「暁に祈る」事件と「朝日新聞」

『浮浪児の栄光』の「資料編」その4。今回は、「暁に祈る」について、です。

『浮浪児の栄光』──佐野美津男の不良少年入門

佃島のはなしによると、現実の鐘の鳴る丘は、信州のタテシナ高原にあって元の名をタテシナ訓練道場。センコウたちはつねに木刀を握りしめていて、すぐさまガーンとやってくるそうだ。トンズラに対する制裁は特にひどく、佃島は冬のさなかに三日間「暁に祈る」をやらされたとか。

この部分ですね。
いったい「冬のさなかに三日間「暁に祈る」をやらされた」とは、何をやらされたのか?
『暁に祈る』という戦時歌謡があることは知っていましたが、それとどんな関係があるのか? 調べてみて驚きました。
まさか、昭和24年(1949)当時、こんないかがわしい「事件」があったとは、初めて知ることになりました。


「暁に祈る」 伊藤久男 昭和15年(1940)

野村俊夫/作詞 古関裕而/作曲


  昨年から今年にかけてソ連引揚者たちの中から”吉村隊の記録”という不気味な同胞虐殺の物語が伝えられている。そして幾つかの抑留記も断片的ではあるが「吉村隊を裁け」と悲痛な叫びをあげている。それは吉村というずるい、そして残忍な男の支配する不気味な中世的な収容所の現実ではあるが、吉村隊に関する限り何れも自らの体験ではなく、多くは語り伝えなのでこの悲劇を証明するよすがもなかったところ、たまたまその吉村隊の生き残り吉川厳作君(26)──東京都港区虎ノ門翠軒ビル、日本繊維教育品KK──を捜しあててこの話を得た。以下はその吉村隊で労働し、暴行され、片腕を失った暴虐の生き証人が語る現代の「死の家の記録」である。そしてさらにおそるべきことは、第二、第三の吉村隊の存在を引揚者たちが口々に伝えていることである。
[写真は真相を語る片腕をなくした吉川氏]

<本文>
 外蒙のウランバートル(庫倫)にこの悲劇は始まる……。
昭和二十年十月、私たちは熱河から貨車にゆられてここについた。人口七万ばかり、蒙古人と中国人の街で低いカッ色の山に囲まれた盆地。吉村隊はその西北の河岸に建つ羊毛工場にあった。隊長は吉村と自称していたが本名は池田というのだということだった。三十六、七歳の四角い顔のヘビのように冷たい眼をした男で、憲兵上がりともいっていた。小学校だけしか出ていない男だが、苦学して高文(現在の国家公務員上級職資格)を取り、神戸で検事をしていたとのことだ。
吉村ははじめはただの捕虜にすぎなかったが、捕虜中のゴロツキ、遊び人などをうまくひきつけ、そこの収容所長になってしまった。それから私刑と暴行が始まった。自分に監督させるなら全員の作業量を二〇パーセント増してみせると彼は断言し、それを実行して自分の地位を不動のものにしようとした。
午前四時にたたき起こされる。まず朝飯前に二千メートルも離れた山から電信柱ほどの材木を二本ずつ運び終わらねば飯を食わせない。すき腹にこの重労働をやってのけ、やっと朝飯にありつくとつぎには八時間のレンガ焼き、羊毛のつむぎ、石切りが待っている。
これを終えて帰ってくるのが午後四時、息つく間もなく収容所の側を流れる河に追い立てられ、イカダから木材を解かねばならぬ。それが終わると九時半過ぎになる。そしてやりとげたものだけが晩飯を食うことを許される。晩飯が終わると羊毛つむぎを夜業でやらせる。だから労働から解放されて眠るのはいつも一時過ぎ、四時に起きるから正味三時間の睡眠しかない。
弱いものや、基準量をやりとげないものは吉村の手下のゴロツキが回ってきて、殴る、けるの私刑を加える。そのため作業ははかどるが、収容所内は悲鳴が絶え間なく聞こえるようになった。スコップで殴られてザクロのように頭が割れて死ぬものも出た。
はじめ共同して吉村に当たろうという計画が出たが、逸早くそれを感づいた彼は巧妙なスパイ制度をとった。密告したものには食事を多く食わせ仕事の量を減らせる。この巧みな手段にもろくも結束はくずれた。吉村の耳には捕虜の動静が針一つ落ちたのでも伝わる。
私たちはだれもが信用できなくなった。そして吉村はそれを見てニタニタ笑いながら毎日ゴロツキどもと酒を飲んでいるのだった。ウランバートル郊外の山のふもとに死亡者の墓地がある。他の収容所の病死者もここに葬られるわけだが、その大部分は吉村隊の私刑者の墓だった。捕虜たちは深く長いホリを掘らされる。死んだ男達はその中に放り込まれ一本の白カバが無造作に立てられる。その白カバが二千本にも達しガイ骨のように不気味な林となった。
そのうちに吉村はさらに残虐な私刑を考え出した。「暁に祈る」という儀式である。基準量に達せず、絶食の私刑で労働力をなくした男が吉村の部屋に呼び出される。裸にされ、ナワでしばられ、木にくくりつけられる。外蒙の寒気が翌日までには完全に冷凍人間を造りあげる。明け方、力つきて糸のように細い最後の悲鳴をあげる。それが「暁に祈る」だ。
この方法で殺された男が三十人はいたと思う。こうして二年間、日本人の手で日本人がバタバタとハエのように殺され、捕虜は人間というよりも吉村の前には家畜と同様、ただひたすらに彼の気を損じないようにオドオドとしていた。今思えば彼の非行を暴くため何故捕虜が団結しなかったか不思議だが、だれも自分を捨てて多数の利益に立つという気に欠けていたのだ。
そんなひきょうな捕虜の気持に助けられて吉村は二十二年十月幾多の犠牲の上に造られた数々のお土産、家内のクツ、子供たちの服地、クツなどを大きな背負いきれない包みにし、そして子分にそれをかつがせてウランバートルを出発した。ナホトカで例の人民裁判があった。吉村隊の残虐さは口から口へ全ソ連の日本人捕虜に知れわたっていたから、そこの民主グループの委員が立って彼を弾劾したが、かんじんの吉村隊の中から誰も進んで証人になるものがない。それほど彼に対する恐怖はすさまじかった。
しかし犯行は明白なので、彼は一人そこへ残され奥地の伐採作業にかりやられた。彼のこの処罰が決定すると、はじめて息を吹き返した吉村隊のものは彼を取巻き、半殺しのリンチを加えた。その後、彼の消息は聞かないが、彼のことだから今ごろはまた郷里の宮崎に還っているのではないかと思う。


