夏木陽介グラフィティ「青春とはなんだ」「太陽野郎」──追悼

夏木陽介さんが、1月14日になくなった。81歳だった。

テレビで大々的に取り上げてくれるのかと思っていたら、
ちょっとさびしすぎない?

私の世代の者にとって、忘れられない俳優の一人だと思うのだが、
こうなったら私が彼の業績を振り返ってみるしかないな。

というわけでいま書いています。

『青春とはなんだ』 1965年(昭和40年)~1966年(昭和41年) 日本テレビ

野々村健介


俳優・夏木陽介といえば、
真っ先に浮かぶのが、この青年教師・野々村健介のイメージですね!
わたしにとっての夏木陽介は『青春とはなんだ』抜きには存在しえません。

『青春とはなんだ』 OP 「若い明日」

    (元動画削除のため差し替え 2020年6月1日


家庭用ビデオに残していた人がいるんだ!
うらやましい!
このドラマは、ビデオ化されてないもんなあ。

石原裕次郎主演の映画『青春とはなんだ』(日活 1965年)はビデオを持っているけど、
テレビの方は、東宝のテレビ部が製作に関わっていて、
岡田可愛や土田早苗や水沢有美など、
生徒役の役者さんたちの初々しさが素晴らしかった!
布施明の主題歌や応援歌『貴様と俺』とともに、
裕次郎映画とは違った青春のエネルギーを感じさせますね!

みんなしっかり青春してくれてますなあ。

この『青春とはなんだ』から始まるドラマシリーズに関しては、
以前にも紹介しているので、ここでは繰り返さない。
『青春とはなんだ』から始まる

テレビでの人気を受けて、映画化もされています。
映画の方のタイトルは『これが青春だ!』だったので、
ちょっとTVシリーズを知っている者にはまぎらわしいものだったけど。
裕次郎主演のものと区別したかったのかもしれないですね。

この映画のビデオは持っています。

『これが青春だ!』 1966年(昭和41年)

由木真介


画像や動画の下に記載した名前は、ドラマや映画の中での夏木の役名になります。


テレビ版『青春とはなんだ』では、石原慎太郎の原作通り、
主人公の教師の名は野々村健介ののむらけんすけですが、映画版の方では由木真介ゆきしんすけとなっています。
『でっかい太陽』(1967年9月)、
『燃えろ!太陽』(1967年12月)と、
そのあとも由木真介が主人公の映画が作られているのを見ると、
映画で別シリーズを作ることが既定路線だったのかなと思います。

テレビの方では、やはり石原慎太郎の原作から離れて、
オリジナル脚本の青春学園シリーズがスタートを切っていたので、
映画でも夏木陽介を主役に据えた青春学園シリーズを作ろうとしたのでしょう。

あの頃の日本は、まさに国家としても「青春」時代だった!
日本史上、何回目かのね。

日本テレビ『青春とはなんだ』が終わったあと、
夏木陽介は木下恵介監督の映画『なつかしき笛や太鼓』の主演が決まります。
さらに同じ日本テレビでは,『太陽野郎』の放映が始まります。

寺内タケシとバニーズの『太陽野郎』のテーマソングは鮮烈で、
今でも大好きな音楽のひとつです。

『太陽野郎』 1967年(昭和42年)~1968年(昭和43年) 日本テレビ

玄田健介

『太陽野郎』主題歌 寺内タケシとバニーズ 1967年

テレビも見ていたはずなんだけど、物語とかはよく覚えていない。 で、テレビ脚本をノベライゼーションした小説本を手に入れて、読んでみました!

『太陽野郎』『続 太陽野郎』(須崎勝彌 1968年 ルック社刊)


なんとなく想いだしてきた。
これは和製『ローハイド』だな。
当時、『ローハイド』というカウボーイが主人公のアメリカ製の人気テレビ西部劇があったんです。
そういえばそんな感覚で見ていたような気がしてきました。
いうなればマカロニ・ウェスタンならぬスキヤキ・ウェスタンです!

