兵士の父ではなく、出征前のやさしい父である。山家やまがに暮らす家族にとって、大事な大事な父である。
だが、すべての兵士がすぐに帰ってきたわけではなかった。
捕虜となってなお苦役に耐えている兵や、戦死広報が届かないまま、異国の土となった者も多かった。

『里の秋』は放送後、聴取者の心をとらえ大反響を呼び、翌昭和21年1月から始まった『復員便り』でも毎回流されて、大ヒットした。

     作詞/斎藤信夫 作曲/海沼実  歌/川田正子

昭和21年(1946年)の発表作品

この年3月4日から、それまでJOAK(東京)とJOBK(大阪)と名乗って来た社団法人日本放送協会では、「NHK」というコールサインを統一して使用することになった。GHQ民間情報教育局(CIE)との協議の結果、将来に民間放送局が開設されることを見越して、決められたものである。

古関裕而は、この年の3月17日に『勤労歌』(藤浦洸/作詞、近江俊郎/歌)を「ラジオ歌謡」という番組で放送したのを皮切りに、年間に全14曲を発表している。すべり出しとしては順調と言っていいだろう。
7月10日、古関夫妻には長男の正裕が誕生した。待望の男の子だったので、このうえない喜びであった。

この年、日本国憲法が発布された。
東京六大学野球やプロ野球が再開され、「NHK素人のど自慢」の放送が開始された。

平川唯一「カムカム英会話」が大流行!(昭和21年2月1日~昭和26年3月)

『証誠寺の狸囃子』の曲に乗って英語のテーマソングが流れる番組、平川唯一の『カムカム英会話』は、当時の国民の英語熱を煽って大人気だった。
ちゃんとした番組タイトルは付いてなかったようだが、歌詞の言葉から、『カムカム英語』とか『カムカム英会話』と呼ばれるようになった。

作り変えられる歌たち

ラジオで放送されるすべての番組が、GHQにより検閲を受けることになった。
それ以前に、多くの番組は、GHQの部局のひとつである民間情報教育局(CIE)によって企画され、それに従って番組が作られていたというのが実態である。

「軍歌」はもちろんのこと、軍国主義的な歌詞のある歌は歌えなくなったため、童謡や唱歌の中に、平和主義的な歌詞に書き変えて新たに吹き込まれる歌が出て来た。
そのいくつかを紹介しておく。

『お山の杉の子』(昭和19年12月)

『お山の杉の子』は、昭和19年10月に、子供たちの士気を高める目的で、内務省の外郭団体・少国民文化協会が募集した「少国民歌懸賞募集」の一等入選作であった。サトウハチローが補作詞をしている。
東京放送局が後援して、昭和19年12月より安西愛子の歌で頻繁に放送された。
ラジオ体操のことを入れてほしいという局側からの要望にこたえて、ハチローは4番に入れ込んで補作した。
当時の少国民たちが口ずさめる数少ない歌のひとつだった。

戦後、ハチローによって、戦時色を消す改変がなされている。軍国色のある歌はいっさいGHQの検閲を通らなかったので、やむを得なかっただろう。だが、改変後の「平和的」な歌詞に「歯が浮く」感じがするのは否めない。
改変前のものを紹介しておく。

『兵隊さんの汽車』(『汽車ポッポ』)(昭和15年)

『兵隊さんの汽車』は昭和15年、ポリドールからレコードが発売されている。

昭和18年7月12日、日本放送協会主催の「関東児童唱歌コンクール」で、川田正子が『兵隊さんの汽車』を独唱して優勝した。

昭和20年12月31日、戦後最初の「紅白音楽試合」(「紅白歌合戦」の前身)で、川田正子が『兵隊さんの汽車』を歌うことになったが、戦時色の濃い歌詞ではまずいと思った番組担当プロデューサーが、作詞者に平和色の歌詞に改作をお願いして、現在の『汽車ポッポ』になった。

『土人のお祭り』(『森の小人』)昭和16年7月

もともとの原題は『蟻の進軍』といって戦時歌謡として作られたものだったが、当時としては異色のリズム感溢れる作品となったため、作曲した山本雅之がキングレコードの柳井堯夫ディレクターに見せたところ、日本軍が南方で連戦連勝している時期だったため、『蟻の進軍』というタイトルはまずいということで、いったんはお蔵入りになった。

しかし、囃子言葉の調子の良さが気に入っていた柳井は、この曲を活かすため、玉木登美夫(作家金谷完治の童謡作詞家としてのペンネーム)に依頼して、曲に合わせて『土人のお祭り』という作詞をしてもらった。
『土人のお祭り』は、昭和16年7月、秋田喜美子の歌でキングレコードより発売された。しかし、当時はそれほど売れなかったようだ。

戦後になって、柳井の後任ディレクター山田律夫は、この歌には軍国色が見られなかったため、そのまま子供向けにレコード化しようとしたところ、GHQの検閲にひっかかった。「土人」という言葉が差別的だという。
そのままではレコード化の許可が下りないというので、山田ディレクターは「山川清」の変名で改作を行った。作詞者の玉木登美夫は、すでに昭和21年1月5日に死去してしまっていたため、改作を頼めなかったのである。

昭和22年12月、『森の小人』としてよみがえった歌が発表されると、今度はヒットした。
歌詞の基本的な発想と骨格は玉木登美夫が作ったものだが、山川清のコケティッシュでファンタジー感あふれる歌詞は、原作とはまた違った面白さが出ているように思う。
明るくリズミカルな曲調とともに、戦後に彩を添える作品となった。

     『土人のお祭り』[動画]

     作詞/玉木登美夫 作曲/山本雅之

歌詞に出て来る「パラオ島」は、第一次世界大戦終結以降、日本が委任統治していた南太平洋の島である。

『われは海の子』

『われは海の子』は、歌詞は変えられてはいないが、3番以降が歌われなくなった。
この手の制約を受けたものに、『蛍の光』などがある。

   「蛍の光」~遅ればせながら、祝・卒業!

     『われは海の子』[動画]

     作詞/宮原晃一郎 文部省唱歌

子供の歌の場合、教育的配慮が必要だとは思うが、それとは別に、歌謡史を跡付けるための「歴史的記録」もなされる必要があるだろう。そちらの方は、どうも忘れられているように思う。

『軍艦マーチ』の復活

「軍歌」が歌詞を変えられて、戦後も歌われたという例もある。
だがそれは、GHQの検閲とは関係なく、戦時中の「兵隊節」と同じように、自然発生的に「替え歌」された場合が多い。
つまり放送やレコード発表は、GHQの検閲があるので最初から問題外だったが、個人や仲間内で口ずさむために「替え歌」されたわけだ。

『可愛いスーチャン』→『練鑑ブルース』
『巡航節』→『山男の歌』
『軍隊小唄』→『新米哀歌』ほか
等々

「商業的」な理由で、改作詞されてレコード化されたものもあるが、これは占領終結後のことだ。
このケースは「軍歌」にとどまらないのだが。

『鯨部隊部隊歌 よさこいと兵隊』→『南国土佐を後にして』
『海軍小唄』→『アキラのズンドコ節』ほか
『ダンチョネ節』→
等々

ミロの「軍歌」入門その2 「海軍小唄(ズンドコ節)」

「軍歌」の場合は、わざわざ詞を改変しなくても、サンフランシスコ講和条約発効後は、そのままの形で「なつメロ」としてよみがえっている。

その中でも特異な形でよみがえった軍歌が、『軍艦マーチ』だ。
昭和26年春、有楽町のガード下のパチンコ屋「メトロ」の拡声器から、『軍艦マーチ』が大音量で流された。
米兵とパンパンが、我が物顔に街をいちゃつきながら練り歩いてるのに腹を立てた元海軍軍人の店主が、咄嗟とっさに『軍艦マーチ』砲を浴びせたのだった。
通報を受けた丸の内署の巡査は、店主をMP(米軍憲兵隊)本部に連行したが、「歌詞のない曲なので問題ない」ということで、すぐに釈放された。
この一件があって以来、全国のパチンコ屋が『軍艦マーチ』を流すようになったと言われている。

もう四十年ほども前になるが、仙台の西公園で会社の仲間と花見をやった時、
隣の団体さんが『兵隊さんよありがとう』の替え歌を歌っているのを聞いたことがあった。

 今日も仕事が できるのは
 〇〇課長の おかげです
 会社のために 会社のために戦った
 〇〇課長の おかげです

「ヨイショ・ソング」だな、これは。

『いとしき唄』霧島昇 栗本尊子(昭和21年6月)