これは『週刊実話』とかの読み物記事ではありません。『朝日新聞』という事実を伝えるはずの「公器」に書かれたものです。
それにしても残酷なことをする人間もいるもんだなあ! と、この記事を読んだ人ならだれでも思うことでしょう。
「憲兵上がり」で、「ヘビのように冷たい眼をした男」だったら、いかにも残虐なリンチも平気でやってしまいそうなイメージがあります。
なお、「隊長は吉村と自称していたが本名は池田というのだということだった。」という部分を補足説明しておくと、日本が降伏した際、池田重善は憲兵でしたが、「憲兵には敵側の厳しい処置が予想される」として、上官から「兵科をいつわり偽名を使うよう」指示されたため、妻の実家の姓の吉村と妻と娘の名前の一字をとって「吉村久佳」と名乗っていたことを指しています。


「捕虜たちは深く長いホリを掘らされる。死んだ男達はその中に放り込まれ一本の白カバが無造作に立てられる。その白カバが二千本にも達しガイ骨のように不気味な林となった。」


オエ~~、もうホラーじゃん!

「そのうちに吉村はさらに残虐な私刑を考え出した。「暁に祈る」という儀式である。基準量に達せず、絶食の私刑で労働力をなくした男が吉村の部屋に呼び出される。裸にされ、ナワでしばられ、木にくくりつけられる。外蒙の寒気が翌日までには完全に冷凍人間を造りあげる。明け方、力つきて糸のように細い最後の悲鳴をあげる。それが「暁に祈る」だ。」


『怪奇大作戦』にでも出てきそうな事件だな。「氷の死刑台」という冷凍人間が出て来る話があったが、あれってもしかしたら「活字の私刑台」をネタにしてたのかな?
…しかし、ちょっと冷静になって考えると、おかしなことに気がつきます。「冷凍人間」ができるような極寒の中で、人間は「翌朝」まで生きていられるものか? 朝が来る前におっちんじゃうんじゃなかろうか? 「明け方、力つきて糸のように細い最後の悲鳴をあげる。」なんて器用なことが、人間できるのだろうか?
それに「暁に祈る」なんてダジャレみたいな呼び方をしていることに、「ずいぶん余裕あるじゃん!」とツッコミを入れたくなるのは私だけでしょうか? 真夏の酷暑の中でも同様の処罰がなされ、それは「熱砂の誓い」といったとか、なんでいつも映画か歌謡曲のタイトルみたいな呼び方をしなくちゃならないのだろう?
みんな、ずいぶん、のってるじゃん!
朝日新聞は、この「吉村隊事件」を連日、センセーショナルかつ大々的に報道して、やがて世論に押される形で「国会」での証人喚問が三日間もおこなわれ、ついには裁判に訴えられるところまで行きます。朝日新聞にしてみれば「してやったり!」というところだったでしょう。
ところが、いざ国会での喚問が始まると、事態は思いがけない展開を見せてゆきます。
まず、『朝日新聞』の第一報に登場して事件の口火を切った吉川厳作は、その後姿を消して、ついに国会にも裁判にも出席することはありませんでした。
池田は彼の著書『活字の私刑台─暁に祈る事件の真相─』の中で、次のように言っています。

