『鐘の鳴る丘』──まぼろしの「蓼科訓練道場」

今回も『浮浪児の栄光』の「資料編」その2です。
『浮浪児の栄光』──佐野美津男の不良少年入門

「おれ」がネリカンから脱走し、横浜でのゴトが終わったあと、伊勢佐木町でみた映画が『鐘の鳴る丘』でした。NHKラジオの人気連続ドラマ(昭和22年~昭和25年)を映画化したものです。
みんなは映画が始まると、主題歌「とんがり帽子」を合唱しますが、「おれ」には聞いたことがない歌だったのでした。ラジオ・ドラマをまいにち待ち遠しく聞くような普通の生活が、浮浪児の「おれ」にはなかったのです。

鐘の鳴る丘 昭和22年(1947)


マーチ・テンポの明るい曲調と、当時はまだめずらしかったハモンド・オルガンの音色に、聴衆は惹きつけられました。

「おれ」は、何度目かにパクられたとき、少年調査官のことばに、
「先生、ぼくを、鐘の鳴る丘みたいなところへ送って下さい」と頼みます。

「キミがそれほど希望するなら、鐘の鳴る丘へ送ってやるよ。だけど、映画と実際は違うかもしれないよ」
「ほんとに、鐘の鳴る丘ってあるんですか」とおれが念をおすと、調査官は黙ってうなずいた

「おれ」は、房にもどってから同室者に、「おれは鐘の鳴る丘へ行くんだぜ」と自慢気にいうわけですが、しかし、返ってきたことばは以外なものでした。
鐘の鳴る丘に入っていたことのある「佃島」と「おれ」が名付けたやつによると、そこは疥癬かいせんに感染するようなひどい衛生環境で、食事内容はわるいし、オマケに開拓をやらされるといいます。

佃島のはなしによると、現実の鐘の鳴る丘は、信州のタテシナ高原にあって元の名をタテシナ訓練道場。センコウたちはつねに木刀を握りしめていて、すぐさまガーンとやってくるそうだ。トンズラに対する制裁は特にひどく、佃島は冬のさなかに三日間「暁に祈る」をやらされたとか。(『浮浪児の栄光』)

こうして、希望の吹っ飛んだ「おれ」はまたもや脱走することになります。
ここで、私は二つの疑問が湧きました。
①鐘の鳴る丘と呼ばれた「タテシナ訓練道場」ってなんだ?
②「暁に祈る」ってなんだ?

「暁に祈る」については次回にまわして、今回は「タテシナ訓練道場」について調べた結果をお伝えしようと思います。

菊田一夫は、「鐘の鳴る丘」のモデルになった施設はないといっていたようですが、「建物」のモデルとなったものは有ったようです。
ひとつは菊田が疎開していた岩手県江刺市の「旧岩谷堂共立病院」と、もうひとつは菊田が訪れたことがある長野県安曇野市穂高の旧「有明高原寮」がそれです。

旧「有明高原寮」の建物は、映画「鐘の鳴る丘」のロケ地ではあったようですが、映画のなかに出て来る「とんがり帽子」の建物そのものではないようです。ということは、あれは撮影用に作ったものだったということでしょうか? …ここらへん、あいまいな記述に出会うばっかりで確定はできませんでした。

この建物は、もともと明治38年(1905)、長野市の善光寺門前町に建てられた3階建ての遊郭だったものでした。それが、大正8年(1919)2月に、現在地である「長野県安曇野市穂高有明」に移築され、中房温泉から13キロを引湯して、大正10年(1921) に「有明温泉」として営業を始めました。「鐘付きの時計台」は、この時にできたものだそうです。

昭和元年(1926)に温泉廃業後、20年ほど放置されていましたが、松本市の篤志家が買い取り、「時計台や腐りかけ ていた3階を外して2階建てに改装」して、昭和21年(1946)に少年保護施設「松本少年学院」を開いたのでした。(ここまで、『市民タイムス』近代化遺産を歩くによる。)

…ということは、菊田一夫が穂高に訪れた日付ははっきりしませんが、そのころは「とんがり帽子の時計台」があったとしても、『鐘の鳴る丘』が映画化されるころにはもう、「時計台や腐りかけ ていた3階を外して2階建てに改装」されていたことになります。映画に出て来る「とんがり帽子の時計台」はロケ地になったという「松本少年学院」にはなかったはずです。