いかにもサトウハチローらしいやさしい詩の歌である。
難しい言葉をまったく使わずに、空腹をかかえて日々を生きる庶民を、その命の尊さを、みごとに歌い上げている。

戦後流行歌第一号の『リンゴの歌』の作詞者が、サトウハチローであった。
『リンゴの歌』はすでに、昭和20年の暮れから大ヒットしていた。ラジオをつければ、必ず『リンゴの歌』が流れてくるほどだった。

『リンゴの歌』もまた、誰にもわかる平明な歌詞で、「リンゴのいとしさ」を歌った歌だった。
「赤いリンゴ」に「気立てのよい娘」のイメージをだぶらせて、どこまでも明るい調子で愛しい気持ちを歌い上げた。
それこそが、戦争の時代には禁じられていた、人々が求めてやまない真実であっただろう。

   国破れて、「青い山脈」あり──歌謡曲史からひもとく戦後

     作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而  歌/霧島昇 栗本尊子

『立ち上り音頭』霧島昇、松原操(昭和21年7月)

戦後最初の、西條八十と古関裕而のタッグ曲であり、敗戦国・日本への《復興応援ソング》である。敗戦から一年が経過しているが、八十の方がまだ本調子でないようだ。

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/霧島昇、松原操

『歌謡ひろしま』(昭和21年8月9日)

『歌謡ひろしま』は、広島に原爆が投下されて一年を過ぎた頃、中国新聞社が募集した入選作に、古関が依頼されて作曲したものだった。

声も高らかに 
     歌謡「ひろしま」


本社募集の”歌謡ひろしま”は五百に余る応募作品より厳選、さる三日その入選作を発表し作曲を斯界しかいの権威、ビクター専属の古関裕而氏に依頼中であったが、このほどようやく完成。同氏鏤骨るこつの苦心の作になる快心のメロデーはやがて復興の意欲にもえる市民、男にも女にも、大人にも子供にも職場や家庭でうれしく愛唱されるものと期待される。なお本社では近く発表会を開き市民の間に広く公開する予定。

古関氏談 この歌詞は品があり、しかもむずかしくなく、本当に誰にもうたえる立派なものであり、その点作曲にも苦心して何処でも誰にでもうたえるようにしたつもりで、これがやがて広島市民の口になめらかに浮んで来る日を待っている。その日こそ広島の平和復興の日であろう。(『中国新聞』1946年8月9日)

「ビクター専属の」と書かれているのは、コロムビア専属の間違いだが、「斯界の権威」とあるのは、古関が戦時中、国民の士気を奮い立たせる歌を書いて来たことに対する評価以外の何物でもないだろう。
平和時にあっても、「士気を高める」ことは、時として必要であるに違いない。

     作詞/山本紀代子 作曲/古関裕而

『歌謡ひろしま』
作詞/山本紀代子 作曲/古関裕而

1.誰がつけたかあの日から
  原子沙漠さばくのまちの名も
  いまは涙の語り草
  むかしよもぎのひめばなし
  いくさ忘れてひめばなし

2.街を興せとわきあがる
  歌にのびゆく並木みち
  増えるいらかの軒あひに
  七つ流れの川も澄む
  平和うつして川も澄む

3.みささ清水にうるほうて
  いきもそろうたまちびとの
  はずむ力の掛ごゑに
  文化築けの鐘が鳴る
  歴史夜明けの鐘が鳴る

4.花の比治山ひじやま春あけて
  いまもかはらぬ江波二葉
  安藝あきの小富士も空晴れて
  出船入船いりふね目に見える
  明日の楽土が目に見える

5.あおうしおのみちよせる
  瀬戸に臨んで名も高き
  水の都の広島が
  建つぞ新たに胸が鳴る
  きょうも希望の胸が鳴る

『1947年への序曲』霧島昇、藤山一郎(昭和21年11月)

古関と八十の《復興応援ソング》第二弾。
関東大震災が起きた時も、『復興節』や『大震災の歌』などの《復興応援ソング》が歌われたが、その時は「GHQの検閲」はなかった。

敗戦の悲惨さを歌う歌があっても良さそうに思うが、それはGHQが許さないだろう。
『1947年への序曲』は、変に希望ばかり歌いあげてるように見え、どれほどの大衆が共感しただろうか。
何しろ、この頃は、人々は食糧不足にあえいでおり、毎日何人かの餓死者が出ていた時代である。
戦略的迷走というべきか、逆説的な意味で、歌の存在自体に悲惨さを感じる歌である。
やはり西條八十は、まだ感覚が狂っている。
昭和21年の冬空に、『1947年への序曲』は、虚しく消えて行った。

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/霧島昇、藤山一郎

昭和22年(1947年)[占領2年目]の発表作品

この年、日本国憲法施行。
第一回参議院選挙。
浅間山爆発。
キャスリン台風襲来。
古橋広之進が、四百メートル自由形競泳で、世界新記録を達成した。だが、敗戦国日本は、世界水泳連盟から除名されていたため、公式記録として認められなかった。
外人選手のように「ビフテキ」を腹いっぱい食べていたら、もっと凄い記録を出しただろうと言われた。

映画『地獄の顔』

『雨のオランダ坂』渡辺はま子(昭和22年1月)

『雨のオランダ坂』は、映画『地獄の顔』(松竹、大曽根辰夫監督)の主題歌で、この映画にはほかに『夜更けの街』(古関裕而作曲)『夜霧のブルース』(大久保徳二郎作曲)『長崎エレジー』(大久保徳二郎作曲)と全部で四つ主題歌があり、そのすべてがヒットした珍しい映画だ。
映画『地獄の顔』の原作は、菊田一夫の戯曲『長崎』である。

この時代には、少しやさぐれた歌か、でなければ、突き抜けた明るさの歌が似合う。
無論、『雨のオランダ坂』は、前者だろう。

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/渡辺はま子

『夜更けの街』伊藤久男(昭和22年1月)【映画主題歌】

映画『地獄の顔』の主題歌の一つ。
歌手・伊藤久男の、戦後最初のヒット曲だ。
伊藤は昭和21年10月に『岬の雨』(野村俊夫作詞、古関裕而作曲)を出しているが、これは売れなかったようだ。
伊藤は、福島の故郷に疎開して、そこで敗戦を迎え、軍歌で売った自分の過去を苦悩し、酒浸りになっていた。
酒と言っても、この頃はまともな清酒や洋酒は手に入らなかったため、メチル・アルコールなどの工業用のものを水で薄めて飲んでいる人が多かった。希釈割合を間違えて、死ぬ者も後を絶たなかった。福島では、まともな酒が手に入っただろうか?
ヒロポン(当時の合法的覚醒剤)に手を出さなかっただけ、マシだったともいえる。
菊田一夫やサトウハチロー、歌手の霧島昇などは、立派なポン中(ヒロポン中毒)だった。

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男

『三日月娘』藤山一郎(昭和22年2月)

『三日月娘』は、昭和21年7月、NHK「ラジオ歌謡」で最初に放送された。この時は、松田トシが歌った。

7月25日、藤山一郎がシンガポールのレンパン・ガラン島での捕虜生活を終えて、広島・大竹港に帰って来た。
焼けただれた平原と化した広島市に戦慄しながら、何時着くとも知れない汽車に乗って、東京を目指した。
戦地慰問のために祖国を離れてから、三年がたっていた。

昭和21年8月18日、藤山一郎は『三日月娘』をNHK「ラジオ歌謡」で歌った。
11月にレコード録音をし、翌昭和22年2月に発売された。
「恋は一目で 火花を散らし」という、戦時中には考えられないような情熱的な歌詞に、藤山は戸惑いを感じながらも、世の中の変遷をしみじみと感じていた。

     作詞/藪田義雄 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

NHK『音楽五人男』(昭和22年3月)

昭和22年3月、NHKラジオで長谷川幸延原作『音楽五人男』というミュージカルドラマが製作された。
主題歌として『白鳥の歌』を古関は作曲した。
若山牧水の短歌に曲を付けたもので、こういう短詩に曲を付けることは川俣銀行時代からやっていたので、古関の得意とするところだった。
『白鳥の歌』は出来栄えもよく、あまたある自作曲の中でも、古関の最も気に入るものとなった。

『音楽五人男』は人気番組となり、東宝で映画化されることになった。
古関は映画のために、新たに主題歌として『夢淡き東京』を作曲した。『白鳥の歌』は映画でも挿入歌として使われ、『バラ咲く小径』という挿入歌も作曲している。