 この証人喚問が、朝日新聞社の意図にそって行われたものであることは明らかであると私は思っている。
”暁に祈る”の真相を究明するのであれば、なぜイの一番に吉川嚴作をよばなかったのか。吉川は吉村隊にはわずか三、四日しかいなかった男だが、私を”鬼畜”のようにたたいた朝日新聞の記事は、吉川の虚言からはじまったのである。
リンチで殺された隊員の白カバの墓標が二千本も立っていたと言うが、全隊員七百名の吉村隊でどうして二千本の墓標が立つのか。私の命令を聞かなかった隊員は、裸にして屋外の木にくくりつける。零下四十度の酷寒が冷凍人間を作り上げる。明け方、かぼそい悲鳴を上げて死ぬ。その姿が、ひざを大地に着けて祈っているようなので”暁に祈る”と呼ばれたというが、マイナス四十度の寒さの中で、裸で、明け方まで生きていたということをおかしいとは思わなかったのか。
朝日新聞が私に”クロ”の烙印を押す前に、吉川の口から”ウソ八百”の作り話がバレたら困る理由があったのである。この後も、朝日新聞は吉川の居所を変えさせて、他紙記者の目のとどかぬところにかくし、裁判の段階でも吉川を証人として出廷させぬため工作を続けたとしか考えられない。


また、「暁に祈る」の実態として、

 朝六時ごろになると東方の空が白みはじめ、やがて日の出前には真っ赤に染まる。そのころ屋外留置のものは土壁に寄りかかった者も地面に足を組んだ者も、一夜の疲れからコクリコクリと居眠りし、ちょうど暁の空に何かを祈っているように見えた。夜の作業を終えて収容所へ帰る隊員たちがその姿を見て、「暁に祈る」と名づけ、それからは収容所の中でちょっとした事故でもあると、当人に冗談まじりで、「お前は”暁に祈る”だ」とはやしたてるようになった。
また、二十二年の正月、仕事は三日間休みで、二日に隊員の演芸大会が開かれた。劇、歌謡曲、落語、漫才などが出て、うまい出演者には賞品が与えられたが、この時京都出身の吉田軍曹が「暁に祈る」を漫談に仕立てておもしろおかしく演じ、二等賞に入った。
「暁に祈る」の実態は、そのようなものであった。

