東日本大震災より9年目──未公開写真を公開する

東日本大震災から今日で9年。

その惨状は、震災の年に「南三陸町に行って来た」という記事で紹介したが、
そのとき撮影した写真が入ったCD-ROMを見つけたので、未公開のものを紹介しようと思う。

当時は、ブログで公開するのに忍びず、見送ったのだが、
9年目のいまとなっては、むしろ共通の記憶として残す意味もあるかも知れない。


南三陸町・志津川 2011年7月15日

防災対策庁舎。
ここで多くの人が亡くなった。
このころは献花台が設けられ、誰でも自由に祈りが捧げられた。

その後、震災公園の整備のため、近寄ることができなかったが、
ようやく近くから見ることができるようになったと、今日テレビでやっていた。

大震災の直後というのは、いまから振り返ると、
不思議な解放区が広がっているような感覚だった。

南三陸町・戸倉

水門付近。
この三戸部川みとべがわ河口付近は砂利浜が広がっていて、おいしいアサリが採れたものだ。
一般の人に潮干狩り場として開放してはいないが、
近くでアサリを採っている地元の漁民に話したら、
遊漁料を払って採らせてくれた。


南三陸町・歌津

国道45号線の高架道路が落ちて、コンクリートの橋脚だけが並んで立っていた。

背景に、緑の杉山らしきものが見えるが、
その手前の杉が一面に茶色く変色しているのがわかると思う。
この高さまで、津波が達したのだ。

この下を伊里前川いさとまえがわが流れ、シラウオが遡上そじょうして来ると、
いよいよ海釣りシーズンの始まりだった。

45号線から折れて、泊崎とまりざき方面に向かうと、
長須賀ながすか海水浴場があって、松林が続いたものだが、
いまはもう残っていないようだ。
ここから泊崎にかけては、海沿いに民宿がたくさんあったが、
大北荘おおきたそうもその一つだ。
横転した車の後部には大北荘と書かれており、
そのはるか後方に、10人ほど人がいるのが見える。
遺体捜索しているのだと思った。

白い壁の大小二つの建物が見えるが、これが大北荘。
海側から見た景色。

女川町 2011年7月22日

女川マリンパル。
たくさんのお魚屋さんが出店していて、
うまい魚だらけで、大好きな場所だった。
これが建つ前の、小さな店がひしめいていた頃は、
もっと好きだった。

トロ箱いっぱいホヤを買ったら、
店のおばちゃんに「そんなになにすんの?」と不思議がられたものだ。
もちろん、食べるんですよ。

こちらは、女川港の反対側から、マリンパル方面をながめたもの。

ウミネコの群れが、岸壁の残骸にとまっていた。

女川・桐ケ崎きりがさき漁港入り口付近の、津波で倒壊した民家。
坂を下りると、港を囲んで小さな集落があったところだが、
集落は壊滅していた。

メバルやアナゴを狙って、
最も多く夜釣りに通ったところだった。

猫が、たくさん寄って来たんだよね。
しまった!と思った。
こいつら、腹をすかせていたんだ。
私が何も食べ物を持っていないと悟ると、
すぐに興味を示さなくなった。
わかっていれば、何か食べ物を持って来たんだけどねえ。

雄勝おがつ

なんかの公共施設らしいが、
津波が屋上までバスを運んでいた。