『白鳥の歌』(昭和22年5月)【ラジオ主題歌・映画挿入歌】

     作詞/若山牧水 作曲/古関裕而

『白鳥の歌』
作詞/若山牧水 作曲/古関裕而

1.白鳥しらとりは かなしからずや
  空の青 海の青にも
  染まずただよふ

2.いざゆかむ 行きてまだ見ぬ
  山を見む このさびしさに
  君は耐ふるや

3.幾山河いくやまかわ 越えさりゆかば
  さびしさの はてなむ国ぞ
  けふも旅ゆく

『夢淡き東京』藤山一郎(昭和22年5月)【映画主題歌】

東京に住む人々の「夢」は、まだ「淡き夢」にとどまっている。

     作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

『バラ咲く小径』(昭和22年5月)【映画挿入歌】

映画『音楽五人男』の挿入歌。

『ちよいといけます』(昭和22年9月上旬)【映画主題歌】

『ちよいといけます』は、東宝映画『新馬鹿時代』(前編昭和22年10月12日、後編10月26日封切)の主題歌である。
『新馬鹿時代』は、エノケン・ロッパが初共演した作品であり、主題歌も二人が歌っている。
挿入歌『いとしき泣きぼくろ』も古関が作曲している。

     作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而 歌/榎本健一、古川ロッパ

NHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(昭和22年)

東京は建物の65%が空襲で破壊され、瓦礫の街と化していた。
上野駅は焼け残ったため、屋根のある地下道を頼って、夜になると大勢の浮浪者や浮浪児が集まるようになっていた。
浮浪児の多くは、空襲や戦地で親や家族を亡くした戦災孤児で、路上生活をする家なき子たちだった。

GHQは、特に「浮浪児」の存在を占領政策上ゆゆしき問題と見て、専門家による助言が必要と考え、アメリカで当時世界的に有名だった社会事業家のフラナガン神父を日本に招聘しょうへいした。

   『鐘の鳴る丘』とフラナガン神父

このフラナガン神父の来日をきっかけに、GHQ/CIE(民間情報教育局)は「浮浪児救済」をテーマとするラジオドラマを企画した。

菊田一夫

ある日、菊田一夫は、民間情報教育局のスクリプト係、H・ハギンスに、彼のデスクまで呼び出しを受けた。
このハギンスという男は藤山一郎も検閲で会っていて、たいへんな日本通で、流暢りゅうちょうな江戸弁を使い、
「おい、おめえさんよ、これのどこが民主的なんでえ、いいかい民主的ってのはなあ……」
といった調子でクレームをつけてきたという。
ハギンスは菊田に、題名はまだ決まっていないが浮浪児救済物のドラマを、毎週土・日の二日間、十五分間一話の連続放送劇で半年間やりたいといった。
菊田は断った。
十五分間に劇としての山を盛り込むのは、菊田の実体験から考えても、日本語のテンポでは無理だと思った。
占領直後のCIEは、放送時間にまで口を出すことはなかったが、昭和22年の7月から、NHKの全番組が、一時間を四つに割った十五分の枠に縛られるようになった。どうやら、民放ラジオの開局を前提に、アメリカでの商業放送の時間枠である十五分を、導入実験する腹だったらしい。
結局、菊田は引き受けた。ハギンスの強硬な要請に折れた形であった。
『鐘の鳴る丘』と『風の口笛』の二つのタイトルを考えて提出したが、『鐘の鳴る丘』の方がパスした。

『鐘の鳴る丘』の音楽とテーマソングは、古関に依頼が来た。
古関と菊田は、『山から来た男』でコンビを組みヒットを飛ばして以来、『夜光る顔』『駒鳥夫人』と一緒にラジオドラマを作り続けて来たので、当然の成り行きだったと言えるだろう。
演出の濁活山うどやま萬司まんじが、予算が少ないので音楽は小編成で行きたいと言ったが、小編成ではうまく雰囲気の表現ができないと、古関は反対した。
そんな時に、古関は進駐軍放送で聞いたハモンド・オルガンの音色を思い出した。あれなら音色が豊富で多種多彩な表現ができる。
濁活山も賛成して、音楽は作曲指揮の古関裕而、小暮正雄のハモンド・オルガン、三上秀俊の打楽器、吉田貢の効果、能勢妙子の独唱と音羽ゆりかご会の合唱で行くことになった。

音羽ゆりかご会

第一回の放送は7月5日で、午後5時15分から5時30分まで、チューブラー・ベルの鐘の音とともに始まった。
この時代の放送は、録音技術が未発達だったため、ほとんどが生放送だった。
菊田は毎回、四百字の原稿用紙二十枚前後の脚本を書き、そのまま放送すると二十分以上の長さになるため、子供たちの演技や音楽、サウンド・エフェクトを実際に聞いたうえで、そこから無駄な部分を削って行って、最終的に十四分三十秒に収めるという作業を繰り返した。
放送時間が1秒はみ出ても、1秒足りなくても、ディレクターを馘首かくしゅするという強硬な指令がCIEから出ていた。
それでも菊田は、この仕事を辞めたくないと思うようになっていた。
浮浪児たちの境遇を理解できるのは、幼いころ両親に捨てられ、人身売買されるという不幸な生い立ちをした自分以外にないと思っていたためだ。

『とんがり帽子』川田正子・音羽ゆりかご会【『鐘の鳴る丘』主題歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/川田正子・音羽ゆりかご会

『鐘の鳴る丘』は、主題歌『とんがり帽子』とともに、次第に爆発的な人気を博すようになり、約束通り半年間持ちこたえて終わりが見えてきたころ、菊田はまたもハギンスから呼び出しを受けた。
『鐘の鳴る丘』を、毎週五日間に放送回数を増やし、あと数年もしくは無限に継続しろという。ハギンスは、当たっている人気番組を終わらせたくなかったのだ。
菊田は断った。
だが、結局引き受けた。
「君はポツダム宣言を知っているか?」とハギンスに言われたためである。
ポツダム宣言は、すべての日本人に占領政策に協力することを義務付けており、もしも違反した場合は、軍事裁判にかけられるのである。

菊田の脚本の上りがだんだん遅くなり、作曲する古関にも影響が出始めた。
そのための対策として、ハモンド・オルガンを古関が自ら弾くことにした。放送にぎりぎり間に合わせるということが増えて来た。
菊田は『とんがり帽子』がヒットしたことから、作詞の依頼も来るようになっていた。
『鐘の鳴る丘』の脚本書きで忙しい中、『雨のオランダ坂』『フランチェスカの鐘』『イヨマンテの夜』等々が、古関の作曲で作られてゆくようになる。

一日に三粒ずつと決めていたヒロポンの量が増えていき、錠剤では効かなくなって、菊田は自分でヒロポンの注射をうつようになった。

昭和23年4月頃になると、ドラマの「ぶっ殺してやる」とか 「ばかやろう」とかの言葉遣いが全国の親たちから問題視されて、菊田は非難攻撃を受けるようになった。
最初はCIEも菊田の味方をしてくれていたが、秋頃からGHQの占領方針が変更になるとともに、ハギンスから聴取者の意見を擁護する発言がされるようになった。

菊田の妻である女優の高杉妙子は、映画の仕事が忙しくなって、家を空けることが多くなっていた。
菊田の疲れた心を癒してくれる相手は、いつか『鐘の鳴る丘』で毎日顔を合わせている能勢妙子になっていった。だが能勢には夫があった。
二人の仲は局内でも噂されるようになり、スキャンダル報道された場合の子供たちへの影響を恐れた菊田は、何度も局側に執筆中止を申し出たが、そのたびにハギンスによって退けられた。

昭和24年6月、菊田と高杉妙子の離婚が成立した。二人の子供は、親権は菊田が持っていたが、高杉が連れて去った。
翌25年12月29日に、三年六か月続いた『鐘の鳴る丘』は、七九〇回を数えて終了した。
26年11月、菊田は協議離婚が成立した能勢妙子と結婚した。

昭和23年(1948年)[占領3年目]の発表作品

この年、東京裁判の判決が出て、東条英機らが絞首刑に決まった。
歌謡界では美空ひばりがデビューした。

全国高等学校野球大会の歌『栄冠は君に輝く』伊藤久男(昭和24年7月1日)

昭和23年4月、「学制改革」によって、旧制中学は新制高等学校に、旧制高校は新制大学として発足した。
そのために、全国中等学校野球大会は全国高等学校野球大会に変わり、主催者の朝日新聞社は、新しい大会歌の歌詞を全国から募集することになった。
古関は朝日新聞社から委嘱を受け、大会歌の作曲をすることになり、さっそく打ち合わせと実地見学のため、大阪に向かった。

急行列車に乗ったものの急行とは名ばかりで、八・九時間もかかってようやく大阪に着いた。
戦後初めて訪れた大阪は、市街地の所々に戦災のあとが残っており、古関は瓦礫の街を通って、中の島の大阪朝日へ行った。