『ローハイド』 1959年~1965年(7シーズン分を中断を挟みながら放映)NET


撮影地は北海道・駒ケ岳の麓にひろがる火山灰地を開墾して開場したソダ・シャロレー牧場。
牧場主である曽田玄洋そだげんようをモデルとして番組は企画制作されました。

曽田玄洋はもともと画家でしたが、フランス留学中、
パリで食べたシャロレー種の牛肉のおいしさに魅せられ、
みずから輸入して駒ケ岳の麓の牧場で飼育するようになりました。

彼の実業家としての歩みと画家としての歩みがどのようなものだったのか、
手がかりになるものがないのでよくはわかりません。
ただ結果的に、
北海道の大地で、当時の日本ではまだ珍しかった大規模な肉牛生産に乗り出し、
最盛期には300頭のシャロレー種の牛が、
ソダ・シャロレー牧場では飼育されていたそうです。

テレビ映画『太陽野郎』が製作された頃、
曽田玄洋は牛や鶏などの食肉の大規模生産で、畜産業界では注目される存在だったようです。

シャロレー種は全身が白い肉牛で、その赤身肉がフランスでは好まれていたといいます。
いまでこそ赤身肉は、味的にも栄養的にも見直されてきていますが、
当時は「霜降り肉」神話が作り上げられていく時代の中で、
シャロレー種が日本に根付くことはなかったようです。
しかし曽田玄洋の名は、シャロレー種の牛を日本で最初に輸入し生産した人物として、
いまもその名を歴史にとどめています。

『太陽野郎』は、主人公・玄田健介が3頭のシャロレー種の白い牛を、
青函連絡船で北海道へ連れてくるところから始まります。
(この部分、これからもう少し書き足していきたいと思っていますが、
とりあえず今はこのまま、投稿しておきます。)

『なつかしき笛や太鼓』1967年(昭和42年) 東宝

『なつかしき笛や太鼓』は、
いまもわたしの大好きな映画のひとつです!

教師・家田徹


『青春とはなんだ』のさわやかな青年教師のイメージそのままに、
離島に赴任し、そこで暮らす子どもたちに誇りを与えるべく、
旧態依然の風習の中に生きている島民たちと戦う姿が描かれます。

島の生徒にバレーボールを教え、本土の学校との試合を通じて、
チャレンジすることの素晴らしさを生徒に教えます。

バレーボール大会で離島の生徒たちが優勝した帰りの船を、
あれほど反対していた島の人々が、
たくさんの船に大漁旗をなびかせ、
笛や太鼓で先生と生徒たちを迎える海上の場面は、
何度見ても泣いてしまいます。

子どもたちは島の人たちにとって、重要な生産力の担い手であって、
学校教育というものは余計な存在としか認識されてない時代があったんですね!

ぜひNHKBSで、『なつかしき笛や太鼓』を夏木陽介追悼番組として放映してほしいと思います!
私はビデオを持っていますが、それは以前NHKBSで放送したのを録画したものです。
たしか昨年も放送されていたような記憶があるので、再放送の可能性はあると思います。
まだ見たことのない人がいたらチャンスです!

その後の夏木陽介というと、強く印象に残っているのは、やっぱこれですね!

『Gメン75』 1975年(昭和50年)~1982年(昭和57年) TBS

小田切警視

「ハードボイルドGメン75……」なんてナレーションは、
土曜日の夜9時が来るたび毎週聞いていたもので、なつかしい事この上ありません!

ひげをたくわえた夏木陽介を見て、
青春は遠く過ぎ去ったんだなあ! と思ったものです。

あとは私の場合、
夏木陽介といえば、もっぱら映画です!