「参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会」にて「吉村隊事件」がとりあげられ、昭和二十四年四月十二日、十三日、十四日、五月六日に第一次証人喚問がおこなわれました。これらの会議録は残されているので、十三日分を除いてはいまも見ることが出来ます。
十三日分がないのは、喚問から帰った渡辺広太郎軍曹が栃木県黒磯町の自宅付近の松林で首吊り自殺したことから、国会の証人喚問をめぐって基本的人権問題にまで論議が発展したことと関係があると思われます。渡辺は菊池隊員を棍棒で殴り殺したことが明白となって、委員会から偽証罪で告発されることになり、このため妹の縁談が破談になったことを苦にして自殺したのでした。
参議院の証人喚問では、吉村隊長(池田)の「処罰」の権限問題、石切りのノルマの問題、私刑としての「暁に祈る」の犠牲者数の問題、などがきびしく追及されました。
ついに決定的な証拠も出ずに主張がすれ違ったまま、国会での喚問は終わりました。
結局、白カバが二千本も、冷凍人間も、殺された男が三十人も、国会の場で認められることはありませんでした。「暁に祈る」で死んだものさえひとりも確認できなかったのです。
しかも、朝日新聞に写真まで載せられて証言した「吉村隊の生き残り吉川厳作君」が言った、吉村の暴行によって腕が利かなくなったというのはウソだったことがわかりました。吉村こと池田によると、吉川の腕は慣れない作業のため羊皮工場の機械に巻き込まれて負傷したのでした。何のために吉川は、こんな虚偽の証言をしたのでしょうか?
『朝日新聞』の第一報は何だったのでしょう? 「不気味さ」を強調しまくる記事の「小説」めいた表現には驚き呆れましたが、それよりも、証拠もない段階で犯罪者として報道してしまう『朝日新聞』の無法ぶりには恐怖さえ覚えてしまいます。
『活字の私刑台─暁に祈る事件の真相─』の解説で、柳田邦夫は、「朝日の狂乱報道」と呼んで、池田氏に対する人権侵害を批判しています。また、「今日問題となっている「ヤラセ」の戦後的原型だった」といっています。この本が出版された1986年時点で、すでに『朝日新聞』は昭和25年9月に「伊藤律架空会見事件」というのを起こしていて、捏造記事が問題化していました。
2015年のわれわれは、『朝日新聞』の「慰安婦問題捏造事件」「吉田調書(意図的)誤報問題」を知っているので、こういうスクープ記事によって「日本人同胞」を売り、新聞拡販競争に狂奔する『朝日新聞』の犯罪体質が、戦後の占領期間中を原点として形成されてきたことが明らかとなっただけのことかもしれません。
結局、裁判でも、「虐殺」の事実は認められず、くだされた罪名は「逮捕監禁、遺棄致死」のみであり、主文は「懲役五年」でした。池田は最高裁まで戦い、裁判後も「寃罪」を叫びつづけ再審請求をしつづけましたが、再審の決定を見ないまま、昭和63年9月11日に脳出血のため73歳でなくなりました。
「暁に祈る」事件とは何だったのか?
「暁に祈る」事件が起こった昭和24年(1949)という年は、GHQの占領政策の一大転換が起こった後の年になります。
十月には中華人民共和国が成立し、匪賊の頭目だった毛沢東が国家主席の地位に着き、戦勝国の一員だった中華民国の蒋介石総統は台湾へと追い落とされました。
またこの年、ソ連が原爆実験に成功し、アメリカの軍事的優位性の一角が崩れました。共産主義へのアメリカの警戒感がMAXに達し、大陸では朝鮮戦争が始まりました。その2週間後、マッカーサー命令により自衛隊の前身である「警察予備隊」が設立され、海上保安庁も増員されました。
この年、ソ連抑留者の引揚問題が騒がれたことが刺激となり、「シベリア抑留もの」の出版ブームが起こりました。そのことが『朝日新聞』が「暁に祈る」事件をスクープする伏線となっていることは、朝日の担当記者である田代喜久雄が国会で証言しています。
田代記者は、「暁に祈る」事件を取り上げるもとになった「抑留記」の具体的な書名を5つあげています。
ソ連帰還者生活擁護同盟編『われらソ連に生きて』
清水正二郎『国境物語』
淡徳三郎『三つの敗戦』
石川正雄『戦う捕虜』
鈴木雅雄『春なき二年間』
わたしは『春なき二年間』を入手して読むことが出来ましたが、著者の鈴木雅雄氏は吉村部隊と同様に蒙古の捕虜収容所に送られ、重症患者としてアムラルト俘虜病院へ入院させられて、そこの患者のひとりから吉村隊の恐るべきリンチ「暁に祈る」のことを聞かされます。

 吉村隊は、市の西北郊外を流れる川のほとりにある、羊毛工場に収容されていた。蒙古側から命ぜられた作業は採石その他であったが、吉村隊にかぎり、もう一種類の作業が課せられていた。それは、川上から流れて来る流木のひきあげや、フェルトの靴造りなどであるが、これは隊長吉村少尉(実は憲兵曹長だったという)の内職とでもいうべきものであった。彼は蒙古人と結託して、私腹をこやし、豪奢な生活を送っていた。
兵隊は午前四時に起き、朝食前のひととき、冷い川にはいって流木を集め、そして、一日の作業をおえて帰って来てから、夕食まで、また流木集めが待っていた。しかも夕食後には、深夜まで、靴造りの作業が課せられるというのだからたまらない。
そのうえ、体の具合が悪いと訴えても、隊長と同じ穴のむじなの軍医はなかなか休ませてくれなかった。ちょっとでも不平めいたことをいうと、兵隊の中まではりめぐらされたスパイ網にひっかかって、たちまち隊長に呼びつけられ、ぶちのめされた上、減食、絶食の私刑(リンチ)であった。作業基準をはたさなかった場合も同様だったが、さらに再犯、三犯(?)となると、絶食の上に「営倉」と称する屋根のない、戸外同様の小屋に入れられる。しかも作業は一人前にやらせ、少しも仮借するところがなかった。
さらに吉村の憎しみをかった者に与えられる私刑が「暁に祈る」であった。まず彼は、宣告を与えた者の衣服をはぎとり、戸外に設けた柱に後手をくくりつける。
吉村のやることはこれだけだった。彼は暖い隊長室にもどって、ロシア煙草をくゆらし、茶をのみ、やがて時がくれば毛皮のふとんにくるまって眠るだけだ。しかし、酷烈な寒気にさらされた彼の被告は、暁には完全に冷くなっていた。「暁に祈る」は死刑であり、虐殺であった。
『私がいた間だけでも、こうして吉村に殺された者が何人かありました。鬼です。あいつは鬼です。』
語り終わった老兵のKさんは、悲憤の涙を流していた。(鈴木雅雄『春なき二年間』 自由出版株式会社 昭和23年)