ちょうど藤井寺球場で高校野球の予選が行われているというので、古関は打ち合わせ後、それを見に行った。
そこから甲子園球場に回り、グランドのマウンドに立って周囲を見回しながら、この場所で繰り広げられることになる熱戦を思い描いているうちに、大会歌のメロディが湧いてきて、自然に形を整えて来た。

こうして出来上がった全国高等学校野球大会歌『栄冠は君に輝く』は、その年の八月の大会からさっそく使われた。

     作詞/加賀大介 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男

だが、『栄冠は君に輝く』のレコード化は、すぐには進まなかった。
大阪朝日では熱烈にレコード化を希望していたので、コロムビアの担当者が朝日新聞東京本社へ交渉に行ったが、
「この歌は大阪朝日が制作したもので、東京朝日は後援できません」とそっけなかった。
結局、コロムビア大阪支店の必死の営業によって、昭和24年7月1日、臨時発売にこぎつけたが、セールス的には大きな赤字で終わった。

『フランチェスカの鐘』二葉あき子(昭和23年6月20日)

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/二葉あき子 台詞/高杉妙子

映画『風の子』(昭和23年11月)

映画『風の子』(昭和23年2月22日封切)は、映画芸術協会の第一回作品。監督は『新馬鹿時代』の山本嘉次郎であった。

『風の子』(昭和23年11月)【映画主題歌】

東宝映画『風の子』の主題歌。

     作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而 歌/川田孝子、土屋忠一

『雨の日も風の日も』(昭和23年11月)【映画挿入歌】

映画『風の子』の挿入歌。

     作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而 歌/川田孝子、松永園子、土屋忠一

帰らざる捕虜たちの歌

『異国の丘』竹山逸郎、中村耕造 吉田 正作曲(昭和23年9月)

昭和23年8月1日、NHKラジオ『素人のど自慢』に出場した中村耕造という男が、
み人知らず『俘虜ふりょの歌える』」と曲名を述べると、誰も知らない歌を歌い始めた。

 今日も暮れゆく 異国の丘に
 友よ辛かろ 切なかろ
 我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
 ………………

誰も知らない歌だったため、伴奏のアコーディオンもついていけず、鳴った鐘は一つだけだった。

アナウンサーが、
「どういう歌ですか?」と聞くと、
「シベリアに抑留されている日本人が、苦難の日々を耐えて、生き抜くために作った歌です」と答えた。

作詞家の佐伯孝夫が自宅でこの放送を聞いていて、急いでビクターに向かうと、そこにいた磯部武雄に訳を話して一緒にNHKに駆け付けた。
中村耕三を見つけて、
「さっきの歌をレコード化させてほしい」と申し入れ、中村とビクターは契約することになった。
それから三分後、コロムビアが駆けつけてきたが、後の祭りだった。

     『異国の丘』

     作詞/増田幸治、補作詞/佐伯孝夫 作曲/吉田 正 歌/竹山逸郎、中村耕造

翌週、また『素人のど自慢』でこの歌を歌うものが現われた。
いったいどんな歌なんだと俄然注目を集め、NHKはラジオを通じて作曲者探しを始めることになった。
だがその直後から「私が作曲した」という者が次々に名乗りを上げたため、混乱を極める結果となった。

昭和20年8月8日、ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、ソ満国境より侵攻した。
吉田よしだただし陸軍上等兵は、機関銃分隊長としてソ満国境にいた。
戦車群と共に怒涛の如く押し寄せるソ連軍になすすべもなく、日本軍国境守備隊は踏みにじられ、吉田正は砲弾の破片を浴びて記憶を失い、ソ連軍の捕虜となった。

吉田はシベリア送りとなり、三年間の強制労働ののち、昭和23年2月、ナホトカ港から舞鶴港へと復員した。
故郷の日立に戻ってみると、実家は艦砲射撃で破壊され、六人の家族は全員生き埋めとなって死んでいた。
しばらくして吉田は、入隊前に勤めていた会社に復帰することになり、そこでNHKが自分が作曲した歌の作曲者探しをしていることを知った。

中村耕三がNHKラジオ『素人のど自慢』で歌った曲は、昭和18年、吉田正が満洲で病気療養中に部隊の士気高揚のために作曲した『大興安嶺だいこうあんれい突破演習の歌』が原曲だった。
戦後、シベリア抑留中の増田幸治は、この曲に望郷の念を込めた歌詞を付け、『昨日も今日も』と題名を付けた。
『昨日も今日も』は、シベリア抑留者のあいだで、広く歌われるようになっていた。

吉田正が作曲者としてNHKに名乗り出たことによって、正式に作曲者が確定し、昭和23年9月、佐伯孝夫が補作詞をして、竹山逸郎と中村耕造の歌で、『異国の丘』がビクターから発売された。

吉田 正

このことがきっかけとなって吉田正は、ビクター専属の作曲家となって、戦後の人生を出発した。

その後は『有楽町で逢いましょう』『誰よりも君を愛す』『潮来笠』『いつでも夢を』『美しい十代』『おまえに』『傷だらけの人生』といったヒット曲を連発し、戦後の大作曲家となって行く。

『シベリア・エレジー 』伊藤久男 古賀政男作曲(昭和23年)

野村俊夫作詞のシベリア抑留者の歌である。
野村俊夫は、戦時中、軍国主義の世論に同調し、盛んに戦意高揚の作詞を続けたことを反省し、その罪滅ぼしのつもりでこの歌を作詞したということである。
野村は『ハバロフスク小唄』の補作詞などもしている。

     作詞/野村俊夫 作曲/古賀政男 歌/伊藤久男

『シベリア・エレジー 』
作詞/野村俊夫 作曲/古賀政男 歌/伊藤久男

1.赤い夕陽が 野末に燃える
  ここはシベリア 北の国
  雁が飛ぶ飛ぶ 日本の空へ
  俺もなりたや あの鳥に

2.月も寒そな 白樺かげで
  誰が歌うか 故国くにの歌
  男泣きする 抑留暮らし
  いつの何時いつまで 続くやら

3.春の花さえ しぼまぬうちに
  風が変れば 冬が来る
  ペチカ恋しい 吹雪の夜は
  寝ても結べぬ 母の夢

4.啼いてくれるな シベリア鴉
  雲を見てさえ 泣けるのに
  せめて一言 故郷の妻へ
  音便たよりたのむぞ 渡り鳥

『ハバロフスク小唄』近江俊郎、中村耕造(昭和24年4月)【兵隊節】

シベリアの中心都市ハバロフスクには、たくさんの強制収容所があり、多数の日本人将兵や民間人が収容され、強制労働させられていた。米山正雄もその一人であった。
米山は抑留者たちが歌っていた歌を、帰国後、記憶を頼って書き起こし、野村俊夫に作詞に手を入れてもらって『ハバロフスク小唄』が完成した。

近江俊郎の歌でレコードを発売後、この歌は『東京パレード』(林伊佐緒歌、中川啓児作詞、島田逸平作曲、昭和15年)の替え歌だったことがわかった。つまり、「兵隊節」の一つだったわけだ。

     採詞/米山正雄 補作詞/野村俊夫 作曲/島田逸平 歌/近江俊郎、中村耕造

『ハバロフスク小唄』
採詞/米山正雄 補作詞/野村俊夫 作曲/島田逸平 歌/近江俊郎、中村耕造

1.ハバロフスク ラララ ハバロフスク
  ラララ ハバロフスク
  河の流れは ウスリー江
  あの山もこの谷も 故郷ふるさと
  想い出させる その姿

2.母の顔 ラララ 母の顔
  ラララ 母の顔
  浮かぶ夜空に 星が出る
  ただひとつ呼んでいる あの星は
  遠い我が家の 窓あかり

3.元気でね ラララ 元気でね
  ラララ 元気でね
  やがて帰れる その日まで
  今宵また逢いに行く 夢で行く
  可愛いあのの 枕元

4.汽車が行く ラララ 汽車が行く
  ラララ  汽車が行く
  遠い港の ウラジオヘ
  あの波もこの波も 日本海
  渡る歓喜に 湧く涙

昭和24年(1949年)[占領4年目]の発表作品

この年、中華人民共和国、成立。
湯川秀樹がノーベル賞を受賞した。
下山事件、三鷹事件、松川事件が起こる。

『スポーツショー行進曲』(昭和24年4月)【NHKスポーツ放送テーマ曲】

『スポーツショー行進曲』は、NHKラジオのスポーツ番組テーマ曲として作曲されたが、テレビ時代になっても、現在に至るまで使用され続けている。
その後、後発の民放ラジオや民放テレビでも、独自のスポーツ番組テーマ曲を作るようになる。
その先鞭をつけたのが、古関作曲の『スポーツショー行進曲』であった。