テレビ『青春とはなんだ』が始まった頃は、すでに映画界が斜陽化し始めていたときで、夏木陽介の代表的な映画作品のほとんどは、それ以前に撮られています。

青春映画、アクション映画、戦争映画、怪獣映画、時代劇と、
彼はどんなジャンルの映画もこなしてしまうオール・ラウンド・プレーヤーでした。

『独立愚連隊』 1959年(昭和34年)

軍旗旗手・辻少尉

各部隊のクズだけが集められて作られた守備隊、それが通称「独立愚連隊」です。 単独で敵陣深く展開している、謎の部隊でした。 太平洋戦争時の中国戦線が物語の舞台になっています。

荒木と名乗る新聞記者に成りすました大久保軍曹(佐藤允)が、 不審な死を遂げた彼の兄の真相をさぐるため独立愚連隊に潜入し、 戦場で行われた犯罪を暴くというストーリーになっています。

夏木陽介のあるところ佐藤允あり! といえるほど、 この二人はいろんな映画で共演していますね! 加山雄三、夏木陽介、佐藤允の三人は、いろいろな映画でよく主演級で共演していたので、 「東宝ゴールデンコンビ」なんて呼ばれていました。

『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』 1960年(昭和35年) 東宝

北見中尉

この映画で夏木は、空母「飛竜」の艦攻偵察員・北見中尉を演じています。

真珠湾奇襲攻撃に成功したときの希望に満ちた晴れがましい笑顔、 友成大尉(鶴田浩二)が敵艦に体当たりしたときの動揺した姿、 航行不能となった空母「飛竜」を魚雷処理することになり、 傷ついた戦友(佐藤允)が「飛竜」の艦底に閉じ込められたまま、 「飛竜」が爆沈されるさまを敬礼で見送る悲壮な場面、 この映画で夏木は、戦争に翻弄される若者の姿を演じきっており、 『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』は俳優・夏木陽介の代表的作品と言っていいと思います。

吉田満『戦艦大和の最期』の文体をいただいたと思われる、 北見中尉の「独白」は最高にカッコよかったです!

『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』

『太平洋の翼』 1963年(昭和38年) 東宝

三四三空 飛行隊長 安宅大尉

松山「第三四三海軍航空隊」剣部隊(源田実司令)がモデルの、 第二次大戦中の史実をもとに大がかりなフィクションを加えた戦争娯楽映画です。

昭和19年、太平洋戦争における日本の敗戦が濃厚になった頃、 新鋭戦闘機「紫電改しでんかい」の大量配備に伴い、 日本本土の制空権を取り戻すべく第三四三航空隊が創設されることになり、 太平洋上の各戦線から、生き残りの腕利きの戦闘機乗りたちが日本に招集されます。

米軍の猛攻を受ける硫黄島より、安宅大尉(夏木)は部下と硫黄島脱出を図り、潜水艦に乗り移り日本へと向かいます。 ニューブリテン島ラバウルからは、矢野大尉(佐藤允)が部下の猛者たちを連れて、 敵の魚雷艇を奪って、一路松山へと向かいます。 激戦地・比島で陸戦隊となって戦っていた301飛行隊長・滝大尉(加山雄三)は、 ゲリラと戦いながら飛行基地にたどり着き、丸腰の輸送機で日本への帰還を果たします。

こうして精鋭パイロットたちが集まり、第三四三航空隊が編成されました。 千田参謀(源田がモデル)は特攻思想を否定し、戦うために最後まで生き残ることを隊員に命じます。

ついに第三四三航空隊の出撃の刻いたり、 紫電改部隊は日本本土上空で大空中戦を展開し、米軍機を次々と撃墜していきます。

しかし、その活躍が仇となり、第三四三航空隊は日本全体の防衛を期待されるに至り、 戦力は分散され、十分な戦闘力を発揮できないまま、矢野大尉は戦死します。

安宅大尉は、戦艦大和が戦闘機の護衛なしに沖縄特攻の途に就いたことを見捨てておけず、 同じ想いの部下とともに、 4機の紫電改(史実上はゼロ戦)は、戦艦大和と運命を共にすることを選びます。