実際、このころ「有明少年院」(元「松本少年学院」)に入っていたという窪田良氏によると、

 その施設は昭和21年(1946)戦後の混乱のなか、家庭の事情などで困窮している子供達を救おうと、鈴木常吉なる人物を中心に松本市民が立ち上がってできた保護施設松本少年学院である。そして施設とその一帯が、松竹映画「鐘の鳴る丘」のロケの舞台となったと言い伝えられている。しかし、そこには主題歌にある”とんがり帽子の時計台”もキンコンカンと鳴る鐘もなかったが、そのラジオドラマと映画が大反響を呼び、後年、その”原作の地、鐘の鳴る丘”といわれているのが、新少年法に基づき、松本少年学院がそのまま組織を変えた”国立中等少年院有明高原寮”である。
 しかし、松本少年学院や有明少年院が舞台やモデルになった記録も事実関係もなに一つとしてそこには残っていない。その上に、あの”とんがり帽子の時計台”が出現したのは、昭和33年(1958)のことで、その折に参議院議員宮城タマヨ女史が寄贈された”愛の鐘”がそれとともに二階中央屋根上に初めて造られた。ドラマ放送が終ってから八年後のことである。
 それらのこともあってか、”有明少年院”にまつわる”鐘の鳴る丘”については、かなり諸説があるようだ。
 私も浮浪していた頃、ラジオから流れてきた”とんがり帽子”の唄を聞いたことがあったが、そのドラマは私が送致された頃はまだ放送中で、当時の少年院にはラジオも設置されていなかったから、そのドラマを聴いたことも歌も唄ったこともなかった。
 長い間その少年院で過ごしながら、私は松本少年学院のことも知らなかったし、またそこがあの”鐘の鳴る丘”のドラマや映画の舞台になった所だという人や言葉さえ聞いたこともなかった。それを知ったのは、かなり後のことである。(窪田良『ねりかんブルースが聞こえる』)

『ねりかんブルースが聞こえる―過ぎし日の残影に』


やはり、「とんがり帽子の時計台」はなかったようです。穂高町一帯が映画のロケ地になったことは確かなようですが、有明高原寮鐘の鳴る丘モデル説は、後年になって生まれた「伝説」とも考えられます。
菊田一夫自身が、「鐘の鳴る丘」のモデルはないと言っていることを、信じるしかないのかもしれません。

ところで、「タテシナ訓練道場」ですが、「鐘の鳴る丘」関連のどこにも見い出せませんでした。
「タテシナ」は「蓼科」でしょうから、おなじ長野県ではありますが、蓼科と有明高原寮がある安曇野とはだいぶ離れています。元「タテシナ訓練道場」=「有明高原寮」とはいえないようです。
しかし「有明高原寮」以外に「鐘の鳴る丘」と呼ばれる可能性のある少年院が見あたらないのも事実です。もしかしたら「有明高原寮」の前身である「松本少年学院」が、当時は「タテシナ訓練道場」と呼ばれたこともあったのでしょうか?

「有明高原寮」は、「逃亡防止の格子もまた塀もない全国唯一の開放少年院」だったそうで、「佃島」の言うこととはだいぶ違う気がします。
やはり窪田良氏によると、

その少年院は以前の学院当時から農地を持っていたが、裏山に向かってなお開墾を続けていた。その農地で折々の野菜類を作り、副食物に当てられていたように、食糧事情は社会的にも余裕がなかった頃だから、三食は与えられてはいてもみんな腹を空かしていた。
(中略)
その少年院には新入り泣かせの陰湿ないびりはほとんどなかった。
(中略)
なかには弱みを見せまいとふてぶてしい態度をむき出しにしている新入りもいて、そういう新入りには、講堂の床板の雑巾掛けや便所掃除を他の者には手伝わせないで押しつけていびり始め、わずかな手抜きにも難癖をつけ、それに少しでも反撥でもしようものなら班長達に布団蒸しにされ、殴られ、蹴飛ばされ痛めつけられた。

ここらへん、「佃島」のいう「開拓」をやらされるということや、「トンズラに対する制裁はとくにひど」いということに、一致しているようにも思われます。

「佃島」の「おれ」に対するあの発言は、もしかしたら彼の嫉妬からでた「デタラメ」だったとも、いまわたしは考えています。元「タテシナ訓練道場」についての話も、「佃島」の聞きかじりによるものではなかったか? そう考えると、いくらかガテンの行く気がします。

少年調査官が言った「鐘の鳴る丘」は「有明少年院」のことだったのであり、「佃島」が言った「タテシナ訓練道場」とはまったく違うものだった、ということです。
「タテシナ訓練道場」というものは、当時あったのかもしれないが今日ではすでに伝承が途絶えてしまい、検証するすべもなくなっている、というのがわたしの結論です。

《参考文献》
窪田良『ねりかんブルースが聞こえる: 過ぎし日の残影に』