『コバルトの空』レイモンド服部/作曲(昭和26年)【TBSテレビスポーツ番組テーマ曲】

新しく昭和26年(1951年)に開局した民放ラジオ、「ラジオ東京」のスポーツ番組のテーマ曲である。
「ラジオ東京」は後に「TBSラジオ」となり、同系列の「TBSテレビ」が開局されると、レイモンド服部作曲の『コバルトの空』はスポーツ番組テーマ曲として使われ続けた。

『スポーツ行進曲』黛敏郎/作曲 (昭和28年)【日本テレビスポーツ番組テーマ】

昭和28年(1953年)、日本最初の民間テレビ局として「日本テレビ」が開局した。
街頭テレビで、力道山が活躍するプロレスが人気を博したが、「日本テレビ」のスポーツ番組のテーマ曲が、黛敏郎作曲の『スポーツ行進曲』だった。
このテーマ曲ともに、数々のスポーツ名場面が 観客の胸に刻み込まれた。

『長崎の鐘』藤山一郎(昭和24年7月1日)

永井隆博士

『長崎の鐘』は、当時ベストセラーになっていた長崎医科大の永井隆博士の著書、『長崎の鐘』『この子を残して』『ロザリオの鎖』などをモチーフにしてレコード化されたものである。

レコード化に当たっては、永井博士と親交のあった式場隆三郎の強い要請があったことが、古関の『自伝』で語られている。
式場隆三郎博士は、新潟県出身の精神科医であり、『炎の画家ゴッホ』『山下清放浪日記』『二笑亭綺譚』などの著書がある異色の人物である。永井博士の著書『長崎の鐘』にも、一文を寄せている。

永井博士の著書『長崎の鐘』は、長崎に原子爆弾が投下された時、長崎医科大の診療室にて自らも被爆し、ガラスの破片で右半身を切り刻まれながらも、包帯をまいただけの応急手当のまま、生き残った医大関係者で救護隊を編成し、浦上地区で被爆市民の救助に当たった、被爆直前から終戦までを描いた記録文学となっている。
放射線科医であった永井博士が、原爆の業火がくすぶる中で、原爆の破壊原理を仲間と論じる場面や、原爆症状についての詳細な説明は、こういう人物を人類史上かつてなかった状況の中に置いた天の配材に、感嘆するほかない。

著書『長崎の鐘』は、昭和21年(1946年)8月にはすでに書き上げられていたが、GHQの検閲に引っかかり、発行は差し止めになり、原稿はアメリカ国防総省に送られた。
昭和24年1月、日本軍が行ったマニラ虐殺のドキュメント『マニラの悲劇』と抱き合わせを条件に発行が許可されると、空前の大ベストセラーとなったのであった。
『長崎の鐘』を『マニラの悲劇』と抱き合わせにしたということは、長崎への原爆投下がアメリカによる「長崎大虐殺」であることを暗に認めてしまっていることになり、「語るに落ちる」とはまさにこのことであろう。

永井博士は妻の骨を、自宅の焼け跡からバケツに拾った。妻は、台所で死んでいた。

浦上天主堂

浦上うらかみには浦上天主堂があり、周辺にはカトリック信者一万人が暮らしていたが、浦上天主堂はわずかな壁を残しただけで廃墟となった。
天主堂のアンジェラスの鐘が瓦礫の中に埋もれているのを探し出し、青年たちが掘り出してみると、五十メートルの高さの鐘楼から落ちたにもかかわらず、鐘は少しも割れていなかった。
昭和20年のクリスマスの夕べに、鐘は三本丸太を組んで造った急造りの鐘楼に吊るされ、浦上原子野げんしやの住民たちは、「願わくばこの浦上をして、世界最後の原子野たらしめたまえ」と、響き渡る鐘の音とともに祈りを捧げた。

     作詞/サトウハチロー 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

浦上天主堂

『流れる星は生きている』(昭和24年8月18日)【映画主題歌】

     作詞/藤原貞 作曲/古関裕而  歌/池真理子

昭和25年(1950年)[占領5年目]の発表作品

朝鮮戦争が始まり、世の中は特需景気に沸いていた。
レッドパージが始まった。
ヴェニス映画祭で『羅生門』がグランプリを受賞した。

NHKラジオ『今週の明星』のテーマ(昭和25年~昭和39年)

     作詞/藤浦 洸 作曲/古関裕而 歌/コロムビア合唱団

『イヨマンテの夜』伊藤久男(昭和25年1月20日)

イヨマンテ

『イヨマンテの夜』は、ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の中で、主人公の修平が少年の家の分院を奥多摩に作った頃の話で、奥多摩の山奥で木を切っている杣人そまびとが、歌詞のない歌を口ずさみながら通るという場面のために、伊藤久男が歌った曲が元になっている。
・・・ということを、古関は『自伝』に書いている。

しかし、伊藤久男は、昭和57年日本レコード大賞の授賞式の席上で、次のように言っている。
「『鐘の鳴る丘』の北海道編で、古関さんが即興的にハモンドオルガンで流したんですよ。ちょうどたまたま私ラジオをきいておりまして、この曲はいけるというんで、すぐに譜に採りまして、それで二三日して古関さんに見せたところが、二三日前に自分で即興で流した曲忘れてんのよ。いい曲だね、これ誰の曲ってなもんで、まったく作曲家なんてあんがい無責任なもんですわ」
・・・それは、私も実感している。笑

      作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、コロムビア合唱団

伊藤久男が採譜した古関の曲に、菊田一夫がアイヌをモチーフにした詞を付けた。
前奏抜きで、いきなりアリア風に始まるという、当時としてはかなり型破りな歌ができた。
これを聞いたコロムビア文芸部長の伊藤正憲は、「こんな難しい歌は売れっこありませんよ」といって、ポスター一枚作ってはくれなかった。

伊藤久男は、ラジオで、またステージで、機会あるごとに『イヨマンテの夜』を歌い続けた。
この歌に感銘を受ける人が増えていき、やがてNHK素人のど自慢で、この歌を歌う男性が出て来た。
昭和二十五、六年頃になると、「のど自慢日本一全国大会」に出場した男性のほとんどが、「アーホイヤー」と歌うようになっていた。
聞き手側のレベルも、確実にアップしていたのである。

昭和57年(1982年)日本レコード大賞

『佐々木小次郎旅姿』(昭和25年12月10日)【映画主題歌】

村上元三原作の新聞小説『佐々木小次郎』が映画化された『佐々木小次郎』(東宝、稲垣浩監督、昭和25年12月19日封切)の主題歌である。

ビデオ等が出てないので確認できていないが、本作品が作られた頃は、GHQのいわゆる「チャンバラ禁止令」によって、決闘や復讐といったテーマの時代劇は作ることができなかったので、小次郎と武蔵の巌流島の決闘がどう描かれているか、気になるところだ。

日本人がアメリカに復讐しようとする気を起こさせないために、GHQはチャンバラ映画を禁止した。
四十七士が主君の遺恨いこんを晴らす『忠臣蔵』などは、もってのほかであった。

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男、奈良光枝

昭和26年9月8日、「サンフランシスコ講和条約」が調印され、昭和27年4月28日に発効することとなった。マッカーサーが離日した。
長かった占領が終わり、いよいよ日本の「再独立」の時が来たのである。
この年、第一回「NHK紅白歌合戦」が放送された。
また、日本最初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』が封切られている。

『東京の雨』(昭和26年1月15日)

     作詞/丘十四夫 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

『長崎の雨』藤山一郎(昭和26年6月10日)

     作詞/丘灯至夫 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

『別れのワルツ』ユージン・コスマン楽団(昭和26年)

原曲は『オールド・ラング・サイン』(『蛍の光』)だが、映画『哀愁』で、ワルツに編曲されたメロディが流れ、名シーンとなった。

映画『哀愁』は昭和24年3月、焼け跡の映画館で上映された。
映画で使用された曲の原版は存在しなかったため、コロムビアでレコード化される際に、古関が映画から採譜して演奏したものが吹き込まれ、『別れのワルツ』として発売された。
その後この曲は、いろいろな商業店舗の閉店の曲として、現在に至るまで広く使用されている。
ちなみに「ユージン・コスマン楽団」というのは、ユージ・コセキをもじって付けたネーミングである。
服部良一なども、戦時中『夜のプラットホーム』が発売中止処分を食った際、惜しい曲なのでコロムビアの洋楽部から英語のタイトルと歌詞を付けて発売したことがあったが、その時の作曲者名は「R・ハッタ―」であった。リョウイチ・ハットリのもじりであることは、言うまでもない。

『さくらんぼ大将』(昭和26年8月)

『さくらんぼ大将』(昭和26年8月)

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而 歌/川田孝子、音羽ゆりかご会

《乗り物シリーズ》の始まり(昭和26年)

『憧れの郵便馬車』岡本敦郎(昭和26年12月10日)

     作詞/丘灯至夫 作曲/古関裕而  歌/岡本敦郎

昭和27年(1952年)、日本再独立!