最後に残った滝大尉も、 祖国の空に群がるB-29の編隊を上空から見下ろし、 「日本の空から出て行け!」と叫びながら、 彼の紫電改はB-29に向かって突撃していくのでした。

『青島(チンタオ)要塞爆撃命令』 1963年(昭和38年) 東宝

二宮中尉

たいていの日本の戦争映画は太平洋戦争が舞台になっていますが、
──その次に多いのは日露戦争や日中戦争ですね!
この映画の舞台は、第一次世界大戦であり、
草創期の日本海軍飛行隊が描かれ、
ドイツ軍が租借そしゃくしていた現中国山東省の青島チンタオ要塞との戦いが描かれています。

登場する戦闘機は「複葉機」のモーリス・ファルマン式小型水上機で、
まだ機銃も爆弾も備えておらず、
空飛ぶ鳥たちに追い越されていく、なんとも牧歌的な風景から始まります。

日本にこんな戦争映画があったんだ! と思った、
大いに笑える戦争映画でした。

ドイツ軍陣地の上空に侵入し、赤レンガを投下すると、
「新型爆弾だ!」とドイツ軍の将軍があわてるという、
なんともぶっとんだ「戦争映画」でした。

特技監督の円谷英二は、
映画界に入る前は航空学校に通っていた「ヒコーキ野郎」だったので、
本作品は、大好きな飛行機を思う存分活躍させることのできた1本だったのではないかと思います。

『今日もわれ大空にあり』 1964年(昭和39年) 東宝

小村二尉

こちらは発足10年後の航空自衛隊が舞台の映画です。
登場する戦闘機はプロペラ機ではなく、
ジェット戦闘機F-104JスターファイターF-86Fセイバーなどです。

『宇宙大怪獣ドゴラ』 1964年(昭和39年) 東宝

駒井刑事

怪獣映画では夏木は刑事役が多いですね!
『青春とはなんだ』で女性教師を演じた藤山陽子が共演しています。
この女優さんも、怪獣映画にたくさん出演しています。
わたしの大好きな『海底軍艦』でも、重要な役どころ(神宮寺真琴役)を演じていますしね!

ドゴラって、ポスターなどを見ると半透明なクラゲ状の宇宙怪獣に見え、
それなりに期待がそそられたものですが、
実際の映画に登場したのは、あれはどう見ても「イカ」だよなあ。
ビニール製じみた質感もいただけないものを感じる。

炭素物質をエネルギー源とするというSF的設定にもかかわらず、
なんか残念な怪獣の一つではあります。

『三大怪獣 地球最大の決戦』 1964年(昭和39年) 東宝

警視庁・進藤刑事

宇宙黄金三頭竜・キングギドラが初登場する作品ですね!
キングギドラのネーミングは天才的ですね!
よくぞこんな名前を想いついたものです。

この作品の夏木は、いつもどおりの刑事役なんですが、
どこかアクションがコミカルに誇張されている気がします。
作品全体がだいたいそんなノリになっています。

『ゴジラ』 1984年(昭和59年) 東宝

生物物理学者・林田教授

通称「復活ゴジラ」!
それまでのゴジラ・シリーズのストーリーを初期化してしまい、
ゴジラが初めて日本列島に襲来したということにしてしまった、
なんかどこかで聞いたことのあるようなストーリー構成になっています。(笑)

この映画で夏木は、
ゴジラを三原山に誘導し、溶岩が沸騰する火口の中に葬り去るという、
ゴジラに勝利する科学者を演じています。

ゴジラが久びさに復活するというので、勇躍、仙台東宝へと向かったことを覚えています。
当時はまだ入れ替え制がなかった時代で、たしか2回は見てきた記憶があります。

以上紹介してきたように、夏木陽介さんにはたくさんの印象に残る作品がありました。
俳優業から離れ、パリ-ダカールラリーに取り組んでいた頃も、
いつも気になる存在であり続けました。
長い間、楽しませてくれてありがとう!
ご冥福をお祈りします。

「青春は若いやつらにはもったいない」ジョージ・バーナード・ショー