書き写してみて、コンパクトにまとまりながらも要点はすべて語りつくしているという、「お話」としてじつに見事に「完成」されているのを感じます。当時蒙古には22の日本人捕虜収容所があったそうですが、そこでこんなふうに「吉村隊伝説」が語り伝えられていたというのは、吉村隊長に「鬼」としての記号論的特徴があったからだと思います。
「憲兵上がり」の隊長という権力の過剰、労働の過剰、非人間性の過剰、そして「豪奢な生活」という富の過剰が、「印付き」として吉村隊長を際立たせ、すべての「悪」を背負う「神話的形象」として「鬼化」が進んでいったのだと思います。
吉村隊長が本当に「鬼」だったかどうかと無関係に、ある種の条件が満たされると、あることないことが付加されて自然に「鬼」になって行く、あるいは「鬼」にされて行くという「神話的思考」がはたらきます。
権力や境遇に対する羨望や嫉妬や憎悪が、それを受け止めてくれる「形象」へと「物語」や「対象」を変貌させていくわけです。捕虜たちの深層心理を開放してくれる「暁に祈る伝説」は、驚異を持って口から口へと伝えられ、やがて「人民裁判」や「国会喚問」「最高裁判所」での裁判という「祭り」に発展します。『朝日新聞』の「狂乱報道」は、祭りに参加するひとびとを「神との遭遇」にまで高めるための「祭り囃子」だったのでしょう。
そして、「祭り」が終ってみれば、残されたのは池田重善という普通の老人と、息子への「懲役十年」という検事側求刑に衝撃を受けて自殺した母と父の悲劇でした。
『朝日新聞』は望み通りに、池田重善という個人を抹殺し、その父母まで道連れにするという、初期の目的以上の目的を達成して、つぎの標的を探し続けることになります。


 事件が、米ソ対決・緊張の高まる中で「反ソキャンペーン」に最大限応用され、また当時の日本国内で高揚していた反米的な動きをきびしくチェックする目的にうまく利用された面があることは、私にとってはかなり平常感覚にすぎないものである。証拠がないから断言できないが、この事件を企画・立案・演出した者がどこかにいたと思える点も少なくない。その点に付いては、今後の歴史的進展から、新証言・証拠が日の目を見ることを願っている。(柳田邦夫『活字の私刑台』解説)


とても気になる指摘ですね。
池田は、蒙古からナホトカ経由で函館に帰還した時、GHQ/CIC(対敵諜報部)により、四ヶ月間、元砲兵連隊の建物に軟禁されています。そこではマスダ大尉というCICの日系2世と思われる人物から、収容所での生活状況について事情聴取を受けただけで、あとは四ヶ月間、外出が許されないまま”ぶらぶら”していただけだったそうです。
この「四ヶ月間」に、どんな意味があったのでしょうか?
また、その後、軍服を着たCICの若い将校が、通訳を連れて、池田の郷里である五島列島にたずねてきて、「世間話」をしていったこともあるそうです。池田は「私を観察しにきたのでしょう」と語っていたようです。
池田は、なにかCICから口止めされていることでもあったのでしょうか?
CICの動きは、怪しすぎます。CICは「暁に祈る」事件に、なんらかの関与をしていたふうにも思えますが、なにひとつ「シッポ」は見せていません。
「朝日新聞」とも何らかの関係がなかったのか、すべてはいまだに謎のままです。


《参考文献》
「参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会会議録第十五号」
「参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員会会議録第十七号」
山崎崇弘『私は同胞を殺していない─恐怖のソ連強制収容所─』(山手新書 1982年)
池田重善『活字の私刑台─暁に祈る事件の真相─』(青峰社 1986年)
佐藤 悠『凍土の悲劇─モンゴル吉村隊事件─』(朝日新聞社 1991年)