この年、昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して、占領が終わり、日本国の国家主権が回復した。
終戦以来、日本を支配して来たGHQが廃止され、同時に、日米安保条約が発効した。

メーデー事件が起きた。

ラジオ・ドラマ『君の名は』始まる(昭和27年4月10日)

NHKラジオドラマ『君の名は』は、昭和27年4月10日から始まったが、すぐに人気が出たわけではなかった。

『鐘の鳴る丘』『さくらんぼ大将』と休みなくラジオドラマの執筆を続けた菊田一夫は、青山高樹町(現港区西麻布)に能勢妙子と新居を構え、ひとときの安らぎの日々を送っていた。

GHQ/CIEは、NHKを通じて菊田に、再び新しいラジオドラマを書くことを求めて来た。
菊田は疲労困憊を理由に、執筆はカンベンしてくれと断ったため、NHKの吉川義雄が菊田に代わってCIE企画係のメレデスと交渉したが、メレデスは聞き入れなかった。
メレデスは、帰米したハギンス少佐の後任だった。
人物的には温厚な紳士であったが、
「時間がない。次の作品の題名は?」と、強硬な姿勢は変わらなかった。

吉川は一瞬返答に窮して、(お前の名はメレデスか!)と、むかっ腹が立ち、
「君の名は・・・」と咄嗟とっさに呟いた。
「What your name? いい題名だ、OK!」と、メレデスはすぐに許可した。
吉川はその場を辞去して、菊田に成り行きを伝えた。
「ずいぶん中途半端な題名だな。もうなんでもいいや。」と、菊田はヤケのやんぱちだった。

『鐘の鳴る丘』では浮浪児救済の物語を書いたので、『君の名は』では大人たちの戦争体験を主題にすることを菊田は考えた。
戦争によって運命を狂わされ、心身に傷を負ったまま、戦後の混乱した状況の中に放り出された人々の物語を書こうと思った。

だが、菊田の意図に反して、ドラマは低迷を続けた。
菊田に届くのは、「暗い」「理屈っぽい」「つまらない」という聴取者の声ばかりだった。社会の矛盾とか、再軍備の問題に触れたりすると、決まってその週の聴取者の反応が悪くなった。

半年後、ドラマが後宮あとみや春樹はるき氏家うじいえ真知子まちこの愛の物語に突入すると、聴取率が急激に上昇し始めた。
結局、大衆が求めているのは、春樹と真知子の恋愛物語であった。
終戦から七年目となり、菊田は大衆の戦争に対する意識が、微妙に変わり始めているのを感じた。
もはや大衆は、戦争の傷跡に触れられることなど好まないことを、数々の投書から知った菊田は、割り切れないものを感じながらも、ドラマの方向を恋愛物へと切り替えて行った。
それが、『君の名は』の大ヒットへとつながって行ったのである。


『君の名は』の放送時間は、内容が大人向けのメロドラマということで、毎週木曜日の午後八時から三十分間のゴールデンアワーに決定した。
古関が音楽担当なのを初め、制作スタッフは『鐘の鳴る丘』以来のなじみの顔ばかりだった。

だいたいの内容の構想が決まると、古関や菊田ほかのスタッフで、とりあえず佐渡へ取材旅行に出かけた。
佐渡は、ヒロイン氏家真知子の故郷である。
佐渡と東京の数寄屋橋、それと三重県の鳥羽でのエピソードから始まり、やがて大きな物語へと合流して行く。

古関らは、新潟から佐渡へ渡り、両津港を出発点として、特別に貸し切ったバスで全島を回った。
特に北部にある尖閣湾では、日本海の荒波が砕ける豪快な風光に、菊田の心がだいぶ動かされたようであった。
吊り橋を渡って岩の先端まで行くと、
「この吊橋、なかなかいいね。この上でラブシーンをさせようかな」と、菊田は言った。
のちに物語の前半のクライマックスシーンは、この橋の上での春樹と真知子の再会が描かれることになった。

放送の初期はまだ生放送で、伴奏の編成は、木管、弦、ハープ、打楽器と、古関が『鐘の鳴る丘』以来愛用してきたハモンド・オルガンで、いっそう滑らかな美しさをかもし出した。
放送が始まって五、六回目のこと、テストが終わって本番五分前に、念のため音色を確かめようとオルガンのスイッチを入れたのだが、音が出て来ない。
古関は青くなって、もう一度順序を確認しながらスイッチを入れ直したが、ウンともスンとも言わない。
ミキサー担当の者にも見てもらったが、複雑な機構のため手の付けようがなかった。
古関は急遽、オルガンのメロディを弦に書き直し、放送開始の八時に何とか間に合わせた。
そんな身の縮む思いも味わったりした。

主題歌は、古関と菊田の希望で歌謡曲歌手ではなく、クラシック声楽家の高柳二葉が歌うことになった。
高柳の起用は、古関の妻金子の推薦によるもので、当時高柳は藤原歌劇団に所属しており、東洋音楽学校の教授もやっていた。
高柳のベルカントの美声は、ドラマに品位を与えた。

開始半年が過ぎたころには、春樹と真知子のすれ違いに聴取者はやきもきし、二人の恋の行方にすっかり夢中になった。
一年がたつ頃には、

──忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ。

という、放送劇団の鎌田弥恵によるナレーションが入るようになり、これは最終回まで続いた。

ドラマの人気が沸騰する一方で、批評家やインテリ層の聴取者から、
「すれ違いメロドラマ」「ご都合主義」「観光地紹介ドラマ」などの酷評を浴びたのも、かつてないものだった。
にもかかわらず『君の名は』はラジオ始まって以来の大ヒットとなり、後に映画化されるに及んで、さらにその人気を決定的なものとして行った。

『昼のいこい』のテーマ(昭和27年11月17日)

昭和24年7月、GHQ/CIEの指導によって放送開始された『農家のいこい』が前身で、昭和27年11月17日から『昼のいこい』と番組名を変え、現在まで続いている。このテーマ曲も、番組と同じ年月を歩み続けて来た。

このテーマを聞くと、眼前に豊かな田園風景が広がるのを感じるが、GHQの占領からの解放感とだぶって感じてしまうのは、偶然だろうか?

『あゝモンテンルパの夜は更けて』戦犯たちの叫び(昭和27年)

フィリピン・モンテンルパ市 ニュービリビット刑務所

日本は名実ともに晴れて再独立したが、まだ海外で苦難の日々を送っている元皇軍の兵隊たちがいた。
日本の戦争は、まだ終わってはいなかった。

昭和27年6月、神奈川県鎌倉の渡辺はま子の自宅に、フィリピン・モンテンルパから一通の封書が届いた。
開けてみると、短い手紙と楽譜が入っていた。
楽譜には『モンテンルパの歌』とあり、作詞は代田銀太郎、作曲は伊藤正康と書いてあった。
差出人は加賀尾かがお秀忍しゅうにん、モンテンルパにある東洋一といわれるニュービリビット刑務所(戦犯収容所)で、日本人戦犯に付き添っている教誨師きょうかいしであった。
ぜひ渡辺はま子さんに歌ってほしい、と書いてあった。

加賀尾秀忍は真言宗の僧侶だったが、GHQの命令で、フィリピンで開かれる戦争裁判のために、日本人戦犯の教誨師としてマニラへ旅立った。教誨師とは、受刑者に対し道徳心や倫理を教え諭すことを使命とする者である。

昭和24年10月、加賀尾はマニラ郊外にあるモンテンルパ市のニュービリビット刑務所に着任した。
日本人戦犯は百五十名余が収容されていたが、日本軍が行なったフィリピン人に対する残虐行為の嫌疑がかけられていた。
しかし、明らかに無関係な者が多数含まれており、彼らを有罪とする根拠となるのは、フィリピン人による証言だけだった。
証言者のフィリピン人は、自らが日本軍への協力者であったことを裁かれることを恐れて、ただ自己の保身のために無関係な日本人を次々と戦犯として告発していたのだった。
無実の罪をかぶせられながら、潔白を証明する手段を持たない日本人戦犯たちの苦悩の深さを加賀尾は知ることとなった。

フィリピン大統領エルピディオ・キリノは、彼自身が日本軍に捕らわれて激しい拷問を受けた体験を持っていた。外務大臣をしていた彼の弟は日本軍によって斬首され、彼の夫人と娘も日本軍に撃ち殺されていた。
日本軍に対する怨みは、誰よりも強かったと言える。

加賀尾の任期は六か月間で、すでに切れようとしていたが、戦犯たちを見捨てて帰国するわけには行かなかった。
しかし日本国政府は冷淡で、事情を汲むことなく加賀尾の俸給を停止した。
それ以降、加賀尾は戦犯たちの残飯を喰らいながら支援活動を続けた。

昭和26年1月、日本人戦犯十四名が突然処刑された。そのうち六名は、明らかに無関係な者たちだった。
立ち会ったのは加賀尾ただ一人だった。
サンフランシスコ講和条約では、アメリカは日本に無賠償を提示していたが、フィリピンは八十憶ドルの賠償を求めており、反発を表明するための処刑だった。

この処刑に危機感を抱いた加賀尾は、戦犯容疑者たちが希望を失わないよう励ましながら、マッカーサーに助命嘆願書を送ったり、毎日新聞に投稿して世論を喚起しようとしたが、効果は見られなかった。

加賀尾は『異国の丘』が日本人にシベリア抑留者の返還運動を起こさせたことを思い出し、戦犯たちに《歌》を作らせることを想いついた。
作詞は少しばかり文学をかじったことのある代田銀太郎に、作曲はオルガンが弾ける伊藤正康に依頼した。
出来上がった歌は、日本で戦犯たちの釈放運動をしていた渡辺はま子に送った。

渡辺はま子は、『支那の夜』『蘇州夜曲』の大ヒット曲を引っ提げて中国戦線を慰問して回っていたが、天津で終戦を迎え、十か月ほど捕虜収容所に抑留された体験があった。
日本に帰国すると、戦犯の家族たちが人々から迫害されているのを見過ごせず、巣鴨拘置所や傷病兵の慰問を積極的に行っていた。

加賀尾秀忍から受け取った歌は、『あゝモンテンルパの夜は更けて』とタイトルを変えて、渡辺はま子・宇都美 清の歌でビクターから発売された。レコードは20万枚の大ヒットとなった。
はま子は、ステージに立ってこの歌を歌うたびに、戦犯たちの釈放を聴衆に訴えかけた。

この昭和27年12月24日、渡辺はま子はアコーディオン奏者を連れてモンテンルパのニュービリビット刑務所へ慰問に訪れた。
日本とフィリピンの間にはまだ国交がなかったため、慰問にこぎつけるまで半年がたっていた。

はま子は戦犯たちを前にして、『あゝモンテンルパの夜は更けて』を歌った。
戦犯たちは涙を流しながら、はま子と一緒に大合唱した。

     作詞/代田銀太郎 作曲/伊藤正康  歌/渡辺はま子、宇都美 清

『あゝモンテンルパの夜は更けて』
作詞/代田銀太郎 作曲/伊藤正康  歌/渡辺はま子、宇都美 清

1.モンテンルパの夜は更けて
  つのる思いにやるせない
  遠い故郷しのびつつ
  涙に曇る月影に
  優しい母の夢を見る

2.燕はまたも来たけれど
  恋し我が子はいつ帰る
  母の心はひとすじに
  南の空へ飛んでゆく
  さだめは悲し呼子鳥よぶこどり

3.モンテンルパに朝が来りゃ
  昇る心の太陽を
  胸に抱いて今日もまた
  強く生きよう倒れまい
  日本の土を 踏むまでは

加賀尾秀忍は、ローマ法王に戦犯たちの助命を嘆願する手紙を書いた。
この手紙は法王の心を動かし、マニラの法王大使を通じてキリノ大統領に法王の意向が伝えられた。
昭和28年5月、加賀尾秀忍はキリノ大統領と初めての会見に臨んだ。
この前日、『あゝモンテンルパの夜は更けて』を聞いた人々が書いた戦犯釈放嘆願書五百万通が、フィリピン外務省に届けられていた。
キリノ大統領は気が重かった。法王の要請なので加賀尾と会うことにしたが、どうせ戦犯の釈放を泣き落としで迫るのだろう。しかし、その程度のことで許せるほど、彼の怨みは軽いものではなかった。
加賀尾ははま子から贈られた『あゝモンテンルパの夜は更けて』のアルバム式オルゴールを、黙ってそっとキリノ大統領に差し出した。
キリノがアルバムを開くと、曲が流れだした。
「この曲は何か?」
キリノの問いかけに、
「これは『あゝモンテンルパの夜は更けて』という曲で、戦犯たちが作ったものです。」と加賀尾は答えた。
キリノは、加賀尾が退席してから側近に漏らした。
「言葉の代わりに、音楽をアルバムに仕込んできて、それを手渡すとは・・・。それが私の心の琴線に触れた。はじめて心を動かされた」

6月28日、無期刑囚を全員釈放、死刑囚は無期に減刑して巣鴨に送還すると発表された。

7月7日、フィリピン独立記念日に刑務所内で特赦式が行われて、7月22日、戦犯たちを乗せた白山丸は十七の遺骨とともに、横浜の大桟橋に着いた。
大桟橋では、二万八千人が出迎え、その中に渡辺はま子もいて、『あゝモンテンルパの夜は更けて』を歌ったのだった。

『ニコライの鐘』藤山一郎(昭和27年12月10日)

     作詞/門田ゆたか 作曲/古関裕而  歌/藤山一郎

昭和28年(1953年)の発表作品

スターリン死去。
国会、バカヤロー解散。
NHKテレビの本放送が開始した。
北九州に集中豪雨があった。

三越ホーム・ソング(昭和28年1月~昭和35年10月)

昭和28年1月某日、三越の岩瀬栄一から新しい歌を作りたいという声がかかって、古関と西條八十は日本橋三越本店の社長室を尋ねた。
「現在、巷に氾濫している歌は、みな不健全なものばかり。どうか『トンコ節』のような歌を駆逐する素晴らしいホーム・ソングをお願いいたします。」
岩瀬社長が言うと、すかさず西條八十が言った。
「『トンコ節』は私が作ったのです」
岩瀬社長が「しまった!」という顔をして言った。
「先生は詩のデパートのようなお仕事ですから、いろいろな唄をお作りになるのですね。私どもの店でも、ダイヤから台所用品まで揃えておりますが、どの品も良い品を選んでおります。先生もあらゆる種類の唄を良心的にお書きになるのですね」

帰りの車の中で、古関は八十に、
「先生、ああいう時は、自分の作った歌でも、知らん顔して黙っていた方が良いですよ」とアドバイスした。
八十はそれを聞いて、なるほど、いかにも古関らしい言葉だと思った。

『トンコ節』西條八十作詞、古賀政男作曲(昭和24年1月)

岩瀬社長が批判した八十の『トンコ節』は、作曲の古賀政男が『炭坑節』のヒットから、タンコをトンコにすることを想いつき、八十が書いたものであった。
発表した昭和24年当時はそれほど評判にならなかったが、昭和25年の夏ごろから26年にかけて流行り出した。朝鮮戦争の特需景気が背景にあって、お座敷が繁盛し出したのがこの歌を広める力となった。
九州の料理屋界隈から歌われ出し、関西に広がり、東京にまで到達し、さらに全国を席巻した。
子供たちまでが、「ネエ、トンコ、トンコ」と歌い出し、PTAの顰蹙ひんしゅくを買う事態を招いた。
批評家、放送関係者からの批判を浴びながら、八十と古賀政男コンビは、さらに『こんな私ぢゃなかったに』『ゲイシャ・ワルツ』などの同系列の歌を発表して、次々にヒットを飛ばした。
『若鷲の歌』や『同期の桜』などの「軍歌」を書いた西條八十は、戦後十年を待たずして、戦前のエロ・グロ・ナンセンス時代の八十に戻っていた。
自由と平和、万歳!

     作詞/西條八十 作曲/古賀政男 歌/楠木繁夫、久保幸江

『秋草の歌』奈良光枝(昭和29年2月10日)【三越ホーム・ソング】

三越ホームソングは、古関裕而作曲、西條八十作詞で、岩瀬社長が急逝する昭和38年3月までの間に、全十三曲がコロムビアより発売された。
十三曲中で最も評判が良かったと古関が言っている、奈良光枝『秋草の歌』を代表として紹介しておく。

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/奈良光枝 カバー/緑咲香澄

『ひめゆりの塔』伊藤久男(昭和28年7月15日)【映画主題歌】

『ひめゆりの塔』は、東映映画『ひめゆりの塔』(今井正監督、昭和28年1月9日封切)の主題歌である。
作詞は西條八十、歌手は伊藤久男の「軍歌」コンビである。
今井正監督は「主題歌嫌い」で知られた人で、じつはこの主題歌も映画では使われていない。古関は映画の音楽監督も務めており、古関が選んだ沖縄民謡だけが映画では使われている。
それでも古関作曲の歌『ひめゆりの塔』は、次第に全国的に知られていった。

後年、伊藤久男がこの曲を再録音するときに、立ち会っていた古関に、
「大衆の心を打つ歌は、映画などの力を借りなくとも、世に残るものだね」と言うと、
「え? 映画に使われていなかったの? 僕は東映のスタジオで、サウンドトラック用の録音をしたのに──」と、古関は憮然ぶぜんとしていた。

     作詞/西條八十 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

『ひめゆりの塔』サウンドトラック

映画『君の名は』公開される(昭和28年9月15日封切)

NHKラジオドラマ『君の名は』は、昭和29年4月8日、「君の名は完結大会・花まつり特集」第九十八回で終了するのだが、大ヒットに眼を付けた映画会社各社が映画化権をめぐって争奪戦を繰り広げた結果、松竹が勝ち取って、昭和28年9月15日に映画公開された。

佐多啓二の後宮春樹、岸恵子の氏家真知子の配役で、監督は大庭秀雄がメガホンをとった。
映画音楽は、ラジオと同じく古関裕而が担当し、主題歌『君の名は』は織井茂子が歌った。挿入歌として『君いとしき人よ』を伊藤久男が歌った。

ラジオの方もまだ放送中だったのに加えて、「毎週木曜日夜八時になると街の銭湯の女湯がガラ空きになる」という宣伝文句を流行らせ、映画も大ヒットした。
松竹の作戦勝ちである。

B29による数寄屋橋空襲シーン(元映像はモノクロ)

春樹と真知子が出会う数寄屋橋の空襲シーンでは、川上景司と共同で円谷英二が、合成を多用し爆薬をたっぷり使った効果的な特撮を見せている。

『君の名は』織井茂子(昭和28年9月1日)【映画主題歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/織井茂子

『君いとしき人よ』伊藤久男(昭和28年9月1日)【映画主題歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

映画『君の名は』第二部(昭和28年12月1日封切)

『君の名は』第二部は、北海道が舞台である。
傷心の春樹は、真知子を忘れようと北海道に渡って来るのだが、嫉妬深い夫と家庭を支配する義母に愛想をつかした真知子は離婚を決意し、忘却を誓いながらも忘れることのできない春樹を追って、北海道まで来てしまう。

これが「真知子巻き」 美幌駅での再会のシーン

この北海道ロケで、寒くてたまらないので岸恵子は、持ち合わせていたマフラーを頭に巻いて撮影した。
映画が公開されると、これが「真知子巻き」と呼ばれ、多くの女性たちが真似し始めて大流行となった。
「真知子巻き」を、数寄屋橋での春樹と真知子が出会うシーンでしていると思われている向きもあるかと思うが、数寄屋橋で真知子がかぶっているのは「防空頭巾」である。

第二部の主題歌が『花のいのちは』である。冒頭から岡本敦郎の歌が流れる。ラストの春樹と真知子が美幌駅で別れるシーンでは、岸恵子の歌が流される。
また、ラジオで主題歌を歌った高柳二葉の歌で『君の名は』が、挿入歌として使われている。

『花のいのちは』岡本敦郎、岸恵子(昭和28年12月)【映画主題歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/岡本敦郎、岸恵子

『黒百合の歌』織井茂子(昭和28年12月)【映画主題歌】

春樹を愛するアイヌの娘ユミを、北原三枝が演じている。石原裕次郎の奥さんになる人だ。
『黒百合の歌』は、ユミの春樹への愛の歌である。二人が幌馬車に乗って美幌峠を越えて行く場面で流される。

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/織井茂子

「ニシパ」というのはアイヌ語だが、男性に対する敬称で、使われる状況に応じて「旦那・主人・親方・紳士」と言った意味になる。

昭和29年(1954年)の発表作品

防衛庁・自衛隊設置。
第五福竜丸、アメリカの水爆実験により放射能被曝。
プロレス人気。
映画『ゴジラ』『七人の侍』封切り。

『高原列車は行く』岡本敦郎(昭和29年2月15日)

     作詞/丘十四夫 作曲/古関裕而  歌/岡本敦郎

『月の朝鮮海峡』西條八十作詞 古賀政男作曲(昭和29年3月27日)

戦後になってからの古賀政男は旺盛な創作意欲を示していて、数えきれないほどの作品を怒涛の如く発表している。
作詞の西條八十と組んだものは、古関裕而よりもはるかに多い。

その中でも、珍しく社会派のテーマを扱った歌が、『月の朝鮮海峡』である。

西條八十は、久々に愛国心あふれる歌詞を書いている。
昭和27年1月18日、韓国の承晩スンマン大統領は、突然公海上に韓国の主権を主張する承晩しょうばんラインを設定して、そこを越えて漁業を営む日本の漁船を拿捕だほするという事件が連続して起こった。
4月28日になるとサンフランシスコ講和条約が発効し、連合国軍総司令部(GHQ)が設定した「マッカーサー・ライン」が無効になることから、そのドサクサを狙った韓国の国際法違反行為だった。
この時、韓国は「竹島」も不法占拠した。
日本国政府は抗議したが、まだ国家主権が停止されていた時期だったため、領海の管理責任がある連合国の一員としてアメリカ政府も韓国に抗議したが、李承晩は無視して、その後も日本漁船を拿捕し続けた。
この韓国の違法行為は、昭和40年(1965年)の日韓国交正常化まで続いた。

これを知った八十は、『月の朝鮮海峡』と『対馬の娘』という憂国の二編を書き、古賀政男が作曲してコロムビアから臨時発売された。
朝鮮海峡の漁に生活がかかっている漁民たちは、拿捕されることも辞さずに、「りょうはしけても 越えなきゃならぬ 男意気地の 李承晩ライン」と歌いながら、朝鮮海峡へ出漁して行った。

     作詞/西條八十 作曲/古賀政男  歌/青木光一

     カバー版

3番の「かかる飛沫しぶきは 払わにゃならぬ」という歌詞は、
「身にふる火の粉は 払わにゃならぬ」(『柔道一代』村田英雄、星野哲郎作詞、昭和38年)の意味だろう。
いかに平和国家の道とは言えど、かかる飛沫は払わにゃならぬ、というわけだ。

『対馬の娘』永田とよ子 西條八十作詞 古賀政男作曲(昭和29年3月27日)

     作詞/西條八十 作曲/古賀政男 歌/永田とよ子

映画『君の名は』第三部完結編(昭和29年4月27日)

第三部完結編では、前回までのあらすじが終わった後、織井茂子の歌で主題歌『君の名は』が流れる。
佐多啓二、織井茂子の歌で『君は遥かな』、伊藤久男の歌で『忘れ得ぬ人』と『数寄屋橋エレジー』、淡路千景の歌で『綾の歌』と、豊富な挿入歌が用意されており、まさに《歌謡映画》と呼ぶべきものになっている。

『君は遥かな』佐多啓二、織井茂子(昭和29年4月10日)【映画挿入歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/佐多啓二、織井茂子

『忘れ得ぬ人』伊藤久男(昭和29年4月10日)【映画挿入歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男
     歌/織井茂子

『数寄屋橋エレジー』伊藤久男(昭和29年4月)【映画挿入歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/伊藤久男

『綾の歌』淡路千景(昭和29年4月)【映画挿入歌】

     作詞/菊田一夫 作曲/古関裕而  歌/淡路千景

『サロマ湖の歌』伊藤久男(昭和29年9月15日)

     作詞/中山正男 作曲/古関裕而 歌/伊藤久男

『スッチョン節』美空ひばり(昭和29年12月10日)

     作詞/野村俊夫 作曲/古関裕而 歌/美空ひばり

《参考文献》
人間の記録⑱『古関裕而 鐘よ鳴り響け』(日本図書センター、1997年2月25日)
刑部芳則『古関裕而──流行作曲家と激動の昭和』(中公新書、2019年11月25日)
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史──国民を背負った作曲家』(文春文庫、2020年3月20日)
『私の履歴書 第17集』「西條八十」(日本経済新聞社、1962年12月20日)
『西條八十全集 第九巻 歌謡・民謡Ⅱ』(国書刊行会、1996年4月30日)
筒井清忠『西條八十』(中公文庫、2008年12月20日)
斎藤憐『ジャズで踊ってリキュルで更けて 昭和不良伝西條八十』(岩波書店、2004年10月28日)
菊池清磨『評伝古賀政男』(アテネ書房、2004年7月10日)
藤山一郎『藤山一郎自伝』(光人社NF文庫、1993年11月15日)
小幡欣治『評伝菊田一夫』(岩波書店、2008年1月29日)
菊田一夫「「鐘の鳴る丘」前後──七年間の放送を顧みて」(『別冊人生読本 戦後体験』、1981年7月25日)